「――財布が、空っぽだ……」
俺はため息をつきながら、手のひらに置いた革の小銭袋を見つめた。
底が見えすぎるその袋には銅貨が二枚、銀貨がわずかに一枚。
宿代と飯代を考えたら、あと一日持つかどうかってところだ。
「エリオット、いつまで呆けてるの? そろそろ出るわよ。市場に行くんでしょ?」
隣で腕を組んだシンシアが、いらだった声で促す。
その手には、見覚えのない小冊子――いかにも高そうな魔導書がぶら下がっていた。
「……ちょっと待って。なにそれ。どこで手に入れた?」
「さっきのお店で買ったに決まってるでしょ?『炎熱属性の集中術式について』よ。初級だけど、発展性が高いって説明されたの」
言いながら、当然のようにページをめくる彼女。
目がキラキラしている。完全にご満悦モードだ。
「え、ちょっと待って……まさか、あれ買ったの!?」
「ええ。五枚だったかしら。銀貨」
「その五枚、今俺たちが生き延びるための全財産だったんだけど!!」
俺の叫びが市場に響いた。
市場は、思っていたよりも賑やかだった。
王都の整然とした大通りとは違い、あちらこちらに露店がひしめき合って、人々の活気が熱気となって立ち込めている。
新鮮な野菜が山盛りに積まれ、焼きたてのパンの香りが漂っており、行商人たちは威勢の良い声で客を呼び、子供たちが走り回っていた。
――そんな中、俺たちだけが異様に目立っていた。
「ねえエリオット、これってなに?」
シンシアが、緑色の玉を両手に持ち上げた……キャベツだ。
「キャベツだよ。野菜の王様って言われるやつ。ビタミンたっぷり」
「知らないわ。こんな緑の玉、見たことないもの。生で食べるの?」
「……いや、それはちょっと。普通は炒めたり、煮たり、千切りにして――」
「千切る?それ、食べ物に対してすること?」
「食べ物にこそすることなんだけど……」
彼女は真剣な顔でキャベツを睨みながら、首をかしげる。
まるで初めて見る珍しい魔物でも観察するような真剣さだった。
完全に初対面の顔だ。なんという庶民離れ。
「じゃあこれは?この……いぼいぼした黒い球体」
「ああ、それは……ゴボウ?」
「嘘でしょ?こんなの、食べ物なの?」
「嘘じゃないし、食べるし、煮物にすると美味しいんだって」
やがて、俺が根気強く説明しているのに痺れを切らしたのか、八百屋の店主が割り込んできた。
「嬢ちゃん、悪いけど遊びじゃねえんだ。買うか、帰るか、どっちかにしてくれ」
「なっ……私は客よ。なによその態度。貴族に向かってその口の利き方、覚えてなさい!」
ぴしっと背筋を伸ばし、威厳たっぷりに言い放つシンシア。
やばい。完全に『貴族様』モードに入っている。
「ちょ、おいシンシア! そういう態度は逆効果――」
「貴族様ぁ!?てめえ、王都で断罪食らったって噂の悪女か?こんな町にまで災い運んでくんじゃねえ!」
店主の顔がみるみる赤くなり、手に持っていた大根が震え始めた。
その目は、純粋な怒りというよりも、貴族という存在への長年の不満と侮蔑が混じった、複雑な色をしていた。
たぶん、振り下ろされる前に撤収したほうがいい。
「す、すみませんすみませんっ!この子ちょっと貴族ボケしてて、でも野菜は買います!キャベツひと玉と、あと……安いやつ!」
結局、半ば逃げるようにその場を後にした。
キャベツとジャガイモを袋に詰めた俺の後ろを、シンシアがぶすっとした顔でついてくる。
「なによ、あの態度。平民のくせに生意気すぎるわ」
「いや、君の言い方が完全に火に油だったんだけど……」
「私は普通にしていただけよ。あれで怒るなんて、器が小さい証拠でしょ」
ぷんすか言っていたシンシアだったが、市場の外れを歩いている時、ふと小さな女の子とすれ違った。
その子が、彼女を見上げて言った。
「……魔女みたい」
その一言に、ぴたりと足が止まった。
「え?」
思わず聞き返したシンシアに、女の子は母親の後ろに隠れながら、こくりと頷いた。
その母親が「しっ、見ちゃいけません」なんて言いながら立ち去っていく。
シンシアはその場に立ち尽くした。口を閉ざし、さっきまでの威勢はどこへやら。
「……あの」
俺が声をかけようとすると、彼女はくるりと背を向けた。
「気にしてないわ。子供なんてそんなものよ。無邪気って、無責任な言葉と紙一重なの」
そう言って歩き出すその背中は、どこか小さく見えた。
――慣れているように見せているだけなんだ。
王都でも、きっとずっとこんな風に言われてきたのかもしれない。
「高慢」「悪女」「魔女」なんて、ろくに知りもしない相手から。
「シンシア、今日の夕飯は……キャベツのスープにしようか」
「……え?あれをスープに? 緑の玉がスープになるの?」
「ああ、バターがあればもっと美味くなるけど、まあシンプルに塩だけでもいけるはず」
「うーん、信じがたいけど……まあ、作ってみなさいな。もし不味かったら、明日からの買い物は私が仕切るから」
「えっ、それプレッシャー高くない?」
肩をすくめる俺に、シンシアが少しだけ笑った。
市場の陽射しの中で、その笑顔はほんの少しだけ柔らかかった気がする。
俺はため息をつきながら、手のひらに置いた革の小銭袋を見つめた。
底が見えすぎるその袋には銅貨が二枚、銀貨がわずかに一枚。
宿代と飯代を考えたら、あと一日持つかどうかってところだ。
「エリオット、いつまで呆けてるの? そろそろ出るわよ。市場に行くんでしょ?」
隣で腕を組んだシンシアが、いらだった声で促す。
その手には、見覚えのない小冊子――いかにも高そうな魔導書がぶら下がっていた。
「……ちょっと待って。なにそれ。どこで手に入れた?」
「さっきのお店で買ったに決まってるでしょ?『炎熱属性の集中術式について』よ。初級だけど、発展性が高いって説明されたの」
言いながら、当然のようにページをめくる彼女。
目がキラキラしている。完全にご満悦モードだ。
「え、ちょっと待って……まさか、あれ買ったの!?」
「ええ。五枚だったかしら。銀貨」
「その五枚、今俺たちが生き延びるための全財産だったんだけど!!」
俺の叫びが市場に響いた。
市場は、思っていたよりも賑やかだった。
王都の整然とした大通りとは違い、あちらこちらに露店がひしめき合って、人々の活気が熱気となって立ち込めている。
新鮮な野菜が山盛りに積まれ、焼きたてのパンの香りが漂っており、行商人たちは威勢の良い声で客を呼び、子供たちが走り回っていた。
――そんな中、俺たちだけが異様に目立っていた。
「ねえエリオット、これってなに?」
シンシアが、緑色の玉を両手に持ち上げた……キャベツだ。
「キャベツだよ。野菜の王様って言われるやつ。ビタミンたっぷり」
「知らないわ。こんな緑の玉、見たことないもの。生で食べるの?」
「……いや、それはちょっと。普通は炒めたり、煮たり、千切りにして――」
「千切る?それ、食べ物に対してすること?」
「食べ物にこそすることなんだけど……」
彼女は真剣な顔でキャベツを睨みながら、首をかしげる。
まるで初めて見る珍しい魔物でも観察するような真剣さだった。
完全に初対面の顔だ。なんという庶民離れ。
「じゃあこれは?この……いぼいぼした黒い球体」
「ああ、それは……ゴボウ?」
「嘘でしょ?こんなの、食べ物なの?」
「嘘じゃないし、食べるし、煮物にすると美味しいんだって」
やがて、俺が根気強く説明しているのに痺れを切らしたのか、八百屋の店主が割り込んできた。
「嬢ちゃん、悪いけど遊びじゃねえんだ。買うか、帰るか、どっちかにしてくれ」
「なっ……私は客よ。なによその態度。貴族に向かってその口の利き方、覚えてなさい!」
ぴしっと背筋を伸ばし、威厳たっぷりに言い放つシンシア。
やばい。完全に『貴族様』モードに入っている。
「ちょ、おいシンシア! そういう態度は逆効果――」
「貴族様ぁ!?てめえ、王都で断罪食らったって噂の悪女か?こんな町にまで災い運んでくんじゃねえ!」
店主の顔がみるみる赤くなり、手に持っていた大根が震え始めた。
その目は、純粋な怒りというよりも、貴族という存在への長年の不満と侮蔑が混じった、複雑な色をしていた。
たぶん、振り下ろされる前に撤収したほうがいい。
「す、すみませんすみませんっ!この子ちょっと貴族ボケしてて、でも野菜は買います!キャベツひと玉と、あと……安いやつ!」
結局、半ば逃げるようにその場を後にした。
キャベツとジャガイモを袋に詰めた俺の後ろを、シンシアがぶすっとした顔でついてくる。
「なによ、あの態度。平民のくせに生意気すぎるわ」
「いや、君の言い方が完全に火に油だったんだけど……」
「私は普通にしていただけよ。あれで怒るなんて、器が小さい証拠でしょ」
ぷんすか言っていたシンシアだったが、市場の外れを歩いている時、ふと小さな女の子とすれ違った。
その子が、彼女を見上げて言った。
「……魔女みたい」
その一言に、ぴたりと足が止まった。
「え?」
思わず聞き返したシンシアに、女の子は母親の後ろに隠れながら、こくりと頷いた。
その母親が「しっ、見ちゃいけません」なんて言いながら立ち去っていく。
シンシアはその場に立ち尽くした。口を閉ざし、さっきまでの威勢はどこへやら。
「……あの」
俺が声をかけようとすると、彼女はくるりと背を向けた。
「気にしてないわ。子供なんてそんなものよ。無邪気って、無責任な言葉と紙一重なの」
そう言って歩き出すその背中は、どこか小さく見えた。
――慣れているように見せているだけなんだ。
王都でも、きっとずっとこんな風に言われてきたのかもしれない。
「高慢」「悪女」「魔女」なんて、ろくに知りもしない相手から。
「シンシア、今日の夕飯は……キャベツのスープにしようか」
「……え?あれをスープに? 緑の玉がスープになるの?」
「ああ、バターがあればもっと美味くなるけど、まあシンプルに塩だけでもいけるはず」
「うーん、信じがたいけど……まあ、作ってみなさいな。もし不味かったら、明日からの買い物は私が仕切るから」
「えっ、それプレッシャー高くない?」
肩をすくめる俺に、シンシアが少しだけ笑った。
市場の陽射しの中で、その笑顔はほんの少しだけ柔らかかった気がする。



