円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

 ***
 
 馬車の車輪が石畳を叩く音が、規則正しく車内に響いている。
 五条の屋敷を離れ、帝都の喧騒を抜けて、馬車はいよいよ御影家の広大な敷地へと足を踏み入れていた。
 向かいに座る父と母は、これから手にする権勢への期待に胸を膨らませ、陶酔しきった表情で窓の外を眺めている。その視線の先に、娘である華夜の姿はない。
 華夜は、白無垢の重い袖の中に、そっと右手を滑り込ませた。
 幾重にも重なった絹の層の奥、温かな体温が指先に触れる。
(……静かに。ごめんね。もう少しだけ、我慢してね)
 掌に収まるほどの、真っ白でふわふわとした毛玉のような妖魔――『小雪』。
 それは、生まれつき妖を惹きつける体質だった華夜が、まだ幼い頃、雪の日の庭の隅で凍えていたのを拾い上げたものだった。
 五条の家において、妖魔というものはその性質に関わらず“忌むべき穢れ”であり、排除の対象でしかない。もし母に見つかれば、何の慈悲もなく捨てられていたに違いない。
 華夜はこの小さな命を、誰にも知られぬよう何年も守り抜いてきた。
 完璧を求められ、心が摩り下ろされるような夜も。
 『貴女のため』という言葉で逃げ道を塞がれた放課後も。
 暗い自室で一人、この小雪が『キュウ』と鳴きながら指先を舐めてくれる時だけが、華夜にとって唯一、呼吸を許された時間だった。
(私は、貴方の飼い主……それとも、共犯者かしら)
 小雪が何を思っているのかも、そもそも自分の言葉が通じているのかも華夜には分からない。けれど、気づけばいつも華夜の側でそっと寄り添ってくれていたのだ。
 ミツが消えたあの日、泣き崩れる華夜の袂の中で、小雪もまた震えていた。
 守られないものは、切り捨てられる。
 ならば、この小さな命を守るためには、自分が“完璧な人形”として君臨し続けなければならない。この温もりを奪わせないことだけが、華夜にわずかに残された、両親への静かな、けれど命懸けの反抗だった。
 暫くして、馬車が止まる。窓の外には、鉄黒の威容を誇る御影家の巨大な門が、口を開けて待っていた。
 妖を討つことを生業とする退魔の総本山――御影家。
 その本拠地に、あろうことか妖を隠し持ったまま嫁ごうとしているのだ。知られれば即座に、自分もろともこの子は斬られるかもしれない。
「さあ、華夜。行きなさい。貴女の新しい人生の始まりよ」
 母が、聖母のような微笑みを浮かべて手を差し伸べる。
 華夜はその手を、いつものように正しく、美しく、一点の曇りもない動作で取った。
 袖の中で、小雪が小さく動く。その微かな重みだけが、今の華夜をこの世界に繋ぎ止めていた。
(……お願いです。この子だけは。この温もりだけは、どうか)
 無償の愛に飢えたまま、けれど一つだけの”愛すべき秘密の罪”を抱えて。
 華夜は、広大な御影の敷地へと、静かに最初の一歩を踏み出した。
 あれほど晴れていた空にはいつの間にか、分厚い鉛色の雲が広がり始めていた。
 
 御影家の屋敷は、帝都の喧騒を寄せ付けぬ深い森の奥にあった。
 五条家とは比較にならぬほど広大な敷地を囲うのは、人の背丈を優に超える漆黒の鉄柵だ。馬車がその門をくぐった瞬間、空気の密度が一段階、重く変わったのを華夜は肌で感じた。
 庭を歩く使用人たちは、足音一つ立てず、影のように動いている。
 華夜を乗せた馬車が通り過ぎても一瞥だにせず、ただ淡々と自らの職務をこなすその姿には、感情の機微が微塵も感じられない。屋敷の至る所に刻まれた御影家の紋章――剣と術式を組み合わせたような複雑な意匠――を見るたび、華夜の心臓は、逃げ場のない鼠のように早鐘を打った。
(御影紘一。帝都最強の退魔師にして、情を持たぬ鉄仮面。もし、少しでも不興を買ったら……)
 思い出されるのは、ミツの言葉だった。
『御影様がすごく冷酷で、情がない厳しいお方だから、ちょっとでも気に入らないことがあったら、その妖魔に喰わせてるんじゃないかって』
 冷酷無慈悲。情を持たぬ鉄仮面。
 両親は『完璧に振る舞えば満足する』と言ったが、それは同時に『完璧でなければ即座に切り捨てられる』という宣告でもあった。退魔の家系にとって、妖を引き寄せる体質の自分など、本来は穢れた者として排除される対象に過ぎないのではないか。
 華夜は白無垢の袖の中で、小さく縮こまっている小雪の柔らかな感触を必死に指先で確かめた。ここには自分以外、この"人ならざる側"への味方は一人もいないのだ。
 それにしても、この屋敷はやけに静かだった。
 広大な敷地に対して人の気配は確かにあるはずなのに、その存在は薄く、遠くへと引いていくように感じられる。まるで皆、何かに怯えて息を潜めているかのようだった。
 やがて馬車が一つの大きな屋敷の前で止まった。
 白無垢の裾を引き摺りながらようやく馬車から降りると、出迎えていた一人の女が華夜に深く一礼する。
「奥様、長旅お疲れ様でございました。奥様の使用人を務めさせていただきます、如月と申します。ご用がありましたら何なりとお申し付けくださいませ。旦那様とお顔を合わせる前に、先にお召し物を整えさせていただきますので、お部屋へ案内いたします」

如月に連れられて、華夜は屋敷の回廊を進んでいた。
 華夜の半歩先を歩いている如月は、まるで精巧なからくりのように一定の距離を保ちつつも、一度も振り返ることはない。庭を囲むように延々と続く廊下は埃一つ落ちておらず、御影の家の厳格な規律を無言で物語っているようだった。
(この屋敷では、あまり使用人の方に話しかけてはいけないのかしら。でも……この気まずい空気のまま準備するの? 無理よ、私の心臓が持たない……!)
 話しかけるが吉か、無言を貫くのが吉か。如月からはどこか近寄りがたい拒絶の空気が漂っている。整然と磨き上げられた床を進む二つの足音だけが、やけに高く響いていた。
 どうにか気を紛らわせようと、屋敷の様子を所在なく見渡していた華夜は、ふと足を止める。
 それは、庭園のさらに奥――鬱蒼と茂る松の木々の合間に、本棟から切り離されたようにひっそりと佇んでいた。離れと呼ぶには粗末な大きさの蔵だ。整然と手入れの行き届いている屋敷の中で、その空間だけが、全体の凛とした空気から取り残されたように澱んだ影を纏っている。
 夕闇が迫る時間だというのに、蔵の小窓に嵌められた鉄格子からは、淡く湿ったような灯りがぼんやりと滲んでいた。
 微かな、けれど確かな、人の気配だった。
「如月さん、あちらは」
 思わず問いかけた声に、如月の肩がぴくりと微かに揺れたのを華夜は見逃さなかった。
 隠しきれなかった忌避か。ほんの一瞬の空白の後、如月は何事もなかったかのように再び歩みを再開した。
「奥屋敷です。今は人の出入りもなく、手入れの行き届いていない場所でございますゆえ、奥様は近づかぬ方が良いでしょう。お身体に触りますゆえ」
「え? でも、灯りがついて――」
「祝言のお時間が近づいております。急ぎましょう」
 それ以上の説明を拒む、冷たく短い返答だった。有無を言わさぬ如月の言葉に、華夜もそれ以上は問わなかった。問うべきではない、この屋敷の深い禁忌に触れてしまうような気がしたからだ。
 (――まさか、あれが……)
 あの蔵が、噂に聞いた禁足地なのだろうか。そうであれば、やはり容易に触れるべきではないのだろう。華夜が再び歩き出した、その時。
 ぞわり、と。
 首筋に冷たい寒気が走った。
 風ではない。ねっとりとした視線のような――もっと、重苦しい何かだ。華夜は思わず振り返った。見渡した庭園は先ほどまでと同様、静まり返っている。
 ――誰も、いない。
「奥様。どうかなさいましたか」
「い、いいえ。何でもございません。失礼しました」
 そう答え、再び歩みを進めながら、華夜はもう一度だけ庭の奥を見た。やはり、何も変化はない。
 先ほどの寒気は、婚礼を前にした緊張から来る錯覚だったのだろうか。そう思い直し、前へ視線を戻そうとしたその瞬間。
 奥屋敷の鉄格子の向こうで、何かの影がずるりと動いたように見え、華夜は息を呑んだ。
(! やっぱりあそこ、何か――)
「こちらでございます」
 人の影だったのかどうか確かめる前に、無機質な如月の声が華夜の思考を遮った。
「あ……はい。ありがとうございます」
 華夜が慌てて頷くと、如月は一歩退き、襖を開けた。
「ただいまから行われる祝言の儀の前に、こちらで一度お召し物とお化粧を少しお直しさせて頂きます。それから――」
 如月の口から淀みなく説明される段取りを聞いていると、別の使用人たちが次々と部屋に入ってきた。皆それぞれ、化粧筆や櫛を手に取り、淡々と準備を進めていく。
 その慌ただしい光景に巻き込まれているうちに、先ほどまで感じていた不気味な違和感は、いつしかただの幻覚として意識の隅へと追いやられていった。
 
「奥様、お髪を整えます。失礼いたします」
 如月の合図とともに、使用人たちの手が迷いなく動く。その最中、華夜は細心の注意を払いながら、袖の奥に潜む小雪にそっと手をやり、存在を確かめていた。小雪は華夜の緊張を察しているのか、鳴き声一つ立てず、じっと丸くなっている。
 鏡に映る自分は、どこからどう見ても五条の家が作り上げた完璧な人形そのものだ。周囲で動く使用人たちもまた、感情の失せた人形のように見える。着せ替え人形に、からくり人形。至れり尽くせりの世話をされているはずなのに、この部屋には人間の温もりを感じない無機質さが漂っている。
 重苦しい沈黙に耐えかね、そして何より、これから対面する御影の人間について少しでも情報を得るため、華夜は極めて自然な、おっとりとした微笑みを仮面のように貼り付けて口を開いた。
「如月さん。私はこちらの御家について、まだ至らぬことばかりで……。旦那様はもちろん、大奥様へはいつ頃ご挨拶に伺えばよろしいかしら。もしお仕来りなどがあれば、事前に教えていただきたいのですけれど」
 前当主である紘一の父・清政が任務中に殉職していることは、婚前から聞かされている。であれば、当主である紘一以外にこの屋敷で華夜がまず挨拶を果たすべき高位の人物は、紘一の母である大奥様――御影京香である。
 婚礼を前に大奥様への挨拶を気にかけるのは、花嫁として極めて当然の気遣いのはずだった。
 華夜の問いかけに、如月の櫛を持つ手が一瞬だけ止まった。鏡越しに、如月の無機質な瞳と視線が交わる。
「お気になさる必要はございません。大奥様は長く体調を崩されておりまして、現在は離れにて療養中でございます」
 如月は表情一つ変えず、再び淡々と、高く結い上げられた高島田の髪の僅かな乱れを整え始める。その声音には、やはり何の感情も乗っていなかった。
「旦那様からの厳命もあり、お身体の障りにならぬよう、何人たりとも面会は叶いません。それは新しくお迎えされた、奥様であっても同様にございます」
「……左様でございましたか。失礼致しました。お早いご平癒をお祈り申し上げます」
 如月の説明は淀みなく、一見すればもっともらしいものだった。けれど、だからこそ感じる小さな違和感が、華夜の胸の奥で魚の小骨のようにチクリと引っかかっていた。
(実の息子の婚礼の日に、新顔の挨拶さえ許されないほどの重病……。この広大な敷地のどこかにある離れで、大奥様は本当にただ、病気療養をされているだけなのかしら)
 表向きの"療養"という言葉の裏に、何か隠された意図があるのではないか。先ほど庭園の奥で目にしてしまった、あの澱んだ蔵の光景も相まって、そんな疑念さえ頭に浮かんできてしまう。
 面会謝絶の離れに、正体不明の不気味な蔵。この御影の家には、一体どれほどの秘密が隠されているのだろう。
 聞いてはならない。これ以上深く踏み込めば、この屋敷の本当の禁忌に触れてしまう。
 華夜はきゅっと唇を引き結び、それ以上追求するのをやめた。これ以上は"人形"の枠をはみ出してしまう。
 仕上げとして、純白の綿帽子が頭部をふわりと覆う。
「お支度、調いました」
 如月が静かに一礼すると、他の使用人たちは音もなく一斉に頭を下げ、引き潮のように部屋を出て行った。
 再び如月と二人になった部屋で、華夜は懐の小雪の温もりだけを頼りに、深く息を吐き出す。
 やはり、この御影の家は一筋縄ではいかない。己の身を守り、小雪を守るためには、何があっても完璧な御影の花嫁であり続けなければならないのだ。
「奥様、こちらへ。旦那様がお待ちです」
 障子越しに響く如月の声に、華夜はスッと背筋を伸ばした。何重にも重ねられた絹の着物と、ずっしりと肩にのしかかる打掛の重み。それを己に課せられた運命の重さとして受け止めながら、凛とした衣擦れの音を響かせる。
 覚悟を決め、運命の扉へと歩みを進めた。

案内されたのは、屋敷の最奥に位置する座敷だった。
 道中、すれ違う使用人たちは一様に慌ただしく、婚礼の準備のためにせわしなく駆け回っている。その足音が遠くに響く重厚な長廊下を抜け、華夜は冷え切った指先で着物の袂をきつく握りしめていた。
(どうせ、この方も他の下衆な男たちと同じ。私の容姿だけを見て、値踏みするために呼び寄せたのでしょうね……)
 生家で叩き込まれたのは、己の“商品価値“だけだった。退魔の大家・御影家の当主ならば、もっと大きな財閥のや名家の令嬢からの縁談も山ほどあっただろう。そんな中で自分を望んだ理由など、男の身勝手な独占欲か、品定め以外の何物でもない。そう心を擦れさせ、冷え切った諦めと共に、開かれた襖の先へと足を踏み入れた。
 行灯の柔らかな光が畳に長い影を落とし、静謐という名の圧を放つ空間。
 そこに男が一人、座っていた。
 その姿が視界に入った瞬間、華夜の乾いた思考は一瞬で吹き飛んだ。思わず、息を呑んで目を瞠る。
 御影紘一は、軍服の厳格さと和装の優雅さを融合させたような、上質な黒い装束を纏っていた。さらりと流れる漆黒の髪に、剃刀のように鋭く整った鼻梁。誰もが美丈夫と評すだろう姿もさることながら、何より華夜の意識を奪ったのは、その眼だった。
 振り返った彼の瞳は、光を受けて淡く透ける、神秘的な琥珀の色をしていた。
 何の情も映さぬその無機質な輝きは、人の温もりを拒絶しているようでもあり、同時に、胸が痛くなるほどに澄んでいて。
(……硝子細工みたい。なんて――)
 下衆な欲望など微塵も存在しない深淵のようなその瞳に、華夜は一瞬で心を奪われ、目を離すことができなかった。
「――綺麗な瞳」
 間の抜けた女の声が、ひとつ。静寂に包まれた部屋の畳に転がり落ちた。
(今の声は……あれ? 私、なにを……)
 紛れもなく、自分自身の声だった。気づいた時には、すべてが遅かった。
 母から『余計な口を利くな、一言でも粗相があれば破談になるかもしれない』と千回万回叩き込まれてきた教えが、彼の美しさを前にして、脆くも霧散してしまっていた。
「! っ、」
 低く息を呑む音が、室内に微かに響く。華夜は一瞬で血の気が引くのを感じ、角隠しの下で畳に額がつくほど勢いよく平伏した。
「た、大変失礼いたしました! どうか、どうかお許しください……!」
 三つ指を揃えた手が、恐怖でがたがたと小刻みに震える。
 終わった。完璧な花嫁を演じて切り抜けようとしていた鍍金が、はらはらと剥がれ落ちていく。生家であればせいぜい叱り飛ばされ、その日の食事を抜かれるくらいで済む。だが生憎、ここは御影家だ。叱られるどころか、命すら危ういかもしれない。
 華夜はぎゅっと目を瞑り、次に訪れるであろう衝撃に全身の筋肉を硬直させて身構えた。
 しかし、いくら待てども、予想していた怒号も冷ややかな追放の言葉も降ってこない。ただ、衣擦れの音がして、静かな気配がこちらへ近づいてくる。
 やがて華夜のすぐ側で気配が止まり、床に伏せていた華夜の頬に、長い指先がそっと触れた。
「そんなに怯えるな」
 降ってきたのは、冷徹な刃のような叱責ではなかった。むしろ、その声には明らかな動揺が混じっている。
 薄紙を扱うような優しい手つきでゆっくりと顔を上げさせられた華夜は、思わず息を止めた。
(御影様、お顔が赤くなって……怒って、いらっしゃるの? それとも――)
 ピキリと凍りついたように無表情の紘一だったが、その端正な両頬が夕焼けに染められたように赤く色づいていた。
 華夜は頭の中で、先ほど自分が口にしてしまった失言を冷静に振り返り、ようやくその言葉の意味を理解した。初対面の、しかも退魔の大家の当主様に向かって、あろうことか容姿を賛美するなどという、とんでもなく大胆な言葉をぶつけてしまっていたのだ。
(私、なんて破廉恥なことを……!)
 あまりの恥ずかしさに、今度は自身の顔に猛烈な熱が集まっていく。
 華夜はちらりと、紘一の顔色を再度窺った。目の前にいるこの男は、耳の裏まで真っ赤にして、居心地悪そうにわずかに視線を斜め下へと逸らし、口元を押さえている。
 そのどこか初心な反応が、華夜の心臓を別の意味で、うるさいほど激しくドキドキと跳ね上げさせた。
(なんだか、聞いていた噂とは違うような……この人となら、もしかしたら――)
 そんな甘い予感が、一瞬だけ胸を掠める。部屋が二人きりの静寂に包まれているせいで、鼓動の音が相手に聞こえてしまうのではないかと気が気でなかった。
 どれくらいの時間、そうしていただろうか。外からは、相変わらず使用人たちが慌ただしく廊下を行き交う気配が微かに届いている。
 ほんの数秒にも、数十分にも思えるような沈黙の時間が過ぎ、やがて紘一の手がそっと華夜の頬から離れた。
 立ち上がって元の場所へと戻り、一度目を閉じて何かを堪えるように深呼吸をした紘一は、先ほどの動揺を塗りつぶすように冷淡に言葉を継いだ。
「……予定通り、これから祝言を進めていくことになるが」
 一分の隙もない、冷たい當主の顔に戻った彼は、非情に言い放った。
「お前は、俺と夫婦になる必要はない」
「え……」
 思わず、間抜けな声が漏れていた。明確な拒絶とも取れる言葉に、華夜の頭の中は一瞬で真っ白になった。自分には、御影家の当主の妻になるような価値すら、最初から無いということなのだろうか。
(そう……。そういうことなのね)
 愛だの夫婦だの、そんなものは最初からこの家には存在しない。自分は所詮、御影家の子孫繁栄のためだけに連れてこられた、代わりなどいくらでもいる“道具“に過ぎないのだ。
 ほんの数刻前に抱いてしまった『もしかしたら、この人と温かい家庭を築けるかもしれない』という、甘く淡い期待。それがどれほど愚かで身の程知らずな妄想だったかを今、容赦なく突きつけられる。
 パチパチと行灯の火が爆ぜる音が、妙に耳に焼き付いた。

 ***

あれからどう過ごしたか、あまり覚えていない。
 厳かな神前式は滞りなく執り行われ、真っ白な白無垢から艶やかな婚礼衣装へと着替えた華夜は、紘一とともに親族たちの集まる披露宴の会場へと向かっていた。
 奥座敷での静謐な儀式とは一変し、大広間は耳を刺すような熱気に包まれていた。
 両家の親族達が、豪勢な膳を前に既に居並んでいる。御影家の関係者なのだろうか、政界や軍部の重鎮達の顔ぶれもいくつかあった。
 当主である紘一と、その隣に華夜は上座へと案内された。二人が席に着き、広間中の視線が突き刺さるような静寂が訪れる。宴の始まりの挨拶がなされようとしたその時、御影家の家令が静かに歩み出て、一同に向かって深く頭を下げた。
「皆様、本日は御影・五条両家の慶事にお集まりいただき、誠にありがとうございます。宴の始まりに際しまして、一言申し上げます。……本来であれば、当主の母君である大奥様・京香様もこの座に列席されるはずでございましたが、本日は生憎と体調が優れず、『祝いの席に自身の穢れを持ち込んではならぬ』との強い御意向により、欠席となります。何卒ご寛恕いただきたく、私よりお詫び申し上げます」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、座敷には『ああ、いつものことか』という、どこか白けた、それでいて触れてはならないものに触れたような奇妙な沈黙が流れた。親族たちは互いに顔を見合わせ、何事もなかったかのように再び盃を傾け始める。
 長い夜が、始まろうとしていた。
 
「いやあ、御影殿! 大奥様の御体調は残念だが、これで五条家との絆も盤石ですな。帝都の守護も、ますます安泰というものだ!」
 宴は大いに盛り上がっていた。そんな中、華夜の父・五条康明がいそいそと紘一と華夜の元へと近づいてくるやいなや、赤ら顔で声を張り上げた。その隣で、母・薫は誇らしげに目を細め、華夜が“完璧な奥方“として一分の隙もなく振る舞っていることを、まるで自らの手柄のように見せびらかしている。
「……五条殿、そう急くな。商談の話は、明日の朝にでもゆっくり聞こう」
 紘一は、盃に口をつけることもなく、淡々と答えた。母の不在を告げられた際も、その表情には微塵の動労も、あるいは悲しみすらも浮かんでいない。その声は氷のように冷ややかで、広間の熱狂をそぎ落としていく。
 父は一瞬怯んだように見えたが、すぐに下卑た笑みを浮かべて華夜へ視線を向けた。
「おい華夜、何をしている。旦那様に酒をお注ぎせんか。お前は、御影様を支えるためにここへ来たのだぞ」
「……はい、お父様」
 華夜は震える手で徳利を取り、紘一の盃へと歩み寄った。
 実の親たちの視線が、針のように突き刺さる。
『失敗するな』
『一瞬でも粗相をすれば、我が家の終わりだ』
 無言の圧力が、華夜の喉を締め上げる。恐怖で全身の筋肉が強張り、指先がかすかに震えた。
 注がれる酒の音だけが、耳に異様に大きく響く。
 失態は許されない。必死に呼吸を整え、完璧なお人形としての微笑を貼り付けようともがいていた、その時。
 ふいに、横から視線を感じた。
(……え?)
 おそるおそる視線を上げると、隣に座る紘一が、琥珀の瞳をわずかに細めて華夜の横顔をじっと覗き込んでいた。
 ほんのわずかな指先の震えや、強張った表情を、彼は見逃さなかったのだろうか。はたからは決して気づかれないような微細な変化を、じっと見つめる彼の眼差しには、先ほど奥座敷で華夜に宣言した時に見せた冷徹さはなく、どこか憂いを帯びた揺らぎが含まれているように見えた。
 その真っ直ぐな眼差しに居た堪れなくなった華夜は、逃れるように視線を紘一の背後へと外した――その時だった。
 ……ズルッ。
 色直しのために用意された金屏風に落とされた影が、粘り気のある形へと歪み、不気味に蠢いたように見えた。
(っ!……な、に!?)
 皮膚にじっとりと纏わりつくような、おぞましく悍ましい霊気の奔流。華夜の生まれ持った妖を引き寄せる体質が、今までにないほどの激しい警鐘を鳴らしていた。
 心臓が早鐘を打つ。その正体を確と捉えようと、華夜は一度強く目を瞑り、再びそちらへ視線を凝らした。
 けれど――屏風の陰に潜んでいた闇の気配は、霧が晴れるように霧散し、そこには何事もなかったかのように豪奢な金屏風が鎮座しているだけだった。
(あれは……私の、気のせい……?)
 そんなはずはなかった。怪異の気配に対する華夜の感覚は、これまで一度も狂ったことはない。先ほどの濃厚な闇の意志は、確実にそこに存在していた。
 けれど、だとすれば、どうして。
 この大広間には、帝都最強の退魔師である紘一をはじめ、御影家の手練れたちが幾人も居並んでいるのだ。それなのに、誰一人として得物を構えるどころか、不審に思う素振りすら見せていない。
(御影の皆様が、あの悍ましい気配に気づかないなんてことがあるのかしら。やはり、見間違い……よね)
 色々なことを考えすぎて、疲れているのかもしれない。拭いきれない不気味な違和感を胸の奥へと押し込め、華夜は背筋を駆け上がる悪寒を必死に堪える。何事もなかったかのように、再び膳の方へと姿勢を正した。
 紘一は父親たちの馬鹿げた談笑など、最初から一切聞いていないようだった。なおも華夜の顔を覗き込んだまま、低い声で囁く。
「気分が悪いなら、無理をしてここに居る必要はない。……顔色が悪いぞ」
「いえ、大丈夫です……。ただ少し、圧倒されてしまいまして」
「そうか。……お前の親は、ずいぶんと賑やかだな。普段があれでは、お前も気が休まらないだろう」
 紘一の言葉は、率直すぎて毒に近い。五条家の両親が聞けば卒倒するような物言いだった。
 ほんの一瞬だけ、華夜の胸にスッとするような不思議な小気味良さがよぎったが、理性がすぐにそれを否定した。
(――騙されては駄目よ。この方は、『私とは夫婦にならない』なんて言い放った冷酷な当主様だわ)
 今の気遣わしげな声音も、きっと親族や重鎮たちが並ぶこの席で『妻を気にかける寛大な夫』を演じているだけに過ぎない。周囲の目を欺くための体裁なのだと自分に言い聞かせると、浮き立ちかけた心は急速に冷めていった。
 この男にとって、自分は五条家から差し出された道具であり、それ以上でも以下でもないのだ。華夜は仮面のような微笑みを張り付け直した。
「さあさあ、夜も更けてまいりました! 仲人殿、そろそろ……」
 父の合図で、宴席に下卑た期待が混じり始める。
 明治から続く古い因習。初夜を無事に済ませた証を、外で見張る老女がこの宴席へ報告しに来る。それが済んで初めて、五条家と御影家の"契約"は完了するのだ。
「華夜。そろそろ行くぞ」
 紘一が静かに立ち上がった。
 その瞬間、広間にどっと下品な歓声が上がる。両親は満足げに深く頷き、華夜を金塊の詰まった箱を送り出すような目で見送った。
 これから向かうのは、二人きりの寝所。
 夫婦になる必要はないと言い放った男と、初夜の証明を求める悍ましい因習の狭間で、自分は一体どう振る舞えばいいのだろう。
 華夜は重い腰を上げ、腹の底に冷たい猜疑心と緊張感を抱えたまま、紘一の背中を追った。
 
 長い廊下に出ると宴の喧騒は一気に遠のき、鋭い静寂が二人を包み込んだ。
(もうすぐ……私は愛もなく、この身を重ねるのね)
 逃げ場を断つような重い音を立てて、襖が静かに閉ざされた。密室となった寝所の中では、行灯の仄暗い光が四隅に深い影を落としている。部屋の中央には、二つの布団が隙間なく並べられていた。視線を吸い寄せられた瞬間、華夜の心臓が痛いほどに跳ね上がった。
 襖の外には、添い寝役の如月が控え、二人の気配を伺っているはずだ。無事に初夜の儀が済んだことを確認した後に、宴席へ報告する手筈になっている。その報告がなければ、両親が満足することはない。
 華夜は畳の上に膝をつき、震える指先で白無垢の帯に手をかけた。
「……脱がせて、いただかなくても……自分で、できますから」
 掠れた声で、精一杯の“妻としての献身“を口にする。それが、この家に受け入れられるための唯一の手段だと信じて。
 だが、隣に立つ紘一からは何の反応もなかった。彼はただ、窓の外に広がる漆黒の庭を、無機質な琥珀の瞳で見つめている。
「……紘一様?」
「華夜。お前は、この家をどう思う」
 唐突な問いだった。華夜は手を止め、困惑して彼を仰ぎ見る。紘一はゆっくりと振り返り、並べられた布団を、まるで忌まわしい呪物でも見るかのような冷ややかな目で一瞥した。
「ここは、常に誰かの視線に晒される場所だ。親族たちの欲、使用人たちの期待、そして……目に見えぬ理不尽な家同士のしがらみ。お前は今日、そのすべてを背負わされてここへ来た」
 紘一は静かに歩み寄り、華夜の前に片膝をついた。
 触れられる――。
 華夜は咄嗟に身を竦めて目を閉じたが、彼が伸ばした手は彼女の体ではなく、白無垢の冷たい生地にそっと触れた。
「昼間、お前に『俺と夫婦になる必要はない』と言ったな」
「っ……はい」
「誤解しないでくれ。あれは、お前を拒絶したわけではない。俺は、お前にこの家の『妻』という役割を強いるつもりはない、という意味だ。……顔色が悪い。如月には俺からうまく伝えておくから、今日はゆっくり休めばいい」
「そ、んな……ですが、それでは私の役目が……! 私は、お役に立たなければ、ここに居てはいけないのです。そうやって生きてきました……」
「『役に立つ』ことだけが、お前の価値か?」
 ふいに頭を殴りつけられたような感覚がして、華夜は思わず目を瞠った。
 生まれてから今日まで、ただの一度も問われたことのない言葉だった。
 紘一の瞳は硝子細工のように美しいが、その奥には、彼自身もまた“御影家の当主“という役目に心を削り取られてきたような、深い孤独と共鳴の影が宿っている。
「俺も、この家の道具だ。だからこそ、ここに来た時から俺と同じような瞳をして、見えないものに怯え続けるお前を見過ごすことができなかった。俺は、お前を縛りつけるつもりはない。この先どのように生きるかも、お前自身が決めればいい。お前には、その自由がある」
 紘一はそれだけ言うと、華夜の選択を待つようにそっと立ち上がった。
 華夜は呆然としたまま、彼を見上げる。
 この人は、自分を無理に支配しようとしない。自分を所有しようとしない。
 それは、実家で受けてきた“過保護という名の支配“よりも、ずっと重く、切実な尊重だった。
(……なんて、優しい人なのだろう)
 視界が、急激に熱いもので滲んでゆく。ぽつり、ぽつりと、着物の裾に大きな涙の跡が広がっていった。十八年間、一度も許されなかった『自分のままでいい』という肯定。その優しさが、華夜の頑なな心を、温かく溶かしていった。
「……きゅ、う」
 不意に華夜の白無垢の袖の中から、場違いなほど小さな鳴き声が、しんと静まり返った部屋に響いた。
 (しまった、小雪が……!)
 ずっと大人しくしてくれていた小雪だったが、自分の安堵が伝わり気が抜けてしまったのだろう。静寂が満ちるこの寝所だ、聞き逃してもらえるはずがない。最早取り繕うことは不可能だった。最悪の事態が頭をよぎり、華夜の顔から一気に血の気が引いていく。
「……お前から妙な妖気を感じていたが、そいつか」
 紘一の視線が、華夜の袖口へと注がれる。
「え! あ、あの……申し訳ありません、これは、その……っ」
 弁明の言葉がうまく結べない華夜を他所に、打掛の袖の隙間からふわふわとした毛玉がひょっこりと顔を出した。
「そいつは『毛鞠』という種族の妖魔だな。滅多に人の前には姿を現さないはずだが……なるほど、お前の清浄な霊力に惹かれて寄り添っていたのか」
「……いつから、気づいておられたのですか」
「屋敷に張ってある結界をくぐった瞬間からだ。どれほど小さな妖魔であれ、通り抜ければ結界が揺れる」
 紘一は淡々と言い放つ。その声音には、不思議と敵意も怒りも混ざっていなかった。
「お、怒らないの……ですか? 退魔師の総本山に妖魔を連れ込むなど、本来なら一族の恥として、即座に処刑されてもおかしくないはずです。まして、私は……」
「自ら密輸しておいて、裁いてくれと懇願するのか? おかしな奴だな」
 紘一はふっと微かに皮肉めいた、けれど呆れたような笑みを唇に浮かべた。初めて見る年相応の悪戯な笑みに、華夜の心臓はとくりと小さな音を鳴らす。
「悪意のない、その程度の一寸妖魔を無闇に傷つけることはしない。害をなさぬなら好きにしろ」
 彼は最初から、すべてを知っていたのだ。知った上で、華夜を責めることも、小雪を奪うこともしなかった。
 張り詰めていた最後の緊張の糸がぷつりと解け、華夜の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。
「……ありがとうございます。紘一様……っ」
 涙に濡れながらも、心からの安堵をにじませて、華夜は小さく微笑んだ。
 それは、これまで誰も見たことのない、彼女の魂が初めて見せた、儚くも鮮烈な美しさだった。
 紘一は不意に息を呑み、吸い寄せられるようにその姿に見惚れる。
 彼は無意識に、そして自分でも驚くほど慈しむような手つきでそっと手を伸ばし、華夜の濡れた頬を指先でなぞり、その頭を優しく撫でた。

――その刹那。
 パキリ、と、耳元で氷がひび割れるような錯覚がした。
 行灯の炎が狂ったように激しく揺れ、音もなく消える。完全な闇が落ちた直後、二人の肌を刺すような、圧倒的な殺意を孕んだ冷気が部屋を満たしていった。
 かつてない激痛を伴う警鐘が、華夜の頭の中で鳴り響く。内臓を冷たい手で直に掴まれたような、悍ましい予感。
(っ、……何か、来る……!)
キィィィィィィィィン!!
 突如、鼓膜を引き裂くような高周波の耳鳴りが二人を襲った。
 華夜は激痛に思わず目を瞑り、耳を押さえて畳の上にうずくまる。
 痛いほどの耳鳴りが止み、恐る恐る目を開けた瞬間、華夜は凍りついた。
 先程まで誰もいなかったはずの眼前に、黒い霧を凝縮したような闇の塊が、音もなく立っていたのだ。
「……ッ!?」
 絶句する華夜へ、影から伸びた漆黒の爪が容赦なく襲いかかる。
「華夜!」
 紘一が咄嗟に華夜の体を抱き寄せ、床の間の方へと転がって難を逃れた。彼はその勢いのまま床の間に飾られていた刀を抜き放ち、一閃。影の胴体を鮮やかに両断する。
 異形は声もなく黒い煤となって霧散し、闇の中へ消えていった。
(消えた……やったのね)
 早鐘を打つ心臓を押さえながら、華夜は荒い息を吐く。
「華夜、怪我はないか!?」
 紘一が自分に縋り付く華夜の肩を抱き寄せ、必死に無事を確認する。
 その温もりに安堵が広がり、ぼうっと虚空を見つめていた華夜は次の瞬間、視界に映った“それ”に、ヒュッと息を呑み込んだ。
 紘一の背後の闇が、異常な速さで収束していく。先程消えたはずの影が、より巨大な質量と禍々しさを纏って再び姿を現したのだ。
「紘一様、後ろ――!!」
 叫ぶ華夜。だが、影の速度は退魔師の反応速度を上回っていた。
 完全な死角。回避は間に合わない。そう直感した紘一は、抱きかかえていた華夜を、全力で前方に突き飛ばした。
 ――ドプッ。
 肉を断ち、骨を砕く、重く鈍い音が響く。
「……っ、がはッ……!」
 華夜の目の前で、紘一の胸元から、真っ黒な刃が突き出していた。
 彼女を庇うように背を向けた彼の身体を、影の爪撃が完全に貫通していた。
「あ……ああ……っ」
 紘一は口から鮮血をぶちまけながらも、自身の体を貫く刃を恐るべき執念で睨みつけた。
「お前は、何だ……ッ!!」
 咆哮と共に、刀を逆手に振るう。渾身の力を込めて放たれた一撃が、今度こそ妖魔の核心を粉砕した。
『ギィャアアアァアァ!!!』
 絶叫にも似た断末魔と共に異形は完全に消滅し、部屋に元の静寂が戻る。
 けれど、勝鬨を上げる間もなく、紘一の身体が糸の切れた人形のように力なく揺れた。
「紘一様――!!」
 華夜は這うようにして駆け寄り、崩れ落ちる彼の身体を必死に抱きとめた。
 手に伝わってきたのは、焼けるように熱い、おびただしい量の血液。
 純白の布団を、華夜の打掛を、溢れ出す鮮血がじわじわと赤黒く染め上げていく。華夜は訳も分からぬまま、ひたすらに彼の胸の深く抉れた傷口を両手で強く押さえた。
「どうして……なにこれ……なんで……いや……嫌です! 止まって、止まってよ……っ!」
 震えの止まらぬ指の間から、温かい命が止めどなく滑り落ちていく。止血しようと焦れば焦るほど、華夜の掌は紘一の血で真っ赤に染まっていく。
「……無事か。……怪我は、ないな」
 彼は、自分の致命傷など最初から意識にないかのように、途切れ途切れの声で華夜の安否を問うた。死の淵にあるというのに、その琥珀色の瞳には、ただ華夜が無事であることへの深い安堵だけが宿っている。
「どうして……どうして、私なんかのために……!」
「……決まっている」
 紘一は血に濡れた唇を微かに綻ばせ、最期の力を振り絞るようにして、華夜の頬にそっと手を添えた。
「お前を……守りたいと、思ったからだ」
 初めて与えられた、無償の愛。その代償が、彼の命だというのか。
 華夜の腕の中で、紘一が最後の一息を吐き出す。
 添えられていた手が力なく畳に落ち、琥珀色の光がその瞳から消えた。指先に残っていた確かな熱が、絶望的な冷たさへと変わっていく。
「嫌……いやああああ! 誰か、誰か助けてよ!! お願い、助けて……!!」
 その時、ただならぬ異変を察した如月が、勢いよく襖を開け放った。
「奥様、何事で――ッ!?」
 如月の言葉が、凄惨な絶叫となって夜を切り裂く。
 返り血を浴びて茫然自失とする花嫁と、その腕の中で血の海に沈む、若き屋敷の主。あまりにも凄惨極まる光景に、如月は腰を抜かし、這うようにして廊下へと飛び出した。
「誰か……! 誰か、来てください! 旦那様が、旦那様がぁああ!!」
 その悲鳴を合図に、屋敷の静寂は完全に崩壊した。
 ドタドタと響く無数の足音、飛び交う怒号。
『刺客か!?』『妖魔の襲撃か!?』という混乱した声が重なり合い、阿鼻叫喚の嵐が寝所へと押し寄せてくる。
 けれど、華夜にはそれらすべてが、遠い異国の騒音のように感じられた。
 耳元をかすめる人々の声も、激しく揺れる行灯の光も、何一つ脳には届かない。ただ、腕の中に残る、急速に冷えていく紘一の重みだけがすべてだった。
 華夜の魂を削るような絶望が、世界を塗りつぶした瞬間――。
 視界が、ぐにゃりと奇妙に歪んだ。
 音が完全に消え、色彩が抜け落ちていく。
 愛も居場所も、すべてをくれた人を失った世界で、華夜の意識は深い闇の底へと暗転していった。
 
 ――そして、気づけば。
 
 鏡の中に、一点の汚れもない白無垢姿の自分が立っていた。
 頬を赤く汚したあの返り血も、掌にべっとりと残っていた紘一の生々しい血の感触も。すべてが最初から嘘だったかのように、綺麗さっぱりと消え失せている。
 頭が理解を拒み、呆然と立ち尽くしていると、背後から聞き覚えのある声がかけられた。
「華夜、背筋を伸ばしなさいな。貴女は御影家の奥方となるのですから、そのような姿勢ではいけませんよ」
 ぞくりと全身の産毛が逆立った。それは、数時間前に聞いたはずの母の台詞。
 声のトーンも、部屋の空気も、一言一句にいたるまで完全に同じだった。
 まるで、一度凄惨な幕を下ろしたはずの悪夢が、何の前触れもなく『初めから』やり直されている。
(一体、何が……何が起こっているの……?)
 恐怖にガチガチと 歯が鳴る。華夜の震える指先は、鏡の中の綺麗な自分を、ただ縋るように見つめることしかできなかった。