演劇部の王子様、なぜか俺をヒロインに当て書きしてくる

 お互いに顔が真っ赤のまま、連行されたのは──

「……なんで、ここなんだよ」
「この前みたいに、邪魔も入らないでしょ?」
 
 図書室だった。
 放課後になると、大半の生徒がグラウンドや体育館に流れるため、驚くほど人気がない。室内には、古びた紙の匂いと、窓から斜めに差し込む夕暮れの光だけ。

 俺のジャージの袖を引いたまま、どんどん歩いていく。
 一番奥にある本棚で立ち止まる。大きな百科事典や古い資料が並ぶ、完全に周囲から孤立した死角。

「……もうここまで来れば、だれもいねぇって」

 静まり返った空間に、自分の声が妙に響いた。慌てて声を潜める。
 一ノ瀬は手を離すと、くるりと俺の方を振り返った。王子様の顔に切り替えようとするが、外した眼鏡をブレザーのポケットに押し込む手元が、いつもより少しだけ雑だ。
 しかも、まだ耳がほんのりと赤い。

 さっきの一ノ瀬のセリフ、本気だったんだ。
 また、心臓がうるさくなる。からかうつもりが、墓穴を掘ったのは俺の方だった。

「じゃあ、さっさと勉強始めよっか」

 一ノ瀬は小さく咳払いをすると、ブレザーのポケットから一冊の英単語帳を取り出した。

「へぇ。真面目にやるんだ」

 思わず声が漏れる。さっきの壁ドンみたいに、少女漫画のような方法を仕掛けてくると思っていた。

「なに、また壁ドンとか期待してるの?」
「してねぇわ」

 また余計なことを言ってしまった。
 一ノ瀬は意地悪く口元を歪めると、真っ直ぐに俺を見下ろしてきた。

「期待してないなら、このルールでも問題ないよね」

 逃げ場を完全に塞がれたような、圧倒的なプレッシャーが急に襲ってくる。

「今から僕が英単語を言うから、その日本語の意味を答えて」
「普通じゃん。いいよ、やろうぜ」
 ほっと胸をなでおろす。

「間違えるか、3秒以内に答えられなかったら、僕が瞬に一歩近づく」
「はぁ!? 何だよそれ! 新しい嫌がらせか!?」
「はい、3、2、1……はい遅い。まずは一歩」

──コツ。

一ノ瀬のローファーが床を鳴らし、俺との距離が縮まる。
まだ体は触れ合っていない。でも、一ノ瀬の存在感が急に大きくなって、首筋から漂う洗剤の清潔な匂いがふわっと香った。それだけで喉の奥がぎゅっと縮こまる。

「ちょ、待て! やる、やればいいんだろ!?」
「よろしい。じゃあ第一問。……『betrayal』。意味は?」
「び、びと……ええと、えっと、配達!」
「正解は『裏切り』。女の子からヘラヘラ差し入れを受け取る瞬にぴったりな単語だね。はい、また一歩」

 ──すっ。

 容赦なく、さらに一歩、一ノ瀬の身体が近づく。
 こいつ、まだ怒ってんのかよ。
 ついに、あと拳一つ分で胸と胸が触れ合ってしまう、という絶妙な距離でぴたりと止まった。見上げてくる一ノ瀬の熱い視線と、端正な顔がすぐ目の前にある。

「一ノ瀬……もう限界だって、近い……っ!」
「まだ触ってないよ? 次に間違えたら、今度こそ隙間がなくなるからね。第二問。…『exclusive』。意味は?」
「えっと、特急の……!?」
「全然違う。正解は『独占的な』。……僕以外の誰かに、あんな顔しちゃだめだよ。はい、もう一歩」
「おい──意味わかんねぇって!」

 完全にパニックになった俺が、思わずぎゅっと目を瞑った──その時だった。

 図書室の入り口の引き戸が、けたたましい音を立てて開いた。

「──おーい、二宮! 」

 静寂をぶち破って響いてきたのは、聞き覚えのある陽気な声。三宅だった。さっき校舎の陰で、俺たちが見落としていた人影の正体は、完全にこいつだったらしい。

「は!?」
「っ……!」

 びくっと肩を跳ね上がらせた俺の口を、一ノ瀬がすかさず長い手のひらで塞ぐ。そのままさらに距離を詰めて、俺を本棚の影へと完全に押し込んだ。
 背中に冷たい本の背表紙が当たる。一ノ瀬を見上げると、あいつは人差し指を自分の唇に当てて「静かに」と目線で合図してきた。

 三宅のローファーの足音が近づいてくる。

「クラスの英語のプリント、二宮の分だけまだ集まってないのに……」

 すぐ近くの通路で、三宅がぶつぶつと呟く声が聞こえる。
 心臓が、部活の練習の後みたいに激しく脈打っていた。それが自分のものなのか、一ノ瀬のものなのか、もう全く区別がつかなかった。

「……ん? 誰かいる?」

 気配を察したのか、三宅の足音が向きを変える。
 やばい。見つかる。
 そう思った瞬間、一ノ瀬がふっと俺の口から手を離した。
 何事もなかったかのように、本棚の隙間からすっと姿を現す。

「三宅くん。図書室では静かにしてくれないかな」
「 一ノ瀬! ……ってことは、やっぱり二宮もいるよな?」

 三宅がひょこっと本棚の影から顔を覗かせ、俺の姿を見つける。
 俺は、必死に鳴り止まない心臓を抑えつけながら、引きつった笑みを浮かべた。

「な、なんだよ三宅。プリントなら、ちゃんとバッグに入ってるって」
「いや、プリントもそうなんだけどさ……」

 三宅は声を潜めながら、困ったように頭を掻いた。いつも一緒に、バカ話をしているこいつが、今は珍しく真面目な顔をしている。

「お前ら、また一緒にいんのかよ。今、クラスだけじゃなくて学年中で、お前らの噂、さらに広まってるんだから」
「え……?」

「最初はただの冷やかし半分だったんだけど、さっき校舎の裏で二人が揉めてるの、俺も見ちゃってさ。『一ノ瀬が二宮を無理やり連れ去った』とか『本気の修羅場だった』とか、どんどん話が飛躍してる。これ以上一緒にいるところを誰かに見られたら、本格的にまずいって」

 三宅の言葉に、俺は血の気が引いていくのを感じた。さっきの壁ドンの時、俺たちが見落としていた遠くの人影──三宅に加えて、他にも噂を面白がる奴らの目があったのだ。

「……そう、だね。三宅くんの言う通りだ」

 沈黙を破ったのは、一ノ瀬だった。
 その声は、いつもの冷静な、学園の王子様のものに戻っていた。ポケットから眼鏡を取り出し、掛け直す。その瞬間、さっきまで耳を赤くして「嫉妬だよ」と言っていたクラスメイトが、急に手の届かない遠い存在に戻ってしまったような錯覚に陥る。

「僕のせいで、瞬の立場を悪くするわけにはいかない。……これ以上、僕たちが一緒にいるのは瞬の迷惑になるね」
「一ノ瀬……?」

 目を合わせることなく、淡々とした口調で単語帳を俺の胸元に押し付けた。

「今週末の追試の、最後の追い込みだけは約束する。僕が教えるのはそこまで。……だから、これからの勉強会はいったん終わりにしよう」

 その言葉が、なぜか胸の奥を刺した。
 追試さえ終われば、ヒロインに当て書きするための訓練からも解放されて、いつも通りの部活漬けの毎日に戻れる。それは、俺が一番望んでいたはずのことなのに。

「じゃあね。勉強頑張って」

 一ノ瀬はそれだけ言うと、一度も俺と目を合わせずに、図書室の出口へと歩き出してしまった。
 その背中を、俺はただ、引き止められないまま見つめることしかできなかった。