それは、突然の出来事だった。
――咆哮が、空気を裂いた。
「グオオオオオッ!」
まるで大地そのものが怒り狂っているかのような、震えるほどの轟音。
俺の鼓膜がビリビリと震え、視界の端が一瞬で揺らいだ。
空気が変わった。空気そのものが、獣の気配に飲まれていた。
広場のざわめきが止まる。
次の瞬間、張り詰めた沈黙を切り裂くように、悲鳴が炸裂した。
「な、なんだ!?」
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!!」
砕けた石壁の向こうから、黒い影が現れた。
漆黒の毛並み。狼を思わせる細身の身体――だが、首元には獅子のようなたてがみが揺れている。
その瞳はどす黒く滲んだ血のように赤く、まっすぐこちらを睨みつけていた。
口を開いたその顎には、鉄すら噛み砕けそうな牙が並んでいる。
唾液が地面に垂れ、じゅっ、と熱で蒸発する音すら聞こえた気がした。
あれは……魔物なんかじゃない。化け物だ。
俺の背中を、冷たいものがぞわっと這い上がってくる。
呼吸が浅くなった。
「ひっ、ひぃぃっ!」
「逃げろーー!!」
誰かの叫びを皮切りに、広場の群衆が一斉に弾け飛ぶように散った。
押し合いへし合い、誰かの肩をつかんででも逃げようとする人間の群れ。
転ぶ者、叫ぶ者、踏まれて泣く子ども。
阿鼻叫喚とはこのことだ。
けれど、それが『普通』の反応なのかもしれない。
だって、俺だって怖い。
魔獣が一歩、石畳を踏み鳴らすたびに地面が砕ける。
その度に砂煙が舞い、人々の視界を奪っていく。
衛兵もいるが、まったく役に立っていない。
剣を抜いたまま動けず、ただ震えていた。
鎧の隙間から滴る汗が、金属の表面に細い筋を作っている。
その様子が、無駄にリアルで、妙に印象に残ってしまった。
(……なんだよ。役立たずって、俺だけじゃなかったんだな)
皮肉が喉まで出かけて――飲み込む。
いや、そんなことどうでもいい。今は。
魔獣は、群衆にも衛兵にも目を向けない。
ただ一人。ある一点に、視線を固定していた。
――舞台の中央、そこにいたのはシンシア・フォン・アーデルハイト。
真紅のドレスを風に揺らし、あの舞台の中心に、たった一人で立っていた。
その姿勢は、さっきと何も変わっていなかった。
顎を引き、背筋を伸ばし、堂々と顔を上げて――彼女は、舞台を離れようとはしない。
……でも、それが勇気だなんて、簡単に言えなかった。
だって。
(……本当は、怖いはずだ)
心の奥で確信があった。
彼女だって恐怖を感じてる。あの魔獣を見て、何も思わないはずがない。
だけど、誰も助けない。
さっきまで「悪女」と面白がっていた群衆は、今や「見殺し」で済まそうとしている。
衛兵たちは剣を構えるふりだけして、後ろへじりじりと下がっている。
(……まじで、誰も動かないのかよ)
魔獣が一歩、また一歩と、舞台の中央へ近づいていく。
軋む木材の音が、やけに生々しく響いた。
低く唸るような声。涎が床に滴り、濡れた音を立てる。
その巨体が今にも飛びかかる準備をしているのが、分かった。
群衆は叫ぶ。
「誰か、助けて……!」
「逃げろ!」
けど、その声には――何の意味もなかった。
誰も助けに行かない。
彼女を守ろうとしない。
その『叫び』は、ただの自己満足だ。
そして、そこに立ち尽くす彼女。
シンシアは、もうすべてを諦めたように、目を閉じた。
(このままだと――あの子、死ぬ)
俺の心臓が、ぐっと跳ねた。
手足が震える。呼吸が荒くなって、頭がうまく回らない。
だけど、心の奥が――熱くなる。
あのときの俺と、彼女は同じだった。
見捨てられて、罵られて、何もできずに終わろうとしている。
違う、俺は、見ているだけじゃ、もういられない。
(誰かを助けたい)
その思いが、胸の奥で、はっきりと形を持った瞬間だった。
――咆哮が、空気を裂いた。
「グオオオオオッ!」
まるで大地そのものが怒り狂っているかのような、震えるほどの轟音。
俺の鼓膜がビリビリと震え、視界の端が一瞬で揺らいだ。
空気が変わった。空気そのものが、獣の気配に飲まれていた。
広場のざわめきが止まる。
次の瞬間、張り詰めた沈黙を切り裂くように、悲鳴が炸裂した。
「な、なんだ!?」
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!!」
砕けた石壁の向こうから、黒い影が現れた。
漆黒の毛並み。狼を思わせる細身の身体――だが、首元には獅子のようなたてがみが揺れている。
その瞳はどす黒く滲んだ血のように赤く、まっすぐこちらを睨みつけていた。
口を開いたその顎には、鉄すら噛み砕けそうな牙が並んでいる。
唾液が地面に垂れ、じゅっ、と熱で蒸発する音すら聞こえた気がした。
あれは……魔物なんかじゃない。化け物だ。
俺の背中を、冷たいものがぞわっと這い上がってくる。
呼吸が浅くなった。
「ひっ、ひぃぃっ!」
「逃げろーー!!」
誰かの叫びを皮切りに、広場の群衆が一斉に弾け飛ぶように散った。
押し合いへし合い、誰かの肩をつかんででも逃げようとする人間の群れ。
転ぶ者、叫ぶ者、踏まれて泣く子ども。
阿鼻叫喚とはこのことだ。
けれど、それが『普通』の反応なのかもしれない。
だって、俺だって怖い。
魔獣が一歩、石畳を踏み鳴らすたびに地面が砕ける。
その度に砂煙が舞い、人々の視界を奪っていく。
衛兵もいるが、まったく役に立っていない。
剣を抜いたまま動けず、ただ震えていた。
鎧の隙間から滴る汗が、金属の表面に細い筋を作っている。
その様子が、無駄にリアルで、妙に印象に残ってしまった。
(……なんだよ。役立たずって、俺だけじゃなかったんだな)
皮肉が喉まで出かけて――飲み込む。
いや、そんなことどうでもいい。今は。
魔獣は、群衆にも衛兵にも目を向けない。
ただ一人。ある一点に、視線を固定していた。
――舞台の中央、そこにいたのはシンシア・フォン・アーデルハイト。
真紅のドレスを風に揺らし、あの舞台の中心に、たった一人で立っていた。
その姿勢は、さっきと何も変わっていなかった。
顎を引き、背筋を伸ばし、堂々と顔を上げて――彼女は、舞台を離れようとはしない。
……でも、それが勇気だなんて、簡単に言えなかった。
だって。
(……本当は、怖いはずだ)
心の奥で確信があった。
彼女だって恐怖を感じてる。あの魔獣を見て、何も思わないはずがない。
だけど、誰も助けない。
さっきまで「悪女」と面白がっていた群衆は、今や「見殺し」で済まそうとしている。
衛兵たちは剣を構えるふりだけして、後ろへじりじりと下がっている。
(……まじで、誰も動かないのかよ)
魔獣が一歩、また一歩と、舞台の中央へ近づいていく。
軋む木材の音が、やけに生々しく響いた。
低く唸るような声。涎が床に滴り、濡れた音を立てる。
その巨体が今にも飛びかかる準備をしているのが、分かった。
群衆は叫ぶ。
「誰か、助けて……!」
「逃げろ!」
けど、その声には――何の意味もなかった。
誰も助けに行かない。
彼女を守ろうとしない。
その『叫び』は、ただの自己満足だ。
そして、そこに立ち尽くす彼女。
シンシアは、もうすべてを諦めたように、目を閉じた。
(このままだと――あの子、死ぬ)
俺の心臓が、ぐっと跳ねた。
手足が震える。呼吸が荒くなって、頭がうまく回らない。
だけど、心の奥が――熱くなる。
あのときの俺と、彼女は同じだった。
見捨てられて、罵られて、何もできずに終わろうとしている。
違う、俺は、見ているだけじゃ、もういられない。
(誰かを助けたい)
その思いが、胸の奥で、はっきりと形を持った瞬間だった。



