円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

 ***

 馬車に乗った華夜と紘一は、御影の屋敷から帝都の中心街へと進んでいた。
 程なくして止まった馬車から降りた瞬間、華夜は思わず目を見開いた。
 つい昨夜、死の淵を彷徨ったとは思えないほど、外の世界は無遠慮なまでの生気に満ちている。石畳を叩く馬車の蹄の音、売り子の威勢の良い声、そしてどこからか流れてくる三味線の賑やかな音色。華夜にとっては、それらすべてが五感を刺すように鮮烈だった。
(街に出るのは、いつ以来かしら)
 五条の家では、外出さえも“教育”の一環であり、常に監視の目がついて回った。自由な足取りで歩くことへの戸惑いに、思わず足が止まりかける。
 だが、隣を歩く紘一は、華夜の逡巡を責めることもなく、華夜の歩幅に合わせるように寄り添ってくれていた。彼の大きな存在が、荒波のような人混みのなかで唯一の標のように感じられた。
「どこか寄りたい場所はあるか」
 紘一が柔らかな響きを含んだ声で華夜に問いかける。その優しい低音に華夜は心臓がキュッと掴まれたような心地がして、小紋の袖をそっと握りしめた。
「……いえ。特にはございません」
 それは遠慮ではなく、偽らざる本心だった。『何かが欲しい』と願う前に、その芽を摘み取られて育った彼女には、望むという行為そのものが未知の領域だったのだ。
 紘一はそれ以上追及せず、ふっと視線を遠くへ向けた。
「なら、少し休める場所に入ろう」
 案内されたのは、大通りから一本入った路地裏に佇む小さな茶屋だった。
 暖簾をくぐると、焙じ茶の香ばしい匂いと小豆を炊く甘い湯気が優しく鼻腔をくすぐる。木の節が残る机と使い込まれた座布団が、この店の温もりを表しているようだった。外の喧騒が嘘のように遠のき、静かな時が流れ始める。
「おや? 誰かと思えば紘坊じゃないかい!」
 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、奥から割烹着姿の小気味良い声が響いた。
 現れたのは、ふくよかな顔に満面の笑みを浮かべた、いかにも下町気質のハキハキとした女将・お鈴だった。
「まぁまぁ、すっかり立派な体躯になっちゃって。最近はちっとも顔を見せないから心配してたんだよ? 今日はいつもの特大餡蜜かい?」
「! お鈴、違う。今日は、その……」
 “紘坊“という耳慣れない響きと『特大餡蜜』という単語に、華夜は思わず目を丸くした。帝都最強の退魔師が、見るからにタジタジとなって視線を泳がせている。
「おや……?」
 そこでようやく、女将さんは紘一の斜め後ろに佇む華夜の存在に気づいたようだった。ぽかんと口を開け、それから何度も紘一と華夜の顔を交互に見比べる。
「ちょっと、紘坊……もしかして、こちらが噂に聞く御影の新しい奥様かい!?」
「は、はい! あの、五条の家から参りました、華夜と申します……」
「まぁまぁまぁ! なんて綺麗な御寮人さんだろう! 冗談抜きで、お雛様が絵から抜け出てきたみたいじゃないかねぇ。お肌なんて透き通るようで、こんな路地裏の古びた茶屋にはもったいないくらいの造形美だよ!」
 淀みなく繰り出される直球の褒め言葉に、今度は華夜が頬を赤くして言葉を詰まらせた。五条家に居た時に華夜に向けられていた褒め言葉はいつも、五条の権力に肖ろうとするものや、『あわよくば華夜を嫁に』という様な下卑た企みを孕んでいた。だから、いざこうして裏表のない賞賛を向けられると、どう反応していいか分からない。
「これほど美しいお方を射止めるなんて、紘坊も隅に置けないねぇ。昔っから、渋い顔してうちの甘いお団子をいっぺんに三串も平らげるような、可愛いところのある子だったけどさ!」
「もうやめてくれ、喋りすぎだ……」
 紘一が拳を口元に当て、苦虫を噛み潰したような顔で、けれど耳の尖まで真っ赤にして女将さんを遮る。
「はいはい、野暮な長話はここまでにしとくよ。ほら、せっかくの新婚さんなんだ。二人きりの方が良いだろう? 一番奥の特等席が空いてるから、そこへお行き。今、とびきり美味しいお茶と、紘坊の大好物を持っていくからね!」
 お鈴はそう言うと、パタパタと小気味良い音を立てて厨房へと戻っていった。残された二人の間に、気恥ずかしい沈黙だけを残して。
「……こっちだ」
 紘一は掠れた声でそう促すと、華夜と視線を合わせられないまま、促された一番奥まった席へと歩き出した。
(紘一様、甘いものがお好きなのね……)
 鉄仮面の裏に隠された、あまりにも人間らしくて愛らしい秘密。それを見つけられた嬉しさに、華夜の胸の奥で、小さく愛おしさが弾けた。
 紘一に促されるまま席に着くと、ほどなくして運ばれてきたのは、艶やかな餡がたっぷりとかかった串団子と、湯気を立てる濃いめの緑茶だった。
 華夜は、皿の上で宝石のように光る団子をじっと見つめる。
「……食べないのか。ここの餡は甘すぎず、評判が良いのだぞ」
「い、いえ! その……失礼いたしました、いただきます」
 言葉に詰まりながら、そっと手を伸ばす。
 かつて口にした菓子は、すべてが“作法を測るための物“で、味わって食べるようなこともなかった。だが目の前のこれは、茶店の一角でただ小腹を満たし、心を和ませるためだけに供されている。口にする上で、堅苦しい場での作法は必要ないのだろう。そうと分かっていても、五条家での苦い記憶と身体に刻み込まれた所作は簡単には拭えるものではない。
 華夜は緊張した面持ちで小さく口を開け、団子を一口だけ頬張る。
「――美味しい」
 柔らかな餅の食感とともに、上品な甘さがじんわりと舌の上で解けていった。こんなにも美味しい団子を食べたことがあっただろうか。自覚なく、華夜の頬がふにゃりと緩む。長年の檻の中でずっと押し殺されてきた年相応のあどけない笑顔が、隠しきれずに零れ落ちていた。
 華夜が無邪気に団子を頬張る向こうで、紘一は何も言わず、その姿をじっと見つめていた。口元には、ほんの少しだけ笑みを浮かべて。
 二人の間に言葉はなく、穏やかな静寂の時間が流れていく。
 そうして暫く団子を堪能していた華夜だったが、一串が終わる頃になってようやく我に返った。
(しまった! 私ったら、作法も忘れてお団子に夢中になっちゃうなんて!)
 婚礼の翌日に、旦那様の前でなんというはしたない姿を晒してしまったのか。恥ずかしさと焦燥が一気に押し寄せ、一瞬にして顔がカッと熱くなる。
「も、申し訳ございません! 私ったら、このようなはしたない……!」
 五条家なら間違いなく叱責を食らう不作法だ。華夜は青くなりながら、恐る恐る紘一の顔を窺った。
 すると紘一はふっと目元を和らげ、どこか愛おしげな光を瞳に宿して唇を開いた。
「気にするな。お前の口に合って良かった」
 そう言って浮かべた微笑みは、朝日のように優しく、どこまでも穏やかだった。
「あ……」
 それを見て、華夜は先ほどの羞恥とはまったく違う理由で、再び顔を真っ赤に染めることになった。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、心臓がトクトクと甘い音を立てて跳ねる。
(私を、叱らないばかりか……あんなに優しく、笑ってくださるなんて)
 彼が自分に向けた、どこまでも真っ直ぐな温かさ。それはまるで凍りつくような寒さの中で待ち侘びていた春の日差しのように、冷え切っていた胸の奥が、じんわりと心地よい幸福感で満たされていく。
 甘い餡とお茶の残り香に包まれながら、華夜はその幸せを静かに噛みしめていた。
 
 茶屋を出てしばらく、二人はのんびりと表通りを歩いていた。
 昼を前にして一段と賑わいを見せる大通りは、行き交う人々の活気に満ちあふれている。売り子の威勢の良い掛け声や、色とりどりの暖簾、すれ違う人々の弾んだ笑い声。そんな街の空気を心地よく彷徨っているうちに、やがて二人の目の前に、一際大きな建物が姿を現した。芝居小屋だった。
 鮮やかな絵看板が掲げられた出入り口では、既に観劇を終えた者たちが興奮冷めやらぬ様子で感想を口にし合っていた。紘一は看板の前で足を止めると、華夜を振り返った。
「芝居小屋で、芝居でも見るか。……お前のような深窓の令嬢には、下町の芝居など目新しいものではないかもしれんが」
 何気ない提案に、華夜はぱちくりと瞬きをして、文字通りキョトンとした表情を浮かべた。
「お芝居、ですか?」
「ああ。嫌いか?」
「いえ、嫌いというわけでは……。ただ、見たことがないのです」
「見たことがない?」
 紘一が意外そうに目を見開く。華夜は少しだけ視線を落とし、小紋の袖をそっと握りしめた。
「はい。五条の家では、朝から晩までお茶やお花、教養の講義など、お稽古という名の花嫁修行に日々追われておりましたので……。お芝居などの娯楽に触れる時間などありませんでした」
 恨み言を言うわけでもなく、それが当然の日常だったと静かに告げる華夜。自分にとって、街へ出かける目的は常に稽古や社交のためであり、芝居を見るような娯楽を楽しむことなど、そもそも選択肢にもなかったのだ。だからこそ、不意に紘一からそれを差し出されたことにどう応えていいのか分からず、少しだけ戸惑ってしまっていた。
「……そうなのか。すまない、嫌なことを思い出させてしまったな」
 帝都の最高峰に位置する名門の娘でありながら、市井の娯楽に一度も触れたことがない。その事実だけで、彼女がどれほど歪な檻に閉じ込められていたかを察したのだろう。予想だにしなかった華夜の過去に触れ、紘一は申し訳なさそうに謝罪を口にした。
「そんな! 謝らないでください。でも、そうですね……」
 いつもなら『私などには勿体のうございます』と自分の欲を殺して引き下がっていただろう。けれど、先ほど団子を食べている自分を、優しく全肯定してくれたこの男の隣にいる今、華夜の胸の奥で、経験したことのない小さな好奇心がパッと芽吹いた。
「あの、紘一さん。私、お恥ずかしながら、こういったことが本当に初めてなんです。ですから――」
 華夜は一度、言葉を区切って息を整える。心の奥底で、何かが殻を破る音がした。
「ぜひ、行ってみたいです。紘一さんと、ご一緒に」
 一歩前に出て、少しだけ声を弾ませた華夜は、満開の花が咲くような眩しい笑顔を向けた。
 自らの意志で、真っ直ぐに紡ぎ出した未知への願い。その瞳に小さな輝きが宿るのを見て、紘一は少しだけ驚いたように眉を上げた後、ふっと満足げに頷いた。
「ならば、そうしよう」
 芝居小屋の中は、眩暈がするほどの熱気に満ちていた。漂うおしろいの香りと、舞台を待つ観客の期待感。やがて幕が上がり、演じられたのは『曽根崎心中』だった。
 華やかな衣装を纏った役者たちが織りなす美しい悲劇の物語。華夜は芝居を見ながら、自分を庇って散っていったあの夜の紘一を脳裏に映していた。『運命を捻じ曲げてでも、この人を死なせない』と誓ってこの二度目の世界を懸命に這いずり回っている、自分自身の内なる衝動が、劇中の二人の姿に生々しく重なっていく。気づけば、ひと筋の熱い涙が頬を伝い、膝の上で握りしめていた拳を濡らしていた。
 言葉はなく、ただ太鼓と三味線の音が響く。華夜は溢れる涙を拭おうともせず、静かに前を見つめたまま、ただ黙ってその情念に身を浸していた。隣に座る紘一もまた、そんな彼女の濡れた横顔を、何も言わずにただ静かに見守っていた。流れる涙を咎めることも、憐れむこともなく、彼女の動いた心をそのまま優しく包み込むような、穏やかな沈黙が二人を繋いでいた。
 やがて、割れんばかりの拍手の中で幕が下りる。芝居小屋を出る頃には、既に昼を過ぎていた。
 人熱れを抜け出して、昼下がりの涼しい風に吹かれながら歩いていると、紘一がふと、前を見つめたまま華夜に問いかけた。
「……あの二人の選択は、正しいと思うか」
 愛のために現世を捨て、共に死ぬことを選んだ恋人たちの結末。
 紘一からの静かな問いかけに、華夜はほんの少し小首を傾げると、先ほどまで涙を流していたのが嘘のように、あっけらかんとした調子で答えた。
「うーん……正しい、とは思いませんね」
 あまりにも迷いのない即答に、紘一が意外そうに「――そうか」と声を漏らし、目を丸くした。
「あれほど感動して涙していたから、てっきり、彼らの生き方に共感したものかと思ったが」
「そうですね。悲劇としては、とても美しいお話だと思います。お互いを想う純粋な気持ちには、胸を打たれました」
 そこで一度言葉を区切ると、華夜は歩みを緩め、青く澄んだ空の向こう――ここからは見えない、残酷な未来の先を見つめるように目を細めた。
「だけど……死んでしまったら、何も、残せないんです」
 そう呟いた華夜の声は、鋼のように硬く、凛とした響きをしていた。紘一は静かに華夜の言葉に耳を傾けたまま、隣を歩く彼女の横顔を見やる。
 そこには、五条家で都合よく誂えられた人形の脆さなど、どこにもない。自らの足で未来を歩もうとする、一人の気高い女性の輝きを放っていた。
「もしも同じようなことが起きたとしても……私は絶対に、共に生きることを諦めないと思います。私にそう思わせてくれた方が、私の隣にいてくださる限り」
「――っ」
 不意に突きつけられた、あまりにも真っ直ぐで力強い誓い。それが自分に向けられたものであると気づいた瞬間、紘一は言葉を失って立ち尽くした。
 孤独に戦い、いつか散ることを当然と受け入れていた彼の人生に、彼女は『共に生きよう』と、眩い光を投げ入れたのだ。
「……そうだな。お前の言う通りだ。」
 暫く華夜を見つめていた紘一は、やがてふっと、どこか救われたような、深く愛おしげな笑みを唇に浮かべた。 
「昼食がまだだったな。行きつけの店がある、そこへ行こう」
 
 夕刻の近づく往来は、なお人の賑わいに満ちている。少し遅めの昼食を終えた華夜と紘一は、行き交う人々の間を縫うように並んで歩いた。
 今日という一日を経て、様々な一面を知り合った二人の間に漂う空気は、出かける前とは明らかに違っていた。華夜が歩調を緩めれば紘一も自然と足を緩め、紘一が華夜へと視線を向ければ、華夜もまた吸い寄せられるように彼を見上げる。お互いが、お互いの一挙手一投足に心地よい熱を感じているような、甘く親密な引力が二人を包み込んでいた。
 その時だった。
 人の流れの中から、小さな影が突然飛び出した。
「あっ――」
 それは、前方から紘一の方へと目掛けて倒れ込んできた、小さな少女の身体だった。
 華夜が声を上げるよりも早く、横を歩いていた紘一の身体が、目にも留まらぬ速さでしなやかに動く。片手で少女の肩を優しく支え、もう一方の手で倒れかけたその身体を確と受け止めた。
「大丈夫か」
 低い声に、胸元に受け止められた少女がはっと顔を上げる。
「ご、ごめんなさい……! 前、見てなくて……」
「怪我はないな」
 少女はこくこくと何度も頷き、慌てて紘一の腕から離れた。
「ありがとうございました……!」
 粗末な服を着た少女が胸元に抱える籠の中身に、華夜はふと目を奪われていた。
「あの、それは……」
「あ、これは今日摘んだばかりのガーベラ……ええと、帝都では『ハナグルマ』ってお呼びする方が馴染みがありますかね」
「『ハナグルマ』はよく聞くけれど……がーべら、という呼び方もあるの?」
「はい! 元々は海を渡って外国から持ち込まれたお花で、『ガーベラ』というのが向こうでの正式な名前なんです。『希望』、という花言葉がつけられているんですよ」
「花言葉?」
「はい。こちらも外国から最近伝わってきたものなのですが、お花には一つ一つ、『花言葉』というものが込められているんです。向こうの人々は感情やメッセージを伝えるために、花に想いを込めて贈り合う文化があるんだとか」
「へえ……そんな素敵な文化があるのね。面白いわ」
「えへへ、そうなんです! お花って、見ているだけで心がホッとするじゃないですか。お部屋に一輪あるだけで、そこだけパッと明るくなりますし。お家元流の生け花となると格式が高くて身構えちゃいますけど、私はもっと、皆さんが気軽に花を贈り合ったり、自分のために好きな花を選んで飾って楽しんでもらえたらいいなって思っているんです」
「……気軽に、楽しむ……」
 少女の言葉が、華夜の胸に小さく、けれど深く突き刺さる。五条家での生け花は、一枝の傾き、葉の表裏にまで厳格な作法を求められる、息の詰まるような"義務"でしかなかった。花をただ『綺麗だから』という理由で、自分のために気軽に飾る世界があるなんて、想像したこともなかったのだ。
「わわっ、ごめんなさい! 私ったらまた余計な話が多くて……『商売そっちのけで花を語るな』って、いつも周りの大人たちに怒られちゃうんです。えへへ、私、やっぱり商売には向いてないみたいで……」
 鈴を転がすような少女の無邪気な声を聞きながら、華夜の視線は一点に吸い寄せられるように釘付けになっていた。
 優しく鮮やかな花々の中でたった一輪、けれど一際存在感を放っていた、黄色のガーベラだ。
(……本当に、綺麗。まるでお日様みたいに温かい黄色。お部屋に飾ったら、きっと――)
 そんな考えが頭によぎった瞬間、華夜はハッとしたように首を振って、無理やり視線を逸らした。
 団子も芝居小屋も、これまではすべて紘一が先導し、選択肢を差し出してくれたからこそ、その優しさに背中を押されて踏み出すことができた。
 けれど、今この胸に宿ったのは、誰に促されたわけでもない、華夜自身の『これが欲しい』というじわりと湧き上がった自発的な欲求である。
 自分の意志で、何かを望む。そんな贅沢な真似、自分に許されるはずがない。
 華夜はぎゅっと自分の小紋の袖を握りしめ、自分を律するように俯いた。
「――その花を」
「えっ?」
 背後から響いたのは、紘一の声だった。驚く華夜の横を通り過ぎて少女の前に立つと、彼は無造作に懐から財布を取り出した。
「一つ、もらおう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
 少女が満面の笑みを浮かべ、籠の中から一際鮮やかな黄色の一輪を包んで差し出す。
「こ、紘一さん! 私にはそのような……」
「なぜだ」
 まごつく華夜の言い訳を遮るように、紘一は短く問いかけた。華夜は次の答えに窮し、きゅっと唇を噛む。
 欲しいと願っても、叶ったことなど一度もない。
『いやねえ、こんな貧相なお花の何が良いのかしら? こんなの買うなんて、勿体無いわ。貴女にはもっと大きくて華やかなのが似合うわよ』
 頭の中で母の囁く声が聞こえた気がした。
 周りが期待する『五条華夜』という枠に合わないものは、そもそも欲しいと願うことすら許されない。ずっとそう信じ込まされて生きてきたのに。
「これが良いと思ったのだろう。綺麗だと感じたのなら、それで十分だ。自分の心に従う理由に、それ以上何が必要なんだ。俺も、この黄色がお前によく似合っていると思う」
 彼は迷いなく花を買い取ると、華夜の目の前に差し出した。
「受け取れ。お前が今日、初めて誰の指図でもなく、"自分の意志で見つめた"ものだ」
「あ……」
 華夜は震える指先で、その細い茎をそっと受け取った。
 素朴な包み紙の内側からは、小さくも凛としたガーベラの、瑞々しい命のぬくもりとほのかな花の香りが、確かに華夜の手元へと伝わってきた。
「……誰かから、花を贈られるのは初めてです」
 自然と、胸の奥から言葉が零れ落ちていた。それは五条家で貼り付けていた仮面の微笑みではなく、春の陽だまりが世界を包み込むような、華夜の本当の微笑みだった。
「こんなに、嬉しいものなのですね。胸の奥が、温かく解けていくようです」
 その満開の笑顔を真正面から浴びた瞬間、紘一の琥珀色の瞳が、見たこともないほど大きく揺らいだ。
 最強と謳われる退魔師の耳たぶが、みるみるうちに朱色に染まっていく。彼はハッとしたように、手で口元を覆いながら荒々しく顔を背けた。
「っ、行くぞ。長居しすぎた」
 足早に歩き出す彼の、どこか動揺したような広い背中を追いかけながら、華夜は贈られた花を愛おしげに胸に抱きしめる。
 不器用で、けれどどこまでも優しい旦那様。彼がくれた一輪の彩りは、冷え切っていた華夜の世界を、信じられないほど鮮やかに塗り替えていた。
 自室に戻り、一人になった華夜は、手の中の一輪の花をしばらく見つめていた。
 五条の家で宛てがわれていた豪華な花々とは違う。それは、ただ一人の男が、自分の心の色を読み取って手渡してくれたものだ。
(……これは、私のための、花)
 華夜はゆっくりと歩み寄り、簡素な花器に水を張った。
 形を整えるでもなく、作法に則るでもなく。ただ、今日という日の記憶を留めるように、そっと花を生ける。
 揺れる水面に、自分の顔が映り込む。
 そこには、昨夜まで絶望に沈んでいた"人形"の面影はなかった。
 夕餉の席に呼ばれるまでの間、華夜はいつまでもその花を眺めていた。自分の中に新しく芽生えた、名前も知らない柔らかな感情を確かめるように。
 薄暗い部屋の中で、まるで小さな月の光が灯ったように、黄色の花弁が優しく揺れていた。
 
 やがて、静寂がすべてを支配する夜が訪れた。
 障子の外は、底の知れない濃密な闇に沈んでいる。昼間、帝都の雑踏で見上げた春の青空が嘘のように、御影の屋敷は死を孕んだ静謐に包まれていた。
 昨夜の惨劇を免れたことで、華夜の心には微かな、けれど確かな余裕が芽生えていた。
(今日は、大丈夫。あの残酷な時間は過ぎ去ったのだから)
 華夜は胸の奥で、祈るように何度も言い聞かせる。一回目に彼が死んだ時刻を越え、彼は今も呼吸をし、心臓を動かしている。それだけのことが、今の華夜にとっては奇跡を掌に載せているような、脆くも尊い充足感をもたらしていた。
(……今夜こそ、ちゃんと隣にいたい。呪いなんかに怯えず、妻として)
その想いに突き動かされるように、華夜は丁寧に身支度を整えていた。
 湯を浴びて肌を清め、艶やかに梳き上げた髪に、ほんのりと白檀の香りを忍ばせる。柔らかな絹の夜着に袖を通すと、肌を滑る布の感触が、高鳴る鼓動をなぞるように震えた。緊張の中に、どこか甘やかで、胸の奥が疼くような期待が混ざり込んでいた。
(……私、何を考えているの。まだ、何も終わっていないのに)
 浮き足立つ自分を嗜めようとするが、唇の端は自然と綻んでしまう。脳裏をよぎるのは、昼間の光景だった。
(……楽しかった。あんなに、世界が輝いて見えたのは初めてだった)
その幸福な事実が、華夜の胸の奥に柔らかな熱を吹き込んでいく。
――その時、静寂を破って襖の向こうから低い声が響いた。
「華夜。入っても良いか」
 華夜の心臓が、一際大きく跳ねる。
「は、はい……。どうぞ、お入りください」
 上ずってしまった声を隠すように、華夜は居住まいを正した。
 滑るように襖が開くと、昼間の堅苦しい軍装を解き、黒の着流しを緩く纏った紘一が入ってくる。今朝の庭園で見たのと変わらぬはずのその姿に、あの時は感じなかった艶のある男らしさを見つけて、華夜の胸が一段と高なった。
 静かに室内へと足を踏み入れた彼と視線がぶつかった瞬間、紘一は言葉を失ったように目を見開く。
 行灯の柔らかな光に照らされた琥珀に映ったのは、湯上がりの熱を帯びたまま丁寧に整えられた髪と、どこか決然とした潤んだ瞳をした、一人の『女』の姿だった。
「……」
 二人の間に甘い静寂が降る。
「本当に、良いのか」
 先に口を開いたのは紘一だった。声音はいつも通り低く抑えられているが、その奥底には、隠しきれない慈しみと動揺が滲んでいる。
「はい……昨夜は、大変申し訳ありませんでした。今夜は、貴方のお側に居させてください」
 華夜は深く頭を下げると、勇気を振り絞るように顔を上げ、彼を見つめた。
「……あの、今日は……お忙しい身でありながら、外へ連れ出してくださり、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていない。退魔師として、管轄を視察したついでだ」
 不器用な言い訳をしながら視線を逸らそうとする紘一に、華夜は真っ直ぐに食い下がった。
「いいえ。……私にとっては、まるで命を救われたような、とても大切な時間でした」
「……あのような場所は、退屈ではなかったか。俺のような無骨な男と歩いても、面白くはなかっただろう」
「そんなことありません!」
 華夜は即座に首を振った。そして、心の底から零れ落ちたような微笑みを浮かべる。
「とても、楽しかったです。あなたと歩けた、あの時間。目に映るすべてが、あなたのおかげで鮮やかでした」
 その言葉に紘一は目を細め、胸に去来する熱を誤魔化すように、着流しの袖の中で拳を強く握りしめた。ただ向かい合っているだけなのに、互いの体温が肌を刺すほどに近く感じられる。
「無理はするな、とは言ったが……」
 紘一の声が、耳元で心地よく響く。そのまま、彼の手がゆっくりと持ち上がった。華夜は反射的に身体を強張らせるが、逃げたいとは微塵も思わなかった。その大きな掌に触れられることを、魂が渇望していた。
 節ばった指先が、華夜の頬に触れる。その瞬間、華夜の脳内を雷鳴のような衝撃が駆け抜けた。冷徹な退魔師であるはずの彼の指先は、驚くほど熱く、そして震えていた。
「……すまない。我慢できないかもしれない……俺が」
「! こ、紘一さんっ……あ、あの――」
 頭の中が蕩けそうな程の熱を纏った言葉に一気に羞恥が湧き上がり、華夜は思わず紘一から顔を背けた。だが紘一の指がゆっくりと頬をなぞって耳元へと流れて行き、やがて華夜の顔を慈しむように正面へと戻させる。
「――逸らすな」
 再び目に映った琥珀の瞳は、獲物に狙いを定めた獰猛な獣のようにも、自分だけを目に映して欲しいと懇願する少年のようにも見えた。
 華夜は、胸の奥がチカチカと弾けるような感覚に溺れていく。
(ああ……この人の隣にいたい。この人の愛する人になりたい)
 その純粋な祈りが、華夜の心を満たした瞬間。
 ――ドクンッ
 静寂の中に、悍ましい何かが目覚めるような音が響いた。その直後、行灯の火がふっと音もなく消え、部屋は一瞬にして完全な闇に包まれる。
(え……?)
 華夜の思考が、真っ白に凍りついた。
 初夜を回避した。だから、あの恐ろしい出来事はもう起きないはずだった。運命は変わったのだと、そう信じていたのに。
(まさか……でも、そんなわけ……っ)
 “あの夜“の血の匂いが鮮烈に脳裏に蘇る。心臓が早鐘を打ち、華夜の身体は恐怖で指一本動かせず完全に硬直してしまう。
 その闇の中で、隣にいた紘一は即座に判断を下した。
「――華夜、下がれ!」
 “この彼“にとっては、初めての異常事態だ。それでも退魔師としての本能が、部屋を満たす圧倒的な殺気と、ただ事ではない異変を瞬時に察知していた。パチッと火花が散るような音が響き、紘一は床の間に飾られていた刀を恐るべき速度で引き抜く。
 ずず、と闇が蠢いた。一度目の時のように、ただ姿を現すのではない。部屋の四隅の闇がまるで生き物のように這い回り、二人の足元を包み込んでいく。
 その時だ。華夜は混乱の最中、雑音に混じって地を這うような、この世のものとは思えない声を拾った。
『……ダ、イ……ショ、ウ……ヲ……』
 知性があるのか、それとも怨念の塊なのか。言葉を発する異形に、紘一の瞳が鋭く冷えていく。
「……お前は、何者だ」
 紘一は華夜を背に庇うように一歩踏み出し、正体不明の闇へ向かって鋭い一閃を放った。刃に宿る霊力が闇を切り裂き、咆哮を上げる。
 手応えはあった。しかし、敵の戦術は華夜の記憶にあるものより、遥かに狡猾だった。
 斬られた闇の塊は霧散するのではなく、無数の小さな影へと分裂し、畳の上を生き物のように滑って紘一の背後――すなわち、硬直している華夜の死角へと回り込んだのだ。
「しまっ――」
 紘一が振り返るよりも早く、華夜の背後の闇が、鋭い爪の形を成して鎌首をもたげる。漆黒の爪が容赦なく華夜へと振り下ろされようとしていた。
「――華夜っ!!」
 紘一が渾身の力で華夜を後方へと突き飛ばす。
 それと同時に、黒の閃光が、真っ直ぐと、紘一の胸部を――
「い……いやああああああああっ!! なんで、なんで、なんでなんでなんで!!!」
 生々しい肉の裂ける音が響き、鮮血が夜着を汚す。紘一が膝をつき、崩れ落ちていく。
 目に映る光景の何もかも理解できなかった。
 気づけば闇は霧散し、部屋には何事もなかったかのように行灯の光が揺らいでいた。
「か……や……無事、か……」
 紘一の瞳が華夜を捉えたまま、ゆっくりと光を失っていく。そこにあったのは、無念さと、彼女を一人残す悲しみだった。
 その顔を最後に、華夜は意識を失った。