秋なんて微妙な時期に、風邪をひいてしまった。
原因は、朝方の寒さを考えずに窓を全開にして一晩寝てしまったから。気づいたら夏用のぺらぺらブランケットを体に巻きつけて震えながら寝ていて。そしてその日の午後には頭が痛くなってきて、夜には熱が出た。
いろんなことに鈍いくせに、こんなときだけやたら勢いよく風邪の症状が進行していくのはなんでなんだろう。
俺は五時間目の前に早退して、次の日も学校を休むことになってしまった。うぅ、無念。
*
「これ。書道部のやつから」
「わー、ありがとね」
大ちゃんが差し出してくれた紙袋を受け取り、俺は素直に礼を伝える。
一日休んだ日の夕方、大ちゃんが家を訪ねてきてくれた。いわゆるお見舞いってやつだ。
「風邪うつっちゃわないかな?」
って言ったら、大ちゃんは「はん」と鼻で笑った。
「毎年のように見舞いに来てっけど、一回もうつったことねぇから」
まぁたしかに俺は小学生の頃から季節の変わり目はよく風邪を引いていた。中学時代もこんな感じで大ちゃんがお見舞いとかプリントを渡しに来てくれていたけど、そういえば『うつった』とは一度も聞いたことがない気がする。
「俺の風邪菌が弱いんじゃなくて、大ちゃんが強すぎるって気もするけど」
俺の姿をした菌たちが『大ちゃんを風邪にするのだ〜』『や〜』とか言って大ちゃんに向かっていっても、その鋼の肉体にガッと弾かれていそうな気がする。というかたぶんそうだ。俺の菌が弱いんじゃない、大ちゃんの体が強すぎるのだ。なんなら大ちゃんの細胞とかに徹底的にやり返されていじめられてる気がする。
しくしくと泣いてる俺の菌の姿が見えて、俺は『かわいそうになぁ』と肩を落とした。
「なに言ってんだ」
大ちゃんは心底意味不明って顔して、そしてデカいビニール袋をどさっと俺の勉強机の上に置いた。
「みかんゼリー食うか?」
大ちゃんはお見舞いのとき必ずゼリーを持ってきてくれる。みかんに桃にマスカット、たまにフルーツミックス。大ちゃんはゼリー選びのセンスがある。
「食べる! あれ、大ちゃんのは?」
大ちゃんはゼリーのふたをペリッと剥いで、プラスチックのスプーンと一緒に差し出してくれた。それを受け取りながら、大ちゃんの分は……とビニール袋を見やる。でもそこにゼリーの容器は見当たらない。
「俺のはこれ」
「これ、って」
大ちゃんは袋の中から肉まんが包まれた袋をひとつ、ふたつ……三つ取り出した。そりゃあビニール袋もデカいわけだよ。
「三つも肉まん食べるの?」
「違う。こっちはピザまん、これはあんまん」
肉まんだけじゃねぇし、みたいな顔する大ちゃん。
いや、そういうことじゃないんだけど……まぁいいか。今日も野球部の練習に顔を出してきたのだろう大ちゃんは、いつもどおり腹ペコなのだ。このあと普通に夕飯も山盛り食べるってんだから恐ろしい。
「あーぁ。今日で引退だったのになぁ」
俺はぼやきながら、先ほど大ちゃんに渡された紙袋を見やる。そこには俺の書道道具、それから作品がいくつか入っている。そう、今日は書道部三年生の引退の日だった。
本当は今日最後になにかを書いてから引退、の予定だったのに。なんとも悲しい最後である。
「また顔出せばいいだろ」
それこそ、引退後もちょくちょくどころか毎日のように練習に参加している大ちゃんらしい発言に、俺は「んー」と唸る。
「まぁそうなんだけどさ。それでいいんだけどさ。でも一応区切りとして今日で終わりなわけじゃん」
別に俺が顔を出して、嫌な顔をする後輩はいないだろう。むしろみんな『あれ、先輩引退しないんですか?』『入部希望ですか?』なんてからかってくるんじゃないかな、ってくらい。
「また月曜日に部活に顔出してもいいんだけど」
でもさ、そういうやり取りとは別に、書道部の立野、は今日で終わりなのだ。明日からの俺は、元書道部の立野、になる。
「俺がいなくても、書道部はなくならないけど。でも、俺はもう書道部じゃないんだよ。今日でおしまい」
みかんをすくって口に運ぼうとして、スプーンから溢れたゼリーがぺしゃりと容器に落ちる。あぁ、なんだか寂しい気持ちになってしまった。
「ふーん」
大ちゃんは俺の感傷なんて知ったこっちゃないって感じで肉まん……と、ピザまんとあんまんをあっという間に平らげる。そして肉まんの袋をくしゃくしゃに丸めながら「なぁ」と言った。
「もう体、大丈夫なん」
「うん。熱も下がったし、元気だよ」
俺の言葉を聞いて、ふん、と鼻を鳴らした大ちゃんは、自分が持ってきた紙袋を指差した。
「じゃあ書いて」
「へ?」
口に運ぼうとしていたゼリーが、またぽたりと容器に帰っていく。大ちゃんと紙袋を見比べて、俺は「へ?」ともう一度間抜けな声を出した。
「なぁんだ。書いてっていつものあれね」
大ちゃんの『書いて』は俺に習字で文字を書いてほしいということだった。
大ちゃんの部屋には、俺がこれまで書いてきた『ストレートで奪三振』を始めとする目標(なのか?)がたくさん飾られている。今までは部活中にそれらを書くことが多かったが、それもできなくなる……と大ちゃんも気づいたのだろう。
俺は『も〜仕方ないなぁ』なんて言いながらも、さっさと道具を準備して墨液を作って腕まくりした。
「で? なんて書けばいい?」
やっぱりここは『やるぜリーグ制覇』とか『一軍エースは俺だ』とか『待ってろ優勝パレード』とか、プロっぽい言葉がいいだろうか。それとも初心にかえって『奪三振』とか?
そわそわしながら大ちゃんを振り返ると、大ちゃんは真面目な顔をして「夢」と言った。
「え?」
「夢、って書いて」
聞き返したら、もう一度律儀に答えてくれた。
夢、夢……夢。いくらなんでも初心すぎないだろうか。と思ったけど、大ちゃんはえらく真面目な顔してる。本気で『夢』と書いてほしいらしい。
「ん、わかった」
もっと長文を要求されるかと思っていたから、なんだか拍子抜けしてしまった。それでも俺は気合いを入れて、よし、と筆を手に取る。
「……夢の部首ってね、くさかんむりじゃないんだよ」
すぅ、と横に一本、そこに細くなりすぎないように二画目、三角目を入れる。よし、いいバランス。
「そうなん?」
「うん。部首はね、こっち」
そう言いながら、俺はさらさらと書き進めて、そして「ふぅ」と息を吐く。
「この、夕、のところ。こっちが部首」
ゆう、と口にしながら、夕、を書く。ゆっくりと、でも変に止まることなく、流れるように。小さくまとまることのないように、大きく、力強く。大ちゃんの夢が叶いますように、と願いを込めて。
「夢ってもともと暗いとか、よく見えないって意味を表す漢字なんだってさ。夕方って、暗くてよく見えないでしょ。そこからできた漢字って……先生が言ってた」
もしかしたら間違えて覚えているかもしれないけど、と付け加えて笑う。と、大ちゃんも小さく笑ったのが聞こえた。
「漢字の成り立ちとは関係ないかもしれないけど、夢がさ、よく見えないってなんかわかるな〜って思ったの覚えてる」
「よく見えない?」
「うん」
俺は小さい頃から『夢に向かって頑張る』なんてタイプではなかったし、今もそんな感じだ。なんというか、暗い中で必死に夢を掴もうともがいてる、そういう人間。
「夢なんて、そんな簡単に見えないし、見つからないよ。俺は夢を見つけるのに苦労したから。だから、大ちゃんみたいにずっと前から夢が決まってる人のことすごいなぁって思う」
筆を硯に置いて、素直な気持ちを言葉にしてみる。と、大ちゃんが「羨ましいってこと?」と問うてきた。
「んー、羨ましい、とはまた違うなぁ。羨ましいっていうか、すごいねぇ〜! みたいな感じかな」
やるじゃん、だとなんか偉そうだし。俺も応援してるぜ、もなんか違う。真似したいでも、その夢に乗っかりたいでもない。ただ……。
「うん。すごい。すごいことだよ、大ちゃん」
腕を組んでしみじみとそう言うと、大ちゃんが「ふっ」と吹き出した。そして腕で顔を隠すようにして「くっ、く」と笑い続ける。
「えー、なんで笑ってんの」
大ちゃんから聞いてきたくせに、なにを笑っているのか。
「悪い、……ふっ、ははっ」
悪いとか謝りながら、大ちゃんはそれでも笑ってる。もう、なんてやつだろうか。
「なんだよ〜」
大ちゃんはひとしきり笑って、そして俺の頭にその大きな手を乗せてきた。
「ありがとう。大事にするわ」
「……うむ!」
ぐりぐりと頭を撫でる大ちゃんがあんまりにも嬉しそうだから、俺はそれ以上怒るのはやめて、重々しく頷いてやった。そうだそうだ、せっかく書いたんだから大事にしてもらわないと。
「立野」
「うん?」
大ちゃんが俺の頭を撫でながら、名前を呼んできた。振り返ると、大ちゃんは、やたら真面目な顔してた。
「書道、続けろよ。引退しても、卒業しても、ずっと」
「え?」
まさかの言葉に、俺は首を傾げる。でも大ちゃんはからかってるような雰囲気はない。
「嫌か?」
「嫌、じゃないよ。うん……うん、嫌っていうか、むしろ、嬉しいかも」
大ちゃんの意図はよくわからないけど、でも、書道はもともと好きだし。道具があればどこでだってできるし、どこかの教室に通ってもいいし。うん、続けられる。続けたい。
「よかった」
なにがどうよかったのだろうかと首を傾げると、大ちゃんが「俺」と続けた。
「立野の書く字、好きだから」
大ちゃんの飾り気のない、でもその分やたらまっすぐな褒め言葉に、俺は圧倒されて「んぉ、うん」と変な調子で頷く。
大ちゃんのストレートは野球じゃなくてもキレッキレの豪速球だ。すんごい勢いで放ってくるから、キャッチし損ねそうになる。
(でもなんか、楽になったかも)
さっきまで部活の引退日に風邪を引いてしまった間抜けさとか、寂しさでいっぱいだったはずの胸が、スッと軽くなっていることに気づく。
大ちゃんって人は、ずっと夢を持っているし、たくさんすごい球を投げるし、落ち込んでいたらすぐに元気をくれる。
「大ちゃんってすごいよね」
まだ俺の頭に手を乗せたままの大ちゃんにそう言うと、大ちゃんは不思議そうな顔をした。
「立野もすごいやろ」
俺たちはそのまま真顔で見つめ合って、そしてどちらからともなく笑ってしまう。大ちゃんはすごいし、俺もすごい。まぁそれでいいじゃないか。
へらへらと笑い合う俺たちの間で、夢、と書かれた半紙が窓から吹き込んできた夕方の風に吹かれて、はたはた、と揺れた。

