最悪の朝だった。
教室のドアを開けた瞬間、いつもなら「瞬、おはよー!」と真っ先に声をかけてくるサッカー部の友人・三宅が、なぜか気まずそうに目を泳がせた。
それだけじゃない。いつも教室の隅で噂話をしている女子たちが、俺が席に着いた途端、一斉にこちらを振り返った。計画的な目配せを交わしている。
やばい。完全に広まってる。
今すぐ帰りたい気持ちを必死に堪えて、通学バッグを机のフックに引っかける。
教室の後方──窓際に視線を移すと、いつも通りの一ノ瀬がそこにいた。完璧に制服を着こなして、難しい顔で文庫本を読んでいる。
俺の視線に気がつくと、本から視線を上げて、小さく手を振った。
その瞬間、教室中の女子たちの視線が突き刺さる。俺は引きつった笑顔で小さく会釈を返して、すぐに視線を逸らした。
「おい、二宮」
休み時間。ついに耐えかねた三宅が、俺の席の前でしゃがみ込む。何かの交渉でも始まりそうなシリアスな面持ちだった。
「なんだよ、改まって」
「いや……お前さ、その、一ノ瀬と……付き合ってんの?」
「は!?」
声が大きくなり、慌てて口を押さえる。
やっぱりだ。山崎のやつ、クラス中に言いふらしてんのかよ。
「違う! 1000%誤解だって!俺はあいつに勉強教えてもらっただけで!」
「だよな!? でも山崎が、お前が部室で一ノ瀬に押し倒されて、顔真っ赤にしてたって証言するからさ」
「わ、わざわざ言語化すんな!」
頭を抱える俺を、三宅は「まあ、俺は応援するから」と慰めてくれる。応援すんな。頼むから、全力で否定してくれ。
結局、午前中の授業は全く頭に入ってこなかった。
一ノ瀬の「僕、女の子に興味ないから」という言葉が、頭の中で繰り返される。英語の構文よりも、激しく俺の心を削っていった。
だからこそ、放課後の部活の時間は、俺にとって唯一の救いだった。
「二宮! ナイシュー!」
パシッ、と乾いた音がグラウンドに響く。
ディフェンダーを鮮やかなフェイントで抜き去り、ゴールの左隅にシュートを決める。その瞬間、部員たちが一斉に俺の元へ駆け寄ってきて、頭や背中をもみくちゃにしてきた。
「さすが二宮! これなら練習試合勝てるわ!」
「任せとけって」
ユニフォームの裾で汗を拭う。
そう、これだ。これこそが俺の居場所だ。
グラウンドを泥だらけで走り回って、仲間と声を掛け合う。あの部室で、あいつに耳まで真っ赤にされて翻弄されている俺は「偽物」で、このピッチの上でみんなを引っ張っている俺こそが、本物の「二宮瞬」なんだ。
息を整えながら、校舎を見上げる。
──演劇部の部室が目に入る。
西日に反射して、中はよく見えない。でも、あの窓の奥から、冷ややかな瞳で俺を見下ろしている一ノ瀬の気配があるような気がして。
せっかく引いたはずの肌の熱が、またじんわりと復活していくのが分かった。
「──二宮くん!」
部活が終わり、ジャージに着替えて校門へ向かおうとした、その時だった。
グラウンドの木陰から、声をかけてきたのは、隣のクラスの女子生徒だった。手には、丁寧にラッピングされた小さな紙袋が握られている。
「えっと、隣のクラスの……」
「あ、あの! これ、今度の練習試合で勝てるように、お守りと……クッキー焼いてきたの!」
赤くなって俯く彼女を前にして、俺は完全にフリーズしてしまった。
普段なら快く受け取るところだが、なぜか一ノ瀬のことが脳裏をよぎる。
「……ありがと。試合頑張れるわ」
「うん! 応援してるね!」
ぱっと顔を輝かせると、嬉しそうに何度も頷いて、そのまま小走りで去っていった。
手に残された、ほんのり温かい小さな紙袋。
いつもなら、「よっしゃ、頑張るか」と素直にモチベーションに変えられるはずなのに、なぜか胸の奥には、妙な後ろめたさと、嫌な予感が渦巻いていた。
「素直に受け取るんだね、瞬」
──やっぱり。
背後から響いたのは、いつもの聞き慣れた低い声。
振り返ると、スクールバッグを肩にかけた一ノ瀬が立っていた。
「……お前には関係ないだろ」
「練習試合、そんなに楽しみ? 他クラスの女の子にそこまで応援されたら、気合いも入るよね」
俺の隣に歩み寄ってくる。
顔は笑っているのに、切れ長な瞳は全く笑っていない。俺が握りしめている紙袋を、じっと睨みつけている。
「……何怒ってんだよ。ただの差し入れだろ」
「怒ってないよ。呆れてるだけ」
一歩、さらに距離を詰めると、俺のジャージの袖をぐいっと強い力で引っ張った。
「っ、痛えよ! 引っ張んなって!」
あっという間に校舎の陰へと、強引に連れ込まれる。
壁際に追い込まれる形になった。
「なんだよ。俺はただ差し入れを──」
ドン、と効果音がつきそうなぐらいの強さで、顔の真横に片手を叩きつけられる。
いわゆる「壁ドン」だった。
「え……?」
完全に逃げ場がなくなり、身動きが取れなくなる。
一ノ瀬を見上げると、さっきまでの王子様の笑顔は完全に消えていた。
「ずいぶん余裕そうだね。他の女の子とのお喋りにうつつを抜かすぐらいには」
「はぁ? そんなんじゃねぇよ。ただ応援されたから、ありがとって言っただけで──」
「それがうつつを抜かしてるって言うんだよ」
よく分からない理論。いつになく感情が乗った声に、思わず言葉を詰まらせる。
いつも完璧に振る舞い、言葉を操る一ノ瀬がひどく余裕がないように見える。
ふと、一つの可能性が浮かんだ。
まさか。そんなわけねぇよな。そう思いつつも、少しだけ仕返しがしたくなった。
「お前、もしかして嫉妬してんの?」
ほんの冗談のつもりだった。「馬鹿なこと言ってないで、早く勉強の続きやるよ」などと、冷たくあしらわれると思っていた。
なのに。
「……っ」
一ノ瀬が目を見開いた。ぴたりと動きが止まる。
みるみるうちに、耳まで真っ赤になった。
「一ノ瀬……?」
「……そうだよ」
「え?」
「嫉妬だよ。悪い!?」
一ノ瀬は顔を真っ赤にしたまま、俺を睨みつけるようにして、小さく、でもはっきりと頷いた。
いつも冷静で──正直、何を考えているのか分からなかった。そんな一ノ瀬が、見たこともないくらい必死な顔で自分の感情を認めている。あまりのギャップと、真正面からぶつけられた執着の重さに、今度は俺がフリーズする番だった。
「君が他の誰かに笑いかけてるのも、僕の知らないところで誰かのヒロインになってるのも、全部気に入らない」
恥ずかしさを隠すように、俺のジャージの袖をぎゅっと掴んだ。
「今日の勉強会は、容赦しないから」
また、いつもの意地悪な顔になる。
さすが、演劇部。変なところで感心してしまう。
「ほら、行くよ」
掴まれた袖から、一ノ瀬の体温が伝わってくるような気がした。
引きずられるように、校舎の陰から連れ出される。
お互いに、焦っていたからなのか。
俺たちは、遠くの人影に気がつくことができなかった。
教室のドアを開けた瞬間、いつもなら「瞬、おはよー!」と真っ先に声をかけてくるサッカー部の友人・三宅が、なぜか気まずそうに目を泳がせた。
それだけじゃない。いつも教室の隅で噂話をしている女子たちが、俺が席に着いた途端、一斉にこちらを振り返った。計画的な目配せを交わしている。
やばい。完全に広まってる。
今すぐ帰りたい気持ちを必死に堪えて、通学バッグを机のフックに引っかける。
教室の後方──窓際に視線を移すと、いつも通りの一ノ瀬がそこにいた。完璧に制服を着こなして、難しい顔で文庫本を読んでいる。
俺の視線に気がつくと、本から視線を上げて、小さく手を振った。
その瞬間、教室中の女子たちの視線が突き刺さる。俺は引きつった笑顔で小さく会釈を返して、すぐに視線を逸らした。
「おい、二宮」
休み時間。ついに耐えかねた三宅が、俺の席の前でしゃがみ込む。何かの交渉でも始まりそうなシリアスな面持ちだった。
「なんだよ、改まって」
「いや……お前さ、その、一ノ瀬と……付き合ってんの?」
「は!?」
声が大きくなり、慌てて口を押さえる。
やっぱりだ。山崎のやつ、クラス中に言いふらしてんのかよ。
「違う! 1000%誤解だって!俺はあいつに勉強教えてもらっただけで!」
「だよな!? でも山崎が、お前が部室で一ノ瀬に押し倒されて、顔真っ赤にしてたって証言するからさ」
「わ、わざわざ言語化すんな!」
頭を抱える俺を、三宅は「まあ、俺は応援するから」と慰めてくれる。応援すんな。頼むから、全力で否定してくれ。
結局、午前中の授業は全く頭に入ってこなかった。
一ノ瀬の「僕、女の子に興味ないから」という言葉が、頭の中で繰り返される。英語の構文よりも、激しく俺の心を削っていった。
だからこそ、放課後の部活の時間は、俺にとって唯一の救いだった。
「二宮! ナイシュー!」
パシッ、と乾いた音がグラウンドに響く。
ディフェンダーを鮮やかなフェイントで抜き去り、ゴールの左隅にシュートを決める。その瞬間、部員たちが一斉に俺の元へ駆け寄ってきて、頭や背中をもみくちゃにしてきた。
「さすが二宮! これなら練習試合勝てるわ!」
「任せとけって」
ユニフォームの裾で汗を拭う。
そう、これだ。これこそが俺の居場所だ。
グラウンドを泥だらけで走り回って、仲間と声を掛け合う。あの部室で、あいつに耳まで真っ赤にされて翻弄されている俺は「偽物」で、このピッチの上でみんなを引っ張っている俺こそが、本物の「二宮瞬」なんだ。
息を整えながら、校舎を見上げる。
──演劇部の部室が目に入る。
西日に反射して、中はよく見えない。でも、あの窓の奥から、冷ややかな瞳で俺を見下ろしている一ノ瀬の気配があるような気がして。
せっかく引いたはずの肌の熱が、またじんわりと復活していくのが分かった。
「──二宮くん!」
部活が終わり、ジャージに着替えて校門へ向かおうとした、その時だった。
グラウンドの木陰から、声をかけてきたのは、隣のクラスの女子生徒だった。手には、丁寧にラッピングされた小さな紙袋が握られている。
「えっと、隣のクラスの……」
「あ、あの! これ、今度の練習試合で勝てるように、お守りと……クッキー焼いてきたの!」
赤くなって俯く彼女を前にして、俺は完全にフリーズしてしまった。
普段なら快く受け取るところだが、なぜか一ノ瀬のことが脳裏をよぎる。
「……ありがと。試合頑張れるわ」
「うん! 応援してるね!」
ぱっと顔を輝かせると、嬉しそうに何度も頷いて、そのまま小走りで去っていった。
手に残された、ほんのり温かい小さな紙袋。
いつもなら、「よっしゃ、頑張るか」と素直にモチベーションに変えられるはずなのに、なぜか胸の奥には、妙な後ろめたさと、嫌な予感が渦巻いていた。
「素直に受け取るんだね、瞬」
──やっぱり。
背後から響いたのは、いつもの聞き慣れた低い声。
振り返ると、スクールバッグを肩にかけた一ノ瀬が立っていた。
「……お前には関係ないだろ」
「練習試合、そんなに楽しみ? 他クラスの女の子にそこまで応援されたら、気合いも入るよね」
俺の隣に歩み寄ってくる。
顔は笑っているのに、切れ長な瞳は全く笑っていない。俺が握りしめている紙袋を、じっと睨みつけている。
「……何怒ってんだよ。ただの差し入れだろ」
「怒ってないよ。呆れてるだけ」
一歩、さらに距離を詰めると、俺のジャージの袖をぐいっと強い力で引っ張った。
「っ、痛えよ! 引っ張んなって!」
あっという間に校舎の陰へと、強引に連れ込まれる。
壁際に追い込まれる形になった。
「なんだよ。俺はただ差し入れを──」
ドン、と効果音がつきそうなぐらいの強さで、顔の真横に片手を叩きつけられる。
いわゆる「壁ドン」だった。
「え……?」
完全に逃げ場がなくなり、身動きが取れなくなる。
一ノ瀬を見上げると、さっきまでの王子様の笑顔は完全に消えていた。
「ずいぶん余裕そうだね。他の女の子とのお喋りにうつつを抜かすぐらいには」
「はぁ? そんなんじゃねぇよ。ただ応援されたから、ありがとって言っただけで──」
「それがうつつを抜かしてるって言うんだよ」
よく分からない理論。いつになく感情が乗った声に、思わず言葉を詰まらせる。
いつも完璧に振る舞い、言葉を操る一ノ瀬がひどく余裕がないように見える。
ふと、一つの可能性が浮かんだ。
まさか。そんなわけねぇよな。そう思いつつも、少しだけ仕返しがしたくなった。
「お前、もしかして嫉妬してんの?」
ほんの冗談のつもりだった。「馬鹿なこと言ってないで、早く勉強の続きやるよ」などと、冷たくあしらわれると思っていた。
なのに。
「……っ」
一ノ瀬が目を見開いた。ぴたりと動きが止まる。
みるみるうちに、耳まで真っ赤になった。
「一ノ瀬……?」
「……そうだよ」
「え?」
「嫉妬だよ。悪い!?」
一ノ瀬は顔を真っ赤にしたまま、俺を睨みつけるようにして、小さく、でもはっきりと頷いた。
いつも冷静で──正直、何を考えているのか分からなかった。そんな一ノ瀬が、見たこともないくらい必死な顔で自分の感情を認めている。あまりのギャップと、真正面からぶつけられた執着の重さに、今度は俺がフリーズする番だった。
「君が他の誰かに笑いかけてるのも、僕の知らないところで誰かのヒロインになってるのも、全部気に入らない」
恥ずかしさを隠すように、俺のジャージの袖をぎゅっと掴んだ。
「今日の勉強会は、容赦しないから」
また、いつもの意地悪な顔になる。
さすが、演劇部。変なところで感心してしまう。
「ほら、行くよ」
掴まれた袖から、一ノ瀬の体温が伝わってくるような気がした。
引きずられるように、校舎の陰から連れ出される。
お互いに、焦っていたからなのか。
俺たちは、遠くの人影に気がつくことができなかった。
