光のあとで、君を想う。

 ステージ袖の向こうからは、客席のざわめきが聞こえていた。
 誰かが「佐伯、準備できてる?」と呼んでいる。

 ――また戻ってきた。
 
 澪は息を呑んだ。文化祭の熱気。古い体育館の床の匂い。マイクが拾うかすかなノイズ。全部、覚えている。一度目と同じだった。

 けれど今度は、同じ言葉で彼の背中を押すために戻ってきたわけじゃない。
 同じに見えるからこそ、怖かった。

 佐伯くんに視線を向けると、案の定、マイクを握る手に力が入りすぎていた。白くなるほど指先に力を込めているのに、彼はそれを隠すみたいに、いつもの顔をしている。

 「緊張してる?」

 声をかけると、佐伯くんは一秒も待たずに首を振った。

 「してない」

 「うそつき」

 「早くない?」

 「返事が早すぎる人は、だいたい嘘つきなんです」

 「澪さーん、それ何調べ?」

 「私調べ」

 「じゃあ外れてる可能性あるじゃん」

 「ないです」

 「強いな」

 佐伯くんはそう言って、少しだけ笑った。けれど、マイクを握る指は硬いままだった。

 あの頃の私なら、その笑顔だけを見ていた。
 少し困ったように笑う彼を、可愛いと思った。緊張を冗談で隠せるくらいには大丈夫なのだと、勝手に思い込んでいた。

 でも、今は違う。

 笑っているのに、指先は逃げ場を探すみたいにマイクを握りしめている。

 「怖かったら、怖いって言ってもいいんだよ」

 少しだけ真面目なトーンで言うと、佐伯くんは視線を落とした。

 「……怖くないって言ったら、それこそ嘘になるかな」

 「じゃあ、怖いんだ」

 「うん。逃げたいくらいにはね」

 「正直すぎて、逆に好感度上がった」

 「こんな時に上げてどうするのさ」

 「本番前だから。少しくらいサービスしておこうと思って」

 「サービス精神の使いどころ、間違ってない?」

 二人で小さく笑い合う。

 そのあと、佐伯くんはマイクを持っていない方の手で、自分の前髪を少しだけ触った。照れた時や困った時、彼はよくそうする。たぶん本人は気づいていない。

 一度目のあの日、私はその仕草をただの照れだと思った。
 けれど今は、その指先が、言えない言葉の代わりに見えた。

 「……澪が聴いてくれるなら」

 「うん」

 「ちょっとだけ、頑張れるかも」

 その言い方が、思っていたよりもずっと子供っぽくて、胸の奥がきゅっとなった。

 「ちょっとだけ?」

 「いっぱい頑張るって言って失敗したら恥ずかしいじゃん」

 「保険かけた」

 「大事でしょ、保険」

 佐伯くんは拗ねたように言って、それから照れ隠しみたいに笑った。
 一度目には見落としていた仕草が、今は痛いくらいに目につく。
 
 それからしばらく、二人は何も言わなかった。
 本番まで、あと10分。

 何をすればいいのかも、何が正解なのかも分からなかった。ただひとつ確信していたのは、このまま何も気づかないふりをして、彼をステージに送り出してはいけないということだけだった。

 佐伯くんは、マイクを握ったままステージの袖を見つめていた。さっきまで軽口を叩き合っていた横顔には、もう笑みの欠片もない。

 『大丈夫だよ』

 そんな嘘を、彼はまた吐こうとしている。
 一度目の私は、その嘘を励ましで塗りつぶした。
 「向いてるよ」と言った。 「大丈夫」と背中を押した。
 けれど、その言葉が何を背負わせたのかを、今の私は少しだけ知っている。

 「佐伯くん」

 「ん?」

 振り返った彼の瞳に、張り詰めた震えを見た瞬間、私の中で何かが決まった。

 「……ごめん!」

 「え?」

 「先に謝っておくね!」

 言うなり、私は佐伯くんの指をマイクからほどき、その手を強く取った。

 「え、ちょ、澪!?もうすぐ出番なんだけど!」

 驚く声が背中で跳ねる。ステージ係の呼び止める声も、誰かが佐伯くんの名前を呼ぶ声も、熱を帯びた体育館の埃っぽい匂いも、すべてが遠ざかっていく。

 正しさなんて、後で誰かに怒られた時に考えればいい。
 今はただ、彼を縛りつけるこの場所から連れ出したかった。
 その一心で、澪は彼の手を引き、校舎の外へ向かって駆け出した。

 「澪、どこ行くの」

 「わかんない!でも、ここじゃないどこか遠く!逃げるの、少しだけ!」

 「文化祭って、そんな簡単に逃げていい行事だった?」

 「今日からそういうルールになりました」

 「勝手に校則変えないで」

 そう言いながらも、佐伯くんは抵抗しなかった。

 二人は体育館の裏口から外へ出た。校舎の外は、さっきまでの熱気が嘘みたいに静かだった。遠くでクラスの呼び込みの声が聞こえる。紙皿を重ねる音、誰かの笑い声、スピーカーから流れる少し割れた音楽。その全部が、厚い膜の向こう側の出来事みたいだった。

 「……うん。こういうのも、悪くないかも」
 
 佐伯くんが走りながらそう言って、後ろで小さく笑った。
 
 「でしょ?こういうのも、たまには良いでしょ」

 「澪さーん、そこは別に褒めてません」

 「佐伯くん、なんか意地悪」

 「こういうのも、たまには良いでしょ」

 「あ、私の真似した」

 二人で笑いながら走っていると、空は、いつの間にか重たい灰色に沈んでいた。

 「雨、降りそう」

 佐伯くんが空を見上げる。

 「降らないでしょ」

 「いや、これ降るやつだよ」

 「佐伯くん、天気予報できるの?」

 「できないけど、なんとなく」

 「根拠なし?」

 「根拠はない。でも、俺のなんとなくはわりと当たる」

 「さっき緊張してないって言った人のなんとなく、信用していいのかな」

 「それは別件です」

 そう言って、佐伯くんは少しだけ拗ねた顔をした。

 その表情が、澪には意外だった。ステージの上で光を浴びる彼でも、テレビの向こうで完璧に笑う紫音でもない。

 目の前にいるのは、からかわれると少しむくれて、でも本気で怒るわけではなくて、すぐに笑ってしまう、どこにでもいる高校生の男の子だった。

 ぽつ、と音がした。
 佐伯くんの言った通り、彼の肩に小さな雨粒が落ちる。
 最初は一粒。それから思い出したように、乾いたアスファルトに濃いシミを広げていく。

 澪は足を止めて空を見上げた。いつの間にか、頭上を湿った風が吹き抜けていく。けれどその雨は、不思議と冷たくなかった。張り詰めていた世界の輪郭が溶け出していくみたいに、静かで、少しだけ優しかった。

 「雨?」

 「ほら、やっぱり降ってきた」

 「佐伯くん、今それ得意げに言うところじゃないでしょ」

 「今くらい得意げにならせてよ。人生初の大脱走中なんだから」

 冗談めかした佐伯くんの声は、アスファルトを叩く雨音に混じって、さっきよりずっと軽やかに響いた。その響きが、澪の胸の奥を小さく震わせる。

 私は、一度目の文化祭で、彼の強さばかりを見ていた。
 でも、二度目の今。本当に見なければいけなかったのは、マイクを握る指の白さだったのだと思う。

 この雨の匂いの中でだけ、彼はようやく本当の息ができているのかもしれない。

 降り始めた雨の静けさの中で、私は強くそう思った。