それからの数日は、記憶が曖昧だった。
会社へ行っても、何も手につかなかった。
パソコンの画面を見つめたまま、同じ文章を何度も読み返す。
文字がただの記号のように滑り落ちていく。
「篠宮さん、大丈夫?」
隣の席の先輩に声をかけられても、うまく笑えない。
「……少し寝不足で」
そう答えるのが精一杯だった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
スマホを開けば、ニュースサイトもSNSも、彼の死を悼む言葉で埋め尽くされている。
【信じられない】
【昨日まであんなに笑ってたのに】
【どうして、紫音くんが】
どの言葉も、澪の胸を抉るだけだった。
でも、ただひとつ。
どうしても喉の奥に引っかかる言葉がある。
――自殺。
違う。
澪は心の中で何度も否定した。
昨日の紫音は、そんな顔をしていなかった。
苦しそうだったかもしれない。
でも。
最後まで、笑っていた。
最後まで、光でいようとしていた。
◇ ◇ ◇
通夜の日。
会場の外には、大勢のファンが集まっていた。
白い花。
すすり泣く声。
大型モニターに映し出される、紫音の笑顔。
澪は喪服の袖を握りしめ、遺影の前に立った。
写真の中の彼は、ステージの上と同じように輝いている。
「……佐伯くん」
名前を呼んだ瞬間、視界が歪んだ。
もっと早く気づけていたら。もっと何かできていたら。
好きだと、伝えられていたら。
遺影の前で、澪はただ立ち尽くすことしかできなかった。
帰宅したのは、夜遅くだった。
部屋の明かりもつけないまま、ベッドの横に座り込む。
机の上には、高校時代の写真立てが置かれていた。
文化祭の日のステージのあと、制服姿で並んで笑う二人。
澪は写真を手に取る。彼の笑顔が、涙で滲む。
「……会いたい」
声にした途端、堪えていた感情が溢れ出した。
「もう一度だけでいいから……」
写真の上に、ぽたりと雫が落ちる。
その瞬間。写真が淡く光った気がした。
「……え?」
視界の端が白く滲み、 光はどんどん強くなっていく。
まるで、あの日のステージのスポットライトのように。
澪は思わず目を閉じた。
◇ ◇ ◇
キーンコーンカーンコーン――。
鼓膜を震わせたのは、あまりにも聞き慣れた、あの頃のチャイムだった。
ゆっくりと目を開けると
埃の舞うざわめいた教室。机を引きずる耳障りな音。
窓の外から吹き込む、生ぬるい風。
――あの頃 見ていた風景が流れていた。
頬に当たる空気の温度まで、痛いほど鮮明だった。
「……え?」
顔を上げた瞬間、澪は息を呑んだ。
黒板の端に書かれた日付。
2016年 9月15日。
高校二年の秋。
その日のホームルームでは、文化祭の役割分担が行われた。
忘れるはずもない日付だった。
私と彼は、この日に偶然同じ係に選ばれた。
黒板に並んだ二人の名前。
それを見た瞬間、胸の奥が小さく震える。
――そうだ。
ここから、すべてが始まったんだ。
夢――?
そう思った直後。
「あ!篠宮さん、起きた?」
背後から聴こえてきたその声に、心臓が跳ねた。
ゆっくりと振り向く。そこにいたのは、制服姿の彼だった。
少しだけ困ったように笑う、その表情。
何度も夢に見た横顔。
昨日、遺影の中で見たばかりの彼だった。
「……佐伯くん」
震える声で名前を呼ぶ。
「え! ちょ、どうしたの?!」
気づけば、彼の制服の袖を必死に掴んでいた。
布越しに伝わる、確かな体温。
ドクンドクンと、規則正しい鼓動が指先に響く。
――生きてる。
――本当に、生きてるんだ。
「……よかった」
ぽろり、と涙がこぼれた。
彼は戸惑いながらも、私の顔を覗き込んできた。
「篠宮さん、本当にどうしたの?」
その他人行儀な呼び方に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
まだ「澪」じゃない。まだ、何も始まっていない頃の彼だ。
「……なんでも、ないです」
そう言いながらも、涙は止まらなかった。
もう二度と会えない、声を聞けない、笑ってくれない。
そう絶望していたはずの人が、今、目の前にいる。
――もう一度、会えた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
彼はしばらく私を見つめていたが、やがてふっと笑った。
「……困ったなあ」
その何気ない一言に、また泣きそうになる。
◇ ◇ ◇
放課後。
係の作業を終え、教室にはもうほとんど人が残っていなかった。
片付けをしながら、
「今日はびっくりしたよ。急に泣くから」
突然、思い出したかのように彼がくすっと笑う。
「……ごめん。忘れてください。」
恥ずかしさに顔を覆うと、
「ん~、無理だね!」
と、悪戯っぽく笑う明るい声が返ってきた。
「同じ係になったし、これからよろしくね」
「……よろしくお願いします。」
「じゃあ、帰ろうか」
たったそれだけの会話なのに、胸が苦しいほど嬉しかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
並んで歩く影が、夕焼けのアスファルトに長く伸びている。
話す内容はたわいないことばかりだった。
好きな教科。
文化祭の準備のこと。
最近ハマっている音楽。
それでも、隣に彼がいるというだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。駅前の分かれ道で、彼が立ち止まった。
「じゃあ、また明日ね!」
あまりにも自然なその言葉に、澪は一瞬、息を呑む。
昨日まで、二度と聞けないと思っていた言葉だった。
涙をこらえながら、私は精一杯の笑顔で
「……うん。また明日」
と答えた。
彼はいつものように手を振って、夕暮れの中へ駆けていった。
その背中を見つめながら、私はそっと胸に手を当てた。
――明日がある。
――もう一度、君に会える。
それだけで、こんなにも世界は優しく見える。
でも、ただ再会できただけでは足りない。
私は知っている。
この先に、君がひとりで抱え込む苦しみが待っていることを。
だから、今度こそ。
君の人生の終わり方を変えてみせる。
夕焼けの空を見上げながら、澪は静かに誓った。
――これは、絶望の終わり。
そして、君を救うための、物語の始まりだった。
会社へ行っても、何も手につかなかった。
パソコンの画面を見つめたまま、同じ文章を何度も読み返す。
文字がただの記号のように滑り落ちていく。
「篠宮さん、大丈夫?」
隣の席の先輩に声をかけられても、うまく笑えない。
「……少し寝不足で」
そう答えるのが精一杯だった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
スマホを開けば、ニュースサイトもSNSも、彼の死を悼む言葉で埋め尽くされている。
【信じられない】
【昨日まであんなに笑ってたのに】
【どうして、紫音くんが】
どの言葉も、澪の胸を抉るだけだった。
でも、ただひとつ。
どうしても喉の奥に引っかかる言葉がある。
――自殺。
違う。
澪は心の中で何度も否定した。
昨日の紫音は、そんな顔をしていなかった。
苦しそうだったかもしれない。
でも。
最後まで、笑っていた。
最後まで、光でいようとしていた。
◇ ◇ ◇
通夜の日。
会場の外には、大勢のファンが集まっていた。
白い花。
すすり泣く声。
大型モニターに映し出される、紫音の笑顔。
澪は喪服の袖を握りしめ、遺影の前に立った。
写真の中の彼は、ステージの上と同じように輝いている。
「……佐伯くん」
名前を呼んだ瞬間、視界が歪んだ。
もっと早く気づけていたら。もっと何かできていたら。
好きだと、伝えられていたら。
遺影の前で、澪はただ立ち尽くすことしかできなかった。
帰宅したのは、夜遅くだった。
部屋の明かりもつけないまま、ベッドの横に座り込む。
机の上には、高校時代の写真立てが置かれていた。
文化祭の日のステージのあと、制服姿で並んで笑う二人。
澪は写真を手に取る。彼の笑顔が、涙で滲む。
「……会いたい」
声にした途端、堪えていた感情が溢れ出した。
「もう一度だけでいいから……」
写真の上に、ぽたりと雫が落ちる。
その瞬間。写真が淡く光った気がした。
「……え?」
視界の端が白く滲み、 光はどんどん強くなっていく。
まるで、あの日のステージのスポットライトのように。
澪は思わず目を閉じた。
◇ ◇ ◇
キーンコーンカーンコーン――。
鼓膜を震わせたのは、あまりにも聞き慣れた、あの頃のチャイムだった。
ゆっくりと目を開けると
埃の舞うざわめいた教室。机を引きずる耳障りな音。
窓の外から吹き込む、生ぬるい風。
――あの頃 見ていた風景が流れていた。
頬に当たる空気の温度まで、痛いほど鮮明だった。
「……え?」
顔を上げた瞬間、澪は息を呑んだ。
黒板の端に書かれた日付。
2016年 9月15日。
高校二年の秋。
その日のホームルームでは、文化祭の役割分担が行われた。
忘れるはずもない日付だった。
私と彼は、この日に偶然同じ係に選ばれた。
黒板に並んだ二人の名前。
それを見た瞬間、胸の奥が小さく震える。
――そうだ。
ここから、すべてが始まったんだ。
夢――?
そう思った直後。
「あ!篠宮さん、起きた?」
背後から聴こえてきたその声に、心臓が跳ねた。
ゆっくりと振り向く。そこにいたのは、制服姿の彼だった。
少しだけ困ったように笑う、その表情。
何度も夢に見た横顔。
昨日、遺影の中で見たばかりの彼だった。
「……佐伯くん」
震える声で名前を呼ぶ。
「え! ちょ、どうしたの?!」
気づけば、彼の制服の袖を必死に掴んでいた。
布越しに伝わる、確かな体温。
ドクンドクンと、規則正しい鼓動が指先に響く。
――生きてる。
――本当に、生きてるんだ。
「……よかった」
ぽろり、と涙がこぼれた。
彼は戸惑いながらも、私の顔を覗き込んできた。
「篠宮さん、本当にどうしたの?」
その他人行儀な呼び方に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
まだ「澪」じゃない。まだ、何も始まっていない頃の彼だ。
「……なんでも、ないです」
そう言いながらも、涙は止まらなかった。
もう二度と会えない、声を聞けない、笑ってくれない。
そう絶望していたはずの人が、今、目の前にいる。
――もう一度、会えた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
彼はしばらく私を見つめていたが、やがてふっと笑った。
「……困ったなあ」
その何気ない一言に、また泣きそうになる。
◇ ◇ ◇
放課後。
係の作業を終え、教室にはもうほとんど人が残っていなかった。
片付けをしながら、
「今日はびっくりしたよ。急に泣くから」
突然、思い出したかのように彼がくすっと笑う。
「……ごめん。忘れてください。」
恥ずかしさに顔を覆うと、
「ん~、無理だね!」
と、悪戯っぽく笑う明るい声が返ってきた。
「同じ係になったし、これからよろしくね」
「……よろしくお願いします。」
「じゃあ、帰ろうか」
たったそれだけの会話なのに、胸が苦しいほど嬉しかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
並んで歩く影が、夕焼けのアスファルトに長く伸びている。
話す内容はたわいないことばかりだった。
好きな教科。
文化祭の準備のこと。
最近ハマっている音楽。
それでも、隣に彼がいるというだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。駅前の分かれ道で、彼が立ち止まった。
「じゃあ、また明日ね!」
あまりにも自然なその言葉に、澪は一瞬、息を呑む。
昨日まで、二度と聞けないと思っていた言葉だった。
涙をこらえながら、私は精一杯の笑顔で
「……うん。また明日」
と答えた。
彼はいつものように手を振って、夕暮れの中へ駆けていった。
その背中を見つめながら、私はそっと胸に手を当てた。
――明日がある。
――もう一度、君に会える。
それだけで、こんなにも世界は優しく見える。
でも、ただ再会できただけでは足りない。
私は知っている。
この先に、君がひとりで抱え込む苦しみが待っていることを。
だから、今度こそ。
君の人生の終わり方を変えてみせる。
夕焼けの空を見上げながら、澪は静かに誓った。
――これは、絶望の終わり。
そして、君を救うための、物語の始まりだった。

