休み時間、彼は毎日違う本を読んでいた。
お互いに社交的ではないから、私達が初めて会話をしたのは、隣の席になってから一ヶ月が経った頃だったと思う。あの日は朝読書の期間中で、私が本を忘れて困っていた時に、彼が声をかけてくれた。
「良かったら、どれかどうぞ」
彼の手元には三冊の本。どれも分厚くて、読むのが難しそうだった。
「いいの?…こんなに持ってきてるの凄いね」
「毎日どれを持っていこうか考えるのが楽しいんだ」
私の言葉に微笑んで返した彼の表情は、何度も思い出したくなる程、綺麗だった。
私が彼を好きになるのには、それからさほど時間はかからなかった。彼のページをめくる手を横目で見ては、胸を高鳴らせて、今日はどんな本を読んでいるのかと聞くこともあった。
彼はその度に、私に本の魅力を伝えてくる。それはとても楽しそうで、私は嬉しくて、一緒に楽しくなった。
手鏡で前髪を整えてリップを塗り直し、そして自分の名刺を用意する。軽く深呼吸をしてから席を立った。
「あの、すみません」
「はい?」
私の突然の声掛けに、彼は驚きながらも、ページの間に指を挟んで応えた。
「私、こういう者でして」
名刺を渡す。
「感情代行人…」
彼は挟んでいた指を栞に替え、丁寧に両手で受け取ってくれた。
「はい。一ノ瀬詩乃と申します。今回、古賀様へのご依頼を受けて参りました。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
「…はい、あ、どうぞ」
「失礼します」
彼の向かいに腰を下ろす。こうやって向かい合って座るのは、いつぶりだろう。
「あの今、人を待っていて。もしかしたらもう来てしまうかもしれないので、手短にお願いできますか?」
彼が度々時計を確認しているのは気づいていた。
「はい、かしこまりました。では始めさせて頂きます」
「お願いします」
近年で、感情代行人の仕事が話題になってきているからか、彼は私の存在を受け入れるのが早かった。この仕事の簡単な説明をすると、特に驚くこともなく頷いていた。
「では早速、受け取った手紙を読ませて頂きますね」
「あの…それって、誰からの手紙ですか?」
「あー…それが、名前は最後に伝えて欲しいとの依頼人の要望で…」
「わ、分かりました。一旦、聞きますね」
「はい、では失礼します」
私は髪を耳にかけ、喉を鳴らした。どんな言葉が来ても、自分の感情は切り離してまっすぐ彼に伝える。無感情ではあるけれど、心を込めて、依頼人の気持ちを届ける。
いざ読もうとした時、彼がいきなり声を出した。
「あ!やっぱり、佐々木さんだよね?!」
手紙を開こうとした手が固まる。久しぶりにその名前で呼ばれたからか、それとも彼が私を覚えていた事に何も感じないフリをする為か、私は奥歯を噛み締めた。
「…気づいてたの?」
「そうかなって思ったんだけど、苗字が一ノ瀬だから違うかなって」
「大学の頃両親が離婚して、苗字変わったの」
「あ〜、そうだったんだ。九年ぶり?だよね」
「うん…久しぶり」
「久しぶり」
昔みたいに話すと、あっという間に心が持っていかれそうになる。これだから気づかれたくなかったのに。
「ごめん、仕事の邪魔したよね。どうぞ続けてください」
「う、うん。そう仕事、するね」
切り替えが早い彼に、私の心が追いついてこない。サッと読んで、サッと帰れば、大丈夫。私はそう心で唱えて、ゆっくり手紙を開いた。可愛らしい字で書かれている言葉に、胸が締め付けられた。
古賀悠人くんへ。
貴方はとても誠実で、とても真っ直ぐで、
私の目には、何時の貴方も輝いて見えています。
彼は少し顔を傾けている。誰からの手紙かを考えているみたい。あの頃の私と、依頼人があまりにも同じ感情で、言葉が詰まりそうになる。
貴方は、きっと自分では気づいてないと思うけど、
私の話を聞く時、ほんの少しだけ体を傾ける所があります。あの仕草が、私は好きです。
指先に思わず力が入る。私の言葉じゃないのに、一瞬だけ、「好き」の文字を言い換えそうになった。視線を落としたまま、次の行を追う。
それから、本の話をしている時。
少しだけ早口になる所も好きです。
自分の好きなものを話している時の貴方は、本当に楽しそうで、その表情を見るのが、何よりも好きです。
高校生だったあの頃の彼の表情が頭をよぎる。私は汗で湿った手で目の前の水を一口飲んだ。彼を見ると、相手にまだ確信がつかないような感じだった。
でもひとつだけ、少しだけ困ることがあります。
貴方は、自分のことになると、驚くくらい気づかない人で、
私が何度分かりやすいアピールをしても、全く気づいていなかったよね。
まあそんな所も、貴方のいい所だけどね。
依頼人の気持ちが痛いほど分かる。鈍感すぎて嫌になるほどなのに、なんだかそれすらも可愛く見えたり、このままの関係性でも心地いいと思えたりする。
喫茶しずくで、初めて貴方と話した日のことを今でも鮮明に覚えています。
あの時はこんな風に貴方と過ごす日が増えていくなんて、思ってもいませんでした。
さっきまで首を傾げて考えていたのに、相手に確信がついたのか、彼は私の知らない顔で微笑んだ。その表情に、私の胸はどんどん締め付けられていく。
いつも同じ席で、同じ本を読んでいるから、
貴方は少しだけ有名で、
貴方よりうんと前から常連だった私も、気になって仕方がありませんでした。
あの日、私がたまたま持ってきていたギターを店内で弾いていた時、いつも本と睨めっこをしてる貴方が、
手を止めて私を見てくれたのが嬉しくて、思わず話しかけました。
それから毎回、喫茶しずくにはギターを持っていくようになって、話すきっかけが欲しかったのと、貴方の気を引きたくて色んなメロディーを弾きました。
紙をめくる音が、やけに大きく響く。彼は微笑みながらも、時間を気にしているよう。もしかしたら、この依頼人の彼女が、この後ここへ来るのではないかと、ふと頭に浮かんだ。
二人でいろんな所へ行って、本を読んだり、何でもない話をしたり。
時々、私のギターに付き合ってくれたりしたね。
特別な事は何も無かったけれど、その時間こそが、私にとっては全部特別でした。
貴方も同じ気持ちでいてくれてるのかなって、何度も思いました。
でも私には、それを確認する資格がありません。
唐突な一文に、笑みが溢れて仕方がなかった彼の表情は少しだけ固まった。そしてもう一度時計を確認した。きっともう、待ち合わせの時間は既に過ぎているのだと思う。
彼の左手の親指は、人差し指の爪を撫で始める。
なんとも懐かしい、彼の動揺している時の癖。彼の中で、この依頼人の彼女がどれほどの存在だったか、私に伝えてくる仕草。
ゆったりと流れる店内の音楽が、突如として呪いの音に聞こえ始める。手紙の先を読むのが、怖くなった。
お互いに社交的ではないから、私達が初めて会話をしたのは、隣の席になってから一ヶ月が経った頃だったと思う。あの日は朝読書の期間中で、私が本を忘れて困っていた時に、彼が声をかけてくれた。
「良かったら、どれかどうぞ」
彼の手元には三冊の本。どれも分厚くて、読むのが難しそうだった。
「いいの?…こんなに持ってきてるの凄いね」
「毎日どれを持っていこうか考えるのが楽しいんだ」
私の言葉に微笑んで返した彼の表情は、何度も思い出したくなる程、綺麗だった。
私が彼を好きになるのには、それからさほど時間はかからなかった。彼のページをめくる手を横目で見ては、胸を高鳴らせて、今日はどんな本を読んでいるのかと聞くこともあった。
彼はその度に、私に本の魅力を伝えてくる。それはとても楽しそうで、私は嬉しくて、一緒に楽しくなった。
手鏡で前髪を整えてリップを塗り直し、そして自分の名刺を用意する。軽く深呼吸をしてから席を立った。
「あの、すみません」
「はい?」
私の突然の声掛けに、彼は驚きながらも、ページの間に指を挟んで応えた。
「私、こういう者でして」
名刺を渡す。
「感情代行人…」
彼は挟んでいた指を栞に替え、丁寧に両手で受け取ってくれた。
「はい。一ノ瀬詩乃と申します。今回、古賀様へのご依頼を受けて参りました。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
「…はい、あ、どうぞ」
「失礼します」
彼の向かいに腰を下ろす。こうやって向かい合って座るのは、いつぶりだろう。
「あの今、人を待っていて。もしかしたらもう来てしまうかもしれないので、手短にお願いできますか?」
彼が度々時計を確認しているのは気づいていた。
「はい、かしこまりました。では始めさせて頂きます」
「お願いします」
近年で、感情代行人の仕事が話題になってきているからか、彼は私の存在を受け入れるのが早かった。この仕事の簡単な説明をすると、特に驚くこともなく頷いていた。
「では早速、受け取った手紙を読ませて頂きますね」
「あの…それって、誰からの手紙ですか?」
「あー…それが、名前は最後に伝えて欲しいとの依頼人の要望で…」
「わ、分かりました。一旦、聞きますね」
「はい、では失礼します」
私は髪を耳にかけ、喉を鳴らした。どんな言葉が来ても、自分の感情は切り離してまっすぐ彼に伝える。無感情ではあるけれど、心を込めて、依頼人の気持ちを届ける。
いざ読もうとした時、彼がいきなり声を出した。
「あ!やっぱり、佐々木さんだよね?!」
手紙を開こうとした手が固まる。久しぶりにその名前で呼ばれたからか、それとも彼が私を覚えていた事に何も感じないフリをする為か、私は奥歯を噛み締めた。
「…気づいてたの?」
「そうかなって思ったんだけど、苗字が一ノ瀬だから違うかなって」
「大学の頃両親が離婚して、苗字変わったの」
「あ〜、そうだったんだ。九年ぶり?だよね」
「うん…久しぶり」
「久しぶり」
昔みたいに話すと、あっという間に心が持っていかれそうになる。これだから気づかれたくなかったのに。
「ごめん、仕事の邪魔したよね。どうぞ続けてください」
「う、うん。そう仕事、するね」
切り替えが早い彼に、私の心が追いついてこない。サッと読んで、サッと帰れば、大丈夫。私はそう心で唱えて、ゆっくり手紙を開いた。可愛らしい字で書かれている言葉に、胸が締め付けられた。
古賀悠人くんへ。
貴方はとても誠実で、とても真っ直ぐで、
私の目には、何時の貴方も輝いて見えています。
彼は少し顔を傾けている。誰からの手紙かを考えているみたい。あの頃の私と、依頼人があまりにも同じ感情で、言葉が詰まりそうになる。
貴方は、きっと自分では気づいてないと思うけど、
私の話を聞く時、ほんの少しだけ体を傾ける所があります。あの仕草が、私は好きです。
指先に思わず力が入る。私の言葉じゃないのに、一瞬だけ、「好き」の文字を言い換えそうになった。視線を落としたまま、次の行を追う。
それから、本の話をしている時。
少しだけ早口になる所も好きです。
自分の好きなものを話している時の貴方は、本当に楽しそうで、その表情を見るのが、何よりも好きです。
高校生だったあの頃の彼の表情が頭をよぎる。私は汗で湿った手で目の前の水を一口飲んだ。彼を見ると、相手にまだ確信がつかないような感じだった。
でもひとつだけ、少しだけ困ることがあります。
貴方は、自分のことになると、驚くくらい気づかない人で、
私が何度分かりやすいアピールをしても、全く気づいていなかったよね。
まあそんな所も、貴方のいい所だけどね。
依頼人の気持ちが痛いほど分かる。鈍感すぎて嫌になるほどなのに、なんだかそれすらも可愛く見えたり、このままの関係性でも心地いいと思えたりする。
喫茶しずくで、初めて貴方と話した日のことを今でも鮮明に覚えています。
あの時はこんな風に貴方と過ごす日が増えていくなんて、思ってもいませんでした。
さっきまで首を傾げて考えていたのに、相手に確信がついたのか、彼は私の知らない顔で微笑んだ。その表情に、私の胸はどんどん締め付けられていく。
いつも同じ席で、同じ本を読んでいるから、
貴方は少しだけ有名で、
貴方よりうんと前から常連だった私も、気になって仕方がありませんでした。
あの日、私がたまたま持ってきていたギターを店内で弾いていた時、いつも本と睨めっこをしてる貴方が、
手を止めて私を見てくれたのが嬉しくて、思わず話しかけました。
それから毎回、喫茶しずくにはギターを持っていくようになって、話すきっかけが欲しかったのと、貴方の気を引きたくて色んなメロディーを弾きました。
紙をめくる音が、やけに大きく響く。彼は微笑みながらも、時間を気にしているよう。もしかしたら、この依頼人の彼女が、この後ここへ来るのではないかと、ふと頭に浮かんだ。
二人でいろんな所へ行って、本を読んだり、何でもない話をしたり。
時々、私のギターに付き合ってくれたりしたね。
特別な事は何も無かったけれど、その時間こそが、私にとっては全部特別でした。
貴方も同じ気持ちでいてくれてるのかなって、何度も思いました。
でも私には、それを確認する資格がありません。
唐突な一文に、笑みが溢れて仕方がなかった彼の表情は少しだけ固まった。そしてもう一度時計を確認した。きっともう、待ち合わせの時間は既に過ぎているのだと思う。
彼の左手の親指は、人差し指の爪を撫で始める。
なんとも懐かしい、彼の動揺している時の癖。彼の中で、この依頼人の彼女がどれほどの存在だったか、私に伝えてくる仕草。
ゆったりと流れる店内の音楽が、突如として呪いの音に聞こえ始める。手紙の先を読むのが、怖くなった。


