――中一、初夏。
「それ、なに書いてんの」
と、声をかけられたのは、最後の文字を書き終えた瞬間だった。
習字紙に付きそうになった筆を慌てて持ち上げて、ついでに顔を上げる。大きく開いた窓の外、白い野球帽(だったのだろうが、今は若干土で汚れている)を被った少年がいた。
「へ? ……『若者』って書いてた」
正直に答えると、野球帽の少年は「ふーん」と興味があるのかないのかわからないような声を上げた。
そしてそのまま背を向けて、すぐそこにある三つ並んだ外用の水道口に向かって、体を前に屈めている。どうやら水分補給をしに来たらしい。野球部がよく使う水道口は、書道室の窓の外、すぐそこだ。
(……あれ? 逆光でよく見えなかったけど、先輩だったのかな。やばい。タメ口きいちゃった)
水道に顔を近づけているので肩から背中にかけてしか見えないが、その体はとても大きい。どう見たって中学一年生のそれではない。
俺は『あちゃ』と思いながら、彼に謝るタイミングを見計らっていた。
運動とはとんと縁のない俺ですら、野球部はかなり上下関係が厳しいと聞き及んでいる。
『まだ六月なのに、退部した一年生が五人もいるんだぜ』と同じクラスの槇原が言っていた。槇原はサッカー部だ。
全然関係ないというのにすごい情報通である。
(やだな〜困ったな〜怒ってるかな〜)
と、今さらながらそわそわする。俺は席から立ち上がると、そっと窓辺に近づいた。
「あのぅ!」
「ぅおっ」
声をかけると、大きな背中がビクッと跳ねた。振り返ったその人の顔を見る前に、俺は急いで頭を下げる。
「先輩っ、タメ口で話しかけてすみませんでした!」
「……はぁ? 誰が先輩だよ」
「へ?」
顔を上げると、仏頂面をした厳つい坊主が、帽子を片手に立っていた。坊主頭にくっついた水滴が、初夏の日差しを反射してきらきらと輝いている。
その厳つい顔に見覚えがあって、俺は「あ」と声を出す。しかしその先が出てこない。顔に見覚えがあるが、どうしてもぴったりくる名前を思いつかない。
(マツモト、じゃなくて。ミシマ、ムラカミ……でもない。なんかマ行で始まる名前だった気がするんだけど、うーん?)
「あー、えっと、え〜……っと」と情けなく繰り返していると、坊主がこれ見よがしに溜め息を吐いた。
「皆本大輝。隣のクラスだろ、立野恭介」
そう、俺は立野恭介。そして彼は……そうだ、皆本大輝くんだ。一年生なのに二年生や三年生みたいに大きくて存在感のある男の子。名前はすぐに出てこなかったが、顔はよく知っている。眠たそうな、けど、意志の強そうな黒い目はとても印象的だ。
まさか名前を知られているなんて思わなくて、俺はびっくりして「おぉ」なんて言ってしまった。
「俺のこと知ってるんだ」
「知ってるもなにも、俺たち結構近所に住んでんだぞ」
「えっ!」
衝撃に、今度こそ俺は飛び上がった。つまり、俺と皆本くんはご近所さんということだ。いやしかし、小学校は別のはずだ。皆本大輝なんて同級生はいなかった。
「俺、中学入るタイミングで引っ越してきたんだよ」
『?』となっている俺に気がついたのだろう。皆本くんがあっさりタネ明かししてくれた。なるほどなるほど。
「そうなんだ。知らなかったなぁ」
「だろうな。時たま帰り道一緒になるのも知らなかったろ。立野、歩くの遅いから。俺、何回も追い抜いてんだけどな」
「うん、気づかなかった。……え? 俺って歩くの遅いの?」
帰り道ですれ違っていたってことよりなにより、歩くのが遅いと言われたことに衝撃を受けた。
すると皆本くんが「そこかよ」って言いながら、ちょっと笑った。
俺は『皆本くんってこんなことでも笑うんだな』ってまたびっくりしてしまった。なんか『無』って感じの顔しか見たことなかったし、野球部の人たちとしか仲良くしないのかと思ってたからだ。
「なぁ。今日一緒帰らん?」
ほけ、と眺めていると、ぶるぶると頭を振って水気を払った皆本くんがそんなことを言った。
「え、うん。帰りたい」
なんか、皆本くんって結構おもしろい人なのかもしれない。俺は素直に頷いた。皆本くんは「じゃあ部活終わったら正門な」と軽く言って、帽子を被って背を向けた。
こんなふうにあっさりと人を誘えるなんてすごいなぁ、と思いながら、俺は「頑張って」とありきたりな応援をして、自分も続きに戻ることにした。
「立野」と、一旦走り出したと思った皆本くんが帰ってきた。やっぱり帽子と逆光で、表情がいまいち見えづらい。
「『ストレートで奪三振』って書いてよ」
「ん?」
「それ」
筆と硯、それに『若者』と書かれた習字紙を指差して皆本くんが言った。そして、きゅっと帽子を被り直して、また駆け出していく。
俺が『いいよ』とも『いやだよ』とも答える前に。
茶色いグラウンドに、白い背中が駆けていく。みるみる小さくなって、白い背中は他の白い背中に混じってしまった。
前までは、誰が誰だかわからなかったけど、今はちょこっとだけわかる。そうか、あのでっかいのが皆本くんなんだ。
「ストレートで奪三振?」
はて、と思いながら俺は腕を組む。
そうこうしているうちに、三年の先輩と顧問の先生がやってきて、部活が始まってしまった。
ちなみに書道部に二年生はおらず、俺を含めて六人だけの小さな部だ。大所帯の野球部に比べたら、えらくこぢんまりしている。
先生に「『ストレートで奪三振』って書いてもいいですか」と聞いたら「いいけど、なんで奪三振?」と不思議な顔をされた。俺も不思議な顔をしながら『さぁ?』と答えたくなったが、「どうしても、書きたくて?」と言ってみた。
若干語尾が上がってしまった感は否めなかった。
*
時は進んで、高三の春。
「まだそれ貼ってるんだ」
久しぶりに訪れた大ちゃんの部屋の壁には、『ストレートで奪三振』がデカい顔をして幅をきかせていた。窓から吹き込んでくる春の風を感じながら、俺はその文字をジッと眺める。
書道用半紙のサイズに書いているため『ストレート』『で奪三振』という変な改行が入っているうえに、全体的にみちみちだ。
ちなみにその隣には『カーブでも奪三振』さらに隣には『フォークとスライダーは頑張れ』『目指せ甲子園』『狙え完全試合』と書かれた紙がつらつらと貼られている。
作者は一応、全作品俺だ。
大ちゃんがなにを思ってそれを貼っているかわからないが、時たま、書いてとねだってきては、俺に自分の目標を書かせる。
もしかすると、大ちゃんなりの決意表明なのかもしれない。なんて俺は解釈してる。
「また今度書いて。新しいやつ」
大ちゃんが、半袖シャツを被りながらそんなことを言った。
「うん。球団の寮ってそういうの貼っていいの?」
「知らん。まだプロになれるかわからんし」
そうは言うけど、大ちゃんはたぶん大丈夫だと思う。SNSで『皆本はドラフト一位指名殺到間違いなし』って書かれているのを何回も見たし。
どこの球団に入れるかは運次第なところもあるけど、まず間違いなくプロ入りはするだろう。
「まぁ、もしダメならスマホのホーム画面にしとく」
大ちゃんは平気な顔だ。意外と臨機応変で柔軟。ダメなものはダメ、でも絶対にやりたいことはやり通す。それが大ちゃんという男なのである。
「あれ、大ちゃんどこ行くの」
着替えを終えた大ちゃんが、すっくとベッドから立ち上がった。
「庭。バット振るけど、見とく? 待っとく?」
「あ、行く。見たい見たい」
俺は慌ててズボンを履き、大ちゃんに続いて部屋を出る。
とととと、と階段を降りきったところで、大ちゃんのお母さんが玄関から入ってきた。両手には大きな買い物袋を提げている。
「ただいま、っと。あらぁ、きょうちゃん久しぶり」
「おばちゃん、久しぶり。お邪魔してます」
ぺこ、と頭を下げると、「きょうちゃん来てるって知ってたらもっと早く帰ってきたのに」と残念そうに言われた。
大ちゃんのお母さんは、俺のことをとても可愛がってくれている。
どうも、大ちゃんには俺しか友達がいないと思っているらしい。なにしろ大ちゃんが家に人を呼ばないからだ。
『こーんな野球ばっかりしてる無愛想な子の友達でいてくれるなんてねぇ。きょうちゃんありがとねぇ』って、よく言われる。
まるで俺が面倒を見ているように思われているが、そうでもない。
学校ではみんなに『皆本さん』『大輝さん』とか言われて、後輩の女の子にサインをねだられて、たぶんプロ野球選手にもなるすごい人なのに。
でもおばちゃんにかかれば、無愛想で面倒くさがりな息子なのだ。
「夕飯食べてく? 今日はとんかつよ」
「え、いいの?」
「もちろん。どうせた〜くさん揚げるから。ダイもテルももんのすごい食べるからさぁ」
テル、というのは大ちゃんの弟の輝樹くんのことだ。
輝樹くんはバスケをしていて、背も大ちゃんみたいに大きい。そしてよく食べる。
大ちゃんもよく食べるから、皆本家の夕飯時の机の上はちょっとした小山がふたつはできる。
大ちゃん用の山と、輝樹くん用の山だ。ご飯はどんぶり、汁もどんぶり、おかずは大皿だ。
「じゃあお言葉に甘えて」とぺこりと頭を下げると、おばちゃんは嬉しそうに笑った。
『家に夕飯いらないって連絡しとかなくていい?』とは聞いてこない。この時間、俺の家に夕飯が準備されていないことを知っているからだ。
俺の家は両親とも働いてて、夜も遅くならないと帰ってこない。
中学までは『レンジで温めて食べてね』のご飯が準備してあったが、高校に入ってからはそれもなくなった。たまに自分で作るし、たまにコンビニで買うし、たまにこうやって大ちゃんの家で食べさせてもらう。
前に、いつもごめんなさいと謝ったら、『きょうちゃん一人くらい増えたって、なーんにも変わらないわよ』と笑われてしまった。
それに『みちこちゃんが度々お礼を持ってきてくれるし』とも言われた。みちこ、とは俺の母さんの名前だ。
おばちゃんと母さんは結構気が合うらしく、よく二人で出かけたり、こないだは日帰りで温泉旅行に行ったりしていた。
今日はどこのコンビニで買って帰ろうかな、と思っていたので、本当に嬉しいしありがたい。
「おばちゃんのご飯美味しいから、とっても嬉しい」
素直に気持ちを伝えると、買い物袋を床に置いたおばちゃんが「あらやだ」と言って口元を押さえた。
「なにも言わずにガツガツ食べるだけの息子たちに、きょうちゃんの爪の垢(あか)煎じて飲ませてやりたいわ」
にこにこと笑うおばちゃんの横を、『食べるだけの息子そのいち』が「ちょっと振ってくる」とのしのし通り過ぎていく。
おばちゃんは大ちゃんにわざと尻をぶつけて「あんたのことよ」と言うが、体幹のしっかりしている大ちゃんはまったくブレない。
靴を履いて、そのまま外に出てしまった。俺もその後をてってってっと小走りに追いかけた。
大ちゃんのスイングは豪快だ。離れて座っていても、ヴォンッヴォンッと風を切る音が聞こえてくる。俺は庭の隅に置かれたベンチに座って、それをほけ〜っと眺めていた。
まだ春だというのに、座っているだけでじわじわ暑い。ついこの間まで寒かったのに、季節が過ぎ去るのは早いものだ。
大ちゃん家の庭には、それなりの大きさのライトが二個置いてある。それからピッチングのためのネットと、バスケのゴール。ダンベルやら筋トレ用品。俺の人生とは縁のないものがごろごろ並んでいる。
春風にのって、キッチンの方から揚げ物の匂いが、ほわぁと漂ってきて、俺のお腹がぐぅと鳴った。
「とんかつ楽しみだなぁ。嬉しいなぁ。ねぇ大ちゃん」
聞き流してもらうつもりで話しかけると、大ちゃんがスイングを止めてバットを地面に立てた。
「立野は本当に、好かれるのが上手いな」
「え? なにに?」
「うちの家族に」
俺はちょっとぽかんとしたあとに、「そうかな?」と正直に返した。あまりにも心当たりがなかったからだ。
いやもちろん、嫌われるより好かれる方がいいからいいんだけども。しかし、つまりその言い方は……。
「それってさぁ……」
大ちゃんに聞いてみようか、と口を開いたそのとき。庭に面した大きい窓から「ただいま」という声が聞こえてきた。
『食べるだけの息子そのに』こと、輝樹くんの声だ。
ちょうど声変わりが終わって、ますます大ちゃんの声に似てきた。電話越しにでも聞いたら、俺も間違えてしまうかもしれない。
お、と思っていたら、「おかえり」「とんかつ?」「そうよ。あ、きょうちゃん来てるわよ」「えっ、きょうちゃん? どこ?」「庭。お兄ちゃんといるわよ。早く手ぇ洗ってきなさい」という会話がしっかり聞こえてきた。
部屋の方を見やって大ちゃんに視線を戻すと、大ちゃんは「ほらな」って顔をしていた。
まぁうん。たしかに、輝樹くんも俺によく懐いてくれているかもしれない。
「皆本家のみんなに好かれてるってことはさ、それってさ……」
「ん」
「大ちゃんも、俺が好きってことだよね?」
家の中に聞こえないように、小さな声でこそこそと尋ねてみる。大ちゃんはバットを肩に担いだあと「はぁ」と短く溜め息を吐いた。
「当たり前」
当然とばかりにそう言って、大ちゃんはまたバットを振り始めた。
そうか、当たり前なのか。と思いながら、俺はにこにこと頬を持ち上げる。
好きな人に好かれるのは、とても嬉しいことだ。
それでもって、好きな人の家族に好かれるのもとても嬉しい。
さらに夕飯はとんかつで、この上なくハッピー。
気を引き締めないと頬がにやにやとゆるんでしまう。
ヴォンッ、という小気味いい風切り音を聞きながら、俺はにやけ顔を誤魔化すように、ゆったり目を閉じた。
「それ、なに書いてんの」
と、声をかけられたのは、最後の文字を書き終えた瞬間だった。
習字紙に付きそうになった筆を慌てて持ち上げて、ついでに顔を上げる。大きく開いた窓の外、白い野球帽(だったのだろうが、今は若干土で汚れている)を被った少年がいた。
「へ? ……『若者』って書いてた」
正直に答えると、野球帽の少年は「ふーん」と興味があるのかないのかわからないような声を上げた。
そしてそのまま背を向けて、すぐそこにある三つ並んだ外用の水道口に向かって、体を前に屈めている。どうやら水分補給をしに来たらしい。野球部がよく使う水道口は、書道室の窓の外、すぐそこだ。
(……あれ? 逆光でよく見えなかったけど、先輩だったのかな。やばい。タメ口きいちゃった)
水道に顔を近づけているので肩から背中にかけてしか見えないが、その体はとても大きい。どう見たって中学一年生のそれではない。
俺は『あちゃ』と思いながら、彼に謝るタイミングを見計らっていた。
運動とはとんと縁のない俺ですら、野球部はかなり上下関係が厳しいと聞き及んでいる。
『まだ六月なのに、退部した一年生が五人もいるんだぜ』と同じクラスの槇原が言っていた。槇原はサッカー部だ。
全然関係ないというのにすごい情報通である。
(やだな〜困ったな〜怒ってるかな〜)
と、今さらながらそわそわする。俺は席から立ち上がると、そっと窓辺に近づいた。
「あのぅ!」
「ぅおっ」
声をかけると、大きな背中がビクッと跳ねた。振り返ったその人の顔を見る前に、俺は急いで頭を下げる。
「先輩っ、タメ口で話しかけてすみませんでした!」
「……はぁ? 誰が先輩だよ」
「へ?」
顔を上げると、仏頂面をした厳つい坊主が、帽子を片手に立っていた。坊主頭にくっついた水滴が、初夏の日差しを反射してきらきらと輝いている。
その厳つい顔に見覚えがあって、俺は「あ」と声を出す。しかしその先が出てこない。顔に見覚えがあるが、どうしてもぴったりくる名前を思いつかない。
(マツモト、じゃなくて。ミシマ、ムラカミ……でもない。なんかマ行で始まる名前だった気がするんだけど、うーん?)
「あー、えっと、え〜……っと」と情けなく繰り返していると、坊主がこれ見よがしに溜め息を吐いた。
「皆本大輝。隣のクラスだろ、立野恭介」
そう、俺は立野恭介。そして彼は……そうだ、皆本大輝くんだ。一年生なのに二年生や三年生みたいに大きくて存在感のある男の子。名前はすぐに出てこなかったが、顔はよく知っている。眠たそうな、けど、意志の強そうな黒い目はとても印象的だ。
まさか名前を知られているなんて思わなくて、俺はびっくりして「おぉ」なんて言ってしまった。
「俺のこと知ってるんだ」
「知ってるもなにも、俺たち結構近所に住んでんだぞ」
「えっ!」
衝撃に、今度こそ俺は飛び上がった。つまり、俺と皆本くんはご近所さんということだ。いやしかし、小学校は別のはずだ。皆本大輝なんて同級生はいなかった。
「俺、中学入るタイミングで引っ越してきたんだよ」
『?』となっている俺に気がついたのだろう。皆本くんがあっさりタネ明かししてくれた。なるほどなるほど。
「そうなんだ。知らなかったなぁ」
「だろうな。時たま帰り道一緒になるのも知らなかったろ。立野、歩くの遅いから。俺、何回も追い抜いてんだけどな」
「うん、気づかなかった。……え? 俺って歩くの遅いの?」
帰り道ですれ違っていたってことよりなにより、歩くのが遅いと言われたことに衝撃を受けた。
すると皆本くんが「そこかよ」って言いながら、ちょっと笑った。
俺は『皆本くんってこんなことでも笑うんだな』ってまたびっくりしてしまった。なんか『無』って感じの顔しか見たことなかったし、野球部の人たちとしか仲良くしないのかと思ってたからだ。
「なぁ。今日一緒帰らん?」
ほけ、と眺めていると、ぶるぶると頭を振って水気を払った皆本くんがそんなことを言った。
「え、うん。帰りたい」
なんか、皆本くんって結構おもしろい人なのかもしれない。俺は素直に頷いた。皆本くんは「じゃあ部活終わったら正門な」と軽く言って、帽子を被って背を向けた。
こんなふうにあっさりと人を誘えるなんてすごいなぁ、と思いながら、俺は「頑張って」とありきたりな応援をして、自分も続きに戻ることにした。
「立野」と、一旦走り出したと思った皆本くんが帰ってきた。やっぱり帽子と逆光で、表情がいまいち見えづらい。
「『ストレートで奪三振』って書いてよ」
「ん?」
「それ」
筆と硯、それに『若者』と書かれた習字紙を指差して皆本くんが言った。そして、きゅっと帽子を被り直して、また駆け出していく。
俺が『いいよ』とも『いやだよ』とも答える前に。
茶色いグラウンドに、白い背中が駆けていく。みるみる小さくなって、白い背中は他の白い背中に混じってしまった。
前までは、誰が誰だかわからなかったけど、今はちょこっとだけわかる。そうか、あのでっかいのが皆本くんなんだ。
「ストレートで奪三振?」
はて、と思いながら俺は腕を組む。
そうこうしているうちに、三年の先輩と顧問の先生がやってきて、部活が始まってしまった。
ちなみに書道部に二年生はおらず、俺を含めて六人だけの小さな部だ。大所帯の野球部に比べたら、えらくこぢんまりしている。
先生に「『ストレートで奪三振』って書いてもいいですか」と聞いたら「いいけど、なんで奪三振?」と不思議な顔をされた。俺も不思議な顔をしながら『さぁ?』と答えたくなったが、「どうしても、書きたくて?」と言ってみた。
若干語尾が上がってしまった感は否めなかった。
*
時は進んで、高三の春。
「まだそれ貼ってるんだ」
久しぶりに訪れた大ちゃんの部屋の壁には、『ストレートで奪三振』がデカい顔をして幅をきかせていた。窓から吹き込んでくる春の風を感じながら、俺はその文字をジッと眺める。
書道用半紙のサイズに書いているため『ストレート』『で奪三振』という変な改行が入っているうえに、全体的にみちみちだ。
ちなみにその隣には『カーブでも奪三振』さらに隣には『フォークとスライダーは頑張れ』『目指せ甲子園』『狙え完全試合』と書かれた紙がつらつらと貼られている。
作者は一応、全作品俺だ。
大ちゃんがなにを思ってそれを貼っているかわからないが、時たま、書いてとねだってきては、俺に自分の目標を書かせる。
もしかすると、大ちゃんなりの決意表明なのかもしれない。なんて俺は解釈してる。
「また今度書いて。新しいやつ」
大ちゃんが、半袖シャツを被りながらそんなことを言った。
「うん。球団の寮ってそういうの貼っていいの?」
「知らん。まだプロになれるかわからんし」
そうは言うけど、大ちゃんはたぶん大丈夫だと思う。SNSで『皆本はドラフト一位指名殺到間違いなし』って書かれているのを何回も見たし。
どこの球団に入れるかは運次第なところもあるけど、まず間違いなくプロ入りはするだろう。
「まぁ、もしダメならスマホのホーム画面にしとく」
大ちゃんは平気な顔だ。意外と臨機応変で柔軟。ダメなものはダメ、でも絶対にやりたいことはやり通す。それが大ちゃんという男なのである。
「あれ、大ちゃんどこ行くの」
着替えを終えた大ちゃんが、すっくとベッドから立ち上がった。
「庭。バット振るけど、見とく? 待っとく?」
「あ、行く。見たい見たい」
俺は慌ててズボンを履き、大ちゃんに続いて部屋を出る。
とととと、と階段を降りきったところで、大ちゃんのお母さんが玄関から入ってきた。両手には大きな買い物袋を提げている。
「ただいま、っと。あらぁ、きょうちゃん久しぶり」
「おばちゃん、久しぶり。お邪魔してます」
ぺこ、と頭を下げると、「きょうちゃん来てるって知ってたらもっと早く帰ってきたのに」と残念そうに言われた。
大ちゃんのお母さんは、俺のことをとても可愛がってくれている。
どうも、大ちゃんには俺しか友達がいないと思っているらしい。なにしろ大ちゃんが家に人を呼ばないからだ。
『こーんな野球ばっかりしてる無愛想な子の友達でいてくれるなんてねぇ。きょうちゃんありがとねぇ』って、よく言われる。
まるで俺が面倒を見ているように思われているが、そうでもない。
学校ではみんなに『皆本さん』『大輝さん』とか言われて、後輩の女の子にサインをねだられて、たぶんプロ野球選手にもなるすごい人なのに。
でもおばちゃんにかかれば、無愛想で面倒くさがりな息子なのだ。
「夕飯食べてく? 今日はとんかつよ」
「え、いいの?」
「もちろん。どうせた〜くさん揚げるから。ダイもテルももんのすごい食べるからさぁ」
テル、というのは大ちゃんの弟の輝樹くんのことだ。
輝樹くんはバスケをしていて、背も大ちゃんみたいに大きい。そしてよく食べる。
大ちゃんもよく食べるから、皆本家の夕飯時の机の上はちょっとした小山がふたつはできる。
大ちゃん用の山と、輝樹くん用の山だ。ご飯はどんぶり、汁もどんぶり、おかずは大皿だ。
「じゃあお言葉に甘えて」とぺこりと頭を下げると、おばちゃんは嬉しそうに笑った。
『家に夕飯いらないって連絡しとかなくていい?』とは聞いてこない。この時間、俺の家に夕飯が準備されていないことを知っているからだ。
俺の家は両親とも働いてて、夜も遅くならないと帰ってこない。
中学までは『レンジで温めて食べてね』のご飯が準備してあったが、高校に入ってからはそれもなくなった。たまに自分で作るし、たまにコンビニで買うし、たまにこうやって大ちゃんの家で食べさせてもらう。
前に、いつもごめんなさいと謝ったら、『きょうちゃん一人くらい増えたって、なーんにも変わらないわよ』と笑われてしまった。
それに『みちこちゃんが度々お礼を持ってきてくれるし』とも言われた。みちこ、とは俺の母さんの名前だ。
おばちゃんと母さんは結構気が合うらしく、よく二人で出かけたり、こないだは日帰りで温泉旅行に行ったりしていた。
今日はどこのコンビニで買って帰ろうかな、と思っていたので、本当に嬉しいしありがたい。
「おばちゃんのご飯美味しいから、とっても嬉しい」
素直に気持ちを伝えると、買い物袋を床に置いたおばちゃんが「あらやだ」と言って口元を押さえた。
「なにも言わずにガツガツ食べるだけの息子たちに、きょうちゃんの爪の垢(あか)煎じて飲ませてやりたいわ」
にこにこと笑うおばちゃんの横を、『食べるだけの息子そのいち』が「ちょっと振ってくる」とのしのし通り過ぎていく。
おばちゃんは大ちゃんにわざと尻をぶつけて「あんたのことよ」と言うが、体幹のしっかりしている大ちゃんはまったくブレない。
靴を履いて、そのまま外に出てしまった。俺もその後をてってってっと小走りに追いかけた。
大ちゃんのスイングは豪快だ。離れて座っていても、ヴォンッヴォンッと風を切る音が聞こえてくる。俺は庭の隅に置かれたベンチに座って、それをほけ〜っと眺めていた。
まだ春だというのに、座っているだけでじわじわ暑い。ついこの間まで寒かったのに、季節が過ぎ去るのは早いものだ。
大ちゃん家の庭には、それなりの大きさのライトが二個置いてある。それからピッチングのためのネットと、バスケのゴール。ダンベルやら筋トレ用品。俺の人生とは縁のないものがごろごろ並んでいる。
春風にのって、キッチンの方から揚げ物の匂いが、ほわぁと漂ってきて、俺のお腹がぐぅと鳴った。
「とんかつ楽しみだなぁ。嬉しいなぁ。ねぇ大ちゃん」
聞き流してもらうつもりで話しかけると、大ちゃんがスイングを止めてバットを地面に立てた。
「立野は本当に、好かれるのが上手いな」
「え? なにに?」
「うちの家族に」
俺はちょっとぽかんとしたあとに、「そうかな?」と正直に返した。あまりにも心当たりがなかったからだ。
いやもちろん、嫌われるより好かれる方がいいからいいんだけども。しかし、つまりその言い方は……。
「それってさぁ……」
大ちゃんに聞いてみようか、と口を開いたそのとき。庭に面した大きい窓から「ただいま」という声が聞こえてきた。
『食べるだけの息子そのに』こと、輝樹くんの声だ。
ちょうど声変わりが終わって、ますます大ちゃんの声に似てきた。電話越しにでも聞いたら、俺も間違えてしまうかもしれない。
お、と思っていたら、「おかえり」「とんかつ?」「そうよ。あ、きょうちゃん来てるわよ」「えっ、きょうちゃん? どこ?」「庭。お兄ちゃんといるわよ。早く手ぇ洗ってきなさい」という会話がしっかり聞こえてきた。
部屋の方を見やって大ちゃんに視線を戻すと、大ちゃんは「ほらな」って顔をしていた。
まぁうん。たしかに、輝樹くんも俺によく懐いてくれているかもしれない。
「皆本家のみんなに好かれてるってことはさ、それってさ……」
「ん」
「大ちゃんも、俺が好きってことだよね?」
家の中に聞こえないように、小さな声でこそこそと尋ねてみる。大ちゃんはバットを肩に担いだあと「はぁ」と短く溜め息を吐いた。
「当たり前」
当然とばかりにそう言って、大ちゃんはまたバットを振り始めた。
そうか、当たり前なのか。と思いながら、俺はにこにこと頬を持ち上げる。
好きな人に好かれるのは、とても嬉しいことだ。
それでもって、好きな人の家族に好かれるのもとても嬉しい。
さらに夕飯はとんかつで、この上なくハッピー。
気を引き締めないと頬がにやにやとゆるんでしまう。
ヴォンッ、という小気味いい風切り音を聞きながら、俺はにやけ顔を誤魔化すように、ゆったり目を閉じた。

