目を開けた瞬間、見慣れた白い天井が視界に飛び込んできた。
澪はしばらく、現実を確かめるように瞬きを繰り返した。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
ベッドの横のサイドテーブル。
閉じたままのノートパソコン。
見慣れた、現代の自分の部屋だった。
「……戻ってきたんだ」
掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
高校時代の彼と再会し、
同じ帰り道を歩き、
「また明日」と言葉を交わした。
たったそれだけのことなのに、
昨日まで止まっていた時間が、
少しだけ動き出したような気がした。
でも――
あの時交わした「また明日」は、
結局、来なかった。
その事実が、改めて澪に残酷な現実を突きつける。
【この世界には、もう彼はいない。】
昨日まで当たり前のように存在していたはずの人が、
もう、どこにもいない。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
――あれは、夢だったのだろうか。
そう思って部屋を見渡すと、机の上には昨夜まで抱きしめていた文化祭の日の写真が置かれていた。
「……これを抱いて眠っていたから、あんな夢を見たんだろうな」
そう自分に言い聞かせることしかできなかった。
ふと時計に目をやると、もうすぐ出勤の時間だった。
「急がないと……」
悲しくても、時間は止まってくれない。
澪は慌ててベッドを降り、いつもの朝の支度を始めた。
◇ ◇ ◇
会社に着いても、仕事はほとんど手につかなかった。
パソコンの画面を見つめながら、
澪の頭の中には、夕焼けの帰り道が何度もよみがえる。
――また明日。
もう二度と聞けないと思っていた言葉。
それをもう一度聞けたことが、胸の奥で何度も優しく響いていた。
けれど同時に、別の思いも澪の中で大きくなっていた。
――私が、あの一言を言わなければ。
文化祭のステージに立つことを勧めなければ、
紫音はアイドルにならなかったかもしれない。
あの眩しい光の中へ進むことも、
たくさんの期待を背負うことも、
ひとりで苦しみを抱えることも、
なかったのかもしれない。
そう思うと、
胸の奥がざわざわと波立った。
罪悪感と後悔が、静かに心を締めつけていく。
「篠宮さん、大丈夫? 顔色悪いよ」
隣の席の先輩の声に、澪ははっと顔を上げた。
「えっ、すみません……少し休んできます」
澪は軽く頭を下げ、逃げるように給湯室へ向かった。
紙コップに注いだコーヒーから、ゆっくりと湯気が立ちのぼる。
スマホを取り出すと、SNSには今も紫音の話題が溢れていた。
ファンの投稿。
ライブの映像。
追悼メッセージ。
その中に、ある動画が流れてきた。
LUMiAのドキュメンタリー番組の一場面だった。
『紫音さんが歌を本気でやろうと思ったきっかけって?』
インタビュアーの質問に、紫音は少し照れたように笑う。
『高校の文化祭かな』
澪の手が止まる。
画面の中の紫音は、 懐かしそうに目を細めていた。
『クラスで急にボーカルがいなくなってさ。 その時、ある子に
「佐伯くんが歌えばいいのに」って言われたんだ。
その一言が、今でもずっと残ってる』
胸が大きく脈打つ。
紫音は少し笑って、続けた。
『最初に、俺の歌を好きだって言ってくれた人だったから』
その瞬間、視界が滲んだ。
――やっぱり、あの日の何気ない一言が、彼の人生を変えてしまったんだ。
そして、その夢の果てで、彼は孤独になり闇に堕ちてしまった。
「……ここさえ無ければ。これを変えられたら、運命は変わったかもしれない」
「……もう一度、会いたい」
思わず零れたその言葉に、自分でも驚いた。
会いたい。もう一度だけでいい。
あの日の教室に戻って、今度こそ、彼を助けたい。
澪は震える指で、スマホの画面を閉じた。
静まり返った給湯室に、冷蔵庫の低い駆動音だけが響いている。
胸元にしまっていた文化祭の写真を、そっと取り出す。
夕焼けの教室で撮った一枚。
少し照れたように笑う佐伯くんと、その隣でぎこちなく微笑む自分。
写真の中の二人は、まだ何も知らない。
これから訪れる未来も、別れの痛みも。
澪は写真の中の佐伯くんの頬に、そっと指を重ねた。
「今度こそ……」
その瞬間、写真の表面がふわりと熱を帯びた。
指先から淡い光が広がっていく。
まるで、あの日のステージを照らしていたスポットライトのように。
光は瞬く間に強くなり、視界いっぱいに白く溢れた。
足元の感覚がふっと消え、身体が宙に浮くような感覚に包まれる。
耳の奥で、遠くから懐かしい声が聞こえた気がした。
――篠宮さん。
次の瞬間、すべてが眩しい光に包まれた。
◇ ◇ ◇
目を開くと、そこはまた、あの学生時代の教室だった。
黒板の日付を確認する。文化祭まで、あと一週間。
「やばいって、ボーカルどうするの?」
「このままだとライブできないじゃん」
軽音部のメンバーたちが、教室の後ろで頭を抱えている。
急に出られなくなったボーカルの代わりが見つからず、クラス中が困惑に包まれていた。
澪はその様子を見ながら、そっと佐伯君へ目を向けた。
彼は何気なく机を指先で叩いている。
そのリズムを、澪は知っていた。
――思い出した。
文化祭の準備で遅くなった、数日前の放課後。
誰もいないと思っていた教室の奥から、かすかな歌声を聞いた。
引き寄せられるように足を止める。
窓際に立つ佐伯くんが、 イヤホンを片耳だけ外し、小さく口ずさんでいた。
夕焼けの光の中で歌うその姿は、息を呑むほど綺麗だった。
透き通るような、まっすぐで優しい歌声。
澪は、しばらくその場から動けなかった。
歌い終えた佐伯くんが振り向き、目が合う。
「……聞いてた?」
気まずそうに笑う彼に、澪は正直に頷いた。
「うん。すごく、よかった」
佐伯くんは少し照れたように視線を逸らす。
「なんか、恥ずかしいな」
その表情を見つめながら、澪は静かに確信する。
やっぱり、この人は歌うことが好きだ。
そしてその歌は、たくさんの人の心を照らす力を持っている。
――この未来は、変えてはいけない。
◇ ◇ ◇
たとえその先に悲劇が待っていたとしても、彼のこの輝きを奪う権利は誰にもない。
ならば、変えるべきは「きっかけ」ではなく、その後の「未来」だ。
澪はゆっくりと立ち上がり、彼のもとへ歩み寄った。
「……佐伯くんが歌えばいいのに」
教室が静まり返る。 佐伯くんは目を丸くした。
「え!俺?!」
「うん。この前、歌ってるの聞いたことあるの。すごく上手だった」
クラスメイトたちもざわめき出す。
「え、佐伯って歌えるの?」
「やってみればいいじゃん!」
視線が一斉に集まる中、佐伯くんは困ったように笑った。
「いや、そんな大したことないって」
澪は、逃げ場を塞ぐように彼をまっすぐ見つめた。
「佐伯くんの歌、もっとたくさんの人に聴いてほしい」
一瞬、時間が止まったようだった。
佐伯くんの表情が変わる。
驚きと、照れと、そして隠しきれない喜び。
「……篠宮さんにそう言われると、なんか断れないな」
教室から歓声が上がった。
◇ ◇ ◇
結局、私はこの未来を変えることができなかった。
でも――
彼から歌を奪うことだけは、したくなかった。
あの日の放課後で歌う佐伯くんは、誰よりも幸せそうだった。
眩しい光の中で、本当に楽しそうに歌っていた。
だからこそ、願わずにはいられない。
どうか、この夢が叶いますように。
どうか、君がたくさんの光に包まれますように。
そして―― 、その光の先にある未来が、今度こそ、優しいものでありますように。

