光のあとで、君を想う。


 あの発言の翌日。
 澪は目覚ましが鳴るよりも早く、ふと目を覚ました。

 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。机の上には使い込まれた教科書と、文化祭パンフレットの下書き。見慣れた、高校時代の自分の部屋だ。

 不思議と、あの日々へ戻るようなタイムリープは起こらなかった。
 それからは放課後になるたび、音楽室へと通う日々が始まった。

 文化祭まで、あと数日。
 即席で結成されたはずのクラスバンドは、急ごしらえとは思えないほど形になりつつあった。

 澪は壁際のパイプ椅子に腰を下ろし、歌詞カードを膝に広げながら、ステージ中央に立つ佐伯くんを見つめていた。
 マイクを握る彼の横顔は、驚くほど真剣だった。

 練習を重ねるたび、その歌声はまっすぐ澪の胸に届いた。
 彼が歌い始めると、音楽室の喧騒は嘘のように静まり返る。誰もがその声に、吸い寄せられるように聞き入っていた。
 誰かの心にそっと寄り添うような、そんな響きだった。

「……どうだった?」

 曲が終わると、佐伯くんが少し不安そうにこちらを覗き込んできた。

「すごくよかった……!」

 澪が伝えると、彼は目に見えて肩の力を抜いた。

「……よかった」

「そんなに緊張してたの?」

「してたよ。反応が微妙だったらどうしようって、ずっと考えてたから」

 冗談っぽく笑ってはいるけれど、その声には少しだけ本音が混じっているようだった。

「みんなに変だって思われたら嫌だしさ」

 その言葉を聞いて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 嬉しいけれど、それ以上に怖かった。
 この先、彼を苦しめる未来が待っている。
 当時の自分は、まだそんな残酷な結末を知りもしなかった。


 休憩時間、澪は自販機で買ったスポーツドリンクを差し出した。

「はい。お疲れさま」

「ありがとう」

 ペットボトルを受け取りながら、佐伯くんは照れくさそうに笑う。
 額に滲んだ汗を手の甲で拭い、一息ついてから、彼はぽつりと言った。

「俺の声ってさ、ちゃんと届いてるかな」

 思いがけない問いかけに、澪は思わず瞬きをした。
 佐伯くんは手元のふたを指先でいじりながら、はにかむように笑った。

「いや、変なこと聞いてごめん」

「変じゃないよ」

 澪はすぐに首を振った。

「届いてるよ。少なくとも、私にはちゃんと届いてる」

 佐伯くんは驚いたように目を見開いた。
 それから、どこか困ったような、愛おしそうな顔で笑う。

「……そっか」

 その声は小さかった。
 けれどその一言だけは、どれほどの時間を経ても、決して消えない予感がした。

「篠宮さんって、本当に優しいよね」

「そんなことないよ」

「いや、あるよ」

 即答されて、澪は言葉を失った。
 佐伯くんは少しだけ、真面目な顔になる。

「俺、文化祭の話を聞いたとき、正直すごく迷ってたんだ。でも、篠宮さんが『歌ってほしい』って言ってくれたから、やってみようって思えたんだよ」

「……ありがとう」

 そう言って笑う彼を見て、胸が熱くなった。
 彼の笑顔を、自分が引き出せたことが純粋に嬉しかった。

 けれど同時に、得体の知れないざわつきが胸をかすめる。

「歌ってほしい」という一言で、この人はこれほど簡単に、自分を差し出してしまう。

 その危うさが、たまらなく不安だった。
 そのとき、音楽室の扉が開いてクラスメイトの声が響いた。

「佐伯、そろそろ次いくぞ」

「はーい」

 佐伯くんは立ち上がり、数歩歩いたところで不意に振り返った。

「澪」

 初めて名前で呼ばれた。
 一瞬、心臓が跳ねて止まったような気がした。

「今日も聴いてくれて、ありがとう」

 佐伯くんは笑っていた。
 柔らかくて、優しくて、誰もが手を貸したくなるような笑顔で。
 けれどステージへ戻る直前。彼は教室の空気を確かめるように、ほんの一瞬だけ、周囲に視線を巡らせた。
 その仕草を見た瞬間、澪の脳裏にひとつの映像が蘇った。


 ◇ ◇ ◇


 LUMiAのドキュメンタリー番組の一場面。
 楽屋でスマホを握りしめる紫音に、メンバーが呆れたように声をかける。

『またエゴサしてるの?』

『してないってば』

 紫音は慌ててスマホを伏せるけれど、隙間から見えた画面は「#LUMiA」のタグで埋め尽くされていた。

『気にしすぎると疲れるよ』

 そう言われると、紫音は困ったように笑った。

『……でも、やっぱり気になるんだ。みんながどう思っているのか』

 画面の中の彼は、笑っていた。
 優しくて、穏やかで、完璧なアイドルの顔をして。

 けれど澪は知っている。
 この数年後、彼はその笑顔を浮かべたまま、静かに壊れていく。
 誰にも、その悲鳴を気づかれないまま。


 ◇ ◇ ◇


 過去の自分が見逃していた、彼の一部。
 その欠片に、今ようやく触れた気がした。

 昔から、彼はこうだったのかもしれない。

 今度こそ、もう見逃したくない。
 優しすぎる笑顔も、期待に応えようとする癖も、嫌われることを恐れる怯えも。
 そのすべてが、彼が崩れていく前触れだったのだとしたら。

 そして明日。
 あの日が、もう一度始まる。