氷の射場、残心に燈る温度

 的花が射る時は、怖くて的が見えない。しかし鳴海が射る時は、その指先から放たれる矢の軌跡まで。
 スローモーションのように、鮮明に見える。的花は、弓道をするものとしての格の違いを見せられた。

 初めて間もない的花と、六年間弓道に向き合ってきた鳴海。力の差は歴然だったが、鳴海は本気で的花に向き合ってくれた。
 それが眩しくて、太陽のように感じた。鳴海が人々に慕われる理由が、的花には理解できた。

「弓道は、心が綺麗に出る競技なんだ」
「的に当てるだけじゃ、ダメなんですね。奥が深い」
「的中だけじゃなく、品格や残心が大事なんだ。もちろん当てることも大事だけど、残心が乱れるってことは、引いている最中に心が乱れている証拠だからね。そういう矢は、次の一本で必ず外れるんだよ」
「ふむ、なるほど」

 二人は呼吸を整えてから、改めて練習を再開した。至近距離で見ることが大事だが、少しだけ距離があった。
 弓道は、的に当てるだけの競技ではない。実戦で見せるために、鳴海は弓を構え、神経を集中させた。

 鳴海が大きく弓を持ち上げ、押し開いていく。限界まで引き絞られた弦は、彼の白い耳のすぐ真横を掠めていた。
 神聖な道着姿の中、その耳たぶだけが、まるで熱を帯びたようにじわじわと赤く染まっていく。

 的花は至近距離で、見つめていた。目を逸らすことなど、絶対にできない。
 足袋が木の床を擦るかすかな音、衣服が擦れる音。二人の弾む息の音、冬の冷たい空気が肌を刺す感覚。

 矢が放たれた瞬間、パァン! と高くて硬い澄んだ音が響く。初心者である的花だと、ビシッという雑音が聞こえていた。

「先輩、顔赤いですよ。寒いんですか?」
「……うるさい。いいから前向け」

 弓を引くとき、弦は顔のすぐ横を通る。指導中、的花が至近距離で鳴海のフォームを見ている時。
 耳のそばに視線が行くため、鳴海の耳が真っ赤になっているのが露わになる。

 的花の指摘により、呼吸が乱れ矢が的を大きく外した。鳴海は低い声で、動揺し突き放した。
 鳴海は普段は前髪をセットしており、今は髪が下りている。耳に髪をかけ、必死に取り繕うとした。

 ――あれ、もしかして……。

 的花はその様子を見つめ、言い表せないような高揚感を抱いた。今はピアスがついておらず、小さなピアスホールが開いている。
 部活中は禁じられている【チャラさ】の名残が、神聖な道着姿の耳元にだけ残っているアンバランスさ。

「……どこ見てんだよ」

 的花はそこを、食い入るように見つめる。その視線に気づいたのか、鳴海は拗ねたように吐き捨てる。
 動揺しているようで、ピアスホールの周りからじわじわと耳が真っ赤に染まっていく。

 的花は少しだけ呼吸が乱れ、頬を染めた。後ろを向き、深呼吸を何度も繰り返した。
 右手を口元に持って行き、気持ちを落ち着かせる。しかし十数年生きてきて、初めて感じた胸の高鳴り。

 鳴海のことが憧れで、話せて嬉しい。弓道のことや、鳴海自身のことを教えてほしい。
 だけど何故か、顔を見るのが恥ずかしい。落ち着こうとしているに、徐々に鼓動が速くなった。

 鳴海の視線が、赤くなった的花のうなじに注がれた。憧れの人に見られており、さらに体が熱くなった。
 二人の間に、妙な時間ができた。壁にかかっている時計の音と、二人の心臓の音だけが響いている。

「……っ、いいから、お前は自分の引き方を気にしろ。ほら、弓貸してみ。宮内、力入れすぎ。弓は握るんじゃなくて、体の一部にするの。……ほら、ここ、親指の付け根をこう。ここがズレると、矢は絶対に真っ直ぐ飛ばないから」
「……は、はい。……あの、先輩……距離近くないですか」
「ん? ……あ、わりぃ」

 鳴海から的花は弓を受け取り、構えた。その後ろから、抱きしめるような形でフォームを直す。
 鳴海は熱中しているため、近いことに気づいていない。的花は体温が背中から、伝わってきていた。

 話が半分以上、耳に入ってこない。しかし真面目に教えてくれている鳴海に、告げることはできない。
 鳴海の声よりも、的花の心臓の音の方が煩いからだ。お互いの呼吸まで感じられるぐらい、至近距離だった。

 鳴海は的花に言われ、近いことに気がついた。耳を赤くして、パッと離れた。
 鳴海もまた、的花同様心臓が破裂しそうになっていた。二人して妙な空気になり、少しだけ距離を取っていた。

「榊先輩の茶髪って、地毛なんですね」
「そうだぞ〜中々に、めんどいものだ」

 鳴海は長くなった襟足を、クルクルと手で巻きながら答える。的花の視線は、相変わらずピアスホールに注がれていた。
 知ってか知らずか、鳴海の耳は赤いままであった。妙な空気が流れるが、二人は風のおかげで心地良くなっていた。

「校則は、大丈夫なんですか? あっ、でも地毛なら」
「ああ、そこは大丈夫。まあ、試合は黒髪スプレーが必要だけど」
「弓道って、厳しいですもんね。ネットでの知識ですが」
「まあな〜」

 射抜かれた矢を回収し終え、的花は的場の縁にある木製の段差に腰を下ろした。 目の前に広がる薄暗い矢道をぼんやりと見つめている。
 すぐ隣に、すとんと静かな重みが加わる。道着姿の鳴海が長い足を投げ出すようにして、的花の直ぐ隣に座り込んでいた。

 横並びになった途端、冷え切った道場の中に、先輩の微かな体温と柑橘系の香りがふわりと漂ってくる。
 前を見据えたままの鳴海の耳の端。夕闇に紛れるようにして、じわじわと赤く染まっていくのが見えた。

 雑談を始めると、鳴海の茶髪は地毛であることを聞いた。地毛のため、校則では許されている。
 しかし伝統を重んじる弓道では、例え地毛であっても染める必要があるのだ。

 精神修養としての側面が強いため、ピアスも厳禁である。特に大会では、身だしなみが乱れていると審査員や顧問から厳しく注意されてしまう。

「はあ……当たらない」
「宮内、背筋は伸ばす」
「あっ……はい」
「気負わなくていいよ。俺だって、最初は当たらなかったから」
「なるほど」
「根気強くだな〜筋トレが必要だな」

 二人は立ち上がり、的花はもう一度弓を引いた。当たる気配が一ミリもないため、ため息が止まらない。