一ノ瀬に宣言された通り、追試に向けた最後の追い込みは、驚くほど淡々と、そして事務的に行われた。
教室での一ノ瀬は、いつもの「完璧な王子様」そのものだった。
図書室の暗がりで、眼鏡を外して耳を真っ赤にしていたあいつの面影なんて、どこを探しても見当たらなかった。
──そして、金曜日の放課後。
「二宮、ギリギリだけど合格。頑張ったな」
「……あざした」
担任から合格を告げられた瞬間、俺は思いっきりガッツポーズを……するつもりだったのに、不思議と解放感は湧いてこなかった。
ユニフォームに着替えて、夕方のグラウンドに飛び出す。
いつも通りの日常だ。目の前を転がるボールを必死に追いかけて、大声を出し、汗を流す。一時はどうなることかと思ったけど、これで何もかも元通りになったはずだった。
「──二宮、足止まってる! ちゃんと前見ろ!」
顧問の声で、我に返る。
走りながら、ふと。視線が、グラウンドの脇や校舎の窓へと吸い込まれる。
当然、そこには誰もいない。俺たちの勉強会は終わった。分かってる。散々からかわれて、本棚やソファーに押し込められるような、あの心臓に悪い放課後はどこにもない。
これで、やっとサッカーに集中できる。そう自分に言い聞かせてみるが、走れば走るほど、胸が切なく痛んだ。
「二宮、なんか調子悪くね?」
練習が終わった後、三宅が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「身体鈍ってるわ」と曖昧に返す。本当のことだった。
すっかり日が落ちた放課後。三宅と別れ、居残って片付けをする。
薄暗い渡り廊下を歩き、更衣室へ向かおうとした、その時。
「──うん、その解釈で間違いないよ。やっぱり、君にこの役を頼んで正解だった」
暗がりの向こう、中庭の常夜灯の下から、聞き覚えのある声が聞こえた。
心臓が大きく跳ね上がる。一ノ瀬の声だ。
いつもなら「一ノ瀬!」と声をかける。でも、噂の件や、図書室でのあいつの冷淡な態度が頭をよぎった。慌てて、植え込みの陰へと隠れる。
静かな中庭。一ノ瀬と女子生徒が並んでいる。
長い黒髪に、大きな瞳。演劇部の看板女優と言われている、他クラスの女子部員だった。二人の間には、一冊の台本が広げられている。
「一ノ瀬くんの書くセリフって、本当に繊細で素敵。私のこと、ちゃんと見ててくれたんだね」
「当然だよ。君の演技の癖に合わせて、当て書きしたんだから。期待してるよ」
柔らかく目を細めて、今まで俺には一度も見せたことがないような、優しい笑みを浮かべていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が絞られるような、激しい痛みに襲われる。
『君が他の誰かのヒロインになってるのも、全部気に入らない』
そう言ったあいつには、ちゃんとお似合いの綺麗な女の子がいる。
羨ましくて、悔しくて、上手く息が吸えない。
やっと、このもやもやした気持ちに名前がついた。
俺は、一ノ瀬に恋をしていたんだ。
当て書きとか、ヒロインとか関係なく、本当に。
そう自覚してから、一ノ瀬と上手く顔を合わせられなくなった。
──もう、あの部室には行かない。
そう心に決めて、数週間が経った。教室でも、必要最低限の会話しか交わさず、あいつを避けるようにして過ごす日々。
学園祭の舞台本番を間近に控えた、ある日の放課後のことだった。
「ちょっと、瞬。話があるんだけど」
「一ノ瀬!? 悪い、これから部活──」
昇降口で待ち伏せしていた一ノ瀬に、がしっと腕を掴まれる。抵抗する間もなく、あの部室へと強引に連れ込まれた。
夕暮れの光が差し込む室内は、あの日と何も変わっていない。
ただ、一ノ瀬の表情だけが、見たこともないくらい歪んでいた。
「なんで避けるの? 僕と目も合わせようとしないし、話しかけても生返事ばっかり。追試が終わったら、もう僕に用はないってこと?」
じりじりと、壁際に追い詰められる。
「……当たり前だろ」
一瞬、一ノ瀬の瞳が揺れる。
「追試も合格したし、お前にはもうヒロインがいるじゃん。この前、見たんだよ。中庭で、女子と楽しそうに話してるとこ。俺じゃなくてもいいってことだろ?」
悔しさと嫉妬が混ざったような声が、自分でも驚くほどぶっきらぼうに響いた。
我ながら、すげぇかっこ悪い。
一ノ瀬が目を見開いたまま、一瞬だけ固まる。
「……見たの? あれを」
「悪かったな、覗き見するみたいになって。お似合いだったよ。あんな綺麗なヒロインがいるなら、俺みたいな男相手にからかうとか、もうやめろ」
できるだけ感情を抑えて、諭すように。
これ以上、ここにいたら泣き出してしまいそうだった。
一ノ瀬の脇をすり抜けて、ドアに向かおうとした瞬間。ものすごい力で肩を掴まれ、そのまま壁へと押し戻された。
「からかってなんかない!」
一ノ瀬の叫びが、室内にこだました。
いつも冷静で、完璧で、何でもスマートにこなすはずの王子様。今は髪を振り乱して、俺を泣きそうな顔で睨みつけている。掴まれた肩から、指先の震えが痛いほどに伝わってきた。
「あの子には、演劇部の役者としてオファーしただけで。あんなの、ただのビジネスだよ!」
「じゃあ、あれは何だったんだよ! 壁ドンも、単語テストも、全部当て書きのためだったんだろ!? お前が書いてる台本のさぁ!」
一ノ瀬は激しく首を振ると、俺の肩に額を押し付けるようにして、ぽつりと呟いた。
「……気づいてよ。そんなの、瞬を引き止めるための口実に決まってるじゃん。そうでもしないと、サッカー一筋の君が、僕なんかと放課後を過ごしてくれるわけないだろ」
「え……」
「僕の舞台のヒロインは、最初から瞬だけだよ。ころころ変わる表情や、照れた顔を見てる時しか、僕は台本なんて書けない。全部本気なんだよ」
一ノ瀬の体温が、必死な言葉が、俺の中のストッパーを完全に壊した。
もう、男同士だとか、ただのクラスメイトだとか、言い訳して逃げることはできなかった。
「俺だって……っ!」
一ノ瀬のブレザーの胸元を、破れるくらいの力で掴み返した。
「俺だって、お前じゃなきゃ無理。他の奴と楽しそうにすんな。俺だけ見てろよ」
お互いの呼吸が、はっきりと重なる。
一ノ瀬が驚いたように目を見開いた後、どうしようもなく愛おしそうな顔をする。
あの時、女子部員に見せたような、優しい笑みだった。
「もう、絶対に離さないから」
俺の身体を壊しそうなほどに強く、強く抱きしめてきた。
今、世界で一番幸せだと、心の底から言える。
一ノ瀬も同じ気持ちでありますように。そんなことを願った。
教室での一ノ瀬は、いつもの「完璧な王子様」そのものだった。
図書室の暗がりで、眼鏡を外して耳を真っ赤にしていたあいつの面影なんて、どこを探しても見当たらなかった。
──そして、金曜日の放課後。
「二宮、ギリギリだけど合格。頑張ったな」
「……あざした」
担任から合格を告げられた瞬間、俺は思いっきりガッツポーズを……するつもりだったのに、不思議と解放感は湧いてこなかった。
ユニフォームに着替えて、夕方のグラウンドに飛び出す。
いつも通りの日常だ。目の前を転がるボールを必死に追いかけて、大声を出し、汗を流す。一時はどうなることかと思ったけど、これで何もかも元通りになったはずだった。
「──二宮、足止まってる! ちゃんと前見ろ!」
顧問の声で、我に返る。
走りながら、ふと。視線が、グラウンドの脇や校舎の窓へと吸い込まれる。
当然、そこには誰もいない。俺たちの勉強会は終わった。分かってる。散々からかわれて、本棚やソファーに押し込められるような、あの心臓に悪い放課後はどこにもない。
これで、やっとサッカーに集中できる。そう自分に言い聞かせてみるが、走れば走るほど、胸が切なく痛んだ。
「二宮、なんか調子悪くね?」
練習が終わった後、三宅が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「身体鈍ってるわ」と曖昧に返す。本当のことだった。
すっかり日が落ちた放課後。三宅と別れ、居残って片付けをする。
薄暗い渡り廊下を歩き、更衣室へ向かおうとした、その時。
「──うん、その解釈で間違いないよ。やっぱり、君にこの役を頼んで正解だった」
暗がりの向こう、中庭の常夜灯の下から、聞き覚えのある声が聞こえた。
心臓が大きく跳ね上がる。一ノ瀬の声だ。
いつもなら「一ノ瀬!」と声をかける。でも、噂の件や、図書室でのあいつの冷淡な態度が頭をよぎった。慌てて、植え込みの陰へと隠れる。
静かな中庭。一ノ瀬と女子生徒が並んでいる。
長い黒髪に、大きな瞳。演劇部の看板女優と言われている、他クラスの女子部員だった。二人の間には、一冊の台本が広げられている。
「一ノ瀬くんの書くセリフって、本当に繊細で素敵。私のこと、ちゃんと見ててくれたんだね」
「当然だよ。君の演技の癖に合わせて、当て書きしたんだから。期待してるよ」
柔らかく目を細めて、今まで俺には一度も見せたことがないような、優しい笑みを浮かべていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が絞られるような、激しい痛みに襲われる。
『君が他の誰かのヒロインになってるのも、全部気に入らない』
そう言ったあいつには、ちゃんとお似合いの綺麗な女の子がいる。
羨ましくて、悔しくて、上手く息が吸えない。
やっと、このもやもやした気持ちに名前がついた。
俺は、一ノ瀬に恋をしていたんだ。
当て書きとか、ヒロインとか関係なく、本当に。
そう自覚してから、一ノ瀬と上手く顔を合わせられなくなった。
──もう、あの部室には行かない。
そう心に決めて、数週間が経った。教室でも、必要最低限の会話しか交わさず、あいつを避けるようにして過ごす日々。
学園祭の舞台本番を間近に控えた、ある日の放課後のことだった。
「ちょっと、瞬。話があるんだけど」
「一ノ瀬!? 悪い、これから部活──」
昇降口で待ち伏せしていた一ノ瀬に、がしっと腕を掴まれる。抵抗する間もなく、あの部室へと強引に連れ込まれた。
夕暮れの光が差し込む室内は、あの日と何も変わっていない。
ただ、一ノ瀬の表情だけが、見たこともないくらい歪んでいた。
「なんで避けるの? 僕と目も合わせようとしないし、話しかけても生返事ばっかり。追試が終わったら、もう僕に用はないってこと?」
じりじりと、壁際に追い詰められる。
「……当たり前だろ」
一瞬、一ノ瀬の瞳が揺れる。
「追試も合格したし、お前にはもうヒロインがいるじゃん。この前、見たんだよ。中庭で、女子と楽しそうに話してるとこ。俺じゃなくてもいいってことだろ?」
悔しさと嫉妬が混ざったような声が、自分でも驚くほどぶっきらぼうに響いた。
我ながら、すげぇかっこ悪い。
一ノ瀬が目を見開いたまま、一瞬だけ固まる。
「……見たの? あれを」
「悪かったな、覗き見するみたいになって。お似合いだったよ。あんな綺麗なヒロインがいるなら、俺みたいな男相手にからかうとか、もうやめろ」
できるだけ感情を抑えて、諭すように。
これ以上、ここにいたら泣き出してしまいそうだった。
一ノ瀬の脇をすり抜けて、ドアに向かおうとした瞬間。ものすごい力で肩を掴まれ、そのまま壁へと押し戻された。
「からかってなんかない!」
一ノ瀬の叫びが、室内にこだました。
いつも冷静で、完璧で、何でもスマートにこなすはずの王子様。今は髪を振り乱して、俺を泣きそうな顔で睨みつけている。掴まれた肩から、指先の震えが痛いほどに伝わってきた。
「あの子には、演劇部の役者としてオファーしただけで。あんなの、ただのビジネスだよ!」
「じゃあ、あれは何だったんだよ! 壁ドンも、単語テストも、全部当て書きのためだったんだろ!? お前が書いてる台本のさぁ!」
一ノ瀬は激しく首を振ると、俺の肩に額を押し付けるようにして、ぽつりと呟いた。
「……気づいてよ。そんなの、瞬を引き止めるための口実に決まってるじゃん。そうでもしないと、サッカー一筋の君が、僕なんかと放課後を過ごしてくれるわけないだろ」
「え……」
「僕の舞台のヒロインは、最初から瞬だけだよ。ころころ変わる表情や、照れた顔を見てる時しか、僕は台本なんて書けない。全部本気なんだよ」
一ノ瀬の体温が、必死な言葉が、俺の中のストッパーを完全に壊した。
もう、男同士だとか、ただのクラスメイトだとか、言い訳して逃げることはできなかった。
「俺だって……っ!」
一ノ瀬のブレザーの胸元を、破れるくらいの力で掴み返した。
「俺だって、お前じゃなきゃ無理。他の奴と楽しそうにすんな。俺だけ見てろよ」
お互いの呼吸が、はっきりと重なる。
一ノ瀬が驚いたように目を見開いた後、どうしようもなく愛おしそうな顔をする。
あの時、女子部員に見せたような、優しい笑みだった。
「もう、絶対に離さないから」
俺の身体を壊しそうなほどに強く、強く抱きしめてきた。
今、世界で一番幸せだと、心の底から言える。
一ノ瀬も同じ気持ちでありますように。そんなことを願った。
