円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

 五度目の白無垢に袖を通す。
 あれほど忌々しいと呪ったはずの、見慣れた純白の布地はしかし、今やそれは自分と共に戦地へと赴く戦友のようであり、命を賭して戦うための“鎧“のようにも思えてくるから不思議なものだ。
 一度目は何も知らずに奪われ、二度目は恐怖に震え、三度目は罪悪感に溺れ、四度目は偽りの冷酷さで己を擦り潰した。どんなに足掻こうとも、たった一人で世界の理を覆すことなど不可能なのだと、四度の円環の果てに、骨の髄まで叩き込まれた。
(もう、絶対に逃げない)
 避ければ追われ、拒絶すればより深く愛され、距離を置こうとすれば身を挺して守られて死ぬ。
 ならば、残された道は一つしかない。この因果の渦中にあるもう一人の当事者を、自分の手で、この凄絶な地獄の共犯者に引きずり込むことだ。
(紘一さんに、全部話そう。狂人だと蔑まれようが、構わない)
 深く長く息を吸い込み、肺の隅々までを覚悟の熱で満たしていく。
 白無垢の袂の中で、震える指先を白くなるほど強く握りしめ、華夜は鏡の前を離れた。畳を踏みしめる足取りには、もはや躊躇の一片すら残っていなかった。
 
 御影の屋敷の奥の間には、障子越しに揺れる行灯の火影が、畳の上に不安定な昏い輪郭を描いている。
 その光の中心に、かつて何度も自分のために血を流して散っていった、あの男が座っていた。
(今回の婚礼が、最後かもしれない。これでダメならもう、あなたに出会う前に、私はちゃんと死を選ぶから)
 一瞬だけ喉の奥が熱くなり、視界が滲みそうになる。だが、華夜はそれを瞬時に飲み込んだ。今の彼に必要なのは、共に涙を流す脆い花嫁ではない。迫りくる死の運命を知らせるための警告者なのだから。華夜は静かに歩み寄り、三つ指をついて深く頭を下げた。
「……五条華夜にございます」
 挨拶と共に顔を上げる。今度は一分一秒たりとも視線を逸らさず、彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「御影紘一だ」
 紘一もまた、これまでと何ら変わらぬ、重厚な声音で自分の名を口にした。華夜は一呼吸置くと、彼がいつも通りの儀礼的な言葉を口にするより先に、落ち着いた声で話し始めた。
「御影様。形式的な挨拶の前に、あなたに申し上げねばならぬことがございます。……どうか、私の身体に触れないでいただきたいのです」
 それは初対面の妻からの、あまりにも無礼な牽制だった。しかし紘一は眉一つ動かさず、ただ静かに華夜の次の言葉を待っている。その底知れない無言の肯定が、華夜の背中を強く後押しした。
 ここに来るまでに、華夜は四度の襲撃で得た情報の断片を整理していた。その中で一つだけ、分かった事がある。
 それは謎の妖魔が現れる瞬間——これまでの全ての襲撃の直前に必ず、『紘一が華夜の身体に触れていた』ことだ。
 つまり、紘一が華夜に物理的に接触することが、運命の引き金を引いてしまっていたのだ。華夜は確信を持って宣言する。
「もしもそれを破り、貴方が私と初夜を共にすれば……今夜。刻限が回る頃に、この屋敷は妖魔による襲撃を受けます」
 二人の間に、張り詰めた重い沈黙が落ちる。行灯の炎が微かに爆ぜ、紘一の纏う空気がひり、と緊張を帯びたのを肌で感じた。だが華夜は臆することなく、さらに言葉を重ねていく。
「そして貴方は、私を庇って背後から妖魔に胸を貫かれ──そこで命を落とすのです」
 荒唐無稽なその予言は、ひどく不吉で、ともすれば正気を疑われるような言葉の連なりだ。しかし華夜は、瞬きさえ拒んで言い切った。ここで瞳を泳がせれば、これまで彼が流し続けたあの熱い血が、すべて無意味なものになってしまう。
(お願い……どうか……!)
 自分の掌に爪が痛いほど食い込んでいることすら気づかぬほどに、華夜は必死に祈りを込めて目の前の男を見つめていた。そんな華夜の様子を観察していた紘一は、数秒の沈黙の後、ようやくその口を開いた。
「……それは」
 深く、地を這うような声音が室内に響く。華夜は息を呑んで身を固くしながら、次に続く言葉を待った。
「五条の家に伝わる予知の類か。あるいは、何か確かな根拠があってのことか」
 紘一は否定も嘲笑もしなかった。目の前の女が発した言葉の異常性ではなく、その瞳の奥に宿った華夜の人格を冷徹に精査しようとする、退魔師としての問いかけがそこにはあった。そんな紘一に向かって、華夜は静かに首を横に振って答える。
「いいえ。予知でも、憶測でもありません。……根拠となる物証は、何一つございません」
 嘘は吐かなかった。自分の愛する男に、もう一才の隠し事をしたくないという意地と、それでもこの人ならば絶対に信じてくれるという絶対的な信頼に、全てを託して祈りを込める。
「ですが、必ず来ます。……私が、何度も見てきたから。私の身体に触れることが、貴方を殺める引き金になってしまいます。だから……」
 その言葉に、紘一のこめかみがぴくりと小さく動いた。『何度も見てきた』という言葉の奇妙な歪みを測るように、琥珀色の瞳が華夜の顔をじっと見つめる。その目に映る女の表情には、狂信的な光も、虚言の揺らぎも感じ取れない。ただ、その血生臭い運命を直接目の当たりにしてきた者にしか宿らない、昏く淀みのない、澄み切った確信だけが滲んでいた。
 十秒か、あるいは十分か──永遠のようにも思える、長い沈黙が流れた。外では使用人達の忙しない足音だけが響いている。
 やがて、紘一はふっと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「わかった」
 零れ落ちたのはとても小さな、けれどもそれは、岩をも穿つほどの重みを持った、たった一滴の呟きだった。
「お前を、信じよう。今夜の襲撃に備える」
 思いがけない彼の言葉に、華夜は瞠目する。信じてほしいと願ったのは自分なのに、あまりの受け入れの早さに、思わず震えた声で問い返していた。
「そんな……どうして。なぜ、そんなに簡単に……信じられるのですか。私は、証拠も、何一つ……」
「信じて欲しいと懇願するような目をしておきながら、信じれば驚くのか。それとも、信じてほしくなかったのか? おかしな奴だな」
「え!? う、嘘ではございません! あぁでも……えっと……!」
「何だ、そんな顔もできるのか。そっちの方が良い。変に畏まるな、堅苦しいのは性に合わん」
 紘一はフッ、と僅かに口角を持ち上げ、悪戯っぽく、低くカラカラと笑った。幾度も顔を合わせてきたはずの彼が初めて見せた、年相応で人間らしい表情に、華夜の頬にじわりと熱が込み上げてくる。こんな時にさえ彼にときめきを覚えてしまう自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
 暫くそうして笑っていた紘一だったが、ふと表情を引き締め、何かを探るように自身の分厚い掌を見つめながらぽつりぽつりと話し始めた。
「根拠はないと言ったな。……俺がその話を信じるのにも、根拠はない。だが、お前が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。それに――」
  彼は再び華夜を見据える。その眼差しは、血塗れた運命に怯え凍えていた華夜の心を、奥底からじわじわと溶かしていくような不思議な熱を持っていた。
「何故かは分からんが……お前と初めて会った気がしない。お前のその、今にも壊れてしまいそうな瞳を、自分は前から知っていたような気がしてならんのだ」
「っ……ごめんなさい。こんな、私のせいでっ……」
 華夜の胸の奥で、張り詰めていた頑なな何かが、音を立てて崩壊した。
 溢れ出た安堵の濁流に伴い、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
 条件もなく、理由もなく、ただ『お前だから信じる』と。
 紘一のその言葉は、幾度もの死を繰り返した孤独な荒野に、初めて灯った、決して消えない松明のようだった。
 なぜ、もっと早く、彼を信じてあげなかったのだろうか。もっと早く、彼にこうして打ち明けることができていたなら、何度も殺さずに済んだかもしれないのに。
 紘一の優しさとこれまでの後悔が華夜の胸を突き刺し、化粧が崩れるのも構わずに、子供のように声を上げて泣いた。 
 紘一は、激しく震える華夜の頭を撫ぜようと大きな手を伸ばしかけ──ハッとしたように、ゆっくりとその手を下げる。
「今宵のことは、如月に申しつけておく。頃合いを見て、適時初夜が済んだと報告だけさせれば良い。お前に触れはしない。だが今夜……その不可解な話を、詳しく聞かせてもらえるか」
「……はい。ありがとうございます……っ」
 涙で湿った声で、華夜は深く頷いた。今度こそ二人で未来を掴み取るための、確かな一歩を踏み出すために。

 ***
 
 祝宴の席は、夜が更けるにつれてさらに熱を帯びていった。五条と御影、二つの名門の結びつきを祝う親族や重臣たちの笑い声が飛び交い、酒の香りが濃く立ち込める。
 その喧騒の中心で、華夜は張り詰めた表情をしたままつくねんと座っていた。時折、隣に座る紘一と視線が交差する。彼は泰然と杯を傾けながらも、その琥珀色の瞳の奥に鋭い緊張の光を宿していた。
(そろそろ、かしら)
 華夜が紘一の方をチラリと窺うと、紘一もまた華夜へと目を向け顎を引いた。それが“合図“だった。
 華夜は深く息を吸い、五条家の娘としての笑顔の仮面を顔に貼り付ける。紘一が静かに杯を置いて立ち上がると、宴席の視線が自然と彼に集まった。
「皆様。本日はお集まり頂き、ありがとうございました。宴も酣となりましたが、妻の体調も考慮し、我々はこれにて失礼致します」
 紘一の言葉に、座がどっと沸いた。
「おお、これは無粋な真似をいたしましたな!」
「御影の血脈を繋ぐ、大事な初夜でございます。どうぞ、ごゆっくりお休みくだされ!」
 親族たちの下世話で、けれど悪意のない冷やかしが二人に浴びせられる。だが、華夜の表情は一才揺らぐことはなかった。
『御影家に相応しい花嫁』として、完璧に初夜を迎えなければ捨てられると怯えていた一回目。襲撃の不安を抱えながら独りで宵越しした二回目。嘘を吐く罪悪感に押し潰されそうだった三回目。自ら口にした拒絶に心を引き裂かれた四回目。あの時の恐怖が嘘のように、今の華夜の心は不思議なほど凪いでいる。
 華夜は紘一に歩調を合わせ、優雅な一礼を捧げて宴席を後にした。背後に残る賑やかな笑い声が、襖一枚を隔てた瞬間に遠ざかっていく。静まり返った廊下に出ると、そこには複雑な表情を浮かべた如月が控えていた。紘一がその前で足を止め、声を落とす。
「如月。先ほど命じた通りだ。頼んだぞ」
「……重々承知いたしております。頃合いを見て、親族の皆さんには『初夜は無事に執り行われた』と報告いたします。……ですが旦那様、本当に宜しいのですか? 婚礼の初夜に、新婚の御部屋を使われぬなど……」
「構わん。自分の命に従え」
「……畏まりました。御武運を」
 一瞬物言いたげに閉口した如月だったが、紘一の有無を言わせぬ命に深く頭を下げると、あらかじめ用意されていた“偽りの寝所“の方へと下がっていく。彼女の足音が消えるのを見届けてから、紘一は華夜に向き直った。
「行くぞ、華夜。……俺の部屋へ」
「はい」
 二人は、本来向かうべき華やかな新婚の部屋とは真逆の方向、屋敷の最奥にある紘一の私室へと向かった。
 廊下を渡る足音は、たった二つ。冷たい夜気が色直しの着物の裾を揺らし、庭の銀木犀の香りが微かに鼻腔をくすぐる。
 たどり着いた紘一の私室は、飾り気のない調度品と数振りの呪刀が壁に飾られているだけの無機質な部屋だった。大家の当主の部屋とは思えぬほどに酷く簡素なそれは、紛れもなく、彼が孤独な戦いを続けてきた戦場の延長線上にあるのだということを示していた。
 紘一の手により重い襖が静かに閉められ、ついに二人きりの密室が完成する。
「さて——」
 紘一は婚礼の重苦しい羽織を無造作に脱ぎ捨てると、床の間に置かれた愛刀を引き寄せ、その傍らに腰を下ろした。
「ここなら結界も一番強固だ。如月以外の立ち入りも禁じてある。……華夜。お前が何度も見てきたという話を、すべて自分に聞かせてくれ」
 言うが早いか、紘一はすぐに立ち上がり、文机から古い巻物と、この御影屋敷の精緻な図面を広げた。先刻まで見せていた柔らかな笑みは完全に消え失せ、その顔は冷徹な武人の貌へと戻っている。
「お前が言う“妖魔の襲撃”……それは、物理的な妖魔の爪か、あるいは術式によるものか。見てきたという記憶の限りを教えて欲しい。どんなに些細なことでも構わないのだ」
 紘一の放つ圧倒的な実戦の気配に気圧されながらも、華夜は記憶の底に沈んでいた、思い出したくもない死の光景を一つずつ、震える指で掬い上げていった。頬に浴びたあの返り血の熱さが蘇り、胃の奥がせり上がったような感覚と共に、口の中に苦さが広がる。
「妖魔の姿は、はっきりと形があるのかどうか分かりません。ただ、部屋の隅から湧き出すような、黒い泥のような影でした。とても静かで、部屋の影そのものの中に溶け込むような……それでいて、鎌のような、鋭い腕を持っていて……そしてアレは、どこにでも現れるのです。一度目は初夜の部屋、二度目は私の私室、──」
 華夜のたどたどしい説明を聞きながら、紘一の琥珀色の瞳が鋭利な光を帯びていく。彼は図面の一点、奥の間の中央を指差した。
「なるほど。お前が離れに逃げた時も、本棟で俺と一緒にいた時も、襲撃が起こったのだな。それはつまり、場所も時間も関係ないということだ。狙いは、俺かお前か……。これは単なる偶発的な襲撃ではなく、なにかの儀式のようなものかもしれない」
「儀式……? 誰かが意図して仕組んでいる、ということですか?」
「ああ。御影の退魔の力を削ごうとする勢力は少なくないからな。だが、そうだな……これほど正確に自分の死角と隙を突くのは、ただの妖魔の仕業ではない。華夜、妖魔が出現した瞬間は覚えているか? 毎回同じようにして現れたのか」
 華夜はきつく目を閉じ、その瞬間を脳裏に反芻する。
 一回目、激しい耳鳴りに華夜が思わず蹲ったその一瞬の隙に、二人の間に佇んでいた。
 二回目、突如暗闇に包まれた部屋の四方から、這いずり回るように二人の足元へと忍び寄ってきた。
 三回目は昼間の障子に伸びた影、四回目は……知らぬ間に大池の側に立っていた。四度の襲撃をどう重ね合わせても、これといった共通点は見つからない。
 華夜は困ったように表情を曇らせ、しどろもどろに返答をする。
「どう、なのでしょうか。毎回違った形で現れていたような気がします。妖魔はいつも突然、気がついたら私たちの目の前にいて。あまり、規則性がないというか……」
 その言葉を聞いた紘一は低く唸り、腕を組んで黙り込んでしまった。
 行灯の光に照らされた彼の横顔が、深く険しい思考の影に沈んでいく。
(突然そんな突飛なことを言われても、困ってしまうわよね……私がもっと、退魔の知識を持っていれば、手がかりを掴めていれば……)
 自分の無力さに胸が締め付けられ、二人の間に数秒の張り詰めた沈黙が流れた。
 やがて、紘一がふと、思考の海から顔を上げるように呟いた。
「……本当に、妖魔の仕業だろうか」
 その声には、華夜の必死の告白を受け止めつつも、どこか根底からの疑念を拭いきれない、冷徹なまでの観察眼が宿っていた。
「! どういうことでしょうか。私は、確かにあのどろりとした異形を、この目で……」
「いや、お前が見たものを否定しているわけではない。ただ……そのような不可解な攻撃を仕掛ける妖魔を、俺は知らない」
 紘一は断言した。その声音には、最強の退魔師として血を流し、積み上げてきた研鑽への絶対的な自負があった。
「そもそも、この屋敷には御影家の抱える上級結界師達によって、妖魔の侵入を阻む幾重もの結界が張られている。人間であっても妖魔であっても、何者かが侵入すれば、必ず結界に揺らぎが生じるものだ。俺を含め、屋敷の誰にも気づかれずに外部から侵入することはほぼ不可能なはずなのだ」
 紘一は図面をトントンと指で叩き、言葉を繋ぐ。
「仮にそれを抜けて自分の背後を取ったとしても、一撃でこの自分の守護を貫通させるほど、御影の呪力は脆くはない。……並の妖魔が、そんなことを成せるとは思えないのだ。もし、そんなことが成せる者が万に一つでもあるとしたらそれは──結界の“内側”を知り尽くした者か、あるいは“自分と同じ力”を持つ者だけだ」
「あ……」
 華夜は息を呑んだ。心臓がドクンと早鐘を打ち始める。
 今まで恐怖のあまり見落としていた致命的な違和感を指摘され、全身に鳥肌が立った。
(どうして、気づかなかったんだろう……)
 そうだ。思い返せば紘一は、四度目のループの時、華夜が屋敷に足を踏み入れた瞬間から、袖に隠していた小雪の存在に気づいていた。
 『妖魔が通れば、どれだけ小さくとも結界が揺れる』──彼はそう言っていたはずだ。小雪、もとい毛鞠という種族は、人に害をなさない、小さくか弱い妖魔だ。そんな存在にさえ気づくことができる強力な結界が、この屋敷には張り巡らされている。
 それなのに。最強の退魔師である当主を蹂躙し、一撃で殺害できるほど強力な力を持った妖魔が、結界を一切揺らがすことなく、寝所のど真ん中にヌルリと侵入するなどできるだろうか。
 そもそも、それほどの害を為す攻撃性を持った存在を、守護結界が易々と通すはずがない。もしも通ったらその瞬間、屋敷中が騒ぎになるはずだ。
 さらに思い出すのは、前回の記憶──華夜が初めて紘一の戦闘を目に焼き付けた、大池での妖魔の急襲の時のことだった。
(あの間際、紘一さんはなんて言っていた? 突然出てきた妖魔に、どうやって対処した?)
 落ち着け。思い出せ。
 紘一はあの時、華夜を庇って出てきた妖魔を見るなり、確かにこう言っていたはずだ。
 『華夜、目を閉じていろ。低級妖魔だ。すぐに終わらせる』
 華夜にそう告げた彼の言葉にも振り翳した力にも、一切の迷いはなかった。“これは低級妖魔だ”と一目で見抜き、襲いかかってくる無数の妖魔をたった一撃で蹂躙していた。御影家の現当主ならば、初めて見る妖魔であっても、一目見ればその妖力の強さや位階は分かるのだろう。
 では、あの時は。
 あの、紘一の命を奪う“本物の影”が現れた時、紘一は毎回、一瞬言葉を探すようにして、こう問いかけていなかったか。
『——お前は、何者だ』
 あの言葉は、明確な敵に向ける退魔師のセリフではない。
 何者かも、正体すらも分からない、退魔の理から外れた未知の存在に対する、困惑の問いかけだったのだ。
(待って……じゃあ、あれは一体何? 妖魔じゃないなら、何が彼を殺しているの……?)
 華夜の胸の奥に、底の知れない底なし沼のような不安と恐怖が沈殿していく。
 これまで「恐ろしい妖魔の呪い」だと思い込んでいた死の元凶が、実はもっと身近で、もっとドロドロとした“人間の意志“や“身内の呪詛“に近いものである可能性に、背筋が凍るような戦慄を覚えた。
 ただの妖魔ではない——その仮説は、暗闇を彷徨っていた二人の足元を微かに照らしたものの、同時にさらなる深い謎を突きつけることとなった。
 外部からの侵入が不可能であるならば、元凶は“内“にある。
「……こんな時間になってしまって申し訳ない。明日に障ると良くないから、今日はこの辺にしておこう。部屋まで送る」

  渡り廊下を吹き抜ける夜風が、華夜の着物を冷たく揺らす。暫く言葉もないままに並んで歩いていた二人だったが、華夜の部屋へと続く角を曲がった所で、それまでずっと前を見据えたまま黙っていた紘一が、どこか遠い記憶を手繰り寄せるように静かに語り始めた。
「……俺が父親を亡くしたのは、三歳の頃だったという。父は、この御影の家へ婿入りした先代当主だった。母は御影の退魔師としての強大な力を受け継いでいたが、当主は男が継ぐもの——それがこの家に古くから伝わる慣わしだったからな。だから父が亡くなった後、母ではなく、まだ物心もつかなかった自分が当主として祭り上げられてきたのだ」
 ぽつり、ぽつりと落とされる紘一の声は、信じられないほど淡々としていた。それがかえって、彼の歩んできた幼少期の異常さを際立たせる。
「母は父が亡くなった後、酷く病気がちになり、外へ出られなくなったのだそうだ。人と接触すると外の悪いものを吸って弱ってしまうからと、それ以来、屋敷の最奥にある奥屋敷へと移されたらしい。……らしい、と言うのは、俺はあまりに幼かったから、当時の記憶がほとんどないのだ。今は使用人たちが世話をしていると聞くが、俺が母に会おうと接触を試みようとすると、周囲から頑なに止められる。だから俺は、父のことも、母の顔もよく知らない。御影の血脈の真実についても、使用人から聞かされてきた範囲のことしか分からないのだ」
 紘一は一度言葉を切り、きつく結ばれた横顔を華夜へと向けた。
「だから、もしも使用人たちさえ知らない、御影家が抱えている根深い闇があるのだとしたら……そこに、お前が言っていた謎の妖魔──いや、怪異の正体と繋がる何かがあるのかもしれない。いずれにせよ、徹底的に調べるべきだな」
 紘一の言葉を聞きながら、華夜の脳裏には、これまでのループで何度も目にしてきた彼の最期の微笑みが蘇っていた。
──『守りたかった、ただそれだけだ』
 あの深く、狂おしいほどの献身的な愛の結末が。
 もしも、誰かの手によって最初から仕組まれていた“約束された死“であったとしたら。
 華夜の胸の奥で、恐怖を塗りつぶすほどの、激しい憤りの炎がじわりと燃え上がった。
 翌日から、華夜と紘一はそれぞれの立場で、この数百年の歴史を持つ「御影家」そのものに対する隠密な調査を開始した。
 華夜は若き奥方として屋敷に馴染む振る舞いを装いながら、古参の使用人たち、特にこの家に一生を捧げてきた如月の口から、それとなく過去の逸話や噂を拾い集めていった。にこやかに世間話に応じながらも、神経を研ぎ澄まし、言葉の端々に隠された不自然な沈黙や、奥屋敷への過剰な敬遠の態度を掬い取っていく。
 一方で紘一は、当主にしか立ち入りを許されない、埃の積もった地下の忌み蔵へと潜り、御影の血筋にまつわる古文書や歴代の記録を紐解いていた。
 数日間の調査を経て、二人が持ち寄った断片的な事実は、御影という退魔の名門が抱える、異様な“歪み“を浮き彫りにしていった。

「……愛を避ける文化、ですか?」
 夜、再び紘一の私室に集まった二人の間で、華夜がぽつりと呟いた。
 それは昼間、華夜が如月たちとお茶の準備をしていた際に耳にした話だった。御影家の歴代当主は、驚くほど皆一様に冷徹で、正妻に対しても決して情をかけず、どこか事務的な婚姻関係を続けてきたという。側室を囲うこともなく、ただ家系を繋ぐためだけに淡々と義務を果たし、夫婦らしい睦み合いの噂など、数百年の歴史の中で一つも残っていない。
 古参の者たちはそれを『最強の退魔師として、情に流されぬための鉄の戒律』と誇らしげに語っていた。しかし華夜にはそれが、まるで何か目に見えない恐怖から必死に逃げているかのような、異常なまでの徹底ぶりに思えてならなかった。
「ああ。俺の調べた古文書の記述とも一致する」
 紘一が、黄ばんだ古い家訓の写しを畳の上に広げた。そこには、歴代の当主が幼少期から叩き込まれるという、奇妙な教育方針が記されている。
「『御影の者は、いかなる親密な者であれ、その身体に直に触れてはならぬ。特に、慈しみの情を持って他者に触れることは、破滅を招く忌むべき行為である』──そういえば俺も、物心ついた時に一度だけ、あまり気安く他人に触れるべきではないと教育係に言われた事があったような気がする。最も、元々俺は他人への興味が薄い子供だったからか、それ以降は特に嗜められたこともなかったが……当時は確か、退魔の霊力が強すぎるがゆえの、暴走を防ぐための戒めだと教えられたはずだ。しかし……」
 紘一は自身の掌を見つめ、苦痛を滲ませるように拳を強く握りしめた。
 華夜を守りたい、大切にしたいという強い意志を持って彼女に触れた、まさにその瞬間に発動する呪い。それは、御影の先祖たちがその身をもって経験し、恐れ、そして“教育“という形で隠蔽してきた“血の呪縛“そのものではないのか。
「……もう一つ、気になる話があります」
 華夜は声を潜め、紘一の顔を覗き込んだ。
「紘一さんのご両親……特に、お母様のことです」