光のあとで、君を想う。

 変えられなかった。
 その事実は、言葉になる前に、冷たい澱のように体の奥へ沈んでいった。

 泣きたいのか、悔しいのか、それすらよく分からない。ただ、胸の奥に小さな湿り気のようなものが残っていた。雨が降る前の、あの低く立ち込める空気に似ている。まだ一滴も落ちてきていないのに、肌だけが先に世界の変化を予感しているような重さだった。

 あの断片が、頭から離れない。

 暗い部屋。閉め切られたカーテン。机の上のマイク。開いたままのノート。画面の光だけが青白く浮かぶスマートフォン。
 そして、澪の知らない顔をした紫音。

『……期待、されるのが』

 途切れた声は、電子的なノイズに紛れて消えた。
 期待されるのが、苦しかったのだろうか。

 そう考えた瞬間、澪は反射的に首を振った。そんなはずはないと思いたかった。だって文化祭の日の佐伯くんは、確かに笑っていた。

 体育館中に拍手が広がった時、少し泣きそうな顔で、それでもちゃんと前を見ていた。澪を見つけた瞬間の瞳の揺らぎも、帰り道で「やってみようかな」と漏らした声の温度も、今でもはっきり覚えている。

 あれは、嬉しさだったはず。
 見つけられたこと。声が届いたこと。自分の中にあるものを、誰かに受け取ってもらえたこと。
 澪はそう信じていた。信じたかった。

「向いてると思うよ」

 あの日、澪は確かに善意でそう言った。彼の背中を押したかった。震えている佐伯くんに、あなたの声はちゃんと届くのだと教えたかった。
 その言葉が、彼の未来を照らす光なのだと疑わなかった。けれどその光が、なぜか今は、少しだけ目に痛かった。
 その考えが指先を掠めた瞬間、澪は逃げるようにスマートフォンを伏せた。

 斎場へ向かうための準備を進める。 鏡の前に立つと、喪服姿の自分が映っていた。
 ほんの少し前まで、眩しい陽光の下で制服の裾を揺らし、彼の隣を歩いていたはずの体が、今は光を吸い込む黒い布に包まれている。その落差があまりに不自然で、澪は鏡の中の自分から目を逸らした。

 斎場のロビーには、白百合の甘く冷たい匂いが停滞していた。受付の前には、喪服を着た人たちが静かに列を作っている。誰もが少しだけ声を落とし、足音まで遠慮しているようだった。

 記帳を済ませると、スタッフから薄い追悼冊子を手渡された。表紙に印刷された紫音の名前を見た瞬間、澪は指先に力が入るのを感じた。

 ロビーの奥には、紫音のパネルや愛用していた品々が並べられている。ステージで使っていたマイク。雑誌の撮影で身につけていたアクセサリー。メンバーと笑い合う写真。画面の向こうで何度も見てきたものばかりなのに、それはもう触れることのできない遠い物語の欠片のように見えた。

 祭壇には、黒い額縁に入った紫音の写真が飾られている。何度も見てきた、完璧なアイドルの笑顔。

 柔らかくて、眩しくて、誰もが安心して涙を流せるような笑顔だった。

 それなのに今の澪には、その笑顔がほんの少しだけ違って見えた。優しいはずなのに、どこか遠い。誰かを安心させるために、あらかじめそこに置かれた笑顔みたいだった。

 焼香を終えた人の流れに押され、澪はロビーの端へ移動した。そこで、高校時代のクラスメイトが数人固まっていることに気づく。

 文化祭の日、佐伯くんに「プロいけるって」と無邪気に笑いかけていた男子もいた。

 彼らなら、あの文化祭の向こう側を知っているかもしれない。
 澪が見ていなかった佐伯くんを、覚えているかもしれない。

 声をかけるのは怖かった。けれどここで背を向けたら、自分はまた、あの日のまぶしさだけを信じてしまう気がした。
 澪は追悼冊子を抱え直し、彼らの方へ歩み寄った。

「……久しぶり」

 声をかけると、同級生たちは驚いたように振り返った。

「篠宮?」

「篠宮さん、だよね。……懐かしいな、こんなところで」

 男子の一人が、少しだけ表情を緩めた。

「あの文化祭の時、ほんと助かったよ。篠宮さんがいなかったら、たぶん最後までぐだぐだだったと思うし」

「そんなことないよ」

「いや、あったって。パンフレットとか、タイムスケジュールとか。篠宮さん、ずっと俺たちの真ん中でまとめてくれてたじゃん」

  その言葉をきっかけに、記憶の奥に沈んでいたあの日の光景が、淡い光を浴びるように浮かび上がってきた。

 机の上いっぱいに広げたパンフレットの下書き。誰かがふざけて投げた消しゴム、誰かの笑い声。締切が近いのに、どこか永遠が続くような気がしていた放課後。
 窓際では佐伯くんが、困ったように、でも少し嬉しそうに笑いながら、渡された歌詞カードをなぞっていた。

 あの時の自分は、ただ純粋に、この景色を守りたかった。
 文化祭が成功すればいい。佐伯くんが歌ってくれたら、きっと世界はもっと輝く。
 ――そう思っていた。

「篠宮さんが声をかけてくれたから、佐伯とのいい思い出ができたよ。俺たちは、あの日を忘れないと思う」

 その男子は、迷いのない顔でそう言った。
 だから一瞬、澪は救われそうになった。視界がふわりと軽くなるのを感じた。
 
 自分の言葉は間違いではなかった。佐伯くんが歌ったことは、誰かの中にちゃんと光として残っている。あの日、ステージの上で確かに彼は笑っていたのだ。

 そう思いかけた瞬間、胸の奥で小さく何かが痛んだ。

 ――自分が、声をかけたから。

 かつての澪なら、その事実を少しだけ誇りに思ったかもしれない。佐伯くんの才能に気づいたのは自分だった。彼の背中を押せたのは自分だった。そんなふうに、胸の奥でひそかに大事にしていた気持ちが、確かにあった。

 その誇らしさが、今は少し怖かった。

「……佐伯くん、あのあと楽しそうだった?」

 澪は、自分でも驚くほど慎重な声で問いかけた。
 彼らはすぐには答えなかった。懐かしい話をしていた表情が、少しだけ曇る。

「楽しそう、ではあったと思うけど」

「思う?」

「うん。笑ってたし、声かけられても普通に返してたし。でも……」

 隣にいた女子が、言葉を継いだ。

「文化祭のあとから、何ていうか……少し、変わったよね」

 ――変わった。

 その言葉が、ロビーの白い床にぽつりと落ちた。

 まだ、雨は降っていない。
 けれど澪は、その時たしかに、空気が湿り始める音を聞いた。