氷の射場、残心に燈る温度

「……はあ」
「あはは! ほんと、可愛いね〜」
「もうっ! 榊くんって、チャラいね〜」
「えー、そんなことないよ〜思っていることを言っているだけ〜」

 高校に入学して、半年以上が経過した。宮内(みやうち)的花(まとか)は、一人の男子生徒を見つめていた。
 弓道部主将ながら、茶髪でピアスの跡が両耳についている。複数の女子生徒に囲まれて、笑顔を浮かべている。

 (さかき)鳴海(なるみ)は、的花にとっては憧れの的だった。中学生の時に、友人に誘われて弓道の試合を見に行った。
 当時高校二年生だった鳴海は、他の追随を許さなかった。大会では二連覇がかかっており、相当なプレッシャーであった。

 その重圧をものともせず、圧倒的な強さで二連覇を達成。綺麗な黒髪で、その横顔に胸が高鳴った。
 的花は、弓道がただの【的当てゲーム】だと思っていた。鳴海の一挙手一投足を見て、その考えは吹き飛ぶ。

 息を吸うタイミング、足の踏み出し方。その全てがミリ単位で、計算されたように美しい。
 矢が的に吸い込まれた後も、鳴海は氷の柱のように微動だにしない。

 ただ真っ直ぐに、前を見据えていた。その指先まで美しい残心に、会場全体が息を呑んだ。
 弓道は、残心という矢を放った後の静かな余韻が全てであると言って過言ではない。

「一年間だけでも、あの人のいる世界に混ざりたい」

 その一心で、自分の偏差値よりも遥かに高いこの進学校を目指した。しかし蓋を開けてみれば、チャラ男だった。
 あの凛とした人は、幻だったのか……。女子に囲まれて、チャラチャラしている姿を見て幻滅していた。

 的花が初めて見た鳴海は、誰の目も気にせず、ただ前だけを見て堂々と弓を引いていた。
 この時の的花は知らなかった。鳴海の表面上だけしか、見ていなかったことを。

「はあ……当たらない」

 強豪校のため、的花が弓を持ったのも秋になって初めてのことだった。上級生が試合に向けて、射場を使っていたためだ。
 一年生で、初心者の的花には順番が回ってこなかった。同じ一年でも、周りは経験者しかいない。

 そのため未経験の的花は、早々に見切りをつけられた。センスがないから、放っておこう。
 冷遇されているが、あの秋に見た凛とした鳴海を忘れられずにいた。一人残り、弓道場に立っていた。

 誰もいない中、立ちすくんでいた。外は暗くなっており、外の部活動の声が煩い。
 少し険しい表情をしており、大きな目をギュッと閉じている。眉間にしわが寄っており、可愛い顔が歪んでいた。

 弓を構え、矢を手にしている。呼吸を整え、矢を放つが当たらない。
 手の皮が剥け、ところどころ怪我をしている。頭を抱え、足腰がガクガクになっている。
 静かな弓道場に、的花のため息と乱れた呼吸がこだまする。外の部活動の楽しそうな声で、さらに落ち込んでしまう。

「なんで当たらないんだ。僕の引き方が下手くそなせいだ」

 技術のせいにして、悔しさから少し拗ねる。頬を膨らませ、向ける場所のない怒りが込み上げてくる。
 その様子を、忘れ物した鳴海が見つめていた。複雑そうで、そこにはチャラさは微塵もない。

 的花の技術は、めちゃくちゃである。しかし絶対に諦めない、ただ直向きに的を見つめている。
 その光景を目の当たりにし、昔の自分と重ねていた。目の奥には、少しだけ哀愁が漂っている。
 泣きそうになっている後輩を見つめ、優しく微笑む先輩だった。

「宮内。……ちょっと弓、貸してみ」
「榊……先輩」

 深呼吸を繰り返し、笑顔で道場の中に入ってきた。鳴海は普段、女子に囲まれて「サボり〜」と言っている。
 的花は、見られているとは思いもしなかった。いつものチャラついた笑みを完全に消した【本気の顔】だった。

 驚く的花だったが、内心嬉しくもあった。少しだけ、口角が上がっている。

 ――あの榊先輩が、僕の名前を知ってくれている。

「宮内。弓道ってさ、機械じゃないんだよね。的の真ん中に当てるための【技術の正解】なんて、本を読めばいくらでも書いてある。だけど、それだけじゃ絶対に当たらない」
「……じゃあ、何が足りないんですか。僕は言われた通りに引いてます」
「心、だよ。弓を引く瞬間、お前の中で【当てたい】とか【格好悪いところ見せたくない】とか、そういう雑念が一ミリでも混ざると、それは全部矢に伝わる。的の手前で落ちる」

 鳴海は的花に近づき、手を出した。鳴海の手には、硬いマメと生々しいタコができていた。
 何万回、何十万回と弓を引いた証である。的花は静かに見つめ、弓を手渡した。

 鳴海は、この強豪弓道部の中でも数少ない【中学からの経験者】だった。弓道歴は、今年で六年目を迎える。
 高校から弓道を始めた部員たちが基礎練習に明け暮れる中、鳴海は高校一年生の秋の時点で早くも頭角を表していた。

 大舞台で優勝し、誰もが彼を天才と呼んでいる。しかしそれは血の滲むような努力と、彼の真面目さ故であった。
 鳴海は真面目な顔で、優しく丁寧に教えてくれた。他の部員や、指導者の先生は適当な教え方だった。

 しかし鳴海は、的花のためにしっかりと考えてくれていた。その横顔を見つめ、的花は少し頬が赤くなっていた。
 夕日のせいなのか、違うのか本人にも分からない。ただ一つだけ、確かなことがあった。

 ――僕の憧れたこの人は、やっぱり凄いや。

「俺だって、最初からエースだったわけじゃない。自分の汚い心とか、弱さと、何回も何回も弓道場で一対一で向き合ってきた。だから宮内、上手くいかない自分を嫌いにならないで。お前が真っ直ぐ引いた矢は、いつかちゃんと、真っ直ぐ的に届くから」

 鳴海は真っ直ぐに、的を見据えていた。その横顔が、あの日の残心と重なった。
 的花は呼吸が苦しくなり、息の仕方が途端に分からなくなった。鳴海の話を真剣に聞きつつも、的花は感じたことのないような感情を抱いた。

 いつもは、チャラそうに女子に囲まれている。しかし今は、自分だけを見つめている。
 先輩として、後輩に指導しているだけだ。そんなことは、頭では理解していた。
 弓を持った鳴海の背筋は、冷たい氷の柱みたいに真っ直ぐだ。目が離せなくて、神経がそこに集中しているようだった。

 ――これが、この人がずっと守ってきた【弓道の品格】なんだ。