光のあとで、君を想う。

 その一音が響いた瞬間、体育館の空気ががらりと変わった。広い空間に溢れていた笑い声も、慌ただしい足音も、すべてがその音に吸い込まれるようにして消えていく。ステージの上、スポットライトに照らされた佐伯くんは、昨日まで音楽室で見かけていたのと同じ制服を着ているはずなのに、今の彼はずっと遠い、知らない誰かのように見えた。

 大勢の視線を浴びながら、彼の声は少しずつ輝きを増していく。昨日まで何度も聴いていたはずのその声は、体育館に響いた瞬間、澪の知っているものではなくなった気がした。

 歌う彼の横顔は真剣で、時折、何かを確かめるように客席へ視線を向ける。そのたびに澪は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

 音楽室の狭い空間でまっすぐ届いてきた声が、今は高い天井まで広がり、そこにいる全員の呼吸を少しずつ変えていく。最初は友達同士で話していた生徒たちも、いつの間にかステージを凝視していた。スマホを構える人、目を丸くする人、隣の友達と顔を見合わせる人。みんな同じように圧倒されていた。

 澪の胸が高鳴る。自分だけが知っていた宝物を、みんなが見つけてしまったような気がした。寂しいのに、誇らしい。私だけが彼を理解しているという優越感が、歓声に混じって甘く胸を満たしていく。

 歌い終えた瞬間、大きな歓声が沸き起こった。拍手と、名前を呼ぶ声と、誰かが興奮して立ち上がる音が、体育館の空気を一気に揺らす。

 「すげえ!」
 「やば!」
 「誰あれ!」
 「佐伯、プロいけるって!」

 あちこちから声が飛ぶ。さっきステージ袖にいた男子の声も混ざっていた。

 ステージの上で、佐伯くんは少しだけ目を見開いていた。信じられない、という顔だった。それから、少し泣きそうな顔で笑った。

 澪は胸がいっぱいになった。本当によかった。彼が歌ってくれて。
 あの時の澪には、その笑顔が純粋な喜びにしか見えなかった。拍手と歓声を受け取って、彼がようやく自分の居場所を見つけたのだと信じていた。

 けれど、今なら分かる。

 彼は笑う前に、一瞬だけ周りを見ていた。誰が驚き、誰が笑い、誰が自分をどう見ているのか。その小さな視線の揺れを、澪は確かに見ていたのだ。

 見ていたはずなのに、それをただの照れだと思い込んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 文化祭が終わる頃には、佐伯くんはちょっとした有名人になっていた。廊下ですれ違うたびに、「あ、歌の人だ」「佐伯だっけ、めっちゃ上手かったよね」とささやき声が聞こえる。そのたびに彼は困ったように笑い、相手の顔を確かめるように一度だけ視線を上げた。

 澪はその様子を見るたび、誇らしくなった。

 同時に、ステージに上がる前の彼を止めようとした自分のことが、少し分からなくなった。こんなにたくさんの人が喜んでいて、彼自身も笑っている。なら、あれでよかったのだと思いたかった。

 「有名人じゃん」

 「やめて」

 「サインください」

 「いらないでしょ」

 「将来、高く売れるかもしれないし」

 「最低だな」

 二人で笑った。その時の澪にとって、それはただの冗談だった。

 いつか本当に、彼が誰かに求められる存在になる。サインという言葉は、そんな明るい未来の予兆だと思っていた。

 けれど本当の予兆は、もっと手前にあった。マイクを握る指に力が入っていたこと。怖い、と言うまでに少しだけ間があったこと。拍手のあと、笑う前に周りを見たこと。

 その全部を、澪は見ていた。見ていたのに、未来へのきらめきだと思い込んでしまった。


 ◇ ◇ ◇


 後片付けが終わる頃には、校舎の熱も少しずつ冷めていた。廊下に残った紙飾りが、夕方の風に揺れている。朝から浮き足立っていた校舎が、ようやくいつもの顔に戻ろうとしていた。

 帰り道、夕焼けが街を赤く染めていた。

 「今日、どうだった?」

 澪が聞くと、佐伯くんは少し考えた。

 「すごかった」

 「自分で言う?」

 「だって、本当にすごかったから」

 彼はそう言って苦笑した。

 「みんな見てた」

 「うん」

 「ちょっと怖かった」

 その言葉に、澪は足を止めた。

 やっぱり、そうなんだ。
 怖いのは、自分を信じきれないからだ。みんなの拍手を、ちゃんと自分のものとして受け取れないからだ。そう思った。

 だから澪は、今度こそ踏み込まなければいけないと思った。止めるのではなく、彼に自信を持たせること。歌っていい、そこにいていい、あなたには価値があると伝えること。それが、今の彼に必要な救いなのだと思った。

 「向いてるよ」

 佐伯くんが顔を上げる。

 「え?」

 「今日の佐伯くん、本当にかっこよかった。みんな見てたし、私も見てた。目が離せなかったよ」

 夕焼けの中で、彼は少しだけ視線を逸らした。耳が赤く見えたのは、夕陽のせいかもしれない。

 「だから、もっと歌えばいいと思う」

 彼は何も答えなかった。言葉の代わりに、頬を掠めるように風が吹いた。長い沈黙だった。

 澪はその沈黙を、不安ではなく迷いだと思った。夢の入口に立った人が、最初の一歩を踏み出す前に立ち止まっているだけなのだと。

 「向いてるよ」

 もう一度言った。

 「佐伯くんの声は、ちゃんと届くよ。少なくとも、私には届いてる」

 その瞬間、彼の表情がほんの少しだけ変わった。嬉しそうに見えた。けれどその奥で、何かが静かに閉じたようにも見えた。

 澪はその違和感を、どうしても言葉にできなかった。

 「そっか」

 しばらくして、彼は小さく笑った。

 「じゃあ」

 少し間を置いて、彼は続けた。

 「……やってみようかな」

 その声は、夢を見つけた人の声というより、逃げ道を自ら塞ぐような、静かな断念の響きが混ざっていた。それでも澪は嬉しかった。
 自分の言葉が、彼に自信を渡せたのだと思った。誰かの未来が、目の前で開いていく瞬間を見た気がした。

 けれど、その瞬間のことだった。
 夕焼けの色が、急に濃くなった。

 世界のどこかで、薄いガラスにひびが入るような音がした気がした。澪は足を止める。胸に苦しい波が打ち寄せた。理由は分からないけれど、体の奥が先に知っていた。

 自分は、何かを決定的に間違えたのだ。

 夕焼けの中に、別の光景が混ざり始める。

 暗い部屋。閉め切られたカーテン。机の上に置かれたマイク。開いたままのノート。画面の光だけが浮かぶスマホ。

 そこに、「紫音」がいた。

 ステージの上や、テレビの向こうで完璧に笑う彼ではない。部屋の隅で、ひとりで息をするように肩を上下させている、澪の知らない顔をした彼だった。
 音はほとんど聞こえなかった。ただ、途切れた声の一部だけが、澪の胸の奥に落ちた。

 『……期待、されるのが』

 そこで映像は途切れた。

 「澪?」

 彼の呼び掛けに意識が戻る。目の前の彼は、まだ高校生の佐伯くんのままだった。夕焼けの道に立って、澪の顔を不思議そうに覗き込んでいる。

 けれど、澪の指先は、徐々に感覚を失っていくような冷たさに襲われていた。

 違う。自信がなかったからじゃない。
 澪がそこまで分かりかけたとき、言葉になるより早く、世界が歪み始めた。

 夕陽の赤が水に溶ける絵の具みたいに滲んでいく。自転車のベルの音が長く尾を引いて、風の中にほどけた。彼の輪郭も、光の中にゆっくりと溶けて消えていく。

 伸ばしかけた手は、届かなかった。
 呼び止めなければ。
 そう思ったけれど、何を言えばいいのか分からなかった。

 不意に、世界から色も音も消えた。


 ◇ ◇ ◇


 次に鼻先をかすめたのは、白百合の甘く冷たい香りだった。
 その匂いを、澪は嫌というほど知っている。

 目を開けると、そこは自分の部屋だった。

 自分が喪服を着ていることに気づく。高校の帰り道でも、夕焼けの中でもない。佐伯くんの背中は、もうどこにもなかった。机の上には白い封筒と葬儀の案内が置かれている。静まり返った部屋。窓の外を通り過ぎていく車の音だけが、やけに生々しく鼓膜を揺らす。

 澪は、指先ひとつ動かせなかった。

 戻ってしまったのだ。
 またしても、あの日に。

 そう理解するまでに、、ひどく時間がかかった。心臓の音がうるさい。指先は、感覚を失うほどに冷え切っている。つい先ほどまで肌を焼いていた、あの眩しい夕焼けの残像がまだ体内にあどけなく残っているというのに。視界を占めるのは、光を吸い込むような不吉な黒。そして、鏡の中の、葬儀を待つ自分の姿だった。

 澪は震える手でスマートフォンを掴み取った。
 日付を確認するが変わっていない。
 ニュースの画面を開いても、そこには、網膜に焼き付いて離れないあの忌々しい文字が並んでいた。

 佐伯紫音、死去。

 何度も画面を更新した。別の記事を漁り、SNSのタイムラインを必死に遡る。何かが、ほんの一文字でもいいから変わっていてほしいと、祈るように指を動かし続けた。

 けれど、記事の内容も、世間の無責任な反応も、あの日味わった絶望の形も、何ひとつ変わってはいなかった。

 文化祭の日、佐伯くんに「歌うことに向いている」なんて告げた。
 歌ってほしかった。ただ、そう願ってしまった。
 彼に自信という名の救いを与えられたのだと、独りよがりな確信を抱いていた。

 けれど、そんなものはただの傲慢に過ぎなかったのかもしれない。

 澪は未来を書き換えたわけでも、彼の抱える脆さを救い上げたわけでもなかった。ただ、自分が見たいと切望した彼の姿を、もう一度だけ、眩しすぎる光の下へ無理やり引きずり出してしまったに過ぎない。

 傍らに置かれた鞄からは、持ってもいない数珠の重みが伝わってくる気がした。白百合の匂いなどどこからも漂っていないはずなのに、いつまでも鼻の奥に、死を象徴するあの香りがこびりついて離れない。

 澪はスマホを握りしめたまま、掠れた声でこぼした。

 「……また、この日なんだ」

 窓の外では、残酷なほどに穏やかな黄昏が静かに沈んでいく。
 紫音の死だけが、動かしようのない現実として、そこに横たわっていた。