円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

  ***

「如月さん、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でございましょう、奥様」
 それは、穏やかな陽だまりが差し込む午後の縁側でのこと。甘味と共に淹れたばかりの玉露を差し出してきた如月に、華夜は裁縫の手を休めることなく声をかけた。
「如月さん。紘一さんのご両親について、色々教えていただけませんか。御影の家に入ったものとして、少しでもこの家のことを知っておきたくて」
 華夜が最後まで言い切るのを遮るように、茶托がかちゃりと大きな音を立てた。茶器を片付けていた如月の動きがほんの一瞬、けれどはっきりと強張ったのを見た。だが華夜は、それに気づかぬふりをして、如月に穏やかに微笑みながら会話を続ける。
「確か、御影の血を引いていらっしゃるのは、先代様ではなくて大奥様の方だったのですよね?」
「……左様でございます」
 如月は小さく息を吐くと、遠い日を懐かしむように目を細めたまま、静かに語り始めた。
「大奥様は、御影の正統たる極めて優秀な退魔師であらせられました。先代の旦那様は、大奥様と結ばれてこの家に婿養子として入られたのです。それは、本当に仲睦まじいご夫婦でございましたよ。ですが、紘一様が三歳の頃、先代様は不慮の事故で急逝され……。大奥様はそれ以来、お心を閉ざして精神を病まれ、体調を崩しがちになられました。今は屋敷の奥深く、西の離れにて療養生活を続けておられます。人前に出られるようなお身体ではないので、大奥様の方から、旦那様とはお顔を合わせられないと仰せつかっております」
「……そうなのですね。それは、お気の毒に……」
 華夜は痛ましげに眉を顰め、如月にそれ以上追及することなく話を終えた。しかしその胸の奥には、小さな違和感の棘が刺さったまま、いつまでも残り続けていた。一瞬でも動きを止めるほどの動揺を見せた直後に、あそこまで何事もなかったように流暢に話すことができるものだろうか。如月の語り口調は、まるで長年言い聞かされてきた作り話をそっくりそのままなぞったような無機質さが漂っていたのだ。
 
  ***
 
 華夜の話にじっと耳を傾けていた紘一の顔が、行灯の火影の中で厳しく歪んでいく。
「やはり、表向きはそうなっているのだな。以前俺も自分の両親について使用人達に訊ねた時も、同じような内容を聞かされた。如月でさえそう信じ込まされているか、あるいはそれ以外の発言を禁じられているのか」
 紘一は、地下の忌み蔵の奥から持ち出してきた、一冊の古びた日記を畳の上へと静かに広げた。墨がひどく滲み、ページ全体が涙の跡で波打っている。それは、紘一の母親が遺した日記だった。
「俺が蔵の最奥で見つけた、母の手記だ。……読んでみてくれ」
 紘一に促され、華夜は息を詰めて、掠れた墨文字を目で追った。
『──ああ、許してください。私が悪かったのです。
 御影の教育を忘れ、ただの母親でありたいと願ってしまった、私のあの浅ましさが全てを狂わせた。
 あの子の涙を拭おうとした。ただ、それだけだったのに。
 どうしてあの時、世界はあんなにも冷たく鳴り響いたのでしょう。
 どうして私の愛は、夫をあんなにも無残に引き裂く毒へと変わってしまったのでしょう。
 私が殺した。私の愚かな心が、あの人を地獄へ突き落とした。
 なのに親族どもは、私が“女の身で当主になれぬ腹いせに婿養子を呪い殺した“と詰め寄る。
 誰も信じてくれない。私があの子を愛してしまったから、あの人は死んだのだと、誰が信じてくれるというのか。
 西の奥屋敷の格子窓から見える空は、あまりにも狭く、昏い──』
 殴り書きされた懺悔の言葉は、そこで完全に途絶えていた。
「これ、は……」
 華夜は日記から視線を上げ、紘一を見つめた。心臓が嫌な音を立てて拍動を早めていく。
(おかしいわ。如月は、先代様は“不慮の事故“で亡くなったと言っていた。でも、大奥様の日記には……まるで、ご自分が手を下したかのように綴られている)
 “不慮の事故“という言葉では到底片付けられない生々しい絶望が、その日記の中には広がっていた。『私があの子を愛してしまったから、あの人は死んだ』という、あまりにも奇妙な一文に、何か自分達の知らない大きな謎が隠されているように思えてならなかった。
「使用人達から聞かされている内容と、母の遺した言葉の辻褄が、どうしても合わない。それに、親族が母に浴びせたという言葉の醜悪さも——」
 紘一の琥珀色の瞳が、行灯の光を反射して鋭く明滅する。
「母は病で療養しているのではない。何かに怯え、何かを隠すように……あの西の離れに『幽閉』されているんだ」
(大奥様の日記にある“世界が冷たく鳴り響いた”という記述。これ、私が妖魔の襲撃の直前に聞いた、あの耳鳴りと同じものだとしたら——)
 愛を避ける文化に、身体に触れてはならない教育。そして、術を暴走させないためなどという欺瞞の裏に隠された、歪められて語り継がれている過去。それらの全てが、得体の知れない恐ろしい真実へと収束していくのを感じ、華夜は思わず身震いをした。
「お前の経験した呪いとやらはやはり、外部の人間が仕掛けたものではないのかも知れん」
 紘一の低く尖った声が、静まり返った密室に響く。
「それはつまり、御影家の内部のどこかに、何らかの呪いが組み込まれている……ということ、なのでしょうか」
 華夜の言葉を聞いていた紘一は何も言わずに、ただ静かに自身の分厚い掌を見つめていた。その横顔は、己の血に流れる宿命の重さに耐えるように、どこまでも痛々しく、険しかった。
「母に会おう」
「え……大奥様に、ですか? しかしそれは——」
 彼がそう決意したものの、それは御影の屋敷において、最大の一線を越えることを意味していた。調査を進める中で、二人は屋敷全体が“西の奥屋敷“を腫れ物のように、あるいは不可侵の聖域のように隔離している事実に直面していたからだ。
 日中、華夜がそれとなく離れの庭の方へ歩みを進めようとすれば、どこからともなく如月が現れ、
「奥様、そちらは日当たりも悪く、不吉な妖気が溜まりやすい場所にございます。さあ、本棟へ戻りましょう」
 と、能面のような笑みを貼り付け、やんわりと行く手を阻まれた事があった。
 そしてそれは、この家の主であるはずの紘一に対しても同様だった。彼が母の療養先を直に訪ねようとした際、古参の重臣たちは色をなして紘一の前に立ち塞がったのだ。
「旦那様、大奥様は重い精神の病を患っておいでです。現在の当主殿の強い呪力と、大奥様の乱れた霊力が万が一にも干渉し合えば、屋敷の結界が崩壊しかねませぬ。断じて、近づいてはなりませぬ!」
 怒号に近いその拒絶には、単なる看病への配慮ではない、何か決定的な不都合を隠そうとする異様な必死さが張り付いていた。
(私たちをどうしても大奥様に会わせたくない理由があるということ? 一体この家には、何が隠されているの?)
 だからこそ、潜入は慎重に計画を進めなければならなかった。
 華夜と紘一は数日間、使用人たちの動きを綿密に観察した。重病人の食事や薬を運ぶため、如月たちが定期的に奥屋敷へと出入りする時間帯──そして、それ以外の警備の手が最も薄くなる、深夜。そのわずかな隙を狙い、二人はついに、静まり返った闇の中へと足を踏み出した。
 
 廊下の古びた置き時計が、午前二時を示していた。月が薄い雲に隠れ、屋敷全体が深い闇に包まれている。華夜は寝衣のうえに、音の立たない濃紺の羽織を纏い、息を潜めて部屋を出た。廊下は昼間の厳格な佇まいが嘘のように、死んだような静寂に支配されている。闇に沈んだ木肌の床は冷たく、一歩進むたびに心臓の音が耳元で大きく跳ねた。
 あらかじめ約束していた場所で待っていた紘一と合流し、二人は音もなく西の離れへと続く渡り廊下を進んだ。本棟から離れるにつれて、肌に触れる空気の質が目に見えて変わっていくのが分かった。粘つくような重く冷たい湿気と、耳の奥が痛むような圧迫感を伴う静けさが全身を突き刺し、全身の肌が粟立っていた。
「ここから先が、奥屋敷の結界だ」
 紘一が声を極限まで落として呟いた。その直後、彼の節張った長い指先が、何もない空間にそっと触れる。
 彼があらかじめ術式に細工を施し、一時的に“御影の当主“の権限で揺らぎを抑え込んだ結界の隙間を、二人は滑り込むようにして通り抜けた。
 広大な敷地の西側に広がる庭園の最奥——そこにひっそりと佇む寂れた屋敷の周辺には、陽の光を吸い尽くして腐った落葉の、鼻を突くような悪臭が立ち籠めている。美しい庭園の風景から独立しているかのように、この結界の中では虫の声も風の音も途絶えていた。湿った土と古い木材の、死臭にも似た澱んだ匂いが、ここがただの療養所ではないことを物語っていた。
「華夜、大丈夫か」
「はい。行きましょう、紘一さん」
 紘一の琥珀色の瞳に、強い覚悟の光が宿る。華夜は小さく頷き、彼の背中に続いた。
 格子窓の奥で、誰も近づくことを許されなかった“呪いの女“が眠る部屋の扉へと、二人はゆっくりと手をかけた。
 重い木扉がギィ……と嫌な音を立てて開く。その闇の奥から這い出すようにして漂ってきたのは、いつか真っ暗な曇天の中で嗅いだ、生々しい鉄と黴の匂いだ。
 ひやりと骨まで凍るような冷気が、二人の肌に纏わりつく。深い夜の中、行灯ひとつ灯されていない室内には、濃密な墨を流し込んだような完全な闇が広がっていた。だが、その網膜の裏が爆ぜるような深淵の奥に、不気味なほど生気の感じられない“何か“が鎮座していた。華夜は何も見えない暗闇の中で、気配だけを感じるその存在に必死に目を凝らしていた。その時、雲の切れ間から顔を出した月の光が、屋敷の格子窓から入り込んだ。格子窓の隙間を縫って微かな月光に照らされたその姿に、華夜はハッと息を呑む。
 そこに居たのは紘一の母——御影静江、その人だった。
 彼女は、息子に寄り添う濃紺の羽織姿の華夜を一瞥した。闇に慣れた華夜の視界に、静江の細い目が異様に大きく見開かれるのが映る。それは驚きというよりは、避けては通れぬ“最悪の刻“が、ついに来てしまったことを悟ったかのような、底知れない諦念の光だった。
「母上……」
 紘一が声を絞り出す。その声音が、部屋の湿った空気に吸い込まれて響かない。
 彼が切り出すより早く、静江はカサカサと乾いた、まるで枯れ葉が擦れ合うような声でそれを遮った。
「あぁ……紘一。貴方が、紘一なのですね。こんなにも大きくなって……。ではそちらが、紘一の……」
「は、はい。華夜と申します。大奥様、このような時間にお訪ねしてしまい、大変申し訳ございません」
 華夜が頭を下げると、部屋の奥から微かに、古い血と、長い間開けられることのなかった柩のような、饐えた臭いが漂ってきた。
「私も退魔師の端くれ……貴方たちがその表情と気を纏って二人揃ってここを訪れた、その意味は分かっています。……この家に流れる、呪われた血の、本当の姿を知りに来たのでしょう」
「! ではやはり母上は、何か知っておられるのですか」
「これから話す内容は、どんな古い文献にも載っておりません。御影の血を継ぐ者たちの間だけで、口頭のみで伝承されてきた話なのです。……本当は貴方が成人するまでに、私が貴方に直接語り継がねばならなかった事なのです。それが叶わなかったがために、貴方達は今まさに、それに苦しめられているのですね」
 静江はすくりと立ち上がると、壁際に据えられた古ぼけた厨子へと触れた。そこには、御影の家系図からすら存在を消され、赤黒い錆に塗れた一振りの折れた太刀が祀られていた。
「かつて……妖魔が跋扈し、この国が泥濘のような絶望に沈んでいた時代のことです。世界を喰らい尽くさんとする魔を討ち、人々の平穏を願った一人の男がいました。我が御影の始祖です」
 静江の語る声は、地を這うように低く、冷ややかだった。無音の部屋に、その声だけが質量を持って華夜の鼓膜を圧迫する。
「男は己の無力を嘆き、最強の力を求めて、ある強大な妖魔の元へ向かいました。空間を裂き、魂を売ってでも力が欲しいと乞うたのです。妖魔は男を嘲笑い、こう告げました。『お前に、妖魔を屠る唯一無二の異能を授けよう。だが、タダでは渡さぬ。お前の、最も大切な者を差し出せ。それが、人間が魔の力を振るうための代償だ』……と」
 華夜の背筋に、氷水を一気に流し込まれたような激しい戦慄が走った。大切な者を差し出す。そのあまりにも残酷な交換条件を、始祖は呑んだのだ。救国の英雄の誕生は、最悪の生贄の上に成り立っていた。
「男は頷き、契約は成されました。手に入れた異能は凄まじく、男は次々と妖魔を蹂躙し、国には瞬く間に平和が戻りました。やがて、救国の英雄となった男に一つの縁談が持ち込まります。相手の名は『京子』。美しく、高貴な娘でした」
 静江の濁った瞳が、闇の中で一瞬だけ、血を流すように哀しげに揺れた。
「男は彼女に一目惚れし、二人は睦まじく夫婦の契りを交わしました。……けれど、悲劇はその初夜に訪れたのです。枕元に突如として現れた、あの不気味な『影』が……。愛を誓い合ったばかりの京子の身体を、無慈悲に、背後から引き裂いた……」
「それが……呪いの始まり、というわけですか」
 紘一の声が苦々しく響く。隣に立つ彼の身体が、怒りと戦慄で僅かに震えているのが分かった。静江は深く、首を縦に振った。
「妖魔が求めた『最も大切な者』とは、特定の誰かではありませんでした。『御影の男が、生涯で最も愛する女』……それこそが、永遠に捧げられ続ける供物だったのです。それ以来、御影に嫁いだ者たちは、愛なき結婚生活を強いられることとなりました」
 静江は、華夜の魂の奥底まで射抜くような鋭い視線で、言葉を継いだ。
「誰かに愛されれば、死ぬ。誰かを愛せば、その命を奪う引き金になる。だからこそ、代々の当主は妻を道具として扱い、冷遇し、心を殺して接してきたのです。そうすることでしか、妻の命を繋ぎ止める術はなかった。私の夫となった男も、私に愛などなかったのかも知れません。私も夫に情はあれど、愛を感じたことはありませんでした。ですがあの時……私は、転んで血を流し泣きじゃくる貴方を、『守りたい』と……触れてしまったのです」
「母上が、俺に……」
「その瞬間、私の影から闇の手が伸びてきて、貴方へと真っ直ぐ刃を向けるのを見ました。夫は私に愛情のない人間でしたが、彼もまた、貴方に愛はあったのでしょう。貴方に迫り来る闇の手から、咄嗟に貴方を庇ったのです。夫はそのまま刃に身体を貫かれ、血を噴き出して絶命しました。その貫かれた裂傷が、私の持つ妖刀の形に似ていたからでしょう、親戚も使用人も皆、私が夫を殺したのだと罵倒しました。それ以来私は、この幾重にも張り巡らされた結界の中に閉じ込められることとなったのです」
(そんな……そんな悲しい事故が、大奥様をこんなにも長い間縛り付けていたなんて)
「だから紘一。貴方もその教えを守らなければならなかった。他者に触れるなという教育も、そのためにあった。それなのに──」
 静江の視線が、闇の中で、一歩の距離を保って並び立つ二人の間に落とされた。
 肌を触れ合わせてなどいない。けれど、張り詰めた闇の中でも確かに伝わってくる、互いを命がけで守ろうとする二人の強固な結びつきを、静江の目は正確に捉えていた。
「貴方は、この娘を愛してしまったのですね。触れずとも、その眼差しが全てを物語っている。……だから、呪いが目覚めてしまった。御影の愛は、即ち死なのです」
 華夜は、自分の指先から血の気が引き、完全に凍りつくのを感じた。
 物理的な接触など、ただの分かりやすい引き金に過ぎなかった。皮肉にも、彼の純粋で、偽りのない深い愛そのものが、妖魔との契約を履行させるための「真の鍵」となって、あの影を呼び寄せていたのだ。

 奥屋敷を後にした二人は、静まり返った夜の廊下を、ただ黙々と歩いていた。
 原生林から漂う饐えた臭いは遠ざかり、代わりに雨上がりの澄んだ空気が満ちていく。けれど、二人の胸に居座る昏い澱みは、いささかも晴れることはなかった。耳が痛くなるほどの静寂の中、華夜の数歩前を歩く紘一の背中が、いつになく小さく見えた。いつも毅然として、どのような凶刃を前にしても決して揺らがなかったあの広い背中が、今は目に見えない重圧に押し潰されそうに強張っている。
「……すまなかった」
 不意に、前を向いたままの紘一が、小さく掠れた声を絞り出した。廊下の軋みにかき消されそうなほど幽かな、けれど酷く湿った声音だった。
「え……?」
 思わぬ言葉に華夜が足を止めると、紘一もまた、糸が切れたようにその場に立ち止まる。紘一は振り返らなかった。ただ、濃紺の羽織の袖から覗く彼の分厚い掌が、白木蓮の枝でも折るかのように、血の気が引くほど強く握りしめられている。
(紘一、さん……?)
 声をかけようと華夜が一歩踏み出した、その瞬間。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休め」
 それだけ呟くと、紘一はそれ以上華夜の顔を見ることもなく、冷たい無機質な足取りで自室へと去っていった。ピシャリ、と遠くで襖が閉まる音が、無音の空間に不気味に響き渡る。たった一人残された廊下で、華夜は呆然と立ち尽くしていた。
 彼が死ぬ未来は、ひとまず回避されたのかもしれない。けれど、暗い廊下に置き去りにされた華夜の肌は、言いようのない寒気で粟立っていた。まるで嵐の前の静けさのような、異様な騒めきに胸が掻き乱されていく。
 彼の中で、今この瞬間、何かが致命的に変わりつつある。その目に見えない不穏な変化の兆しに、華夜はただ不安を募らせるばかりだった。

 翌朝、華夜はその異変を、朝食の座卓で迎えることとなる。いつもなら、華夜が席に着く前に必ず姿を見せ、不器用ながらも『おはよう、よく眠れたか』と声をかけてくれる紘一の姿が、そこにはなかったのだ。
「奥様、申し訳ございません。旦那様は早朝より、北の結界の点検に向かわれました。急ぎの業務ゆえ、朝餉は出先で済ませるとのことです」
 給仕をする如月の言葉に、華夜は箸を持ったまま小さく頷く。退魔師の当主だ、急な仕事が入ることも珍しくはない。そう自分に言い聞かせたが、胸の奥にじわりと滲んだ違和感がいつまでも消えずに残っていた。
 だからそれがまだ違和感の始まりに過ぎなかったということを、この時の華夜は知る由もない。
 その日の夕刻、廊下で偶然紘一と行き違った際、華夜は意を決して声をかけた。
「紘一さん。あの、お仕事は無事に──」
「華夜か。ああ、問題ない。心配をかけたな」
 振り返った紘一の声は、いつも通りに穏やかで、華夜を気遣う温かさに満ちている。決して冷たく突き放されたわけではない。けれど。
 紘一はその時、華夜の顔を一度も見ることはなかった。
 琥珀の瞳は華夜の背後の空間か、あるいは自身の足元を彷徨うばかりで、どうしても華夜の視線と交わろうとしないのだ。
「すまない、まだ書状の整理が残っている。夕食は先に食べてくれ」
 それだけ言い残すと、紘一は流れるようにその場を去っていった。
 残された華夜は、自分の胸元をぎゅっと掴む。
(避けられてる……?)
 そんな疑念が脳裏をよぎるが、華夜は即座に否定する。
 彼がくれた言葉は優しかった。ただ、本当に忙しいだけかもしれない、と自分に言い訳を用意した。

 けれど、その翌日も、翌々日も、二人の間に流れる空気は変わらなかった。
 じわじわと広がる紘一との距離に、華夜の心はすっかり磨り減っていた。ただ忙しいだけだと思おうとしても、胸のざわつきは日を追うごとに大きくなっていく。
 夕刻、自室に湯殿の手桶を運んできた如月の姿を見つけ、華夜はたまらず声をかけた。
「如月さん。少し、よろしいでしょうか」
「はい、奥様。何でございましょう」
 如月はいつもと変わらぬ、一分の隙もない美しい礼をとって足を止めた。華夜は畳の上に置いた自分の膝をきつく握りしめ、なるべく平穏を装って言葉を紡ぐ。
「紘一さんのことなのですが……ここ数日、まともにお顔を拝見していなくて。お仕事が、それほどまでに立て込んでいるのですか? 北の結界の件は、まだ片付かないのでしょうか」
 せめて『今代の当主様は生真面目ですから』といった、いつもの気休めでも欲しかった。
「……」
 だが思いもよらず、華夜の言葉を聞いた如月の顔から、ふっと一切の感情が消え去るのを見てしまい、嫌な予感に華夜の胸は騒ついた。あの日"奥屋敷"の話題を出した時の拒絶の気配と、酷く似通っていたのだ。
「……旦那様は、御影の当主であらせられます。我ら使用人には預かり知れぬ、重きお役目もおありなのでございましょう」
「それは分かっております。でも、朝餉の席にさえ……」
「奥様」
 如月は華夜の言葉を、静かに、けれど明確な一線を引くような声音で遮った。
「旦那様は、昔からお一人で全てを背負われるお方。奥様がこれ以上、お心を痛める必要はございません。……ただ、今はそのようにあられることが、旦那様にとっての最善なのでございましょう」
 最善、という言葉が、華夜の胸に冷たく突き刺さった。如月の目が、何かを哀れむように、あるいはすべてを諦観したように華夜を見つめている。彼女はそれ以上何も語ろうとはせず、「では、失礼いたします」と深く一礼して部屋を去っていった。
(最善って、何が……? 如月は、何かを知っているの……?)
 残された部屋で、華夜はぽつんと立ち尽くした。如月の濁した返答は、華夜の胸の内の疑惑を、より色濃く、決定的なものへと変えてしまった。
 紘一は、突発的な業務のせいで忙しいのではない。紘一は明確な意思をもって、華夜と“二人きりになる時間“を完全に排除し続けたのだ。朝食の席には来ず、昼間は何かと理由をつけて席を外し、夜になっても、華夜を自室に呼ぶことはおろか、偽りの寝所にすら顔を出さない。業務の都合でどうしても言葉を交わさねばならない時も、彼の声音はどこまでも穏やかで、事務的で、そして──徹底的に素っ気なかった。
 明確に拒絶されているなら、まだぶつかりようもある。『不快だ』と言いのけた四度目の自分のように、怒りをぶつけてくれれば、まだ彼の心に触れられた。
 だが、今の紘一は違う。彼は壊れ物を扱うように優しく、しかし絶対に触れられない透明な硝子の壁を、二人の間に厳重に張り巡らせているのだ。

(ここまで徹底して避けられるなんて……)
 一人きりの部屋の中、華夜は文机に頬杖をつき、障子の隙間に広がる外の景色をぼんやりと眺めていた。紘一の態度が変わってから、気づけば五日が経っていた。それは、これまでの凄惨なループの中でも一度として経験したことのない、全く未知の苦痛だった。
 どんなに冷酷に振る舞っても最後には自分を追いかけてくれた彼が、今は自ら進んで華夜から離れていこうとしている。
 明確に嫌われたのなら、まだ諦めがついたのかもしれない。けれど、すれ違いざまにかけられる言葉は、いつも通りに穏やかで、どこまでも優しいのだ。その聲音の温かさが、かえって二人の間に厳然と横たわる距離をはっきりと際立たせていた。
(ごめんなさい……紘一さん……)
 ぼやけた思考の中で、前回の紘一とのやりとりの断片がいくつも華夜の脳裏に蘇ってくる。前回は、自分が紘一から遠ざかるために、嘘を吐いて必死に紘一を拒絶し続けた。愛する人に『嫌いだ』と叫んで拒絶する痛みに耐えられず、華夜は逃げ出してしまった。今、理由は分からないが自分は紘一に拒絶されている。愛する人の瞳に自分が映らないこと、差し出した心が透明な硝子の壁に遮られて届かないことが、これほどまでに心をズタズタに引き裂くのだと、骨の髄まで思い知らされる。それと同時に、前回の紘一に対し、自分の数々の言動がどれほど彼の心に傷をつけていたのか真に理解し、二度と届くことのない懺悔の言葉を心の中で繰り返していた。
 話したいことが、たくさんあった。
 明日にも咲きそうな庭の銀木犀のこと、今日新しく覚えた御影の味付けのこと。そして──あの地獄のような死の円環を越えて、今度こそ貴方と生きていきたいという、本当の願いのこと。
 それなのに、今の紘一に声をかけようとしても、彼は一瞬だけ酷く哀しげに目を伏せて、流れるように去ってしまう。奥屋敷から戻る道すがら、紘一が自分に向けて放った『すまない』という一言が、まるで決別の宣言だったかのように。
(どうして……? 私の話を信じて、一緒に戦ってくれるって言ってくれたのに……)
 激しい戸惑いと、容赦なく胸を抉る悲しみのなかで、華夜はただ、冷え切った自分の指先を抱きしめることしかできなかった。
 彼の命が助かることだけを祈って、この五度目の世界でようやく、真実を掴んだと言うのに。彼に拒まれる世界がこんなにも寂しいなんて、思いもしなかった。
 ただただ胸を抉るような悲しみと焦燥に暮れ、華夜は空虚になってしまった心で、魂が抜けたようにぼんやりと長い廊下を歩いていた。西日から伸びる影が畳を黒く染め、屋敷全体が冷たい静寂に沈んでいる。
 その時、ふと。前方の曲がり角の先から、微かな話し声が聞こえてきた。それはこの五日間、夢にまで見たあの低く落ち着いた声音だった。
「──これを、華夜の部屋に」
(紘一さん……!?)
 心臓が激しく跳ね上がる。華夜は反射的に身体を翻し、曲がり角の陰へと身を隠した。息を殺し、藍色の着物の胸元をきつく押さえながら、こっそりと二人の会話に耳をそばだてる。
「はい、旦那様。確かに預かりました」
 応じたのは如月の声だった。その手には、何かが擦れ合うような小さな紙の音がしている。
「部屋のハナグルマが萎れてきていただろう。今日、街の結界を巡回した際、花屋の店先に同じものが出ているのを見かけてな。華夜の部屋の寝所に飾ってやってくれ。俺が買ったとは、言わなくていいから」
「畏まりました。奥様、きっとお喜びになります」
 物陰で、華夜は目を見開いたまま固まった。
 胸の奥が、ちくちくと痛むような、けれど堪らなく熱い塊で満たされていく。
(やっぱりあの花はずっと、紘一さんが買ってくれていたのね……)
 黄色いガーベラ。それは、二度目のループの短い街デートの際、花売りの少女から、華夜が生まれて初めて人──紘一に買ってもらった、生涯で一番大切な花だった。
 不思議なことに、三度目も、四度目も、もちろんこの五度目の世界でも、御影の屋敷の華夜の部屋には、なぜか最初からあの黄色いガーベラが飾られていた。華夜自身が持ち込んだわけでもないのに、世界が巻き戻るたび、まるで最初からそこにあるのが必然であるかのように、いつも華夜を迎えてくれた。
 自分を避け、顔すら合わせてくれない紘一だが、その花の萎れに気づき、再び同じものを買い求めてくれていたのだ。
「それから……引き続き、華夜の身辺には細心の注意を払ってくれ。このところ、どうにも妖魔の出現頻度が高すぎる。屋敷の周辺にも、何か妙な気配が漂い始めているようだ。華夜に万が一の危険も及ばぬよう、お前が側で見守ってやってくれ。……頼んだぞ」
「……」
 如月はすぐに言葉を返さず、一瞬の静寂が廊下に流れた。
 彼女の脳裏には、管理しているはずの奥屋敷の鍵に生じていた、僅かな違和感がよぎっていたのかもしれない。しかし、深く皺の刻まれた彼女の横顔には、一切の感情が上ることはなかった。
「……御意にございます。旦那様も、どうかご無理をなさいませぬよう」
 すべてを察しながらもあえて深くは踏み込まない、どこか意味深で、けれど絶対的な忠義を孕んだ声だった。衣服が擦れる音がして、如月の足音が反対側の廊下へと遠ざかっていく。
 華夜は壁に背を預けたまま、小さく息を吐き出した。
(紘一さんは、私のことが嫌いで避けているんじゃない。やっぱり、私を守るために……)
 彼の不器用で、あまりにも切ない守り方に目頭が熱くなる。同時に、すべてのループで部屋にガーベラが咲いていたことへの、愛おしくも奇妙な謎が胸に宿る。
 だが、余韻に浸る時間は与えられなかった。タッ、タッ、と、規則正しい足音が、こちらに向かって近づいてくる。運の悪いことに、如月と別れた紘一は、そのまま華夜が息を潜めていた方の廊下の角へと足を進めてきたのだ。華夜には逃げる間もなかった。
「! お前──」
 角を曲がってきた紘一が、そこに立ち尽くしていた華夜の姿を捉え、言葉を詰まらせた。
五日ぶりに、華夜は紘一の端正な顔を正面から捉える。琥珀の瞳は一瞬驚きに揺れたかと思うと、すぐにバツの悪そうな色を浮かべて視線を斜め下へと逸らした。
 そんな彼の様子に、華夜は鼻の奥がヒリ、と沁みていく。今、涙を見せることはしたくなかった。ここで泣いてしまったら、優しい彼を困らせてしまう。華夜は喉の奥に込み上げてくる熱いものを、歯を食いしばって必死に押し殺した。
 二人の間には、酷く気まずく重苦しい沈黙だけが横たわっていた。
 暫くして、紘一は何事もなかったかのように華夜に一度だけ軽く会釈をすると、先ほど向かっていた方向へ再び歩みを進め始める。
 紘一が華夜の横をすり抜けようとした瞬間──華夜の身体が、思考よりも先に動いた。
「待ってください、紘一さん!」
 弾かれたように発された、確かな意志を孕んだ声に、紘一の足が止まった。彼は背を向けたまま、硬直している。華夜はその大きな背中をじっと見つめながら、ふわりと微笑みを浮かべてみせた。ここで逃したら、もう二度と彼の心に触れられない気がしたのだ。
「少しだけ……お話ししませんか。あちらの、縁側で」
 華夜が指し示したのは、西日が美しく差し込む、庭に面した静かな縁側だった。
 紘一はしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて、諦めたように小さく肩を落とすと、掠れた声で「……ああ」とだけ応じた。