俺と大ちゃんの終わらない夏


「あ〜〜!」

 目の前の文字を書くことに集中していた俺は、急に聞こえてきたがっかり声に「ん?」と顔を上げた。

「雨降りだしちゃった」

 同じく書道に励んでいたはずの後輩が、窓際に立って外を眺めていた。
 外を見れば、どんよりと曇った空から落ちてきた雨粒が、乾いたアスファルトや土の色を変えていた。

「予報では夜からって言ってたのにー」
「まぁ、梅雨だしねぇ」

 六月、一年で一番雨が多い時期だ。多少降り始めの時間がズレることもあるだろう。
 後輩はしょぼんと肩を落として「そうですね」と溜め息を吐いた。

「どしたの?」
「や、傘忘れてきちゃって……」

 なるほど、だから「あ~~!」だったのか。
 下校中の予期せぬ雨ほどやっかいなものはない。制服や靴が濡れるのは不快だし、その格好で電車やバスに乗るのは勇気がいるし、ちなみに親にも『なんで傘持っていかなかったの〜!』と怒られる確率が高い。
 俺は「んー」と少し悩んでから、机の側に置いていた鞄の中から折り畳み傘を取り出した。

「はい、これ使っていいよ」
「えーっ!」

 後輩は目を丸くして、『え、え』と俺と傘を見比べた。

「いいんですか? 雨降ってますよ?」

 もちろんわかっているとも。ぽつ、ぽつ、から、ざぁっ、と本降りに変わってきた雨は、俺にだってちゃんと見えている。

「いいよ。俺、あてがあるから」

 びっ、と親指を立てサムズアップしてみせると、後輩は「ううっ、ありがたくお借りいたします」とうやうやしく傘を受け取った。
 ははぁ〜、と頭を下げる後輩を笑ってから、俺は『さて』と窓の外を見やった。
 雨の日の野球部、今日はどこで練習しているだろうか。



「は? なんで傘ねぇの」
「後輩に貸してきた。電車通学でさ、濡れたままで乗車するのは辛いじゃん?」

 だからいーれーて、と傘を持つ大ちゃんの横に並び立つ。
 大ちゃんは置き傘派だ。突然の雨に備えて学校に傘を一本置いている。で、使ったらまた次の登校日に律儀に置き傘を持ってくる。ちなみに、俺は折り畳み傘派。
『折り畳みのやつは小せえから無理』
 というが大ちゃんの主張。たしかに、大ちゃんの傘は大ちゃんの体がちゃんと隠れるくらい大きい。

「まぁいいけど」

 大ちゃんが手に持っていた傘を開く。と、バゴッと大きい音がして黒い傘が開いた。今時こんな破裂音がするでっかい傘なんてなかなかないと思う。でも大ちゃんはこのバゴッな傘を中学のときから使ってる。

「お邪魔しまーす」

 大ちゃんの差す傘の下に滑り込んで歩き出す。と、後ろから「皆本先輩お疲れ様っす!」「失礼しまっす!」と声が聞こえてきた。野球部の……おそらく後輩くんたちが練習着姿のまま走っていく。傘を忘れてしまった子たちのようだ。みんな思いきり雨に濡れながら駐輪場の方へ走っていく。

「すごく、びしょびしょだね」
「まぁ練習でも濡れてたから、いんじゃね」

 雨の日の野球部は、大抵体育館前のスペースを使って筋力トレーニングをしてる。けど、今日は部活の後半に雨が降り出したから、そのままグラウンドで続行だったらしい。外部活組は大変だ。

「大ちゃんは? 濡れた練習着」
「この中」

 大ちゃんが背後に背負ったどデカいリュックを指す。いつもなら部活後は練習着なりスポーツウェアで帰宅する大ちゃんだが、今は制服姿だ。

「今日中に乾くといいね」
「替えはあっから」

 そかそか、と俺は頷く。雨が続く時期は大変だろう。なんとなく頭の中に大ちゃんのお母さんの顔が浮かぶ。

「この時期、おばちゃんは洗濯大変そうだね。輝樹くんのもあるでしょ?」
「あー、すぐ出さねぇと殺される」

 おばちゃんに雷を落とされてる大ちゃんと輝樹くんの姿が容易に想像できて、俺はちょっと笑ってしまった。皆本家は雨の日でも賑やかそうだ。
 俺の家は基本的に夜まで誰もいないし、濡れて帰って怒られることもない。洗濯だって一人でする。しとしとと雨の降る日は、ちょっとだけ寂しい。
 水たまりのできた校庭を横切り、裏門を抜けて坂をくだる。頭上を覆う木のおかげで雨は少し落ち着いたが、代わりにときどきでっかい雫が傘の上をバラバラと跳ねる。

「なんかさ、大ちゃんってアニメに出てきそうだよね」

 でっかい傘にでっかい体、でっかいリュックを背負ってのしのしと猫背で歩く大ちゃん。なにかこういうキャラクターっていなかったっけ? 大きくって、むくむくした感じの……。

「はぁ?」

 でも大ちゃんと以心伝心とはいかなかったらしい。大ちゃんは心底理解不能、みたいな感じの声を出して俺に冷たい視線を向けてきた。

「悪い意味じゃなくてさー、なんか可愛い系のやつ。でっかくって丸っこくて、ずんぐりした感じのさぁ」
「それのどこが悪い意味じゃねんだよ」
「えー、悪役系とか言われる方が嫌じゃない?」

 そう主張すると、大ちゃんは「そっちの方がマシ」なんて言い切った。

「立野だってアニメにいそうだろ」
「俺? どんなの?」
「あー……、なんか、ネズミとか」
「ネズミっ? ねっ、ネズミって言った?」

 びっくりして二回繰り返してしまった。

「そっちの方がよっぽどひどいじゃん」
「別にひどかねぇだろ。なんかよさそうなネズミなんだから」
「よさそうなネズミってなんだよ」

 ぼろん、ぼろん、と雫の跳ねる音を聞きながら、俺たちは他愛もないことを話して歩いた。

「ふん、俺がネズミなら大ちゃんはでっかい猫だね。黒くてでっかくてふてぶてしい猫」
「おう。小せえネズミなんてひと口だな」
「ひー、よくもまぁそんな恐ろしいこと言えるよね」

 恐ろしや恐ろしや、と言いながら腕を擦っているうちに、いつものバス停に着いてしまった。バス停には小さいながら屋根がついているので、俺たちは急いでその下に入る。

(あれ?)

 やれやれと息を吐きながら大ちゃんを見ると、傘を閉じるその右肩がしっとり濡れているのがわかった。白いシャツがぺたりと小麦色の肌に張り付いている。自分の左肩を見てみるが、もちろんそこは濡れていない。

(大ちゃん、俺が濡れないように……)

 大ちゃんはたぶん、俺が濡れないように傘をこちらに傾けてくれていたのだろう。自分の肩が濡れるのも構わずに。

「……。大ちゃん」
「あ?」

 俺は鞄から取り出したタオルで、大ちゃんの右肩をぐいと拭った。

「肩、冷えるの嫌でしょ」

 そう。ピッチャーの大ちゃんは、肩や腕をとっても大事にしている。万一でも怪我しないようにって、危ないことは絶対にしないし、体育の授業も肩を痛めないように気を遣っているのを知ってる。人に触られるのだって嫌がるのに。
 なのに、俺が雨に濡れないように、自分の肩を濡らしたりするんだ。

「タオル濡れっけど、いいの?」
「いいよ。どうせ濡れたとき用に持ってきたんだから」
「ふーん。サンキュ」

 大ちゃんはなんでもなさそうにタオルを受け取って、そしてごしごしと自分で拭いた。

「こっちこそ、ありがと」

 大ちゃんはぶっきらぼうだし、意地悪なことを言うし、態度もデカい。本当に、ふてぶてしい猫みたいだ。
 でもときどき、びっくりするほど優しい。

「バス、遅れてくるかな」
「かもな」
「きっと人も多いよね」
「だろうな」
「大ちゃんに掴まってていい?」
「ん。好きにしろ」

 大ちゃんは人の多いバスの中では柱代わりになってくれる。体幹がしっかりしていて、急ブレーキでもビクともしない。だからこういう日のバスでは、俺は大抵大ちゃんに掴まっている。

「うん。好きにする」

 まだバスの中じゃないけど、俺は大ちゃんの横に立って、濡れたシャツの端っこを掴んだ。





 そんな感じでバスに乗るまではよかったんだけど。最寄りのバス停に着く頃にはざぁざぁ雨はどしゃ降りになっていた。どんなに大ちゃんの傘が大きかろうと太刀打ちできないくらいの、横殴りの大雨だ。大ちゃんは途中で傘を差すことを諦めて『立野、走るぞ』と走り出した。
 バス停からは、俺の家より大ちゃんの家の方が近い。俺も一旦大ちゃんの家に避難させてもらうことにした。

「んま〜びっしょびしょ! いいから早く脱ぎなさい!」

 家に入って早々、俺と大ちゃんは大ちゃんのお母さんに尻を叩かれるような勢いでびちゃびちゃの制服を脱がされてしまった。

「きょうちゃんはお風呂っ、ダイは洗濯回して着替えの準備っ。きょうちゃんはあとで車で送ってってあげるから、夕飯も食べていきなさい」

 さすがというかなんというか。おばちゃんは慣れた様子で俺たちに指示を出すと、自身はさっさと夕飯作りに取りかかった。



「あ、お先にくつろいでま〜す」

 タオルで頭を拭き拭き部屋に入ってきた大ちゃんに、ベッドの上から片手を上げる。勝手知ったる大ちゃんの部屋、風呂上がりの俺はベッドに寝そべって思いっきりくつろいでいた。
 大ちゃんはそんな俺を見下ろすと、ずんっ、とベッドに腰掛けて、そして、のしっ、と俺の背中に体を預けてきた。うつ伏せに寝そべる俺の上に、こう、『十』の文字になるような感じで仰向けに寝転ぶ。
 横の俺と縦の大ちゃん、ちょうど重なった腰のあたりの重みがすごい。すごいというか、とにかく重い!

「ちょっと大ちゃん! すんごい重いんですけどっ」
「重くない。若干体浮かしてっし」
「浮いてな……あっ、ほんとだちょぴっと軽……くないよっ、やっぱ重いぃ!」

 本気で体重をかけたら俺が折れてしまう(?)とわかっているからか、大ちゃんはほんのちょっとだけ力を入れてくれているようだ。が、やっぱり重い。俺と大ちゃんじゃ背の高さも体の厚みも筋肉量も違いすぎるのだ。
 ギブギブ、と騒いでいると、ようやく大ちゃんがごろんと転がって俺の上からどいた。そして、うつ伏せの俺と顔を見合わせるようにうつ伏せになる。

「デカかったな」
「なに? 大ちゃんが?」

 そう言うと、大ちゃんが「ちげぇよ」と呆れたように眉間に皺を寄せた。

「シャツ。それ」

 それ、と指されたのは俺が今着ているシャツだ。スポーツブランドのロゴが胸元に入ったシンプルな白いこのシャツは、大ちゃんに借りたものである。

「あ、これね。貸してくれてありがとう」
「ん」

 大ちゃんサイズなので、もちろんデカい。肩の位置が違うから、袖も長く感じるし、胸元もちょっとぶかぶかしてる。

「大ちゃんの匂いがするよ」

 襟のところを少し引っ張って、すん、と匂いを嗅ぐ。

「大ちゃんっていうか、大ちゃん家の匂いなんだろうけど」

 そう言ってから、今度は大ちゃんの胸元に鼻先を近づけて、すんすん、と匂いを嗅いでみた。柔らかいというか、石鹸っぽいっていうか、なんともいえない良い匂いがする。

「大ちゃんって、いい匂いだよね」

 大ちゃんは犬みたいなことをする俺を好きにさせて、そして、俺の額に自身の唇を押し付けてきた。

「おわ、びっくりした」

 いきなり、ちゅ、とされて、俺は驚いて額に手を当てる。

「どしたの急に」
「そういう雰囲気だったろ」
「えー、そうかな?」
「そうだ」

 絶対そうだと言い張る大ちゃんがおもしろくて、俺はくすくすと笑いながらその体に腕を回す。でっかくって分厚くって、温かい大ちゃん。俺がぎゅっと力を込めると、大ちゃんはその三倍くらいの力でぎゅっと抱きしめ返してきた。

「ぐぇ〜っ、へっへっ」

 苦しいのになんだか楽しくて、俺は笑ってしまう。大ちゃんも珍しく笑ってて、機嫌良さそうだ。

「大ちゃんの服着て大ちゃんのベッドにいて、そんでもって大ちゃんが隣にいるって変な感じ」
「そうかよ」

 大ちゃんはそう言うと、かぷ、と軽く俺の耳たぶを噛んだ。俺は「ぎゃあ」と笑って、大ちゃんの胸をぽこぽこ殴る。すると大ちゃんが俺の両手をまとめて掴んだ……から、俺は今度は足で大ちゃんの膝裏をくすぐる。ここが弱いのはわかってるんだ。

「やめい」
「大ちゃんこそ」

 掴んだり、放したり、くすぐったり。それこそ猫とネズミが追いかけっこするアニメみたいに、俺たちはドタバタ暴れて笑った。

「ちょっと~ドタドタうるさいわよ! 床が抜けるでしょうが」

 そうこうしてたら階下からおばちゃんの声が聞こえてきた。俺たちは動きを止めて顔を見合わせて、そして「ごめんなさーい」と大きな声で謝る。

「怒られてやんの」
「おまえもな」

 もう怒られないように、ベッドの上で大人しく並んで寝転んでこそこそと囁き合う。

「ねー、大ちゃん」
「あ?」
「もうちょいこっち来て」
「ん」

 ぴたりと体を寄せ合って、短パンから伸びた素足を絡ませたりしながら、ベッドの上でごろごろする。ときどきキスしたり、額をぶつけ合ったり、やっぱりキスしたりしながら。
 お風呂上がりでぽかぽかの大ちゃんから熱をもらいながら、俺はうっとりと目を閉じる。そして「あ。ねぇねぇ」と大ちゃんの顔を覗き込んだ。

「シャツは大ちゃんのだけど、短パンは輝樹くんのだね」

 シャツはぶかぶかでも大丈夫だけど、さすがにズボンの方はずるずる落ちてしまうので、そっちは輝樹くんのバスケ用の短パンを借りたんだった。
 ちなみに、下着は未使用のものを開けてもらってしまった。おばちゃんは『安売りで大量に買ったやつだから気にしないで』と言っていたが、もちろん今度買って返す予定だ。
 とにかくまぁ、俺は今全身皆本家のものを身にまとっているわけである。

「上半分大ちゃん、下半分輝樹くんって感じ? 皆本兄弟づくし」

 大ちゃんの服着て、大ちゃんのベッドに、大ちゃんと一緒に寝転んでる。と思ってたけど、ちょっとだけ輝樹くんも混じってた。
 それはそれでおもしろいよね~、という感じで笑ったら、どうしてだか大ちゃんが「は?」と嫌そうな声を出した。

「なんであいつが出てくるんだ」
「なんでって、この短パンが輝樹くんのだから……」

 さっきまでの機嫌よさそうな顔はどこへやら。大ちゃんはスッと真顔になると、なぜか俺の短パンを掴んだ。

「短パン脱げよ」
「え! やだよっ」

 なにを言い出すんだ、なにを、と俺は大ちゃんに掴まれた短パンを両手で必死に握りしめる。

「なんで脱がなきゃいけないの。俺パンツ一枚になっちゃうよ」
「いいから脱げ。俺のやつ履け」
「ぎゃーっ! なにすんのなにすんのなにすんのっ!」

 大ちゃんの腕力で短パンを引っ張られて、さっき卸してもらったばっかりの黒いボクサーパンツが丸見えになる。俺は太ももをギュッと寄せて「やだよ!」と抵抗する。

「変態! 大ちゃんの変態坊主! 助けてぇ〜!」
「脱げ」

 ついに脱げしか言わなくなってしまった。恐ろしすぎる。俺は大ちゃんの脇に手を入れて、こちょこちょっとくすぐる。で、一瞬大ちゃんの手がゆるんだ隙にベッドを転がって飛び降りた。

「待て。それを脱いでから逃げろ」
「脱ぎたくないから逃げるんでしょ! っていうか、大ちゃん目が怖い!」

 そんな感じで俺たちはまたドタバタと追いかけっこをするはめになった。
 まぁもちろんそんなことをしていたら階下から「いい加減にしなさいよぉ〜」と地獄の底から響くような低音ボイスが聞こえてくるわけで。
さらに、タイミングがいいのか悪いのか玄関の方から……。

「ただいまー! 雨やっばい! パンツまでびしょびしょなんだけど〜っ」

 なんて、輝樹くんご帰宅の声まで聞こえてきた。もう、どうしようもない。

 結局。俺と大ちゃんはおばちゃんにしっかり怒られて、俺の短パンはそのまま。でも輝樹くんが目ざとくそれを見つけて「あー、きょうちゃん俺のバスパン履いてんじゃん」なんて言うから、大ちゃんはまた不機嫌になってしまった。やれやれ。

(あー、大ちゃん家って賑やか)

 外のどしゃ降りに負けないくらい騒がしい。でも、皆本家のこの賑やかさが好きだなぁ、なんて思ったりした雨の日だった。