光のあとで、君を想う。

 続けて、隣にいた男子が口を開いた。

 「前はさ、人前に立つタイプじゃなかったじゃん。でもあの日から、急に“見られる側”になったっていうか」

 「廊下ですれ違うだけで、他のクラスの子が見てたよね。あ、文化祭で歌ってた人だ、みたいに」

 「本人は笑ってたけどさ」

 そこで、男子は少し言葉を迷わせた。

 「あれ、嬉しかったのかな」

 嬉しかったのかな。

 その言葉が、澪の胸に引っかかった。

 「……嬉しかったと思う」

 気づけば、澪はそう答えていた。自分でも少し驚くくらい、早い返事だった。反論というほど強くはない。けれど、そう言わなければ、あの日の佐伯くんごと否定されてしまうような気がした。

 「だって、ステージの上で笑ってた。拍手が起きた時も、ちゃんと前を見てたし……帰り道でも、やってみようかなって言ってたから」

 言いながら、澪は必死に記憶を探っていた。

 体育館の熱気。マイクを握る佐伯くんの手。歌い終わった瞬間に湧いた歓声。ステージの上からこちらを見つけた時の、少し泣きそうな笑顔。

 ほら、やっぱり嬉しそうだった。

 そう思いたかった。

 けれど、もしかしたら。

 あの笑顔の中には、喜びだけではないものが混ざっていたのかもしれない。

 「でも、佐伯って優しかったよな」

 別の男子が、ぽつりと言った。

 「褒められたら困ったみたいに笑うけど、否定しすぎないんだよ。こっちが気まずくならないように」

 「分かる。期待されると、ちゃんと応えようとする感じあった」

 「そうそう。冗談で言ったことでも、意外と真面目に受け取るんだよな」

 澪は、喪服の袖口をぎゅっと握った。
 期待されると、ちゃんと応えようとする。
 それは、あの帰り道で見た佐伯くんそのものだった。

 「向いてるよ」

 そう言った時、彼は足を止めた。しばらく黙って、それから小さく笑って、「やってみようかな」と言った。

 澪はその瞬間を、夢が始まる瞬間だと思った。

 でも、彼にとっては。
 夢の始まりであると同時に、誰かに見られる自分を引き受けた瞬間でもあったのかもしれない。

 隣にいた女子が、追悼冊子の写真へ視線を落としたまま言った。

 「佐伯くん、篠宮さんのこと、覚えてたと思うよ」

 「え?」

 「高校の時、たまに言ってた。篠宮さんが聴いてくれると、ちょっと安心するって」

 澪は言葉を失った。

 嬉しいはずの言葉だった。実際、胸の奥は熱くなった。けれど同時に、その言葉は静かに重くなっていく。

 ――安心。その言葉を、澪はどう受け取ればいいのか分からなかった。

 自分が佐伯くんにとって、少しでも安心できる存在だったのなら、どうして自分は見落としてしまったのだろう。

 「でもさ」

 女子は少し迷うように視線を落とした。

 「佐伯くんって、安心してる時でも、ちゃんと無理しちゃう人だった気がする」

 「無理?」

 「うん。大丈夫って言いながら、人の期待に合わせちゃうっていうか。私たちも、文化祭のあと面白がっていろいろ言っちゃったから。アイドル向いてるとか、絶対売れるとか」

 彼女はそこで言葉を切った。

 「悪いこと言ったつもりはなかったんだけどね」

 それは、澪自身の言葉でもあった。悪いことを言ったつもりはなかった。
 むしろ、本気で応援していた。佐伯くんの声が誰かに届くことが嬉しかった。
 彼が光の中へ進んでいく未来を、誇らしいと思った。

 けれど今、その応援の輪郭が少しだけ滲んで見えた。

 同級生たちの話す佐伯くんは、澪の知っている佐伯くんと重なっているのに、どこか少しずれていた。

 歌っている佐伯くん。光の中で見つけられていく佐伯くん。みんなにすごいと言われる佐伯くん。

 澪は、その姿ばかりを綺麗だと思っていた。

 佐伯くんのことを、もっと教えてほしい。
 私が見ていた彼と、あなたたちが見ていた彼は、どこが違っていたのか。
 あの日、私が聞かなかったことを、今なら聞きたい。

 そう言おうとした。
 けれど、その言葉は声にならなかった。

 かわりに視線が、手元の追悼冊子へ落ちる。表紙には、紫音の名前と、高校時代の写真があった。

 文化祭の体育館。

 少し不鮮明な写真の中で、制服姿の佐伯くんがマイクを握っている。ステージの光を浴びた横顔は、まだアイドルの紫音ではなく、澪の知っている佐伯くんだった。

 写真の下には、短い説明が添えられていた。

 ――高校時代の文化祭をきっかけに、歌の道へ。

 その一文を指でなぞった瞬間、冷たさが紙から指先へ移った。

 胸の奥で、何かが強く脈打つ。息が浅くなり、ロビーの空気が急に薄くなったように感じた。さっきまで聞こえていた同級生たちの声が、遠くなる。まだ目の前にいるはずなのに、薄いガラスの向こうで話しているみたいだった。

 怖い。また、戻される。

 そう思った瞬間、澪は冊子を握りしめた。

 行きたいわけじゃない。でも、知らないままでいたくない。

 あの文化祭の日に何を見落としたのか。佐伯くんが笑う前に何を飲み込んでいたのか。自分の言葉が彼にとって何だったのか。

 知りたい。
 怖くても、今度こそ知りたい。
 そう思った時、世界の輪郭がゆっくり歪み始めた。

  ロビーを歩く参列者の革靴の音が、少しずつ上履きの軽い足音に変わっていく。受付のペンが紙を擦る音は、パンフレットをめくる音に重なり、誰かの押し殺した嗚咽は、遠くから聞こえる文化祭の呼び込みの声へとほどけていった。

 白百合の甘く冷たい匂いの奥から、焼きそばのソースが焦げる匂いと、体育館の古い床の匂いが滲み出す。祭壇に灯る小さな明かりは、ステージ袖からこぼれる照明の白さに変わり、黒い額縁の中で笑う紫音の輪郭が、夕立の前の空みたいに滲んでいく。

 その向こうに、制服姿の佐伯くんがいた。
 マイクを握る指に、力が入っている。

 体育館のざわめき。スピーカーのノイズ。誰かがパンフレットを丸める音。拍手の前の、落ち着かない熱。

 そして、ステージ係の声。

 「次、10分後に佐伯たちのステージだから!」

 その瞬間、澪の手の中にあった追悼冊子は、文化祭のパンフレットへと変わっていた。