『F1レーサー体験会参加者募集中』
会社の掲示板に貼られたチラシが、なぜか妙に気になった。
俺は四十歳の現場監督だ。
地方国立の工学部を出て、地元の建設会社に入った。施工管理技士、技術士……会社に言われるまま資格を取り続け、気づけば「便利な社員」になっていた。
仕事は忙しかった。
だが、それだけだった。
恋愛もない。結婚もない。趣味もない。
婚活アプリのメッセージも返ってこない。「俺の人生、なんだったんだろうな」
そう呟いた瞬間、気づけばチラシの番号に電話をかけていた。
「中井弘和様ですね。それではこれで受付完了です。当日は動きやすい服装でサーキットに来てください。開始時間の30分前から受付開始です」
お姉さんがかわいらしい声で必要事項をテキパキと伝えてくる。そういえば女性とまともに話したのは何日ぶりだろう。
こんな挑戦をするのって人生で初めてかもしれない。ひさびさに高鳴る鼓動を感じた。
指定されていたのは、隣の県の山中に国際サーキットだ。地方の中型のいわゆる「公認コース」となっており、時々それなりの大きな大会が開催されている。見渡すと新緑が目にまぶしい。
「私が今日の担当教官の福山だ。今日は一日よろしくな。知ってのとおりF1の車は普通の車と全く違う。とにかく危険だ」
「そ、そうですよね」
威圧的な言い方で説明してくる。
「とにかく、安全第一だ」
そう言いながら、福山教官はタバコを吸っていた。
灰がレーシングシューズの上に落ちる。
「まあ、人間そう簡単には死なんから」
この人、本当にF1の教官として大丈夫なんだろうか。
実は俺はこんな人とのコミュニケーションは嫌ではない。むしろ、どこか心地よかった。なぜだろう…
「ああそうか、現場の職長たちの雰囲気か」
体験会はサーキットの特徴やF1カーの構造や基礎的なレクチャーからはじまった。一時間後には実際に運転の操作方法の指導に移行する。
エンジンをかけた瞬間、腹の底まで振動が突き抜けた。
「うおっ……!」
普段乗っているコンパクトカーとはまるで比較にならない。
シートが低すぎて、アスファルトに尻を擦りつけながら走っているような感覚だった。ヘルメット越しに聞こえるエンジン音は、機械というより猛獣の咆哮に近い。アクセルを少し踏み込んだだけで、視界の景色が後ろへ吹き飛んだ。こんな世界があったのか。
「中井さん、いい線いってるね。覚えがほんまに早い。このままいけばプロレーサーになれるんじゃない?」
福山教官が目を丸くしている。指導が進むにつれて言葉遣いがさっきまでより丁寧になってきた。こういうタイプの人間は簡単には人をおだてることはない。本心でいっているのだろう。
福山教官の熱心指導が続いた。経験したことのない感覚…この歳になって、青春を取り戻しているのかしれない。福山教官との会話さえ心地よくなってきた。
「若いころから、もっといろんなことに挑戦していたらよかったな。そうすればもっと違った人生だったかも知れない」
そんな感情が腹のなかをぐるぐると回っていた。
走行を続けるうちに、尻に妙な違和感が出てきた。最初は振動のせいかと思った。だが、周回を重ねるごとに痛みは鋭くなっていく。熱い針を刺され続けているみたいだ。
「……教官」
「どうした?」
「け、ケツが、限界です」
「は?」
「いや、ほんとに。ケツの穴がめちゃくちゃ痛いです」
「ケツの穴ぁ!?どうしたんだ?」
「も、もうシートに座れないです。切れ痔っぽいです」
「……そんなに悪いのか?」
「はい。めちゃくちゃ痛いです。ちょっと限界……あ、いたたた……」
「ちょっと立ってみろ。おお!ズボンにも血がついているぞ。重症だな。そういう症状は初心者に出やすいんだ。この車は普通の車の十倍くらいの馬力があってな。千馬力以上……」
「は、はい……あ、あ、痛い」
「急いで病院で見てもらった方がいい」
福山教官は腕時計を見た。
「この時間なら救急も混んどるな……」
教官は少し考え込んだあと、当然のように言った。
「このままこの車で行きなさい」
「……はい?」
「この車、公道も走れるから」
「マ、マジすか?」
「この最速マシンで病院を目指すんだ。練習の成果を見せてみろ」
福山教官は重厚な扉についている赤色のボタンを押した。すぐに扉が開いた。前にある県道を指差している。
「ここから先も、安全第一だ」
俺はペコリと頭を下げて、サーキットを出ていった。
病院が見えてきたところで、突如サイレンの音が聞こえた。警察だ。
「そこのF1。止まりなさい!」
マイク越しの大きな罵声だ。俺はすぐに止められて尋問にあう。
「こんな車で公道を走れるわけないでしょう。ナンバーもついてないF1で公道を爆速で走る人初めて見たよ! これ立派な危険運転になるからね。覚悟しておいてね」
一瞬の沈黙。俺は急に我に返った。そりゃそうだよな、こんな車で公道を走っていいわけないことは子供でも分かる。
もしかしたらニュースになるような大事件を起こしてしまったかもしれない。なんてことをしてしまったのだろう。これで俺の人生も終わりか…なんだか意識が薄れてきた…。
『弘和!会社に行く時間よ、起きなさい』
どこかから声が聞こえる。ああ、母さんの声だ。意識を取り戻した俺は、部屋のベッドに寝転がっていた。
「夢だったか……」
天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
F1の振動も、
エンジン音も、
ケツの激痛も、
やけにリアルだった。
だが現実の俺は、六畳一間で母親に起こされる四十歳だった。
やっと取り戻したかに思えた青春もまさかの「夢落ち」だった。なんというみじめな人間だ。パンツの上からケツの穴を恐る恐るやさしく撫でてみる。
「切れ痔にもなっていない……俺の人生は全く変わらないな。俺らしいっちゃ、らしいか」
夢をきっかけに人生が変わる話なんて、漫画ではよくある。
でも俺には、そんな都合のいいことは起きなかった。それでこれをきっかけに一発逆転の展開になったりするんじゃないか。でも俺にはそれすらも叶わない。なんて言ったって、切れ痔にもなってない。
「ほんとダメな男だな」
でも、なんだか笑えてきた。
いつも通り、朝食のトーストを食べ、ベランダに出た。朝日がまぶしい。先週植えたトマトの種からかわいらしい双葉が顔を出している。
スマホを見た。ネットニュースに中学生のころ好きだったアイドルの美里ちゃんが、芸能会に復帰して初めてのコンサートをするとの速報が流れてきた。子どもが大きくなったのでコンサートツアーにも回れるようになったらしい。シングルマザーとして一生懸命頑張っている。応援したくなる。
「行ってみようかな」
人生で一度もコンサートに行ったことなんかなかった。でも、いまなら行けそうな気がする。小さいけど、踏み出してみよう。
この時の俺は、このきっかけで人生を変える大きな出会いがあることをまだ知らなかったのである。まさか俺なんかが、美里ちゃんとこんな関係になってしまうとは。
「子供部屋おじさん弘和」の物語はここから始まるのだった。
会社の掲示板に貼られたチラシが、なぜか妙に気になった。
俺は四十歳の現場監督だ。
地方国立の工学部を出て、地元の建設会社に入った。施工管理技士、技術士……会社に言われるまま資格を取り続け、気づけば「便利な社員」になっていた。
仕事は忙しかった。
だが、それだけだった。
恋愛もない。結婚もない。趣味もない。
婚活アプリのメッセージも返ってこない。「俺の人生、なんだったんだろうな」
そう呟いた瞬間、気づけばチラシの番号に電話をかけていた。
「中井弘和様ですね。それではこれで受付完了です。当日は動きやすい服装でサーキットに来てください。開始時間の30分前から受付開始です」
お姉さんがかわいらしい声で必要事項をテキパキと伝えてくる。そういえば女性とまともに話したのは何日ぶりだろう。
こんな挑戦をするのって人生で初めてかもしれない。ひさびさに高鳴る鼓動を感じた。
指定されていたのは、隣の県の山中に国際サーキットだ。地方の中型のいわゆる「公認コース」となっており、時々それなりの大きな大会が開催されている。見渡すと新緑が目にまぶしい。
「私が今日の担当教官の福山だ。今日は一日よろしくな。知ってのとおりF1の車は普通の車と全く違う。とにかく危険だ」
「そ、そうですよね」
威圧的な言い方で説明してくる。
「とにかく、安全第一だ」
そう言いながら、福山教官はタバコを吸っていた。
灰がレーシングシューズの上に落ちる。
「まあ、人間そう簡単には死なんから」
この人、本当にF1の教官として大丈夫なんだろうか。
実は俺はこんな人とのコミュニケーションは嫌ではない。むしろ、どこか心地よかった。なぜだろう…
「ああそうか、現場の職長たちの雰囲気か」
体験会はサーキットの特徴やF1カーの構造や基礎的なレクチャーからはじまった。一時間後には実際に運転の操作方法の指導に移行する。
エンジンをかけた瞬間、腹の底まで振動が突き抜けた。
「うおっ……!」
普段乗っているコンパクトカーとはまるで比較にならない。
シートが低すぎて、アスファルトに尻を擦りつけながら走っているような感覚だった。ヘルメット越しに聞こえるエンジン音は、機械というより猛獣の咆哮に近い。アクセルを少し踏み込んだだけで、視界の景色が後ろへ吹き飛んだ。こんな世界があったのか。
「中井さん、いい線いってるね。覚えがほんまに早い。このままいけばプロレーサーになれるんじゃない?」
福山教官が目を丸くしている。指導が進むにつれて言葉遣いがさっきまでより丁寧になってきた。こういうタイプの人間は簡単には人をおだてることはない。本心でいっているのだろう。
福山教官の熱心指導が続いた。経験したことのない感覚…この歳になって、青春を取り戻しているのかしれない。福山教官との会話さえ心地よくなってきた。
「若いころから、もっといろんなことに挑戦していたらよかったな。そうすればもっと違った人生だったかも知れない」
そんな感情が腹のなかをぐるぐると回っていた。
走行を続けるうちに、尻に妙な違和感が出てきた。最初は振動のせいかと思った。だが、周回を重ねるごとに痛みは鋭くなっていく。熱い針を刺され続けているみたいだ。
「……教官」
「どうした?」
「け、ケツが、限界です」
「は?」
「いや、ほんとに。ケツの穴がめちゃくちゃ痛いです」
「ケツの穴ぁ!?どうしたんだ?」
「も、もうシートに座れないです。切れ痔っぽいです」
「……そんなに悪いのか?」
「はい。めちゃくちゃ痛いです。ちょっと限界……あ、いたたた……」
「ちょっと立ってみろ。おお!ズボンにも血がついているぞ。重症だな。そういう症状は初心者に出やすいんだ。この車は普通の車の十倍くらいの馬力があってな。千馬力以上……」
「は、はい……あ、あ、痛い」
「急いで病院で見てもらった方がいい」
福山教官は腕時計を見た。
「この時間なら救急も混んどるな……」
教官は少し考え込んだあと、当然のように言った。
「このままこの車で行きなさい」
「……はい?」
「この車、公道も走れるから」
「マ、マジすか?」
「この最速マシンで病院を目指すんだ。練習の成果を見せてみろ」
福山教官は重厚な扉についている赤色のボタンを押した。すぐに扉が開いた。前にある県道を指差している。
「ここから先も、安全第一だ」
俺はペコリと頭を下げて、サーキットを出ていった。
病院が見えてきたところで、突如サイレンの音が聞こえた。警察だ。
「そこのF1。止まりなさい!」
マイク越しの大きな罵声だ。俺はすぐに止められて尋問にあう。
「こんな車で公道を走れるわけないでしょう。ナンバーもついてないF1で公道を爆速で走る人初めて見たよ! これ立派な危険運転になるからね。覚悟しておいてね」
一瞬の沈黙。俺は急に我に返った。そりゃそうだよな、こんな車で公道を走っていいわけないことは子供でも分かる。
もしかしたらニュースになるような大事件を起こしてしまったかもしれない。なんてことをしてしまったのだろう。これで俺の人生も終わりか…なんだか意識が薄れてきた…。
『弘和!会社に行く時間よ、起きなさい』
どこかから声が聞こえる。ああ、母さんの声だ。意識を取り戻した俺は、部屋のベッドに寝転がっていた。
「夢だったか……」
天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
F1の振動も、
エンジン音も、
ケツの激痛も、
やけにリアルだった。
だが現実の俺は、六畳一間で母親に起こされる四十歳だった。
やっと取り戻したかに思えた青春もまさかの「夢落ち」だった。なんというみじめな人間だ。パンツの上からケツの穴を恐る恐るやさしく撫でてみる。
「切れ痔にもなっていない……俺の人生は全く変わらないな。俺らしいっちゃ、らしいか」
夢をきっかけに人生が変わる話なんて、漫画ではよくある。
でも俺には、そんな都合のいいことは起きなかった。それでこれをきっかけに一発逆転の展開になったりするんじゃないか。でも俺にはそれすらも叶わない。なんて言ったって、切れ痔にもなってない。
「ほんとダメな男だな」
でも、なんだか笑えてきた。
いつも通り、朝食のトーストを食べ、ベランダに出た。朝日がまぶしい。先週植えたトマトの種からかわいらしい双葉が顔を出している。
スマホを見た。ネットニュースに中学生のころ好きだったアイドルの美里ちゃんが、芸能会に復帰して初めてのコンサートをするとの速報が流れてきた。子どもが大きくなったのでコンサートツアーにも回れるようになったらしい。シングルマザーとして一生懸命頑張っている。応援したくなる。
「行ってみようかな」
人生で一度もコンサートに行ったことなんかなかった。でも、いまなら行けそうな気がする。小さいけど、踏み出してみよう。
この時の俺は、このきっかけで人生を変える大きな出会いがあることをまだ知らなかったのである。まさか俺なんかが、美里ちゃんとこんな関係になってしまうとは。
「子供部屋おじさん弘和」の物語はここから始まるのだった。


