氷の射場、残心に燈る温度

「そうでした?」
「ぷっ」
「ふふっ」

 的花は、鳴海の髪を丁寧に至近距離でスプレーしている。普段完璧な先輩のまさかのポンコツぶりに、花のような笑顔を浮かべている。
 弓道の品格と伝統を重んじて、試合の日だけは黒スプレーで黒髪にして挑んでいた。

 二人の間には、ふんわりとしたいつもの雰囲気が戻っていた。的花が髪を触る度に、耳に手が当たってしまう。
 くすぐったいようで、頬と耳を真っ赤にしている。鳴海は、恥ずかしそうにじっとしている。

 その様子に気がつき、的花は微笑んでいた。久しぶりに、話したいことが多かった。
 的花の絶妙なボケを聞き逃さずに、鳴海はツッコんだ。和気藹々としており、自然と笑いが絶えなかった。

「宮内、見てて。絶対に優勝するから。終わったら、話したいことあるから……」
「はいっ……待っています」

 鳴海が黒髪の【凛としたエース】に戻り、いざ試合へと向かう。その背中を見つめていると、鳴海は緊張した様子で話しかけた。
 声は少し震えているし、武者震いをしているようだ。しかし顔は真剣そのもので、拳をギュッと握っている。
 的花はその様子を見つめ、静かに頷いた。鳴海は深呼吸をして、会場へと入って行った。

「すご……い」

 的花は観覧席に座り、試合の様子を見つめている。張り詰めた空気の中、鳴海が弓を引く姿を遠くから見つめていた。
 鳴海の所作、その一挙一動が完璧だった。誰もが息を呑むほどに、洗練されている。

 残心が完璧で、一部の隙もない。他の選手を寄せ付けない圧倒的な強者の空気を、纏っていた。
 素人目線でも、それが弓道の品格全てだと分かる。お手本のようでありつつも、特独なオーラを纏っている。
 そんな中、的花の胸に黒いモヤモヤが広がる。何か得体の知れないものに、全身が支配された感覚だ。

 ――あんなに不器用なのに、去年までは誰がやってあげてたの? ……まさか、歴代の彼女? 他の誰かも、あの距離で先輩の髪に触ってたの?

「自分で振っておいて、何……考えてるんだ」

 ボソッと周りには、聞こえない声で呟いた。直ぐに頭を振るが、一度芽生えた嫉妬は止まらない。
 的花の独占欲が、ここで最高潮に達した。醜い嫉妬は、身を滅ぼす。

 そんなことは百も承知だが、生まれて初めて芽生えたのだ。消す方法も、忘れる方法も知らない。
 鳴海は予選を難なく突破し、満面の笑みで的花を見た。喜んでくれるかと思ったが、何やら険しい表情を浮かべている。
 鳴海の表情からは、明るさが消えた。絶望に叩き落とされたかのように、暗く陰湿なモノに変貌した。

「あっ……」

 準決勝になり、状況が一変した。四本中、三本が必要な場面。
 鳴海は頭が完全にパニックになっており、最初の二本を連続で外してしまった。

 観客席の部員は、ざわついてしまう。これ以上外すと、決勝に進むことができない。
 優勝候補の、榊鳴海が敗退してしまう。的花は、事態が飲み込めずに息を呑むことしかできない。

 自分でも、最悪な残心だとは分かっていた。初めて矢を放つ時よりも、ボソボロだ。
 的花に、嫌われたかもしれない。【当てたい】とか、【格好悪いところを見せたくない】。

 鳴海が的花に言っていた【雑念】に、今度は鳴海自身が囚われてしまった。
 呼吸が乱れたままで、観客席にいる的花を見つめる。恐怖のせいで、体が震えてしまった。

 集中することができず、汗と焦燥感で視界が歪む。そのせいで、的花の顔が見えない。
 その心が全て、矢に込められてしまった。絶望と焦りが一気に押し寄せて、手元が狂う。

 そのまま三本目を放つと、矢は無慈悲にもボトっと落ちてしまう。それと同時に、弦が切れてしまう。
 四本目が残っているため、鳴海は控え室に行くことを許可された。その足取りは重く、射場を後にした。

 決勝に進むことが決まった斎藤は、複雑そうにその背中を見つめる。
 的花は心配そうに見つめ、俯いてしまう。拳をギュッと握り締め、今にも泣きそうになっていた。
 会場内は、予想外の出来事に混乱していた。それでも、試合は続行される。

「はあ……最悪だ……これじゃ……告白なんて、できねーよな……ははっ……うっ」

 鳴海は控え室のベンチに座り、自己嫌悪に陥っていた。弦を替えようとするが、手が震えてしまう。
 上手く結べずに、焦りで息が荒くなった。的花の笑顔が脳裏に浮かび、それが返って情けなく思えた。

 視界が歪み、惨めな思いをした。弓道が好きで、生き甲斐だった。
 しかし今は、胸が苦しくて張り裂けそうになっていた。射場に戻らずに、このまま帰ろうかと思った。

 あの日、的花に語った「心が綺麗に出る競技なんだ」「上手くいかない自分を嫌いにならないで」という自分の言葉が、今の自分に突き刺さる。
 鞄を持ち上げると、ひっくり返してしまった。中から転がり落ちたのは、黒髪スプレーと的花から貰ったお守りだった。

 それを愛おしそうに拾い上げ、的花の笑顔が脳裏に浮かぶ。先ほどは、それは苦しく感じてしまった。
 しかし今は、想像ではない本物を見たい。深呼吸をし、お守りの紐を少し短く結ぶ。

 そして自分の首に掛け、道着の胸元の奥深い。自分の心臓に近い場所へと、滑り込ませた。
 肌に触れるお守りが、まるで行く手を阻んでいた迷いを全て溶かしていくように暖かい。

「……よし。待ってろよ、宮内」

 格好悪くてもいい、俺はあいつに恥じない一射を引く。そんな当たり前のことを思い出し、弦を張り替えた。
 あの日、的花が見惚れた【凛とした榊鳴海】の顔に戻っていた。立ち上がり、澄んだ瞳と、清々しい笑顔を浮かべていた。

「お待たせしました」

 真っ黒な髪、引き締まった表情。まるで見違えるような【圧倒的な覇気】を纏って、鳴海が射場に戻ってくる。
 他者を寄せ付けない孤高のオーラで、その場にいた全員が息を呑んだ。審判員でさえも、目を離すことができない。

 客席でこっそり見ていた的花は、その姿を見ただけで心臓が跳ね上がる。
 鳴海が弓を構えた瞬間、道場全体の空気がピリッと張り詰める。あの日、的花がスローモーションで見た【美しい残心】がここで完全に再現される。