西日が長く影を落とす縁側に、二つの影が並んで腰を下ろしていた。目の前に広がる庭園には、夕暮れの柔らかな光が満ちている。けれど、二人の間に流れる張り詰めた空気の中、じっと自身の掌を見つめる紘一の横顔は、やはりどこか頑なで、冷たい硝子の壁を隔てているようだった。
気まずい沈黙の中、華夜は膝の上で着物の袂をそっと握りしめ、静かに口を開いた。
「……あの花、紘一さんからだったのですね」
その言葉に、紘一の肩が跳ね上がった。彼はやはり華夜と視線を合わせようとはせず、ただ、気まずそうに、苦いものを噛み潰したような顔で視線を落とす。
「……そこから聞かれていたのか」
「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですけれど」
華夜は小さく微笑み、庭に咲く白木蓮の梢へと視線を巡らせた。
「なぜ、あの花だったのですか? 街の花屋には、もっとたくさん、見栄えのする綺麗な花があったでしょうに」
「なぜ、か……」
紘一は低く呟き、ひどくまごついた様子で、形の良い眉をひそめた。自らの行動の理由を、自分自身でもうまく咀嚼できていない──そんな戸惑いが、その琥珀色の瞳にありありと浮かんでいる。
「分からない。ただ、なんとなく……店先であれを見かけた時、他のどの花でもなく、あれでなければならないような気がしたんだ。お前には、あの黄色が一番似合うと……そう、思っただけで……」
言い訳のように紡がれた彼の言葉を、華夜は噛み締めるように聞いた。
(やっぱり……)
胸の奥が、温かい涙で満たされていくようだった。彼には、これまでの凄惨なループの記憶はない。華夜がどれほど血を流し、彼がどれほど無残に命を落としてきたか、その地獄を知っているのは華夜だけだ。けれど、死の円環を何度も積み重ねる中で、彼の魂の奥底には、消えない記憶の残滓が確かに刻まれている。世界がどれほど巻き戻ろうとも彼の本能が、華夜との絆を、あの鮮やかな黄色を覚えているのだ。
華夜はふっと、張り詰めていた心をほどくように、愛おしげに微笑んだ。
「……黄色いガーベラは、貴方が私に、初めてくれた贈り物なんです。貴方の記憶には、ないけれど」
紘一が、ハッとしたように華夜を見た。五日ぶりに、その琥珀色の瞳が正面から華夜を射抜く。
「俺が、お前に……?」
「ええ」
華夜は遠い日を愛おしむように、静かに語り始めた。
「初めて二人で街へ出かけた時、通りがかった花売りの少女から、貴方が買ってくださったのです。不器用で、ぶっきらぼうで……でも、とても優しく、私に差し出してくれた」
西日に照らされた華夜の横顔を見つめながら、紘一は一言も発さず、ただ静かにその言葉を喉の奥で聞き入っていた。
「生まれて初めて、人から頂いたお花でした。嬉しくて、嬉しくて……。だから、あの花は、私にとって何よりも大切な、貴方との絆なんです」
華夜の声は、夕暮れの静寂に溶けていくように優しかった。記憶はなくとも、確かに二人の間に存在していた愛の証明。それを突きつけられた紘一の瞳が、切なげに、そして深く揺れ動いていた。西日が二人の境界を曖昧に染め上げていく。
華夜は一拍置いて、ずっと胸の奥に燻っていた、けれど決して口にできなかった寂しさをぽつりと独白した。
「ここ数日、ずっと避けられていたから……私、貴方に嫌われてしまったのかと思っていました。とても、寂しかったです」
「……華夜」
「でも、先ほどの如月さんとの会話を聞いて、分かりました。貴方は私のことが嫌いになったわけじゃない。また、私を守ろうとしてくれているのだと」
華夜の言葉に、紘一は肺の空気をすべて吐き出すような、重い、長い沈黙を落とした。
庭園の白木蓮の葉が、夕風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てる。その音だけが響く静寂のなか、紘一はゆっくりと顔を覆い、それから、堰を切ったように昏い情念を絞り出した。
「……全部、俺のせいなのだと分かった」
その声は、かつてないほどにひび割れ、絶望に濡れていた。
「母の話を聞いて、ようやくすべてが繋がった。お前をそんな呪いに巻き込み、何度も地獄を見せていたのは……他でもない、俺自身の独り善がりな感情のせいだった。お前を庇って死んだのだって、美談でも何でもない。ただの自業自得だ。我が身に流れる血の呪いも知らず、お前を愛したいなどと血迷った、俺の大罪だ」
紘一は自らの掌を、まるで汚物でも見るかのような激しい嫌悪の眼差しで見つめた。
「御影の血は、人を不幸にする。誰かを慈しめば、その命を奪う引き金になる。俺のような男が、人を愛し、愛されたいと願った時点で、最初から間違っていたのだ」
彼は深く頭を垂れ、拳を白木にきつく押し付けた。
「だから……こんな呪われた家に、お前のような人間を嫁がせてしまって、本当にすまない」
夕闇が迫る縁側で、最強の退魔師であるはずの男が、一人の子供のように肩を震わせて懺悔していた。その姿は、華夜の胸を容赦なく締め付けた。
自らの血を呪い、愛することそのものを大罪だと切り捨てる彼の言葉が、縁側の冷え込んだ空気に消えていく。
そのすべてを聞き届けた華夜は、膝の上で握りしめていた拳を、さらに強く、指先が白くなるまで握りしめた。胸の奥からせり上がってくる熱い感情が、喉を、そして唇を小刻みに震わせる。
記憶のない彼に、これまでのすべてを、自分の本当の願いを告げられるのは、今しかなかった。
「……私は……」
華夜の声は、夕闇に溶けそうなほど幽かだった。
「私は——貴方に、触れて欲しかったんです」
紘一がハッとしたように、伏せていた顔を僅かに上げる。涙で潤んだ瞳を真っ直ぐに巡らせ、華夜は紘一の琥珀色の瞳を正面から射抜いた。
「呪いだとか、自業自得だとか、そんなことのために、私は貴方を追いかけてきたわけじゃありません。何度巡っても……貴方が冷たく私を突き放した時だって、私は、ただ……」
ぽろぽろと、堪えきれなくなった涙が藍色の着物の胸元へ溢れ落ちる。
「ただ、貴方に優しく名前を呼んで欲しかった。その大きな手で、もう一度頭を撫でて欲しかった……! 好きな人に避けられることが、こんなにも心が張り裂けそうに痛いなんて、私は知らなかったんです」
胸の内を丸ごと曝け出すような華夜の独白に、紘一は息を呑んだまま、言葉を失って固まった。
「たとえそれが死を招く呪文だったとしても、私は、あなたに愛されない世界なんて欲しくありません。だから……自分が間違っていただなんて、そんな悲しいこと、言わないでください……っ」
迫る夜の帳のなか、華夜の切痛な告白だけが、静まり返った縁側にどこまでも美しく、残酷に響き渡っていた。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を、華夜を着物の袖で拭うことすら忘れて、胸の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すように言葉を重ねた。
「怖かった……」
その一言は、これまで華夜がたった一人で背負い続けてきた、孤独な戦いの凄惨さを物語っていた。
「何度も何度も、貴方が目の前で冷たくなっていくのを見たから……。もう二度と、貴方の声を聴けなくなるんじゃないかって、世界が巻き戻るたびに、本当は怖くて堪らなかった……!」
思い出すだけで、身体が内側から凍りつきそうになる。けれど、華夜は逃げなかった。紘一の琥珀色の瞳を、涙の膜の向こうから真っ直ぐに見つめ、強く、強く訴えかける。
「でも、それでも……貴方が私に触れてくれた時だけ、私は、自分が独りじゃないと思えたの。あの地獄のような暗闇の中で、あなたがくれた温もりだけが、私を生かしてくれたんです」
紘一の身体が、目に見えて大きく動揺した。心を殺すことでしか華夜を守れないと信じ込んでいた彼の覚悟が、華夜の剥き出しの本音によって激しく揺さぶられる。
「……そんなはずがない」
紘一は縋るように、あるいは自らを戒めるように声を絞り出した。その瞳には、恐怖と困惑が入り混じっている。
「俺は呪われた化物の血脈だぞ……? お前を殺す引き金でしかない俺に触れられて、嬉しいなどと……そんなこと、あるはずがない……っ」
拒絶ではなく、ただひたすらに己の血を恐れ、華夜を想うがゆえに臆病になっている男。その頑なな絶望を打ち砕くように──華夜は、初めて自らその手を伸ばした。
畳の上に置かれた、紘一の大きく分厚い手。華夜は震える自分の手をその冷え切った彼の指先へ、そっと自らの掌を重ねた。
肌と肌が触れ合う微かな熱に、紘一は息を呑んで硬直した。全身の血が逆流したかのように見開かれた彼の瞳が、重ねられた華夜の小さな手へと注がれる。
──何も、起こらない。
御影の血を継ぐ者が触れることで発動する呪いは、華夜からの接触には牙を剥かなかった。
「冷たい……」
華夜は手を引かなかった。むしろ、彼の大きな手の甲を包み込むように、きゅっと力を込める。
「ほら……私は、死にません。あなたの手を、こんなにも温かいと感じています。だからもう、そんな風に自分を突き放さないでください」
初めて華夜から触れられたその温もりに、紘一の瞳から、冷徹な仮面が音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。重ねられた華夜の手から、生々しいほどの熱が、紘一の冷え切った身体へと流れ込んでいく。
自分の血を呪い、心を殺し、ただの道具になろうと決めたはずだった。けれど、目の前で涙を流しながら『自分に触れて欲しかった』と乞う少女を前にして、紘一の胸の奥に閉じ込めていた鉄の檻が、内側から大きな音を立てて壊されていった。
華夜を失いたくない。この温もりを、他の誰にも渡したくない。──この人を愛し、この人に愛されたい。
一度決壊した感情は、濁流となって彼の理性を飲み込んでいく。けれど、その強烈な愛しさが膨れ上がると同時に、静江の狂った微笑みが、日記に血で書き殴られた懺悔が、脳裏で悍ましく明滅した。
もしこれで、華夜を失ったら?
愛すれば愛するほど、引き寄せる絶望は深く、容赦のないものになる。愛しさと、それを信じ切れない絶対的な恐怖。二つの巨大な感情の狭間で、紘一の魂は引き裂かれそうに激しく揺れ動いていた。
しかし、目の前で泣きじゃくる華夜の涙が、彼の最後の理性を融かしてしまう。
「華夜……っ」
紘一は耐えかねたように、震える両手を伸ばした。その大きな指先が、一度だけ宙で躊躇うように止まる。それでも彼は、堪えきれない衝動に突き動かされるように、華夜の頬へ触れた。
もう、呪いなどという目に見えない鎖で、この愛おしさを縛り付けておくことなどできなかった。
彼は大きな掌で華夜の涙に濡れた頬を包み込むと、そのまま強く引き寄せるようにして、互いの額をきつく押し当てた。
あまりの近さに、互いの熱い吐息が、睫毛の触れ合う気配が、ダイレクトに肌を打つ。紘一の身体は、華夜を壊してしまいそうなほど激しく、小刻みに震えていた。その刹那。
──ドクン……ッ!!!
これまでの中で一番大きな拍動が、二人の鼓膜を直接打ち鳴らした。
「あ……っ、」
世界から一切の音が消え去り、キィィィンと脳髄を穿つような鋭い耳鳴りが、二人の間に狂ったように駆け巡る。
夕日に照らされていた美しい庭園の影が、意思を持ったようにぐにゃりと歪み、爆発的に濃くなっていく。足元の畳から、ねっとりとした生温かい死の気配が、黒い這虫のように這い上がってきた。
紘一が華夜を“愛したい“と心から願って触れ返した、その明確な意志への対価。
二人の繋がった肌を通して、御影の血脈に刻まれた最悪の呪いが、目を覚ましたのだ。
これまでの幾度も華夜の命を奪ってきた、あの底知れない漆黒の恐怖が、かつてない密度と明確な敵意を孕んで、二人の眼前に具現化しようとしていた。
「来る……! 呪いです、紘一さん……っ!」
血の気が引いた顔で叫ぶ華夜の細い肩を、紘一は即座に突き放すように強く押し返した。彼の琥珀色の瞳には、恐怖で狂わんばかりの光が宿っている。
「華夜、下がれ! 早くその手を離して逃げろ!」
だが、華夜は畳を蹴って踏み止まった。弾かれたはずの手を伸ばし、今度は紘一の濃紺の羽織の袖を、爪が白くなるほどきつく、きつく掴み直す。
「いいえ。私はもう、逃げません!」
その瞬間、二人が並んで腰掛けていた縁側の空間が、バリバリとガラスが割れるような異音を立てて歪んだ。
これまでの襲撃は、ただ一方的に華夜と紘一を死へと引きずり込む“災厄“だった。しかし、今回は違う。この這い寄る混沌は──明確な意思を持って、二人を引き離そうとしていた。
『──触レルナ』
『──離レヨ』
『──交ワルコト、決シテ許サヌ』
キィンと鼓膜を穿つ耳鳴りの奥から、地鳴りのような地獄の合唱が響き渡る。
かつて、御影の血脈に消えない呪いを呪詛した妖魔の怨嗟か。あるいは愛に狂い、愛に絶望して死んでいった歴代の御影の先祖たちの呪縛か。無数の霊魂の叫びが重なり合い、空間をびりびりと震わせる。
紘一の足元から噴き出した煤けた黒泥が、意思を持つ大蛇のようにぐにゃりと鎌首をもたげた。狙いを定めた獣のように、繋ぎ合う二人の手の隙間へと、強引に割り込んでいく。
冷酷に二人の肌を引き剥がそうとする漆黒の奔流が、空間そのものを真っ二つに裂く。華夜の身体を紘一から遠ざけようとするように、凄まじい暴風が吹き荒れた。
「華夜! 手を離せ!」
裂ける空間の向こうで、紘一が絶叫する。黒泥に視界を遮られ、彼の姿が闇に溶けていきそうになる。
息が詰まるほどの死の圧迫感。今すぐにこの手を離して逃げ出さなければ、魂ごと噛み砕かれるという本能の警告。
けれど、華夜は首を激しく横に振った。溢れ出る涙を夕風に浴びせながら、喉がちぎれんばかりの声で叫び返す。
「嫌です……っ嫌です、紘一さん! 今度こそ、貴方を一人にしません!」
嵐のような呪詛のなかで、華夜の瞳には、かつてない強固な意志の炎が灯っていた。
守られるだけの、無力な少女はもういない。死ぬのが怖くて、彼の背中に隠れて怯えていた日々は、もう終わった。ただ彼と生きたい。孤独な暗闇の檻に囚われたこの人を、今度こそ自分の手で救い出す。
それは、五度の輪廻を経て、華夜が初めて“守られる側“を捨て、退魔師の当主である紘一と対等に並び立つ“一人の人間“として、運命に抗う戦いを選択した瞬間だった。
『──離レヨ、離レヨ、離レヨ』
吹き荒れる漆黒の奔流は、なおも二人を冷酷に引き裂こうと猛り狂う。死の圧迫感に華夜の身体はガタガタと震え、骨がきしむほどの斥力がその指先にかかっていた。
けれど、華夜は決して、紘一の羽織を掴む手を離さなかった。その執念とも言える強固な拒絶に、二人の間に割り込もうとしていた黒い塊が一瞬、戸惑うようにその動きを止めた。その直後、蠢く闇の底から、亡者達の困惑に満ちた声が、幾重にも重なって溢れ出す。
『何故、離レナイ』
『何故、逃ゲナイ』
『何故、触レラレル』
それは数百年もの間、恐怖と絶望によって御影の男たちを支配してきた呪い側にとって、決して“理解できない”光景だった。愛すれば拒絶され、愛されれば死が訪れる。その恐怖の法則を無視して、なおもその手を強く握り返してくる、たった一人の無力な少女。
『愛サレルハズガナイ』
『触レバ拒マレル』
『奪ワレル前ニ、奪エ』
嵐の真ん中で、華夜は涙に濡れた顔を上げ、眼前の闇に向かって、そしてその向こうにいる紘一に向かって、きっぱりと言い放った。
「触れられるのなんて、私は怖くない……! 貴方を失うよりも怖いものなんて、何もないの!」
その叫びは、数多の死を越えてようやく辿り着いた、華夜の本当の真実だった。
「もう絶対に、逃げません。この先何百回、何千回、この呪いに殺されることがあったって……私は何度だって、生まれ変わってあなたを選びます! あなたに愛されることが、私は堪らなく嬉しい。あなたを愛することができる自分が、本当に幸せなのです。──私は、紘一さん、あなたを心から愛しています!」
死の恐怖も呪いの悍ましさも、そのすべてを丸ごと抱きしめて、華夜は紘一への愛を、自らの幸福を、真っ直ぐに肯定した。
その瞬間、世界を覆っていた昏い怨嗟の声がぴしりと、凍りつくように静まった。
呪いが拠り所にしていた愛への恐怖と絶望が、華夜の絶対的な肯定によって、その存在意義を根底から覆されたのだ。
「華夜……」
黒泥の隙間から、紘一の顔が見えた。彼の琥珀色の瞳からは、先ほどまで彼を縛り付けていた臆病な怯えが、完全に消え去っていた。
「……俺もだ。お前を、愛している」
何ひとつ偽りのない、魂からの告白だった。紘一は初めて、呪いへの恐怖を一切抱くことなく、ただ目の前の愛おしい少女だけを見つめて、安心してその手を華夜へと伸ばした。
二人の手が黒い奔流を突き破って、今度こそ固く、強く結ばれる。
──パリン!!!
その瞬間、ガラスが粉々に砕け散るような、鮮烈な音が響き渡った。二人を引き裂こうと猛り狂っていた漆黒の塊が、その結合に耐えかねたように内側からひび割れ、目映い光の粒子となって爆散していく。
『アア、ナンテ温カイ』
『ソウカ、愛シテ、ヨカッタノダ』
崩壊していく闇の彼方から、諦念ではない、どこか救われたような、歴代の先祖たちの静かな吐息が聞こえた気がした。吹き荒れていた不浄な風が止み、耳鳴りが嘘のように遠ざかっていく。爆散した漆黒の光粒子が夜の帳へと溶けて消えてゆき、それと同時に、地平線の彼方から淡い白磁の光が空を染め始めていた。新しい夜明けの光芒だった。
何かが終わった。
けれど、あまりに一瞬の出来事に、華夜も紘一も言葉を失ったまま、ただ縁側に立ち尽くしていた。
ただ一つ、これまでの地獄と決定的に違っていたのは──これまで幾度も紘一の身体を貫いてきた呪いが発現したにもかかわらず、誰も血を流さず、誰も死んでいないという事実だけだった。
「……っ、」
華夜は自身の胸に手を当て、生きた心臓が刻む確かな鼓動を確かめる。そして恐る恐る、まだ硬直したままの紘一の身体へと指先を伸ばした。
そっと、その大きな肩に触れる。
「……消え、た……?」
かすれた声が、朝の澄んだ空気に溶けていく。どれだけ耳をすませても、つんざくような耳鳴りも、心臓を激しく打ち付けるような鼓動の音も聞こえなかった。
──何も、起きない。
その事実がじわじわと、華夜の身体を内側から激しく震わせる。五度の円環を彷徨い続け、ようやく掴み取った、死のない世界だった。
「華夜……」
紘一が、信じられないものを見るかのように、その琥珀色の瞳を大きく揺らした。
彼はまだどこか怯えるように、それでも確かめるように、ゆっくりと大きな手を伸ばし、華夜の涙に濡れた頬へと、そっと触れた。
皮一枚を隔てて、互いの体温が直接流れ込んでくる。
「ああ……ああ、本当に……」
その瞬間、紘一の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ちた。最強の退魔師として心を殺して生きようとしていた男が、初めて感情を剥き出しにして、子供のように泣いていた。
「華夜……っ!」
紘一は華夜を壊してしまいそうなほど強く、その大きな腕で抱きしめた。
「……! 紘一さん……っ、」
引き寄せられた胸の中で、華夜は初めて、紘一の肌の温もりを、その心音を、全身で感じていた。
こんな風に、ただ彼の温もりに包まれて、安心して涙を流せる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
華夜もまた、彼の背中に腕を回し、精一杯の力で抱きしめ返した。
終わったのだ。
たった一人で暗闇を這いずり、何度も愛する人の死体を見届けてきた、あの孤独で凄惨な戦いが今度こそ、本当に終わった。
白み始めた朝日の光が、縁側で固く抱き合う二人を優しく包み込んでいく。流れる涙は止まらなかったけれど、その胸を満たしていたのは、かつてないほどの確かな幸福と、夜明けの温もりだった。
夜明けの劇的な出来事から数時間後。御影の屋敷には、いつもと変わらぬ穏やかな朝食の時間が流れた。けれど、供された膳を下げるため、部屋に現れた如月は、二人の間に漂う“決定的な変化”を瞬時に感じ取ったようだった。
「如月。──母に、会わせてくれ」
紘一の静かな申し出に、如月は一瞬だけ切れ上がった目を微かに見開いた。紘一はただ静かに、けれど揺るぎない眼差しで如月を見つめていた。如月の脳裏に、いつかの朝に感じた鍵の違和感が蘇る。昨夜まであれほど張り詰めていた屋敷の結界が心地よく弛緩され、そして何より、今の二人の纏う清廉な空気に、すべてを察した如月は、深く、深く一礼した。
「鍵を、持ってまいります」
その一言だけを置くと、余計な詮索を一切することなく、如月は使用人室へと下がっていった。
三人は、かつて華夜が迷い込み、紘一が一人で潜入した、あの鬱蒼とした森の奥へと足を進めた。
辿り着いた奥屋敷の前に立ち、如月が懐から重々しい真鍮の鍵を取り出す。錠前が外され、長年、誰の立ち入りも拒んできた重い木製の扉が、低い音を立てて左右に開かれた。
刹那、長年閉ざされていた薄暗い空間へと、うららかな朝の光が真っ直ぐに差し込んでいく。
「あ……」
部屋の奥、昏い影の中に佇んでいた大奥様──静江が、眩しそうに細い目を細めた。
差し込んできた光の帯を見つめ、彼女は幽かな、掠れた声で呟く。
「また……この陽を、見ることができる日が来るとは……」
「大奥様。あの……」
華夜が、一歩前へ出て静江に話しかけた。
その言葉の続きを紡ぐ前に、静江は優しく首を振り、すべてを包み込むような静かな笑みを浮かべた。
「解かれたのですね」
「!……はい」
「そう。よくここまで……」
多くを語らず、それだけを呟いた母は、白磁のようなその頬に、一筋の涙を静かに滑らせた。
一族を狂わせ自分を縛り続けてきた忌々しい呪いが、目の前の若い二人によって完全に打ち砕かれたのだと、その身に流れる退魔の血が確かに教えていた。
「如月。今まで本当に、本当にありがとう。貴方が世話をしてくれなければ、私はとっくにここには居なかったでしょうね」
「お嬢様……申し訳ございません。こんなにも、長く……本当に、申し訳、ございませんっ……!」
「良いのです。貴方だけはずっと、私のことを信じてくれていた。親族も、他の使用人達も、誰も信じてくれなかった私の話を……それだけで、私は今日まで生きる希望を繋いで来られたのですから」
静江の言葉に、如月が涙ぐみながら何度も何度も頭を下げ続けていた。
(そっか……如月さんもまた、大奥様を守り続けていたのね……)
一族から罵倒され幽閉された女を、使用人という立場でたった一人、信じて守り続けていた如月もまた、孤独に戦ってきたのだろう。そんな彼女に思いを馳せ、華夜は胸の奥がじわりと染みるのを感じていた。
「紘一」
如月に目を向けていた静江が、今度は息子の名を呼んだ。
紘一がハッとして身を硬くする。静江はゆっくりと車椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りで、愛おしい我が子へと近づいていった。そして、震える白い手を伸ばし、紘一の少し高い頬へと、恐る恐る触れた。
「っ……、」
紘一の全身が、彫像のように完全に固まった。思えば生まれてから今まで、親に優しく触れられた記憶など一度もなかったのだ。母の温もりがどれほど温かいものか、彼は今の今まで知らなかった。
けれど頬を包み込む母の手は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。
静江は、愛おしげに紘一の頬を撫でながら、溢れる涙を隠そうともせずに微笑んだ。
「ごめんね……。ずっと、貴方を一人にしてしまった。お母さんを、許してね……。でも、もう大丈夫ね。本当に……本当に立派になったわね、紘一」
「母、上……」
紘一の口から、掠れた、子供のような声が漏れる。長年奥屋敷に幽閉されていた母と、孤独の檻に自らを閉じ込めていた息子。二人の時間を隔てていた透明な壁が、母の涙とともに静かに融けていく。
華夜はその様子を、胸がいっぱいになりながら見つめていた。振り返れば、扉の脇に控えていた如月もまた、目元を和らげ、静かに頭を垂れている。
差し込む朝日は、呪われた御影の過去をすべて洗い流すように、ただ優しく、家族の真の再生を照らし出していた。
陰惨な死の輪廻の終わりを告げるように、御影の屋敷には、どこか優しい変化が次々と訪れていた。
まず変わったのは、屋敷を包む空気そのものだった。かつての、肌を刺すような冷たい静寂は消え失せ、今では日だまりのような柔らかい温かさが満ちている。
主の変貌や、大奥様が時折陽の当たる場所に姿を見せるようになったからだろうか。いつも張り詰めた顔をしていた使用人たちの間には、自然な笑顔や和やかな雑談が増えていた。それはあの如月も例外ではなく、完璧な仕事ぶりはそのままに、華夜に茶を差し出す手元や物腰には、どこか穏やかな春風のような余裕が滲むようになっている。
そして何より、屋敷のあちこちに、あの黄色いガーベラをはじめとした色鮮やかな季節の花々が、ごく当たり前のように飾られるようになっていたのだ。
そんな中、紘一と華夜はというと──。
廊下ですれ違う瞬間に、どちらからともなくそっと手を繋ぎ。庭を歩けば、紘一が華夜の髪に触れ、風に乱れた一房を優しく耳にかけ直し。ふざけ合っては、互いの額をこつんと合わせて笑った。
今までどれほど望んでも絶対にできなかった、愛する人と触れ合う喜びを噛み締めるように、二人は時間を重ねていた。
そんなある日の、麗らかな午後のこと。二人は庭に面した縁側に腰掛け、如月が淹れてくれたお茶を飲みながら、他愛のないお喋りに興じていた。
「紘一さんはそんな子供っぽい悪戯をされていたのですね。如月さんから伺いましたよ」
「あいつは余計なことを。もう何年も前の話だ」
紘一がバツの悪そうな顔をしてそっぽを向くと、華夜は可笑しそうに「ふふっ」と声を立てて笑った。陽光を浴びて、華夜の頬が林檎のように愛らしく染まっている。その笑顔を愛おしげに見つめていた紘一は、吸い寄せられるように大きな手を伸ばし、そっと、華夜の柔らかな頬へと指先を滑らせた。
「……っ」
その瞬間、華夜の身体が、一瞬だけびくっと小さく跳ね上がった。“触れられたら死ぬ“という恐怖の条件反射は、呪いが消え去った今でも、無意識のうちに華夜の身体を強張らせてしまう。
華夜の様子に、紘一の手が触れたままぴたりと止まった。
そして訪れた一瞬の静寂の後──二人は、どちらからともなく顔を見合わせていた。
「……本当に、大丈夫なのだな」
紘一が、自嘲気味に、けれど深く安堵したように眉を下げて呟く。華夜は強張らせていた肩の力をそっと抜くと、彼の大きな掌に自分の手を重ね、この上なく幸せそうに、穏やかに微笑んだ。
秋の陽の柔らかな光のなか、二人の弾んだ笑い声が、紅葉に彩られた庭園へと優しく溶けていった。
***
昼間の喧騒から一転し、夜の御影の屋敷は静寂に包まれていた。
しんと静まり返った華夜の部屋には、閉ざされた障子の隙間から冷たい夜風が忍び込み、部屋の片隅に飾られた四輪の黄色いガーベラをそっと揺らしている。
その部屋の中で、紘一と華夜は二人きり、静かに向かい合っていた。行灯の柔らかな光が、二人の横顔を仄かに照らし出している。
紘一は、じっと華夜を見つめた後、ゆっくりと彼女の頬へと手を伸ばした。その手には、もう躊躇いも、己の血を呪うような恐怖もない。華夜もまた、身を硬くすることなく、ただ愛おしげにその手を見つめ、逃げることなく彼を受け入れた。
すっと指先が重なり、紘一の掌が華夜の滑らかな頬を包み込む。
ほんの少しの愛おしい沈黙の後、紘一の端正な唇が、小さく、ほどけるように弧を描いた。
「……ようやく、触れられる」
低くどこか掠れたその声音には、数百年の一族の呪縛を破り、ようやく最愛の女を手に入れた男の、心からの安堵と歓びが滲んでいた。その言葉に、華夜は少し照れくさそうな笑顔を浮かべながら、愛らしくはにかんだ。
「はい」
華夜は紘一の手に自身の小さな手を重ね、潤んだ瞳で彼を見つめ返す。
「ずっと、待っていました」
もう、世界が巻き戻ることはない。明日になれば、また当たり前のように彼の声を聴き、彼の温もりに触れることができる。
そよ風が行灯の火を静かに揺らした。壁に映し出された二人の影が、吸い寄せられるように、ゆっくりと一つに重なっていく。
長い、長い、死の円環の夜が明け、二人は今、本当の幸福の中にいた。
【END】
気まずい沈黙の中、華夜は膝の上で着物の袂をそっと握りしめ、静かに口を開いた。
「……あの花、紘一さんからだったのですね」
その言葉に、紘一の肩が跳ね上がった。彼はやはり華夜と視線を合わせようとはせず、ただ、気まずそうに、苦いものを噛み潰したような顔で視線を落とす。
「……そこから聞かれていたのか」
「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですけれど」
華夜は小さく微笑み、庭に咲く白木蓮の梢へと視線を巡らせた。
「なぜ、あの花だったのですか? 街の花屋には、もっとたくさん、見栄えのする綺麗な花があったでしょうに」
「なぜ、か……」
紘一は低く呟き、ひどくまごついた様子で、形の良い眉をひそめた。自らの行動の理由を、自分自身でもうまく咀嚼できていない──そんな戸惑いが、その琥珀色の瞳にありありと浮かんでいる。
「分からない。ただ、なんとなく……店先であれを見かけた時、他のどの花でもなく、あれでなければならないような気がしたんだ。お前には、あの黄色が一番似合うと……そう、思っただけで……」
言い訳のように紡がれた彼の言葉を、華夜は噛み締めるように聞いた。
(やっぱり……)
胸の奥が、温かい涙で満たされていくようだった。彼には、これまでの凄惨なループの記憶はない。華夜がどれほど血を流し、彼がどれほど無残に命を落としてきたか、その地獄を知っているのは華夜だけだ。けれど、死の円環を何度も積み重ねる中で、彼の魂の奥底には、消えない記憶の残滓が確かに刻まれている。世界がどれほど巻き戻ろうとも彼の本能が、華夜との絆を、あの鮮やかな黄色を覚えているのだ。
華夜はふっと、張り詰めていた心をほどくように、愛おしげに微笑んだ。
「……黄色いガーベラは、貴方が私に、初めてくれた贈り物なんです。貴方の記憶には、ないけれど」
紘一が、ハッとしたように華夜を見た。五日ぶりに、その琥珀色の瞳が正面から華夜を射抜く。
「俺が、お前に……?」
「ええ」
華夜は遠い日を愛おしむように、静かに語り始めた。
「初めて二人で街へ出かけた時、通りがかった花売りの少女から、貴方が買ってくださったのです。不器用で、ぶっきらぼうで……でも、とても優しく、私に差し出してくれた」
西日に照らされた華夜の横顔を見つめながら、紘一は一言も発さず、ただ静かにその言葉を喉の奥で聞き入っていた。
「生まれて初めて、人から頂いたお花でした。嬉しくて、嬉しくて……。だから、あの花は、私にとって何よりも大切な、貴方との絆なんです」
華夜の声は、夕暮れの静寂に溶けていくように優しかった。記憶はなくとも、確かに二人の間に存在していた愛の証明。それを突きつけられた紘一の瞳が、切なげに、そして深く揺れ動いていた。西日が二人の境界を曖昧に染め上げていく。
華夜は一拍置いて、ずっと胸の奥に燻っていた、けれど決して口にできなかった寂しさをぽつりと独白した。
「ここ数日、ずっと避けられていたから……私、貴方に嫌われてしまったのかと思っていました。とても、寂しかったです」
「……華夜」
「でも、先ほどの如月さんとの会話を聞いて、分かりました。貴方は私のことが嫌いになったわけじゃない。また、私を守ろうとしてくれているのだと」
華夜の言葉に、紘一は肺の空気をすべて吐き出すような、重い、長い沈黙を落とした。
庭園の白木蓮の葉が、夕風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てる。その音だけが響く静寂のなか、紘一はゆっくりと顔を覆い、それから、堰を切ったように昏い情念を絞り出した。
「……全部、俺のせいなのだと分かった」
その声は、かつてないほどにひび割れ、絶望に濡れていた。
「母の話を聞いて、ようやくすべてが繋がった。お前をそんな呪いに巻き込み、何度も地獄を見せていたのは……他でもない、俺自身の独り善がりな感情のせいだった。お前を庇って死んだのだって、美談でも何でもない。ただの自業自得だ。我が身に流れる血の呪いも知らず、お前を愛したいなどと血迷った、俺の大罪だ」
紘一は自らの掌を、まるで汚物でも見るかのような激しい嫌悪の眼差しで見つめた。
「御影の血は、人を不幸にする。誰かを慈しめば、その命を奪う引き金になる。俺のような男が、人を愛し、愛されたいと願った時点で、最初から間違っていたのだ」
彼は深く頭を垂れ、拳を白木にきつく押し付けた。
「だから……こんな呪われた家に、お前のような人間を嫁がせてしまって、本当にすまない」
夕闇が迫る縁側で、最強の退魔師であるはずの男が、一人の子供のように肩を震わせて懺悔していた。その姿は、華夜の胸を容赦なく締め付けた。
自らの血を呪い、愛することそのものを大罪だと切り捨てる彼の言葉が、縁側の冷え込んだ空気に消えていく。
そのすべてを聞き届けた華夜は、膝の上で握りしめていた拳を、さらに強く、指先が白くなるまで握りしめた。胸の奥からせり上がってくる熱い感情が、喉を、そして唇を小刻みに震わせる。
記憶のない彼に、これまでのすべてを、自分の本当の願いを告げられるのは、今しかなかった。
「……私は……」
華夜の声は、夕闇に溶けそうなほど幽かだった。
「私は——貴方に、触れて欲しかったんです」
紘一がハッとしたように、伏せていた顔を僅かに上げる。涙で潤んだ瞳を真っ直ぐに巡らせ、華夜は紘一の琥珀色の瞳を正面から射抜いた。
「呪いだとか、自業自得だとか、そんなことのために、私は貴方を追いかけてきたわけじゃありません。何度巡っても……貴方が冷たく私を突き放した時だって、私は、ただ……」
ぽろぽろと、堪えきれなくなった涙が藍色の着物の胸元へ溢れ落ちる。
「ただ、貴方に優しく名前を呼んで欲しかった。その大きな手で、もう一度頭を撫でて欲しかった……! 好きな人に避けられることが、こんなにも心が張り裂けそうに痛いなんて、私は知らなかったんです」
胸の内を丸ごと曝け出すような華夜の独白に、紘一は息を呑んだまま、言葉を失って固まった。
「たとえそれが死を招く呪文だったとしても、私は、あなたに愛されない世界なんて欲しくありません。だから……自分が間違っていただなんて、そんな悲しいこと、言わないでください……っ」
迫る夜の帳のなか、華夜の切痛な告白だけが、静まり返った縁側にどこまでも美しく、残酷に響き渡っていた。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を、華夜を着物の袖で拭うことすら忘れて、胸の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すように言葉を重ねた。
「怖かった……」
その一言は、これまで華夜がたった一人で背負い続けてきた、孤独な戦いの凄惨さを物語っていた。
「何度も何度も、貴方が目の前で冷たくなっていくのを見たから……。もう二度と、貴方の声を聴けなくなるんじゃないかって、世界が巻き戻るたびに、本当は怖くて堪らなかった……!」
思い出すだけで、身体が内側から凍りつきそうになる。けれど、華夜は逃げなかった。紘一の琥珀色の瞳を、涙の膜の向こうから真っ直ぐに見つめ、強く、強く訴えかける。
「でも、それでも……貴方が私に触れてくれた時だけ、私は、自分が独りじゃないと思えたの。あの地獄のような暗闇の中で、あなたがくれた温もりだけが、私を生かしてくれたんです」
紘一の身体が、目に見えて大きく動揺した。心を殺すことでしか華夜を守れないと信じ込んでいた彼の覚悟が、華夜の剥き出しの本音によって激しく揺さぶられる。
「……そんなはずがない」
紘一は縋るように、あるいは自らを戒めるように声を絞り出した。その瞳には、恐怖と困惑が入り混じっている。
「俺は呪われた化物の血脈だぞ……? お前を殺す引き金でしかない俺に触れられて、嬉しいなどと……そんなこと、あるはずがない……っ」
拒絶ではなく、ただひたすらに己の血を恐れ、華夜を想うがゆえに臆病になっている男。その頑なな絶望を打ち砕くように──華夜は、初めて自らその手を伸ばした。
畳の上に置かれた、紘一の大きく分厚い手。華夜は震える自分の手をその冷え切った彼の指先へ、そっと自らの掌を重ねた。
肌と肌が触れ合う微かな熱に、紘一は息を呑んで硬直した。全身の血が逆流したかのように見開かれた彼の瞳が、重ねられた華夜の小さな手へと注がれる。
──何も、起こらない。
御影の血を継ぐ者が触れることで発動する呪いは、華夜からの接触には牙を剥かなかった。
「冷たい……」
華夜は手を引かなかった。むしろ、彼の大きな手の甲を包み込むように、きゅっと力を込める。
「ほら……私は、死にません。あなたの手を、こんなにも温かいと感じています。だからもう、そんな風に自分を突き放さないでください」
初めて華夜から触れられたその温もりに、紘一の瞳から、冷徹な仮面が音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。重ねられた華夜の手から、生々しいほどの熱が、紘一の冷え切った身体へと流れ込んでいく。
自分の血を呪い、心を殺し、ただの道具になろうと決めたはずだった。けれど、目の前で涙を流しながら『自分に触れて欲しかった』と乞う少女を前にして、紘一の胸の奥に閉じ込めていた鉄の檻が、内側から大きな音を立てて壊されていった。
華夜を失いたくない。この温もりを、他の誰にも渡したくない。──この人を愛し、この人に愛されたい。
一度決壊した感情は、濁流となって彼の理性を飲み込んでいく。けれど、その強烈な愛しさが膨れ上がると同時に、静江の狂った微笑みが、日記に血で書き殴られた懺悔が、脳裏で悍ましく明滅した。
もしこれで、華夜を失ったら?
愛すれば愛するほど、引き寄せる絶望は深く、容赦のないものになる。愛しさと、それを信じ切れない絶対的な恐怖。二つの巨大な感情の狭間で、紘一の魂は引き裂かれそうに激しく揺れ動いていた。
しかし、目の前で泣きじゃくる華夜の涙が、彼の最後の理性を融かしてしまう。
「華夜……っ」
紘一は耐えかねたように、震える両手を伸ばした。その大きな指先が、一度だけ宙で躊躇うように止まる。それでも彼は、堪えきれない衝動に突き動かされるように、華夜の頬へ触れた。
もう、呪いなどという目に見えない鎖で、この愛おしさを縛り付けておくことなどできなかった。
彼は大きな掌で華夜の涙に濡れた頬を包み込むと、そのまま強く引き寄せるようにして、互いの額をきつく押し当てた。
あまりの近さに、互いの熱い吐息が、睫毛の触れ合う気配が、ダイレクトに肌を打つ。紘一の身体は、華夜を壊してしまいそうなほど激しく、小刻みに震えていた。その刹那。
──ドクン……ッ!!!
これまでの中で一番大きな拍動が、二人の鼓膜を直接打ち鳴らした。
「あ……っ、」
世界から一切の音が消え去り、キィィィンと脳髄を穿つような鋭い耳鳴りが、二人の間に狂ったように駆け巡る。
夕日に照らされていた美しい庭園の影が、意思を持ったようにぐにゃりと歪み、爆発的に濃くなっていく。足元の畳から、ねっとりとした生温かい死の気配が、黒い這虫のように這い上がってきた。
紘一が華夜を“愛したい“と心から願って触れ返した、その明確な意志への対価。
二人の繋がった肌を通して、御影の血脈に刻まれた最悪の呪いが、目を覚ましたのだ。
これまでの幾度も華夜の命を奪ってきた、あの底知れない漆黒の恐怖が、かつてない密度と明確な敵意を孕んで、二人の眼前に具現化しようとしていた。
「来る……! 呪いです、紘一さん……っ!」
血の気が引いた顔で叫ぶ華夜の細い肩を、紘一は即座に突き放すように強く押し返した。彼の琥珀色の瞳には、恐怖で狂わんばかりの光が宿っている。
「華夜、下がれ! 早くその手を離して逃げろ!」
だが、華夜は畳を蹴って踏み止まった。弾かれたはずの手を伸ばし、今度は紘一の濃紺の羽織の袖を、爪が白くなるほどきつく、きつく掴み直す。
「いいえ。私はもう、逃げません!」
その瞬間、二人が並んで腰掛けていた縁側の空間が、バリバリとガラスが割れるような異音を立てて歪んだ。
これまでの襲撃は、ただ一方的に華夜と紘一を死へと引きずり込む“災厄“だった。しかし、今回は違う。この這い寄る混沌は──明確な意思を持って、二人を引き離そうとしていた。
『──触レルナ』
『──離レヨ』
『──交ワルコト、決シテ許サヌ』
キィンと鼓膜を穿つ耳鳴りの奥から、地鳴りのような地獄の合唱が響き渡る。
かつて、御影の血脈に消えない呪いを呪詛した妖魔の怨嗟か。あるいは愛に狂い、愛に絶望して死んでいった歴代の御影の先祖たちの呪縛か。無数の霊魂の叫びが重なり合い、空間をびりびりと震わせる。
紘一の足元から噴き出した煤けた黒泥が、意思を持つ大蛇のようにぐにゃりと鎌首をもたげた。狙いを定めた獣のように、繋ぎ合う二人の手の隙間へと、強引に割り込んでいく。
冷酷に二人の肌を引き剥がそうとする漆黒の奔流が、空間そのものを真っ二つに裂く。華夜の身体を紘一から遠ざけようとするように、凄まじい暴風が吹き荒れた。
「華夜! 手を離せ!」
裂ける空間の向こうで、紘一が絶叫する。黒泥に視界を遮られ、彼の姿が闇に溶けていきそうになる。
息が詰まるほどの死の圧迫感。今すぐにこの手を離して逃げ出さなければ、魂ごと噛み砕かれるという本能の警告。
けれど、華夜は首を激しく横に振った。溢れ出る涙を夕風に浴びせながら、喉がちぎれんばかりの声で叫び返す。
「嫌です……っ嫌です、紘一さん! 今度こそ、貴方を一人にしません!」
嵐のような呪詛のなかで、華夜の瞳には、かつてない強固な意志の炎が灯っていた。
守られるだけの、無力な少女はもういない。死ぬのが怖くて、彼の背中に隠れて怯えていた日々は、もう終わった。ただ彼と生きたい。孤独な暗闇の檻に囚われたこの人を、今度こそ自分の手で救い出す。
それは、五度の輪廻を経て、華夜が初めて“守られる側“を捨て、退魔師の当主である紘一と対等に並び立つ“一人の人間“として、運命に抗う戦いを選択した瞬間だった。
『──離レヨ、離レヨ、離レヨ』
吹き荒れる漆黒の奔流は、なおも二人を冷酷に引き裂こうと猛り狂う。死の圧迫感に華夜の身体はガタガタと震え、骨がきしむほどの斥力がその指先にかかっていた。
けれど、華夜は決して、紘一の羽織を掴む手を離さなかった。その執念とも言える強固な拒絶に、二人の間に割り込もうとしていた黒い塊が一瞬、戸惑うようにその動きを止めた。その直後、蠢く闇の底から、亡者達の困惑に満ちた声が、幾重にも重なって溢れ出す。
『何故、離レナイ』
『何故、逃ゲナイ』
『何故、触レラレル』
それは数百年もの間、恐怖と絶望によって御影の男たちを支配してきた呪い側にとって、決して“理解できない”光景だった。愛すれば拒絶され、愛されれば死が訪れる。その恐怖の法則を無視して、なおもその手を強く握り返してくる、たった一人の無力な少女。
『愛サレルハズガナイ』
『触レバ拒マレル』
『奪ワレル前ニ、奪エ』
嵐の真ん中で、華夜は涙に濡れた顔を上げ、眼前の闇に向かって、そしてその向こうにいる紘一に向かって、きっぱりと言い放った。
「触れられるのなんて、私は怖くない……! 貴方を失うよりも怖いものなんて、何もないの!」
その叫びは、数多の死を越えてようやく辿り着いた、華夜の本当の真実だった。
「もう絶対に、逃げません。この先何百回、何千回、この呪いに殺されることがあったって……私は何度だって、生まれ変わってあなたを選びます! あなたに愛されることが、私は堪らなく嬉しい。あなたを愛することができる自分が、本当に幸せなのです。──私は、紘一さん、あなたを心から愛しています!」
死の恐怖も呪いの悍ましさも、そのすべてを丸ごと抱きしめて、華夜は紘一への愛を、自らの幸福を、真っ直ぐに肯定した。
その瞬間、世界を覆っていた昏い怨嗟の声がぴしりと、凍りつくように静まった。
呪いが拠り所にしていた愛への恐怖と絶望が、華夜の絶対的な肯定によって、その存在意義を根底から覆されたのだ。
「華夜……」
黒泥の隙間から、紘一の顔が見えた。彼の琥珀色の瞳からは、先ほどまで彼を縛り付けていた臆病な怯えが、完全に消え去っていた。
「……俺もだ。お前を、愛している」
何ひとつ偽りのない、魂からの告白だった。紘一は初めて、呪いへの恐怖を一切抱くことなく、ただ目の前の愛おしい少女だけを見つめて、安心してその手を華夜へと伸ばした。
二人の手が黒い奔流を突き破って、今度こそ固く、強く結ばれる。
──パリン!!!
その瞬間、ガラスが粉々に砕け散るような、鮮烈な音が響き渡った。二人を引き裂こうと猛り狂っていた漆黒の塊が、その結合に耐えかねたように内側からひび割れ、目映い光の粒子となって爆散していく。
『アア、ナンテ温カイ』
『ソウカ、愛シテ、ヨカッタノダ』
崩壊していく闇の彼方から、諦念ではない、どこか救われたような、歴代の先祖たちの静かな吐息が聞こえた気がした。吹き荒れていた不浄な風が止み、耳鳴りが嘘のように遠ざかっていく。爆散した漆黒の光粒子が夜の帳へと溶けて消えてゆき、それと同時に、地平線の彼方から淡い白磁の光が空を染め始めていた。新しい夜明けの光芒だった。
何かが終わった。
けれど、あまりに一瞬の出来事に、華夜も紘一も言葉を失ったまま、ただ縁側に立ち尽くしていた。
ただ一つ、これまでの地獄と決定的に違っていたのは──これまで幾度も紘一の身体を貫いてきた呪いが発現したにもかかわらず、誰も血を流さず、誰も死んでいないという事実だけだった。
「……っ、」
華夜は自身の胸に手を当て、生きた心臓が刻む確かな鼓動を確かめる。そして恐る恐る、まだ硬直したままの紘一の身体へと指先を伸ばした。
そっと、その大きな肩に触れる。
「……消え、た……?」
かすれた声が、朝の澄んだ空気に溶けていく。どれだけ耳をすませても、つんざくような耳鳴りも、心臓を激しく打ち付けるような鼓動の音も聞こえなかった。
──何も、起きない。
その事実がじわじわと、華夜の身体を内側から激しく震わせる。五度の円環を彷徨い続け、ようやく掴み取った、死のない世界だった。
「華夜……」
紘一が、信じられないものを見るかのように、その琥珀色の瞳を大きく揺らした。
彼はまだどこか怯えるように、それでも確かめるように、ゆっくりと大きな手を伸ばし、華夜の涙に濡れた頬へと、そっと触れた。
皮一枚を隔てて、互いの体温が直接流れ込んでくる。
「ああ……ああ、本当に……」
その瞬間、紘一の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ちた。最強の退魔師として心を殺して生きようとしていた男が、初めて感情を剥き出しにして、子供のように泣いていた。
「華夜……っ!」
紘一は華夜を壊してしまいそうなほど強く、その大きな腕で抱きしめた。
「……! 紘一さん……っ、」
引き寄せられた胸の中で、華夜は初めて、紘一の肌の温もりを、その心音を、全身で感じていた。
こんな風に、ただ彼の温もりに包まれて、安心して涙を流せる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
華夜もまた、彼の背中に腕を回し、精一杯の力で抱きしめ返した。
終わったのだ。
たった一人で暗闇を這いずり、何度も愛する人の死体を見届けてきた、あの孤独で凄惨な戦いが今度こそ、本当に終わった。
白み始めた朝日の光が、縁側で固く抱き合う二人を優しく包み込んでいく。流れる涙は止まらなかったけれど、その胸を満たしていたのは、かつてないほどの確かな幸福と、夜明けの温もりだった。
夜明けの劇的な出来事から数時間後。御影の屋敷には、いつもと変わらぬ穏やかな朝食の時間が流れた。けれど、供された膳を下げるため、部屋に現れた如月は、二人の間に漂う“決定的な変化”を瞬時に感じ取ったようだった。
「如月。──母に、会わせてくれ」
紘一の静かな申し出に、如月は一瞬だけ切れ上がった目を微かに見開いた。紘一はただ静かに、けれど揺るぎない眼差しで如月を見つめていた。如月の脳裏に、いつかの朝に感じた鍵の違和感が蘇る。昨夜まであれほど張り詰めていた屋敷の結界が心地よく弛緩され、そして何より、今の二人の纏う清廉な空気に、すべてを察した如月は、深く、深く一礼した。
「鍵を、持ってまいります」
その一言だけを置くと、余計な詮索を一切することなく、如月は使用人室へと下がっていった。
三人は、かつて華夜が迷い込み、紘一が一人で潜入した、あの鬱蒼とした森の奥へと足を進めた。
辿り着いた奥屋敷の前に立ち、如月が懐から重々しい真鍮の鍵を取り出す。錠前が外され、長年、誰の立ち入りも拒んできた重い木製の扉が、低い音を立てて左右に開かれた。
刹那、長年閉ざされていた薄暗い空間へと、うららかな朝の光が真っ直ぐに差し込んでいく。
「あ……」
部屋の奥、昏い影の中に佇んでいた大奥様──静江が、眩しそうに細い目を細めた。
差し込んできた光の帯を見つめ、彼女は幽かな、掠れた声で呟く。
「また……この陽を、見ることができる日が来るとは……」
「大奥様。あの……」
華夜が、一歩前へ出て静江に話しかけた。
その言葉の続きを紡ぐ前に、静江は優しく首を振り、すべてを包み込むような静かな笑みを浮かべた。
「解かれたのですね」
「!……はい」
「そう。よくここまで……」
多くを語らず、それだけを呟いた母は、白磁のようなその頬に、一筋の涙を静かに滑らせた。
一族を狂わせ自分を縛り続けてきた忌々しい呪いが、目の前の若い二人によって完全に打ち砕かれたのだと、その身に流れる退魔の血が確かに教えていた。
「如月。今まで本当に、本当にありがとう。貴方が世話をしてくれなければ、私はとっくにここには居なかったでしょうね」
「お嬢様……申し訳ございません。こんなにも、長く……本当に、申し訳、ございませんっ……!」
「良いのです。貴方だけはずっと、私のことを信じてくれていた。親族も、他の使用人達も、誰も信じてくれなかった私の話を……それだけで、私は今日まで生きる希望を繋いで来られたのですから」
静江の言葉に、如月が涙ぐみながら何度も何度も頭を下げ続けていた。
(そっか……如月さんもまた、大奥様を守り続けていたのね……)
一族から罵倒され幽閉された女を、使用人という立場でたった一人、信じて守り続けていた如月もまた、孤独に戦ってきたのだろう。そんな彼女に思いを馳せ、華夜は胸の奥がじわりと染みるのを感じていた。
「紘一」
如月に目を向けていた静江が、今度は息子の名を呼んだ。
紘一がハッとして身を硬くする。静江はゆっくりと車椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りで、愛おしい我が子へと近づいていった。そして、震える白い手を伸ばし、紘一の少し高い頬へと、恐る恐る触れた。
「っ……、」
紘一の全身が、彫像のように完全に固まった。思えば生まれてから今まで、親に優しく触れられた記憶など一度もなかったのだ。母の温もりがどれほど温かいものか、彼は今の今まで知らなかった。
けれど頬を包み込む母の手は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。
静江は、愛おしげに紘一の頬を撫でながら、溢れる涙を隠そうともせずに微笑んだ。
「ごめんね……。ずっと、貴方を一人にしてしまった。お母さんを、許してね……。でも、もう大丈夫ね。本当に……本当に立派になったわね、紘一」
「母、上……」
紘一の口から、掠れた、子供のような声が漏れる。長年奥屋敷に幽閉されていた母と、孤独の檻に自らを閉じ込めていた息子。二人の時間を隔てていた透明な壁が、母の涙とともに静かに融けていく。
華夜はその様子を、胸がいっぱいになりながら見つめていた。振り返れば、扉の脇に控えていた如月もまた、目元を和らげ、静かに頭を垂れている。
差し込む朝日は、呪われた御影の過去をすべて洗い流すように、ただ優しく、家族の真の再生を照らし出していた。
陰惨な死の輪廻の終わりを告げるように、御影の屋敷には、どこか優しい変化が次々と訪れていた。
まず変わったのは、屋敷を包む空気そのものだった。かつての、肌を刺すような冷たい静寂は消え失せ、今では日だまりのような柔らかい温かさが満ちている。
主の変貌や、大奥様が時折陽の当たる場所に姿を見せるようになったからだろうか。いつも張り詰めた顔をしていた使用人たちの間には、自然な笑顔や和やかな雑談が増えていた。それはあの如月も例外ではなく、完璧な仕事ぶりはそのままに、華夜に茶を差し出す手元や物腰には、どこか穏やかな春風のような余裕が滲むようになっている。
そして何より、屋敷のあちこちに、あの黄色いガーベラをはじめとした色鮮やかな季節の花々が、ごく当たり前のように飾られるようになっていたのだ。
そんな中、紘一と華夜はというと──。
廊下ですれ違う瞬間に、どちらからともなくそっと手を繋ぎ。庭を歩けば、紘一が華夜の髪に触れ、風に乱れた一房を優しく耳にかけ直し。ふざけ合っては、互いの額をこつんと合わせて笑った。
今までどれほど望んでも絶対にできなかった、愛する人と触れ合う喜びを噛み締めるように、二人は時間を重ねていた。
そんなある日の、麗らかな午後のこと。二人は庭に面した縁側に腰掛け、如月が淹れてくれたお茶を飲みながら、他愛のないお喋りに興じていた。
「紘一さんはそんな子供っぽい悪戯をされていたのですね。如月さんから伺いましたよ」
「あいつは余計なことを。もう何年も前の話だ」
紘一がバツの悪そうな顔をしてそっぽを向くと、華夜は可笑しそうに「ふふっ」と声を立てて笑った。陽光を浴びて、華夜の頬が林檎のように愛らしく染まっている。その笑顔を愛おしげに見つめていた紘一は、吸い寄せられるように大きな手を伸ばし、そっと、華夜の柔らかな頬へと指先を滑らせた。
「……っ」
その瞬間、華夜の身体が、一瞬だけびくっと小さく跳ね上がった。“触れられたら死ぬ“という恐怖の条件反射は、呪いが消え去った今でも、無意識のうちに華夜の身体を強張らせてしまう。
華夜の様子に、紘一の手が触れたままぴたりと止まった。
そして訪れた一瞬の静寂の後──二人は、どちらからともなく顔を見合わせていた。
「……本当に、大丈夫なのだな」
紘一が、自嘲気味に、けれど深く安堵したように眉を下げて呟く。華夜は強張らせていた肩の力をそっと抜くと、彼の大きな掌に自分の手を重ね、この上なく幸せそうに、穏やかに微笑んだ。
秋の陽の柔らかな光のなか、二人の弾んだ笑い声が、紅葉に彩られた庭園へと優しく溶けていった。
***
昼間の喧騒から一転し、夜の御影の屋敷は静寂に包まれていた。
しんと静まり返った華夜の部屋には、閉ざされた障子の隙間から冷たい夜風が忍び込み、部屋の片隅に飾られた四輪の黄色いガーベラをそっと揺らしている。
その部屋の中で、紘一と華夜は二人きり、静かに向かい合っていた。行灯の柔らかな光が、二人の横顔を仄かに照らし出している。
紘一は、じっと華夜を見つめた後、ゆっくりと彼女の頬へと手を伸ばした。その手には、もう躊躇いも、己の血を呪うような恐怖もない。華夜もまた、身を硬くすることなく、ただ愛おしげにその手を見つめ、逃げることなく彼を受け入れた。
すっと指先が重なり、紘一の掌が華夜の滑らかな頬を包み込む。
ほんの少しの愛おしい沈黙の後、紘一の端正な唇が、小さく、ほどけるように弧を描いた。
「……ようやく、触れられる」
低くどこか掠れたその声音には、数百年の一族の呪縛を破り、ようやく最愛の女を手に入れた男の、心からの安堵と歓びが滲んでいた。その言葉に、華夜は少し照れくさそうな笑顔を浮かべながら、愛らしくはにかんだ。
「はい」
華夜は紘一の手に自身の小さな手を重ね、潤んだ瞳で彼を見つめ返す。
「ずっと、待っていました」
もう、世界が巻き戻ることはない。明日になれば、また当たり前のように彼の声を聴き、彼の温もりに触れることができる。
そよ風が行灯の火を静かに揺らした。壁に映し出された二人の影が、吸い寄せられるように、ゆっくりと一つに重なっていく。
長い、長い、死の円環の夜が明け、二人は今、本当の幸福の中にいた。
【END】
