夜の空気が、不自然に重かった。
村の宿屋の窓から見える空は月がかすんでいて、遠くの森の方から妙なうなりが風に乗って聞こえてくる。
虫の音すら途切れがちで、あたりは静まり返っているにもかかわらず空気がざわざわと肌にまとわりつくような、不吉な予感が全身を包んでいた。
何かがおかしい。
そう思った次の瞬間だった。
――ゴォォン! ゴォォン!
村の中心部から、けたたましい警鐘の音が響き始めた。
それは、単なる合図ではなく、村人たちの命を守る非常時の警告らしい。
その鈍い音が、心臓に直接響くように、背筋を凍らせた。
――何かが、来た。
「っ、シンシア!」
「もう気づいてる!」
隣のベッドから跳ね起きたシンシアは、すでにローブを翻しながら扉に向かっていた。
彼女の動きに一切の迷いはない。
俺も慌てて剣と盾を掴み、彼女の背に続く。緊急事態に体が勝手に動く。
外に出た瞬間、空気の重みが増している。
土の匂い、焼けた木材の臭い。
そして、何よりも鼻腔を刺激する――血の臭い。
それは、すでに何かが起きてしまったことを雄弁に物語っていた。
「来てる……!」
シンシアの視線の先、村の入り口。
これまで村を守っていた簡素な木の柵がまるで紙屑のように砕け散り、そこから巨大な影が蠢いている。
狼――いや、それは『狼のような何か』だった。
通常の魔物とは明らかに異なる。
目が赤黒く禍々しく光り、体躯は二メートルを超える巨体。
毛並みはまるで鋼のように硬質で、鋭利な爪が夜の光を受けて鈍く光る。
その姿は、この辺境の地に現れるべきではない、まさに悪夢のような存在だった。
「上位種……!あんなのがこの辺境に……!」
村人たちの悲鳴にも似た叫びが飛び交い、恐怖に駆られた影が慌ただしく走る。
「うおおおっ、やばい、逃げろ!」
「子どもたちが!誰か、子どもたちを――!」
状況は最悪だった。
混乱、恐慌、村のあちこちで上がり始める火の手、泣き叫ぶ子どもたちの声。
狼型モンスターは、一体だけではない。
すでに数体が村の中に入り込み始めている。
村の広場は一瞬にして地獄絵図と化していた。俺たちは訓練された兵士じゃない。ただの冒険者だ。
けれど、ここで立ち尽くすわけにはいかない。動くしかなかった。
「シンシア、魔法を――」
俺が言いかけた瞬間、彼女はすでに魔力を解放していた。
躊躇も迷いもなく、純粋な力を解き放つ。
「《フレイム・ノヴァ》――っ!」
彼女の周囲に複雑な魔法陣が浮かび上がり、灼熱の魔力が空間を歪ませるかのように凝縮されていく。
その規模は、とてもFランクの冒険者が放つ魔法とは思えない。こ
れはやばい、でかすぎる!
「待て、それじゃ――!」
俺の制止も虚しく、凝縮された魔力が一気に炸裂する。
そして、赤い炎が轟音と共に前方に放たれ、狼型魔物を飲み込んだかと思えばその勢いのまま――村の家屋の一つに、かすりかけた。
炎の熱波が、家屋の木材を瞬く間に焦がしていく。
「っ、くそ――《バリア・フィールド》!」
俺は地面に手をつき、即座に結界魔法を展開した。
半球状の光の盾が急速に広がり、飛び火となった炎の破片を辛うじて受け止める。
炎の壁と、パチパチと弾ける火花の中、俺は叫んでしまう。
「シンシア!村人たちを守れ!まずは避難誘導が先だ!」
シンシアは一瞬、驚いたように振り返る。
その瞳には、自分の魔力の暴走と、それによる二次災害への焦りがよぎっていた。
けれど、すぐに俺の意図を理解したように、歯を食いしばって頷いた。
彼女の表情から、いつもの傲慢な態度は消え失せ、真剣な覚悟が浮かんでいた。
「分かった……行くわ!」
シンシアは再度魔法を練りながら、今度は村の裏手――逃げ場となる丘の方向へ誘導するように火球を撃つ。
単に敵を焼き払うのではなく、『狙い』を定めた魔法。
さっきよりも、遥かに正確で、冷静だった。
彼女の魔力制御が、危機の中で驚くほど向上しているのが見て取れる。
僕は補助魔法を立て続けに発動する。
「《スピード・ブースト》!」
逃げる村人たちの足が、目に見えて少しずつ速くなる。
恐怖で鈍っていた体が、魔法の力で活性化される。
「《シールド・ライン》、展開!」
村の小路に沿って、通路を守るように半透明の結界を連ねていく。
簡易的なものだが、魔物の突進を一時的にでも食い止めるには十分――魔力の消費が結構凄まじいが。
頭がガンガンと痛み、視界がかすむ。
しかし、やめるわけにはいかない。
「追撃来るぞ……!シンシア、右!」
「わかってるわよっ!」
俺の警告と同時に、シンシアの指先が閃光を放つ。
雷撃が、避難経路を塞ごうと迫る上位魔獣の右前足を正確に打ち抜きその動きを止める。
そこで俺の補助魔法が重なる。
「《バインド・フィールド》!」
雷撃で動きを止めた魔獣の周囲の地面が光り、足元から魔力の鎖が伸びて動きを封じる。
完全に縛りきるには魔力が足りないけれど、時間を稼ぐには十分だ。
「今だ、逃げろ!!」
村人たちが後ろを振り返りながらも、決死の形相で丘の上へと避難していく。
その表情には、恐怖だけでなくわずかな希望の光が宿っているようだった。
シンシアが一度、俺を見る。
その目に映るのは、焦りでも怒りでもない。
信頼――うん、たぶん、そう言えるものだった。
言葉を交わさずとも、互いの意図が読み取れる。
この状況で、これほど深く相手を信じられるなんて、王都にいた頃の俺では考えられないことだった。
「……もう少しよ、エリオット」
「ああ。あと少しだ」
敵を完全に倒したわけじゃない。
上位魔獣はまだそこにいる。
けれど――村人たちは逃がせた――それだけで、今日は充分だった。
村の宿屋の窓から見える空は月がかすんでいて、遠くの森の方から妙なうなりが風に乗って聞こえてくる。
虫の音すら途切れがちで、あたりは静まり返っているにもかかわらず空気がざわざわと肌にまとわりつくような、不吉な予感が全身を包んでいた。
何かがおかしい。
そう思った次の瞬間だった。
――ゴォォン! ゴォォン!
村の中心部から、けたたましい警鐘の音が響き始めた。
それは、単なる合図ではなく、村人たちの命を守る非常時の警告らしい。
その鈍い音が、心臓に直接響くように、背筋を凍らせた。
――何かが、来た。
「っ、シンシア!」
「もう気づいてる!」
隣のベッドから跳ね起きたシンシアは、すでにローブを翻しながら扉に向かっていた。
彼女の動きに一切の迷いはない。
俺も慌てて剣と盾を掴み、彼女の背に続く。緊急事態に体が勝手に動く。
外に出た瞬間、空気の重みが増している。
土の匂い、焼けた木材の臭い。
そして、何よりも鼻腔を刺激する――血の臭い。
それは、すでに何かが起きてしまったことを雄弁に物語っていた。
「来てる……!」
シンシアの視線の先、村の入り口。
これまで村を守っていた簡素な木の柵がまるで紙屑のように砕け散り、そこから巨大な影が蠢いている。
狼――いや、それは『狼のような何か』だった。
通常の魔物とは明らかに異なる。
目が赤黒く禍々しく光り、体躯は二メートルを超える巨体。
毛並みはまるで鋼のように硬質で、鋭利な爪が夜の光を受けて鈍く光る。
その姿は、この辺境の地に現れるべきではない、まさに悪夢のような存在だった。
「上位種……!あんなのがこの辺境に……!」
村人たちの悲鳴にも似た叫びが飛び交い、恐怖に駆られた影が慌ただしく走る。
「うおおおっ、やばい、逃げろ!」
「子どもたちが!誰か、子どもたちを――!」
状況は最悪だった。
混乱、恐慌、村のあちこちで上がり始める火の手、泣き叫ぶ子どもたちの声。
狼型モンスターは、一体だけではない。
すでに数体が村の中に入り込み始めている。
村の広場は一瞬にして地獄絵図と化していた。俺たちは訓練された兵士じゃない。ただの冒険者だ。
けれど、ここで立ち尽くすわけにはいかない。動くしかなかった。
「シンシア、魔法を――」
俺が言いかけた瞬間、彼女はすでに魔力を解放していた。
躊躇も迷いもなく、純粋な力を解き放つ。
「《フレイム・ノヴァ》――っ!」
彼女の周囲に複雑な魔法陣が浮かび上がり、灼熱の魔力が空間を歪ませるかのように凝縮されていく。
その規模は、とてもFランクの冒険者が放つ魔法とは思えない。こ
れはやばい、でかすぎる!
「待て、それじゃ――!」
俺の制止も虚しく、凝縮された魔力が一気に炸裂する。
そして、赤い炎が轟音と共に前方に放たれ、狼型魔物を飲み込んだかと思えばその勢いのまま――村の家屋の一つに、かすりかけた。
炎の熱波が、家屋の木材を瞬く間に焦がしていく。
「っ、くそ――《バリア・フィールド》!」
俺は地面に手をつき、即座に結界魔法を展開した。
半球状の光の盾が急速に広がり、飛び火となった炎の破片を辛うじて受け止める。
炎の壁と、パチパチと弾ける火花の中、俺は叫んでしまう。
「シンシア!村人たちを守れ!まずは避難誘導が先だ!」
シンシアは一瞬、驚いたように振り返る。
その瞳には、自分の魔力の暴走と、それによる二次災害への焦りがよぎっていた。
けれど、すぐに俺の意図を理解したように、歯を食いしばって頷いた。
彼女の表情から、いつもの傲慢な態度は消え失せ、真剣な覚悟が浮かんでいた。
「分かった……行くわ!」
シンシアは再度魔法を練りながら、今度は村の裏手――逃げ場となる丘の方向へ誘導するように火球を撃つ。
単に敵を焼き払うのではなく、『狙い』を定めた魔法。
さっきよりも、遥かに正確で、冷静だった。
彼女の魔力制御が、危機の中で驚くほど向上しているのが見て取れる。
僕は補助魔法を立て続けに発動する。
「《スピード・ブースト》!」
逃げる村人たちの足が、目に見えて少しずつ速くなる。
恐怖で鈍っていた体が、魔法の力で活性化される。
「《シールド・ライン》、展開!」
村の小路に沿って、通路を守るように半透明の結界を連ねていく。
簡易的なものだが、魔物の突進を一時的にでも食い止めるには十分――魔力の消費が結構凄まじいが。
頭がガンガンと痛み、視界がかすむ。
しかし、やめるわけにはいかない。
「追撃来るぞ……!シンシア、右!」
「わかってるわよっ!」
俺の警告と同時に、シンシアの指先が閃光を放つ。
雷撃が、避難経路を塞ごうと迫る上位魔獣の右前足を正確に打ち抜きその動きを止める。
そこで俺の補助魔法が重なる。
「《バインド・フィールド》!」
雷撃で動きを止めた魔獣の周囲の地面が光り、足元から魔力の鎖が伸びて動きを封じる。
完全に縛りきるには魔力が足りないけれど、時間を稼ぐには十分だ。
「今だ、逃げろ!!」
村人たちが後ろを振り返りながらも、決死の形相で丘の上へと避難していく。
その表情には、恐怖だけでなくわずかな希望の光が宿っているようだった。
シンシアが一度、俺を見る。
その目に映るのは、焦りでも怒りでもない。
信頼――うん、たぶん、そう言えるものだった。
言葉を交わさずとも、互いの意図が読み取れる。
この状況で、これほど深く相手を信じられるなんて、王都にいた頃の俺では考えられないことだった。
「……もう少しよ、エリオット」
「ああ。あと少しだ」
敵を完全に倒したわけじゃない。
上位魔獣はまだそこにいる。
けれど――村人たちは逃がせた――それだけで、今日は充分だった。



