大きな三面鏡に映る白無垢の女を、華夜はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。
それは精巧な細工を施された人形のようでもあり、あるいはこれから生贄として屠られるために清められた、物言わぬ供物のようでもあった。
「ああ、華夜。なんて美しいんでしょう! 貴女は今日、世界で一番幸せな女になるのよ」
母の上擦ったような高い声が部屋に響き渡る。これから始まるのは、家と家を繋ぐための華々しくも神聖な儀式か。それとも、生涯二度と自由を生きる“個の人間“として呼吸することを許さぬ、美しい埋葬の始まりか。
――どうでも良い。今更、何も変えられはしないのだから。
残暑の熱はいつの間にか溶け去り、帝都に吹き渡る爽籟は本格的な秋の訪れを告げている。あっという間に、夏は逝ってしまった。国の心臓部でありながら、比較的標高の高いこの地の秋は短い。頬を優しく撫でるこの風も、じきに肌を刺す凍てついた棘へと顔を変え、全てが鋼色に染まる極寒の冬がやってくる。まるでこの先の自分の人生を暗示しているようにも思えて、華夜は陰鬱な気持ちを抱いたまま力無く目線を外へと向けた。目が沁みるほどに青く透き通る旻天には、新天地を求めて飛び回る雁の声が響いていた。
御影家――その名を知らぬ者は、この帝都にはいない。政府さえも手を出せぬ莫大な富と、軍部すら頭を垂れる異能の力を有する、稀代の名家だ。人に害を為す妖魔を祓い、見えぬ災いを引き受ける退魔師の家系として、帝都の闇を治める守護と畏怖の象徴。
その現当主である御影紘一に嫁ぐことが、五条家の娘として華夜に与えられた、“唯一にして絶対の幸福”であると教え込まれてきた。
着付けの仕上げをする母の手が、慈しむように華夜の頬を包み込む。
「ほら、背筋を伸ばして。貴女は今日から御影家の奥方となるのですから、そのような心許ない姿勢ではダメよ」
「申し訳ありません、お母様。少し気が緩んでしまって――」
「まあ! どこか具合でも悪いの?」
華夜が言い終わる前に、母が大袈裟に声を上げる。
(ああ……言わなければ良かった)
軽い気持ちで選び取った言葉を心の中で後悔しながら、華夜はちらりと母の顔色を窺った。いかにも心配そうに眉を下げたこの顔は、決して娘の身を純粋に案じているわけではない。『御影家との大事な婚礼の儀式の日に限って、“完璧な花嫁”として育ててきた貴女が、まさか体調を崩してしまったなんて言わないでしょう?』という無言の圧力だった。
――今日という“幸せな日”を、完璧で終えなければ。
それは華夜にとって、最早強迫観念のようなものだった。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そう? 良かった。あなたは母さんの自慢の娘よ。……うん。着付けもお化粧も、完璧ね。本当に綺麗だわ」
白無垢の着付けをされる華夜の背に、母の白い手袋を嵌めた指先が触れる。乱れがないかを確かめるその手つきは丁寧に、慈しむように優しく動いていた。だが華夜にはそれが、陳列棚の品物を整える商人の手のように思えてならなかった。母の瞳に映っているのは、娘の心ではない。自分が丹精込めて磨き上げた“最高級の作品”への陶酔であるのだから。
(ねぇ、お母様。完璧だから、愛されるのでしょうか。そうでなければ、私はここに居てはいけないのでしょうか)
生まれた問いを心の奥底へと無理矢理押し込め、代わりに感謝の言葉を口にする。何故だか口角が強張り、上手く笑顔を作ることができなかった。
「……ありがとうございます、お母様」
「ほら、顔を上げなさい。そんな不安そうな顔をしてはダメよ? 女の幸せはね。立派な旦那様に選ばれ、守られ、その家を支えることにあるの。貴女のために、母さんがどれほど心を砕いてこの縁談を進めてきたか、分かっているでしょう?」
母の言葉は、いつだって“貴女のため”という甘い糖衣に包まれている。幼い頃からそうだった。華夜が外で泥遊びをしたいと言えば『女の子の肌に傷がついたら大変だわ』と部屋に閉じ込められ、本を読みたいと言えば『そんな難しいことよりも、殿方に愛される刺繍を覚えなさい』と針を持たされた。華夜が生まれつき持つ妖を引き寄せる体質さえも、母にとっては“強い男性に守られるべき可憐な弱さ”という、花嫁の価値を高める装飾品に過ぎなかったのだろう。
母が説く“女の幸せ”という窮屈な型に、自分の心をどうにか押し込めようとする日々。けれど、その型からはみ出しそうになる本音を少しでも口にすれば、母は悲劇のヒロインのような顔をして『どうして私の愛が分からないの』と泣き崩れるのだ。一度そうなってしまえば、今度は母を宥めるためにさらに心を削らねばならない。ならばいっそ、最初から母の期待する言葉を吐く方が、傷つかずに済む分だけ何倍も楽だった。
母の期待に応えるように、華夜は鏡の中で美しく口角を上げてみせる。今度は完璧な笑みだった。
***
『淑やかに、かつ凛として。五条の娘としての品位を保て』
その教えのもと、華夜は大切に育てられてきた。
決して虐げられていたわけではない。むしろ、衣食住のすべてにおいて、分不相応なほどに与えられてきたのだと思う。
『いい、華夜? 女はね、男に守られてこそ幸せになれるのよ。だから貴女も、守られるに値する存在でありなさい』
母の口癖は、呪文のように華夜の骨身に染み付いていた。形よく、美しく、誰からも望まれるように――。それは紛れもない母の愛情だったのだろう。幼かった華夜にとっては、疑う余地などどこにもなかったのだ。
けれど華夜が成長するにつれ、世界が広がるにつれ、その呪文を聞くたびに胸の奥底で何かが燻るのを感じ、息苦しくなっていった。
幸いだったのは、女学校での時間だ。元来明るく穏やかな性格であった華夜は、友人にも教師にも恵まれた。
「華夜ちゃん、そのハンケチ素敵ね。新しいの?」
「ありがとう。母が買ってくれたの」
「いいなぁ。私のお父様ったらね、何をおねだりしても『まだ今使ってるものがあるんだから大事にしなさい』って、ぜーんぜん聞いちゃくれないんだから。ほんと嫌になっちゃうわ」
「うちのお母様もよ。もう本当に口うるさいんだから。華夜のご両親って優しくて羨ましい」
きゃっきゃと笑う友人達の輪の中で、華夜は浮かべた笑みが引き攣るのを必死で押さえ込んでいた。
(……そう、思えたら良かったのに)
両親は優しい。それについて、否定はできない。実際、華夜に必要なものはすべて与えてくれる。――“五条家の娘に必要とされるもの”はすべて、だが。
それが果たして自分のためだったのかと問われれば、答えは曖昧だった。
幸か不幸か、華夜は人目を引く美しさを持っていた。父譲りの高い鼻梁、黒く透き通る大きな瞳。母に似た艶やかに緑為す黒髪に、ほっそりとした体つき。まるで人形のようだと、誰もが口を揃えて言った。華夜が着飾って歩けば、道ゆく人は皆振り返っては口々に褒めそやす。
『流石はあの五条家の娘さんだ』
『本当に美しい。今に立派な殿方を捕まえるに違いない』
『その上とても優秀なんですって。親の教育の賜物ね』
娘を褒める人々の声を聞くたびに、両親は自分の価値が証明されたかのように喜んだ。
高価な服も装飾品も、際限なく増えていった。
けれど――華夜自身が欲しいと願ったものを与えてもらったことはあっただろうか。
高価な首飾りも、やたらと手の込んだ装飾が施された服も、動きにくいだけで華夜は好きではなかった。家族で百貨店へ出かけた時に、服をねだってみたこともある。けれど、両親の反応はいつも決まっていた。
『あら。そんなものが欲しいの? そう……でも母さん、ちょっと貴方には地味だと思うわ。それだったら、こちらの方があなたの体型に合っているんじゃないかしら。ほら、ね? よく似合ってるわ! やっぱり母さんの見立ては正しいわね。これ買いましょう』
そうして気づけば、華夜の手には両親好みの服が鎮座しているのだ。静かに切り捨てられてきた数多の望みは、結局何一つ叶えられることはなかった。
(私が身につけているものはいつだって、両親の願う『私』で全身埋め尽くされている。あなたたちが羨むような私を形作っているのは、私じゃない。そんなことを思うのは、我儘なのかしら……)
両親は、優しい。そして、正しいのかもしれない。けれど華夜は、自分の意思というものの輪郭が日々曖昧になっていくのを感じていた。だからといって、今更『お前の好きなようにすればよい』と言われたところで、何を選べば良いのか、どんな姿が自分らしいと言えるのか、そんな風に思ってばかりで何も選べないのかもしれない。本当の自分がどこにあるのか、それともこれが本当の自分であるのか。今となってはそれすらも分からなくなってしまった。だから結局、両親の選んだ服で着飾り、両親の思うように振る舞うのだ。
――まるで籠の中の金糸雀ね。それとも、意思のない着せ替え人形かしら。
頭の中で黒い自分が毒づくのを反論する余地もなく、華夜は独り自嘲した。
そんな渇いた日々に転機が訪れたのは、ある日の夕方のことだった。いつものように仕事に出かけていたはずの父が、珍しく早い時間に帰宅し、華夜に告げたのだ。
「華夜! ああ、なんてお前は運が良いんだ。あの『御影紘一様』から、お前との縁談の話が来たぞ! これで我が五条家も安泰だ!」
弾んだ父の声に、華夜は思考が追いつかず言葉を失った。
「え……縁、談……?」
「まあ! あの御影家に……? 凄いことじゃありませんか、華夜! 流石は私たちが手塩にかけて育てた娘ね!」
母が歓喜の悲鳴をあげ、父と手を取り合う。
興奮に頬を紅潮させ、爛々と輝く二人の目に映っているのは、目の前にいる娘の顔ではなかった。娘の向こう側にある、御影家がもたらすであろう莫大な権力と富。それを前にして、二人はまるで無邪気な子供のように目を細めて笑っていた。
この時、華夜はまだ知らなかった。祖父の代まで安定して受け継がれてきた五条家の事業が、父の代になってから急速に傾き始めていたことを。没落の足音がすぐそこまで迫っていた五条家にとって、退魔の最高峰である御影家との繋がりは、一族が再び帝都の頂点へと返り咲くための、文字通り唯一無二の蜘蛛の糸だったのだ。
それからの、およそ一年。
華夜にとって、それは優しさと正しさで窒息しそうになる日々の始まりだった。
両親の華夜への執着は、これまでの比ではないほどに膨れ上がった。一挙手一投足に細かく目を配り、言葉をかけ、歪みを正し、ただひたすらに“御影家に相応しい花嫁“という型へ、華夜の輪郭を削り嵌めていく。
『姿勢を正しなさい、華夜。お前の能力はこんなものではないだろう。もっとできるはずだ。御影の家に相応しいと、誰もが認める完璧な人間となるんだ』
『お父様も厳しいことを言うけれど、全て貴女のためなのよ。貴女は私たちの希望の光、大切な大切な、五条家の宝物。だからこそ、一歩も間違えてはいけないわ。失敗なんて、絶対に許されないのよ』
――貴女は私たちの希望。
――一歩も間違えてはいけない。
愛情の形をしたその言葉は、じわじわと、けれど確実に華夜の逃げ道を塞いでいく呪いとなった。
両親の期待に応えようと、期待を裏切って失望される恐怖から逃れようと必死になればなるほど、求められる「正解」のハードルは際限なく跳ね上がっていく。
次第に朝から晩まで、分刻みで高名な家庭教師がつけられた。所作、教養、和歌、華道――ありとあらゆる“完璧”を頭から流し込まれる。肌に日焼けの跡一つ、虫刺されの痕一つ残さぬよう、日差しの入らない部屋に隔離され、食事さえも「御影様の隣に並ぶに相応しい体型を維持するため」という大義名分のもと、厳しく管理・制限されるようになった。
徹底的な管理のおかげで、三面鏡に映る外見は磨き上げられ、非の打ち所がないほど美しく仕上がっていく。
けれどそれとは裏腹に、華夜の精神は、内側からやすりで擦られるように少しずつ、確実に削り取られていった。日に日に目から光が失われていく華夜の様子を友人達は心配したが、曖昧に笑って誤魔化した。
そんなある日の昼下がりのことだった。
「ねえ、華夜ちゃん。大丈夫? このところ、本当に元気がない気がして」
教室の自席でぼんやりとしていた華夜を心配して声をかけたのは、華夜が最も懇意にしている友人の一人、ミツだった。
「ミッちゃん。そう、かな? ちょっとお稽古が立て込んでいて、疲れているのかも。大丈夫だよ。ごめんね、心配させてしまって」
華夜はそう言って、いつもの"お行儀の良い笑顔"を張り付かせて返した。けれど、普段はゆったりとしていて穏やかなミツの瞳には、かつてないほど真剣で、どこか怯えるような光が宿っている。
「……あのね。一つ、華夜ちゃんに話したいことがあるの。ちょっと、ここでは言いにくいんだけど……」
その不穏な声音に、華夜の胸は嫌な音を立ててざわついた。
「……ちょっと、外に出ようか」
周囲のクラスメイトたちに気づかれぬよう、二人で教室を抜け出して人気のない校舎裏へと向かった。
昼下がりの木漏れ日が落ちる校舎裏。ミツは周囲を気にするように何度も視線を巡らせると、少しだけ声を潜めて、華夜の着物の袖をきゅっと引いた。
「どうしたの? そんなに深刻な顔をして」
「華夜ちゃん。……御影家の当主様と、縁談が進んでるんだよね?」
「ああ、その話か……うん。まあ、あんまり気乗りはしてないんだけどね。あはは……」
緊迫した面持ちのミツを少しでも安心させたくて、華夜はわざとおどけて見せた。けれどミツは、依然として表情を強張らせたまま、重たい口を開いて話を続けた。
「あのね。昨日、うちの親が言ってたんだけどね……御影家って、ちょっと普通じゃない家らしくて」
「普通じゃない……って、言うと?」
「うん。あくまで噂、だとは思うんだけど。御影家に嫁いだ人って、みんなあまり長く続かない……っていうか……」
(――長く、続かない?)
ミツの言葉の真意がすぐには理解できず、華夜は戸惑いながら彼女を見つめ返した。何故だろう。それ以上、聞いてはいけないような冷たい予感が、じわりと背筋を這い上がってくる。
「それって、どういう意味?」
「これまで御影家と結婚したお嫁さんたち、みんな若くして突然亡くなったり、ある日を境にぷっつりと姿が見られなくなったり、してるそうよ」
「え……」
「それにね、それと関係があるのかは分からないんだけれど……その、御影家の敷地には誰も立ち入らせない『禁足地』があって、そこで恐ろしい妖魔を飼い慣らしているんじゃないかって噂もあるの。御影家を訪ねた人が、夜遅くに、誰もいないはずの庭の奥から女の人のうめき声のようなものを聞いた、とか」
「禁足地……うめき、声……」
息が詰まった。初めて聞く話だった。
両親も、親戚たちも、誰もそんな恐ろしい話はしていなかった。ただ『帝都屈指の大家との縁談だ』『これで我が家も安泰だ』と、浮足立った話ばかりを自分の前で繰り広げていたから。
「それでね……これは本当に酷い噂なんだけど。その御影家の当主様が、すごく冷酷で厳しいお方だから、ちょっとでも気に入らないことがあったら、その妖魔に、お嫁さんを喰わせてるんじゃないかって――」
カーン、カーン、カーン――。
その刹那、午後の授業の始まりを告げる予鈴の音が、鋭く大気を引き裂いた。
華夜は冷水を浴びせられたようにハッとしてミツを見やる。彼女もまた、恐怖に顔を青ざめさせたまま華夜を見つめていた。金属質の鐘の音が完全に鳴り止むまで、二人は言葉もなく、ただ互いの瞳を見つめ合うことしかできなかった。
やがて音が消え去ると、ミツは我に返ったように、取り繕うように慌てて口を開いた。
「ご、ごめん! 御影家との縁談が進んでるっていう時に、わざわざこんな怖い話するなんて、私、意地が悪いよね……どうかしてるよね、本当にごめんなさい! だけど、その……変な意味じゃなくてね。私は、ただ、華夜ちゃんが心配で……っ」
泣き出しそうなミツを見て、華夜は一瞬、言葉を失った。
得体の知れない冷たい黒い雫が、ぽたりと胸の奥に沈んでいく。それはゆっくり、けれどじわじわと全体に広がっていき、華夜の心を曇らせていった。
(これはきっと、嘘でも、冗談なんかでもない。ミッちゃんは嘘が下手だから。そんな彼女が、わざわざこんな恐ろしい話を私に告げたのは、心の底から私の身を本気で心配してくれているからだ)
利害関係だけで自分を御影家に叩き込もうとしている両親とは違う。目の前にいるのは、自分を一人の人間として慈しみ、案じてくれている大事な友達だ。これ以上、彼女に余計な心配をかけるわけにはいかない。
華夜は真っ直ぐにミツの目を見つめ、そっと微笑んでみせた。
「……ミッちゃんが、そんな意地悪をするような人じゃないって、私が一番よく分かってるよ。心配してくれて、本当にありがとう。でも、大丈夫だよ」
自分の口から出たのは、思いのほか、静かに凪いだ声だった。
それから二人は急いで廊下を渡り、何事もなかったかのように教室へと戻った。
けれど、午後の授業中、教科書を開く華夜の頭には、先ほどの言葉が何度も木霊していた。
(ミッちゃんのご両親が言っていた話だから、又聞きでしかないし、ただの噂かもしれないけれど……でも、本当だったら……?)
無意識に握りしめた鉛筆の先が、パキリと小さな音を立てて折れた。
まだ見ぬ婚姻の地――御影家から伸びる目に見えない黒い影が、この先の未来をじわじわと侵食していくような不気味な予感に、華夜はただ、怯えることしかできなかった。
放課後、どのような心地で家路についたのかも覚えていない。ただ、胸の奥でぶすぶすと燻り続ける恐怖の火種を、どうしても一人で抱えきれなくなっていた。
その日の晩、華夜はたまらなくなって、自室を訪れた母の着物の袖に縋りついた。
「お母様、怖いのです。御影様は、大変冷酷なお方だと噂に聞き及んでおります……。私、本当にそのような場所に嫁いで、やっていけるのでしょうか……」
母は怒りを見せる代わりに、ひどく困ったような、残念そうな表情で目を細め、小さくため息をついた。そして。
「……誰ですか、そんなくだらない迷信を貴女に吹き込んだのは」
ぴし、と。室内の空気が一瞬で凍りつくのを肌で感じた。普段の穏やかさからは信じられないほど低く、冷ややかな声に、華夜は恐怖のあまりそれ以上顔を上げることができなくなった。心臓が早鐘を打ち、全身が危険を告げるように冷や汗が流れる。
しずしずと母の両手が伸びてきて、華夜の震える頬を包み込んだ。
癇癪を起こした我が子を宥めるようにゆっくりと顔を持ち上げられると、そこにはいつも通りの、慈愛に満ちた母の微笑みがあった。その笑顔を至近距離で捉えた瞬間、華夜は本能的な悪寒を覚えた。
「華夜、そんな悲しいことを言って母さんを困らせないで。母さんはね、いつだって貴女の幸せだけを思って言っているの。この結婚が、貴女という人間が価値を証明できる、唯一の道なのですから」
諭すように穏やかに放たれたその一言が、華夜の逃げ道を完全に塞いだ。
母の言うことは、正論だ。これは子供の我が儘が通るような色恋の話ではない。家と家を繋ぐ婚姻契約なのだ。今更、自分の恐怖などという個人的な感情で破談にできるはずがない。
そんなことは分かってはいるけれど。それでも受け止めてくれるんじゃないか、などと、微かに抱いていた甘い期待は呆気なく打ち砕かれ、華夜は呆然としていた。
「どこの誰だか知りませんけれど……大方、御影家との栄えある縁談に嫉妬でもしたのでしょう。可哀想な華夜。気高い五条家の娘であるあなたが、そんな浅ましい低俗な人間と言葉を交わす必要はありません」
「そんな……! ミッちゃんはそんな人ではありません! ただ、私のことを本当に心配してくれて――」
言いかけた華夜の唇に、母の白い指先がそっと押し当てられる。
それ以上、一言も喋るなという無言の否定だった。
「華夜? 良い子だから、よく聞きなさい。あなたは女としての最高の幸せを手に入れ、五条家の繁栄も約束される。これ以上の贅沢がどこにありますか。……少し疲れているのね。もう今日はお休みなさい」
「……申し訳、ございませんでした。おやすみなさいませ、お母様」
華夜は消え入るような声で謝罪すると、深く頭を垂れて自室へと引きこもった。
拒絶された胸の奥がじわじわと冷え切り、視界が涙で滲む。悔しいのか、悲しいのか、それともただ絶望しているのか――自分自身の感情すら、もう分からなかった。
華夜が去った部屋に残された母は、感情の抜け落ちた顔で、ぽつりと呟いた。
「ミッちゃん……ミツ……ああ、あそこの工場の娘かしら。こんな戯言で華夜を惑わすなんて。可哀想な華夜。母さんが、悪い虫を駆除して守ってあげなきゃね」
その歪んだ独白は、冷たく暗い壁の中へと染み込んでいった。
翌朝。教室へ入った途端、友人達が慌てた様子で華夜に近づいてきた。
「華夜、おはよう」
「おはよう。みんなどうしたの? なんか暗い顔して……あれ? ミッちゃんまだ来てないのね。今日はお休みかしら?」
「……ねぇ、まだ聞いてない?」
「えっと……ごめんなさい。何を……?」
何も知らない様子の華夜に、友人達は口籠る。なかなか本題を話し始めない彼女達の様子に、嫌な汗が背中を伝う。痺れを切らして問い掛けようとしたその時、一人が意を決して口を開いた。
「――ミッちゃん、学校辞めたんだって」
「え……」
華夜は頭の中が真っ白になった。
(ミッちゃんが……学校を、辞めた……?)
「昨日まで普通だったのに、急すぎるよね」
「先生は家の都合だって言ってたけど……やっぱり華夜も何も聞いてないの? 一番仲良かったのにね……」
周囲の困惑した声が、雑音となって遠のいていく。
華夜の脳裏に、昨晩の母の冷酷な言葉が、恐ろしい確信を伴って蘇っていた。
『気高い五条家の娘であるあなたが、そんな低俗な者と交わる必要はありません』
気づけば、華夜は周囲の制止する声を振り切り、教室を飛び出していた。
息を切らしたどり着いたのは、昨日ミツと二人で話した、あの誰もいない校舎裏だった。華夜は冷たい地面に膝から崩れ落ちる。
(私のせいだ。私のせいだ、私のせいだ……!)
自分が弱音を吐いたから。母に、余計な"噂"を告げてしまったから。
自分の意志なんていう不確かなものを一瞬でも求めてしまったせいで、ミッちゃんは居場所を奪われ、引き裂かれたのだ。
「ごめんなさい……ミッちゃ、……ごめんなさいっ……」
誰の耳にも届かない謝罪を地面に擦り付けながら、華夜は声を殺して、ただ一人で咽び泣いた。
その日を境に、華夜は何も言わなくなった。自分の意志を持つことは、周囲を不幸にする罪なのだと知ったから。
どれほど泣いても、どれほど拒絶しても、婚姻という名の運命の歯車は止まらない。ならば、最初から何も望まず、何も選ばず、ただ与えられたレールの上を、完璧な人形として滑り落ちていけばいい。
そして悟る。自分は、愛されるために生まれたのではない。磨き上げられ、高く売られるために生かされてきた人形も同然だったのだと。
それは精巧な細工を施された人形のようでもあり、あるいはこれから生贄として屠られるために清められた、物言わぬ供物のようでもあった。
「ああ、華夜。なんて美しいんでしょう! 貴女は今日、世界で一番幸せな女になるのよ」
母の上擦ったような高い声が部屋に響き渡る。これから始まるのは、家と家を繋ぐための華々しくも神聖な儀式か。それとも、生涯二度と自由を生きる“個の人間“として呼吸することを許さぬ、美しい埋葬の始まりか。
――どうでも良い。今更、何も変えられはしないのだから。
残暑の熱はいつの間にか溶け去り、帝都に吹き渡る爽籟は本格的な秋の訪れを告げている。あっという間に、夏は逝ってしまった。国の心臓部でありながら、比較的標高の高いこの地の秋は短い。頬を優しく撫でるこの風も、じきに肌を刺す凍てついた棘へと顔を変え、全てが鋼色に染まる極寒の冬がやってくる。まるでこの先の自分の人生を暗示しているようにも思えて、華夜は陰鬱な気持ちを抱いたまま力無く目線を外へと向けた。目が沁みるほどに青く透き通る旻天には、新天地を求めて飛び回る雁の声が響いていた。
御影家――その名を知らぬ者は、この帝都にはいない。政府さえも手を出せぬ莫大な富と、軍部すら頭を垂れる異能の力を有する、稀代の名家だ。人に害を為す妖魔を祓い、見えぬ災いを引き受ける退魔師の家系として、帝都の闇を治める守護と畏怖の象徴。
その現当主である御影紘一に嫁ぐことが、五条家の娘として華夜に与えられた、“唯一にして絶対の幸福”であると教え込まれてきた。
着付けの仕上げをする母の手が、慈しむように華夜の頬を包み込む。
「ほら、背筋を伸ばして。貴女は今日から御影家の奥方となるのですから、そのような心許ない姿勢ではダメよ」
「申し訳ありません、お母様。少し気が緩んでしまって――」
「まあ! どこか具合でも悪いの?」
華夜が言い終わる前に、母が大袈裟に声を上げる。
(ああ……言わなければ良かった)
軽い気持ちで選び取った言葉を心の中で後悔しながら、華夜はちらりと母の顔色を窺った。いかにも心配そうに眉を下げたこの顔は、決して娘の身を純粋に案じているわけではない。『御影家との大事な婚礼の儀式の日に限って、“完璧な花嫁”として育ててきた貴女が、まさか体調を崩してしまったなんて言わないでしょう?』という無言の圧力だった。
――今日という“幸せな日”を、完璧で終えなければ。
それは華夜にとって、最早強迫観念のようなものだった。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そう? 良かった。あなたは母さんの自慢の娘よ。……うん。着付けもお化粧も、完璧ね。本当に綺麗だわ」
白無垢の着付けをされる華夜の背に、母の白い手袋を嵌めた指先が触れる。乱れがないかを確かめるその手つきは丁寧に、慈しむように優しく動いていた。だが華夜にはそれが、陳列棚の品物を整える商人の手のように思えてならなかった。母の瞳に映っているのは、娘の心ではない。自分が丹精込めて磨き上げた“最高級の作品”への陶酔であるのだから。
(ねぇ、お母様。完璧だから、愛されるのでしょうか。そうでなければ、私はここに居てはいけないのでしょうか)
生まれた問いを心の奥底へと無理矢理押し込め、代わりに感謝の言葉を口にする。何故だか口角が強張り、上手く笑顔を作ることができなかった。
「……ありがとうございます、お母様」
「ほら、顔を上げなさい。そんな不安そうな顔をしてはダメよ? 女の幸せはね。立派な旦那様に選ばれ、守られ、その家を支えることにあるの。貴女のために、母さんがどれほど心を砕いてこの縁談を進めてきたか、分かっているでしょう?」
母の言葉は、いつだって“貴女のため”という甘い糖衣に包まれている。幼い頃からそうだった。華夜が外で泥遊びをしたいと言えば『女の子の肌に傷がついたら大変だわ』と部屋に閉じ込められ、本を読みたいと言えば『そんな難しいことよりも、殿方に愛される刺繍を覚えなさい』と針を持たされた。華夜が生まれつき持つ妖を引き寄せる体質さえも、母にとっては“強い男性に守られるべき可憐な弱さ”という、花嫁の価値を高める装飾品に過ぎなかったのだろう。
母が説く“女の幸せ”という窮屈な型に、自分の心をどうにか押し込めようとする日々。けれど、その型からはみ出しそうになる本音を少しでも口にすれば、母は悲劇のヒロインのような顔をして『どうして私の愛が分からないの』と泣き崩れるのだ。一度そうなってしまえば、今度は母を宥めるためにさらに心を削らねばならない。ならばいっそ、最初から母の期待する言葉を吐く方が、傷つかずに済む分だけ何倍も楽だった。
母の期待に応えるように、華夜は鏡の中で美しく口角を上げてみせる。今度は完璧な笑みだった。
***
『淑やかに、かつ凛として。五条の娘としての品位を保て』
その教えのもと、華夜は大切に育てられてきた。
決して虐げられていたわけではない。むしろ、衣食住のすべてにおいて、分不相応なほどに与えられてきたのだと思う。
『いい、華夜? 女はね、男に守られてこそ幸せになれるのよ。だから貴女も、守られるに値する存在でありなさい』
母の口癖は、呪文のように華夜の骨身に染み付いていた。形よく、美しく、誰からも望まれるように――。それは紛れもない母の愛情だったのだろう。幼かった華夜にとっては、疑う余地などどこにもなかったのだ。
けれど華夜が成長するにつれ、世界が広がるにつれ、その呪文を聞くたびに胸の奥底で何かが燻るのを感じ、息苦しくなっていった。
幸いだったのは、女学校での時間だ。元来明るく穏やかな性格であった華夜は、友人にも教師にも恵まれた。
「華夜ちゃん、そのハンケチ素敵ね。新しいの?」
「ありがとう。母が買ってくれたの」
「いいなぁ。私のお父様ったらね、何をおねだりしても『まだ今使ってるものがあるんだから大事にしなさい』って、ぜーんぜん聞いちゃくれないんだから。ほんと嫌になっちゃうわ」
「うちのお母様もよ。もう本当に口うるさいんだから。華夜のご両親って優しくて羨ましい」
きゃっきゃと笑う友人達の輪の中で、華夜は浮かべた笑みが引き攣るのを必死で押さえ込んでいた。
(……そう、思えたら良かったのに)
両親は優しい。それについて、否定はできない。実際、華夜に必要なものはすべて与えてくれる。――“五条家の娘に必要とされるもの”はすべて、だが。
それが果たして自分のためだったのかと問われれば、答えは曖昧だった。
幸か不幸か、華夜は人目を引く美しさを持っていた。父譲りの高い鼻梁、黒く透き通る大きな瞳。母に似た艶やかに緑為す黒髪に、ほっそりとした体つき。まるで人形のようだと、誰もが口を揃えて言った。華夜が着飾って歩けば、道ゆく人は皆振り返っては口々に褒めそやす。
『流石はあの五条家の娘さんだ』
『本当に美しい。今に立派な殿方を捕まえるに違いない』
『その上とても優秀なんですって。親の教育の賜物ね』
娘を褒める人々の声を聞くたびに、両親は自分の価値が証明されたかのように喜んだ。
高価な服も装飾品も、際限なく増えていった。
けれど――華夜自身が欲しいと願ったものを与えてもらったことはあっただろうか。
高価な首飾りも、やたらと手の込んだ装飾が施された服も、動きにくいだけで華夜は好きではなかった。家族で百貨店へ出かけた時に、服をねだってみたこともある。けれど、両親の反応はいつも決まっていた。
『あら。そんなものが欲しいの? そう……でも母さん、ちょっと貴方には地味だと思うわ。それだったら、こちらの方があなたの体型に合っているんじゃないかしら。ほら、ね? よく似合ってるわ! やっぱり母さんの見立ては正しいわね。これ買いましょう』
そうして気づけば、華夜の手には両親好みの服が鎮座しているのだ。静かに切り捨てられてきた数多の望みは、結局何一つ叶えられることはなかった。
(私が身につけているものはいつだって、両親の願う『私』で全身埋め尽くされている。あなたたちが羨むような私を形作っているのは、私じゃない。そんなことを思うのは、我儘なのかしら……)
両親は、優しい。そして、正しいのかもしれない。けれど華夜は、自分の意思というものの輪郭が日々曖昧になっていくのを感じていた。だからといって、今更『お前の好きなようにすればよい』と言われたところで、何を選べば良いのか、どんな姿が自分らしいと言えるのか、そんな風に思ってばかりで何も選べないのかもしれない。本当の自分がどこにあるのか、それともこれが本当の自分であるのか。今となってはそれすらも分からなくなってしまった。だから結局、両親の選んだ服で着飾り、両親の思うように振る舞うのだ。
――まるで籠の中の金糸雀ね。それとも、意思のない着せ替え人形かしら。
頭の中で黒い自分が毒づくのを反論する余地もなく、華夜は独り自嘲した。
そんな渇いた日々に転機が訪れたのは、ある日の夕方のことだった。いつものように仕事に出かけていたはずの父が、珍しく早い時間に帰宅し、華夜に告げたのだ。
「華夜! ああ、なんてお前は運が良いんだ。あの『御影紘一様』から、お前との縁談の話が来たぞ! これで我が五条家も安泰だ!」
弾んだ父の声に、華夜は思考が追いつかず言葉を失った。
「え……縁、談……?」
「まあ! あの御影家に……? 凄いことじゃありませんか、華夜! 流石は私たちが手塩にかけて育てた娘ね!」
母が歓喜の悲鳴をあげ、父と手を取り合う。
興奮に頬を紅潮させ、爛々と輝く二人の目に映っているのは、目の前にいる娘の顔ではなかった。娘の向こう側にある、御影家がもたらすであろう莫大な権力と富。それを前にして、二人はまるで無邪気な子供のように目を細めて笑っていた。
この時、華夜はまだ知らなかった。祖父の代まで安定して受け継がれてきた五条家の事業が、父の代になってから急速に傾き始めていたことを。没落の足音がすぐそこまで迫っていた五条家にとって、退魔の最高峰である御影家との繋がりは、一族が再び帝都の頂点へと返り咲くための、文字通り唯一無二の蜘蛛の糸だったのだ。
それからの、およそ一年。
華夜にとって、それは優しさと正しさで窒息しそうになる日々の始まりだった。
両親の華夜への執着は、これまでの比ではないほどに膨れ上がった。一挙手一投足に細かく目を配り、言葉をかけ、歪みを正し、ただひたすらに“御影家に相応しい花嫁“という型へ、華夜の輪郭を削り嵌めていく。
『姿勢を正しなさい、華夜。お前の能力はこんなものではないだろう。もっとできるはずだ。御影の家に相応しいと、誰もが認める完璧な人間となるんだ』
『お父様も厳しいことを言うけれど、全て貴女のためなのよ。貴女は私たちの希望の光、大切な大切な、五条家の宝物。だからこそ、一歩も間違えてはいけないわ。失敗なんて、絶対に許されないのよ』
――貴女は私たちの希望。
――一歩も間違えてはいけない。
愛情の形をしたその言葉は、じわじわと、けれど確実に華夜の逃げ道を塞いでいく呪いとなった。
両親の期待に応えようと、期待を裏切って失望される恐怖から逃れようと必死になればなるほど、求められる「正解」のハードルは際限なく跳ね上がっていく。
次第に朝から晩まで、分刻みで高名な家庭教師がつけられた。所作、教養、和歌、華道――ありとあらゆる“完璧”を頭から流し込まれる。肌に日焼けの跡一つ、虫刺されの痕一つ残さぬよう、日差しの入らない部屋に隔離され、食事さえも「御影様の隣に並ぶに相応しい体型を維持するため」という大義名分のもと、厳しく管理・制限されるようになった。
徹底的な管理のおかげで、三面鏡に映る外見は磨き上げられ、非の打ち所がないほど美しく仕上がっていく。
けれどそれとは裏腹に、華夜の精神は、内側からやすりで擦られるように少しずつ、確実に削り取られていった。日に日に目から光が失われていく華夜の様子を友人達は心配したが、曖昧に笑って誤魔化した。
そんなある日の昼下がりのことだった。
「ねえ、華夜ちゃん。大丈夫? このところ、本当に元気がない気がして」
教室の自席でぼんやりとしていた華夜を心配して声をかけたのは、華夜が最も懇意にしている友人の一人、ミツだった。
「ミッちゃん。そう、かな? ちょっとお稽古が立て込んでいて、疲れているのかも。大丈夫だよ。ごめんね、心配させてしまって」
華夜はそう言って、いつもの"お行儀の良い笑顔"を張り付かせて返した。けれど、普段はゆったりとしていて穏やかなミツの瞳には、かつてないほど真剣で、どこか怯えるような光が宿っている。
「……あのね。一つ、華夜ちゃんに話したいことがあるの。ちょっと、ここでは言いにくいんだけど……」
その不穏な声音に、華夜の胸は嫌な音を立ててざわついた。
「……ちょっと、外に出ようか」
周囲のクラスメイトたちに気づかれぬよう、二人で教室を抜け出して人気のない校舎裏へと向かった。
昼下がりの木漏れ日が落ちる校舎裏。ミツは周囲を気にするように何度も視線を巡らせると、少しだけ声を潜めて、華夜の着物の袖をきゅっと引いた。
「どうしたの? そんなに深刻な顔をして」
「華夜ちゃん。……御影家の当主様と、縁談が進んでるんだよね?」
「ああ、その話か……うん。まあ、あんまり気乗りはしてないんだけどね。あはは……」
緊迫した面持ちのミツを少しでも安心させたくて、華夜はわざとおどけて見せた。けれどミツは、依然として表情を強張らせたまま、重たい口を開いて話を続けた。
「あのね。昨日、うちの親が言ってたんだけどね……御影家って、ちょっと普通じゃない家らしくて」
「普通じゃない……って、言うと?」
「うん。あくまで噂、だとは思うんだけど。御影家に嫁いだ人って、みんなあまり長く続かない……っていうか……」
(――長く、続かない?)
ミツの言葉の真意がすぐには理解できず、華夜は戸惑いながら彼女を見つめ返した。何故だろう。それ以上、聞いてはいけないような冷たい予感が、じわりと背筋を這い上がってくる。
「それって、どういう意味?」
「これまで御影家と結婚したお嫁さんたち、みんな若くして突然亡くなったり、ある日を境にぷっつりと姿が見られなくなったり、してるそうよ」
「え……」
「それにね、それと関係があるのかは分からないんだけれど……その、御影家の敷地には誰も立ち入らせない『禁足地』があって、そこで恐ろしい妖魔を飼い慣らしているんじゃないかって噂もあるの。御影家を訪ねた人が、夜遅くに、誰もいないはずの庭の奥から女の人のうめき声のようなものを聞いた、とか」
「禁足地……うめき、声……」
息が詰まった。初めて聞く話だった。
両親も、親戚たちも、誰もそんな恐ろしい話はしていなかった。ただ『帝都屈指の大家との縁談だ』『これで我が家も安泰だ』と、浮足立った話ばかりを自分の前で繰り広げていたから。
「それでね……これは本当に酷い噂なんだけど。その御影家の当主様が、すごく冷酷で厳しいお方だから、ちょっとでも気に入らないことがあったら、その妖魔に、お嫁さんを喰わせてるんじゃないかって――」
カーン、カーン、カーン――。
その刹那、午後の授業の始まりを告げる予鈴の音が、鋭く大気を引き裂いた。
華夜は冷水を浴びせられたようにハッとしてミツを見やる。彼女もまた、恐怖に顔を青ざめさせたまま華夜を見つめていた。金属質の鐘の音が完全に鳴り止むまで、二人は言葉もなく、ただ互いの瞳を見つめ合うことしかできなかった。
やがて音が消え去ると、ミツは我に返ったように、取り繕うように慌てて口を開いた。
「ご、ごめん! 御影家との縁談が進んでるっていう時に、わざわざこんな怖い話するなんて、私、意地が悪いよね……どうかしてるよね、本当にごめんなさい! だけど、その……変な意味じゃなくてね。私は、ただ、華夜ちゃんが心配で……っ」
泣き出しそうなミツを見て、華夜は一瞬、言葉を失った。
得体の知れない冷たい黒い雫が、ぽたりと胸の奥に沈んでいく。それはゆっくり、けれどじわじわと全体に広がっていき、華夜の心を曇らせていった。
(これはきっと、嘘でも、冗談なんかでもない。ミッちゃんは嘘が下手だから。そんな彼女が、わざわざこんな恐ろしい話を私に告げたのは、心の底から私の身を本気で心配してくれているからだ)
利害関係だけで自分を御影家に叩き込もうとしている両親とは違う。目の前にいるのは、自分を一人の人間として慈しみ、案じてくれている大事な友達だ。これ以上、彼女に余計な心配をかけるわけにはいかない。
華夜は真っ直ぐにミツの目を見つめ、そっと微笑んでみせた。
「……ミッちゃんが、そんな意地悪をするような人じゃないって、私が一番よく分かってるよ。心配してくれて、本当にありがとう。でも、大丈夫だよ」
自分の口から出たのは、思いのほか、静かに凪いだ声だった。
それから二人は急いで廊下を渡り、何事もなかったかのように教室へと戻った。
けれど、午後の授業中、教科書を開く華夜の頭には、先ほどの言葉が何度も木霊していた。
(ミッちゃんのご両親が言っていた話だから、又聞きでしかないし、ただの噂かもしれないけれど……でも、本当だったら……?)
無意識に握りしめた鉛筆の先が、パキリと小さな音を立てて折れた。
まだ見ぬ婚姻の地――御影家から伸びる目に見えない黒い影が、この先の未来をじわじわと侵食していくような不気味な予感に、華夜はただ、怯えることしかできなかった。
放課後、どのような心地で家路についたのかも覚えていない。ただ、胸の奥でぶすぶすと燻り続ける恐怖の火種を、どうしても一人で抱えきれなくなっていた。
その日の晩、華夜はたまらなくなって、自室を訪れた母の着物の袖に縋りついた。
「お母様、怖いのです。御影様は、大変冷酷なお方だと噂に聞き及んでおります……。私、本当にそのような場所に嫁いで、やっていけるのでしょうか……」
母は怒りを見せる代わりに、ひどく困ったような、残念そうな表情で目を細め、小さくため息をついた。そして。
「……誰ですか、そんなくだらない迷信を貴女に吹き込んだのは」
ぴし、と。室内の空気が一瞬で凍りつくのを肌で感じた。普段の穏やかさからは信じられないほど低く、冷ややかな声に、華夜は恐怖のあまりそれ以上顔を上げることができなくなった。心臓が早鐘を打ち、全身が危険を告げるように冷や汗が流れる。
しずしずと母の両手が伸びてきて、華夜の震える頬を包み込んだ。
癇癪を起こした我が子を宥めるようにゆっくりと顔を持ち上げられると、そこにはいつも通りの、慈愛に満ちた母の微笑みがあった。その笑顔を至近距離で捉えた瞬間、華夜は本能的な悪寒を覚えた。
「華夜、そんな悲しいことを言って母さんを困らせないで。母さんはね、いつだって貴女の幸せだけを思って言っているの。この結婚が、貴女という人間が価値を証明できる、唯一の道なのですから」
諭すように穏やかに放たれたその一言が、華夜の逃げ道を完全に塞いだ。
母の言うことは、正論だ。これは子供の我が儘が通るような色恋の話ではない。家と家を繋ぐ婚姻契約なのだ。今更、自分の恐怖などという個人的な感情で破談にできるはずがない。
そんなことは分かってはいるけれど。それでも受け止めてくれるんじゃないか、などと、微かに抱いていた甘い期待は呆気なく打ち砕かれ、華夜は呆然としていた。
「どこの誰だか知りませんけれど……大方、御影家との栄えある縁談に嫉妬でもしたのでしょう。可哀想な華夜。気高い五条家の娘であるあなたが、そんな浅ましい低俗な人間と言葉を交わす必要はありません」
「そんな……! ミッちゃんはそんな人ではありません! ただ、私のことを本当に心配してくれて――」
言いかけた華夜の唇に、母の白い指先がそっと押し当てられる。
それ以上、一言も喋るなという無言の否定だった。
「華夜? 良い子だから、よく聞きなさい。あなたは女としての最高の幸せを手に入れ、五条家の繁栄も約束される。これ以上の贅沢がどこにありますか。……少し疲れているのね。もう今日はお休みなさい」
「……申し訳、ございませんでした。おやすみなさいませ、お母様」
華夜は消え入るような声で謝罪すると、深く頭を垂れて自室へと引きこもった。
拒絶された胸の奥がじわじわと冷え切り、視界が涙で滲む。悔しいのか、悲しいのか、それともただ絶望しているのか――自分自身の感情すら、もう分からなかった。
華夜が去った部屋に残された母は、感情の抜け落ちた顔で、ぽつりと呟いた。
「ミッちゃん……ミツ……ああ、あそこの工場の娘かしら。こんな戯言で華夜を惑わすなんて。可哀想な華夜。母さんが、悪い虫を駆除して守ってあげなきゃね」
その歪んだ独白は、冷たく暗い壁の中へと染み込んでいった。
翌朝。教室へ入った途端、友人達が慌てた様子で華夜に近づいてきた。
「華夜、おはよう」
「おはよう。みんなどうしたの? なんか暗い顔して……あれ? ミッちゃんまだ来てないのね。今日はお休みかしら?」
「……ねぇ、まだ聞いてない?」
「えっと……ごめんなさい。何を……?」
何も知らない様子の華夜に、友人達は口籠る。なかなか本題を話し始めない彼女達の様子に、嫌な汗が背中を伝う。痺れを切らして問い掛けようとしたその時、一人が意を決して口を開いた。
「――ミッちゃん、学校辞めたんだって」
「え……」
華夜は頭の中が真っ白になった。
(ミッちゃんが……学校を、辞めた……?)
「昨日まで普通だったのに、急すぎるよね」
「先生は家の都合だって言ってたけど……やっぱり華夜も何も聞いてないの? 一番仲良かったのにね……」
周囲の困惑した声が、雑音となって遠のいていく。
華夜の脳裏に、昨晩の母の冷酷な言葉が、恐ろしい確信を伴って蘇っていた。
『気高い五条家の娘であるあなたが、そんな低俗な者と交わる必要はありません』
気づけば、華夜は周囲の制止する声を振り切り、教室を飛び出していた。
息を切らしたどり着いたのは、昨日ミツと二人で話した、あの誰もいない校舎裏だった。華夜は冷たい地面に膝から崩れ落ちる。
(私のせいだ。私のせいだ、私のせいだ……!)
自分が弱音を吐いたから。母に、余計な"噂"を告げてしまったから。
自分の意志なんていう不確かなものを一瞬でも求めてしまったせいで、ミッちゃんは居場所を奪われ、引き裂かれたのだ。
「ごめんなさい……ミッちゃ、……ごめんなさいっ……」
誰の耳にも届かない謝罪を地面に擦り付けながら、華夜は声を殺して、ただ一人で咽び泣いた。
その日を境に、華夜は何も言わなくなった。自分の意志を持つことは、周囲を不幸にする罪なのだと知ったから。
どれほど泣いても、どれほど拒絶しても、婚姻という名の運命の歯車は止まらない。ならば、最初から何も望まず、何も選ばず、ただ与えられたレールの上を、完璧な人形として滑り落ちていけばいい。
そして悟る。自分は、愛されるために生まれたのではない。磨き上げられ、高く売られるために生かされてきた人形も同然だったのだと。
