王都、アーデルハイト邸。
石造りの厚い壁の奥にある書斎に、私は一人沈黙の帳の中に身を置いていた。
机の上には、王家印の押された文書。
娘の断罪以降、貴族派と王党派、そして教会勢力の思惑が錯綜する中、私のもとにもいくつかの『不自然な』報告が届いていた。
それは、本来であれば私に届くはずのない、辺境の細かな情報ばかりだった。
「……テルマ、か」
重ねられた書類の一番上には、地方管理局からの報告書。
そこには、辺境の町テルマにて、『元勇者パーティー追放者と、断罪された令嬢らしき人物の姿が目撃される』との記載があった。
私はその一文から目を離さず、ゆっくりと背もたれに体を預ける。
――やはり、あの子は生きていたか。
「伯爵」
静かに呼びかける声。
扉の外に控えていた側近の老人――ギルバートが一歩、室内へ入る。
「……お嬢様の所在、確認が取れました。件の『テルマ』という町で目撃されています。現在は小規模の冒険者ギルドに登録し、低ランク依頼をこなしているとのこと」
「そうか」
私はただ、それだけを呟いた。あの子が今、どれほど惨めな立場にあるのかは、容易に想像できる。
王子からの婚約破棄、断罪の宣言、民衆の前での公開糾弾――そのすべてが、政治的な『演出』であり、真実ではないことも私は知っている。
だが、父である私は、それを止められなかった。
いや、止めなかった。
「……あの子は、強い」
私は目を閉じる。
この手で育てた娘は、確かに気位が高く、不器用で、感情の出し方を知らない。
だがその芯には、誰にも負けない誇りと、傷ついた者を見捨てない優しさがある。
貴族社会の中で、そうした本当の『強さ』は、しばしば踏みにじられる。
他者の弱さに寄り添い、守ろうとする姿は、常に周囲から誤解を生み、孤立を招いてきた。
「……私が、言葉をかけてやるべきだったのかもしれんな」
呟いた言葉に、ギルバートがわずかに目を伏せる。
「王太子殿下からの断罪命令が下った時も、あの子は何一つ言い訳をしませんでしたな……まるで、自分の誇りだけを守るように」
「誇りと孤独は、紙一重だ。私は……親として、その違いを見極めきれなかった」
手を、拳の形に握る。
シンシアは強い。
だが、強い者ほど、人知れず崩れるものだ。
誰かの優しい言葉があれば、違った未来もあったかもしれない。
しかし、私は公爵家の当主として、王子の思惑を読み娘をあえて危険な道へと送り出した。
それが、貴族として、そして父として彼女を守る最善の道だと信じたからだ。
けれど私は――何も言わなかった。あえて、言えなかった。
「王太子殿下と教会は、我々の派閥に揺さぶりをかけてくるでしょう。お嬢様を断罪したとて、手打ちとはいかぬ、と」
「分かっている。次は、我々の領地に不当な税を課すか、あるいは我々を裏切った貴族を使い私の失脚を狙ってくるだろう」
「出兵、あるいは王城への正式抗議の用意をいたしましょうか?」
ギルバートの言葉に、私は首を横に振った。
「……今は、まだ『見守る』時だ」
「……旦那様」
「私が今、あの子に手を差し伸べれば、あの子はまた『伯爵の娘』という鎖の中に閉じ込められる……それでは意味がない」
力づくで守るのは簡単だ。
だが、それはきっと、あの子が望むやり方ではない。
彼女は自分自身で、自分の人生を切り開こうとしている。
この試練を乗り越えれば、彼女は以前よりもさらに強く、そして真に自由な存在となるだろう。
――彼女は、自分で選んだ道を、自分の足で歩いている。
「弱さを見せられる場所が、あの子にも見つかるといい……今の私は、それを祈るしかできんのだ」
誰よりも愛しく、誰よりも遠い存在。それが、今の“父と娘”の距離だった。
「……勇者になった殿下も、いずれは自らの行いの報いを受ける。今はその時を待とう。シンシアが、自らの力で立ち上がる日まで」
「はっ」
ギルバートが恭しく頭を下げ、再び静寂が書斎に戻る。
私はただ、深く椅子に身を沈めた。
――この沈黙が、いずれ、娘の背を押す『支え』となることを願って。
石造りの厚い壁の奥にある書斎に、私は一人沈黙の帳の中に身を置いていた。
机の上には、王家印の押された文書。
娘の断罪以降、貴族派と王党派、そして教会勢力の思惑が錯綜する中、私のもとにもいくつかの『不自然な』報告が届いていた。
それは、本来であれば私に届くはずのない、辺境の細かな情報ばかりだった。
「……テルマ、か」
重ねられた書類の一番上には、地方管理局からの報告書。
そこには、辺境の町テルマにて、『元勇者パーティー追放者と、断罪された令嬢らしき人物の姿が目撃される』との記載があった。
私はその一文から目を離さず、ゆっくりと背もたれに体を預ける。
――やはり、あの子は生きていたか。
「伯爵」
静かに呼びかける声。
扉の外に控えていた側近の老人――ギルバートが一歩、室内へ入る。
「……お嬢様の所在、確認が取れました。件の『テルマ』という町で目撃されています。現在は小規模の冒険者ギルドに登録し、低ランク依頼をこなしているとのこと」
「そうか」
私はただ、それだけを呟いた。あの子が今、どれほど惨めな立場にあるのかは、容易に想像できる。
王子からの婚約破棄、断罪の宣言、民衆の前での公開糾弾――そのすべてが、政治的な『演出』であり、真実ではないことも私は知っている。
だが、父である私は、それを止められなかった。
いや、止めなかった。
「……あの子は、強い」
私は目を閉じる。
この手で育てた娘は、確かに気位が高く、不器用で、感情の出し方を知らない。
だがその芯には、誰にも負けない誇りと、傷ついた者を見捨てない優しさがある。
貴族社会の中で、そうした本当の『強さ』は、しばしば踏みにじられる。
他者の弱さに寄り添い、守ろうとする姿は、常に周囲から誤解を生み、孤立を招いてきた。
「……私が、言葉をかけてやるべきだったのかもしれんな」
呟いた言葉に、ギルバートがわずかに目を伏せる。
「王太子殿下からの断罪命令が下った時も、あの子は何一つ言い訳をしませんでしたな……まるで、自分の誇りだけを守るように」
「誇りと孤独は、紙一重だ。私は……親として、その違いを見極めきれなかった」
手を、拳の形に握る。
シンシアは強い。
だが、強い者ほど、人知れず崩れるものだ。
誰かの優しい言葉があれば、違った未来もあったかもしれない。
しかし、私は公爵家の当主として、王子の思惑を読み娘をあえて危険な道へと送り出した。
それが、貴族として、そして父として彼女を守る最善の道だと信じたからだ。
けれど私は――何も言わなかった。あえて、言えなかった。
「王太子殿下と教会は、我々の派閥に揺さぶりをかけてくるでしょう。お嬢様を断罪したとて、手打ちとはいかぬ、と」
「分かっている。次は、我々の領地に不当な税を課すか、あるいは我々を裏切った貴族を使い私の失脚を狙ってくるだろう」
「出兵、あるいは王城への正式抗議の用意をいたしましょうか?」
ギルバートの言葉に、私は首を横に振った。
「……今は、まだ『見守る』時だ」
「……旦那様」
「私が今、あの子に手を差し伸べれば、あの子はまた『伯爵の娘』という鎖の中に閉じ込められる……それでは意味がない」
力づくで守るのは簡単だ。
だが、それはきっと、あの子が望むやり方ではない。
彼女は自分自身で、自分の人生を切り開こうとしている。
この試練を乗り越えれば、彼女は以前よりもさらに強く、そして真に自由な存在となるだろう。
――彼女は、自分で選んだ道を、自分の足で歩いている。
「弱さを見せられる場所が、あの子にも見つかるといい……今の私は、それを祈るしかできんのだ」
誰よりも愛しく、誰よりも遠い存在。それが、今の“父と娘”の距離だった。
「……勇者になった殿下も、いずれは自らの行いの報いを受ける。今はその時を待とう。シンシアが、自らの力で立ち上がる日まで」
「はっ」
ギルバートが恭しく頭を下げ、再び静寂が書斎に戻る。
私はただ、深く椅子に身を沈めた。
――この沈黙が、いずれ、娘の背を押す『支え』となることを願って。



