演劇部の王子様、なぜか俺をヒロインに当て書きしてくる

 今日も、女子たちの黄色い声は鳴り止まない。

「ねえ、今日の一ノ瀬くん見た? 授業中に眼鏡直しててさぁ、まじで国宝級だった……」
「わかる! 廊下ですれ違った時に挨拶したら、ちょっとだけ微笑んでくれて。心臓止まるかと思った」

 重い足取りで演劇部の部室に向かっていると、相変わらず女子たちが廊下で騒いでいた。
 彼女たちを横目に、思わずため息が出る。
 なにが国宝級だ。ただ顔と頭が良くて、人望もあって、教師からも信頼されて──。
 だめだ、何一つ勝てる自信がない。
 多分、俺はあいつのことが羨ましくて、嫉妬してるんだと思う。でも嫌いじゃなくて、かと言って「一ノ瀬が好き」と言い切るのも変な気がする。

 ──そもそも、なんで俺と一ノ瀬がこんなことになっているのか。

 毎日グラウンドを泥だらけで走り回っている俺と、演出家として物語を創り上げる一ノ瀬。
 住む世界が違うあいつと接点ができたのは、ほんの数か月前のこと。

 その日。
 自主練中に怪我をして、保健室に駆け込んだ。オレンジ色の夕焼けが、今でも目に焼き付いている。
 中に入ると、先客が一人。

 ベッドに腰掛け、ひどく疲れた様子で目元を押さえている男──一ノ瀬蓮だった。

 いつも完璧に見える「王子様」が、眼鏡を外し、前髪をラフに上げて、小さくため息を吐いている。初めて見る、無防備な姿だった。
 手元には、赤ペンで何度も修正された演劇の台本。

 演劇部や周りの期待を、全部背負っていること。一人きりで戦っていること。その時、初めて知った。

「……大丈夫かよ」

 声をかけると、驚いたように顔を上げた。すぐにいつもの王子様の仮面を被ろうとする──前に、俺はスポーツドリンクを差し出した。

「ストイックなのはいいけどさ、顔色やばいって」
 周りの女子みたいに特別扱いするつもりはなかった。
「ちゃんと休めよ」
 ただのクラスメイトとして真っ直ぐに心配する俺を前に、一ノ瀬は呆然としていた。

 スポーツドリンクを受け取ると、
「……二宮も、毎日遅くまでグラウンド走ってんじゃん。人のこと言えないでしょ」
「え、毎日見てんの?」
「部室からよく見えるからね」

 眼鏡を掛け直すと、少し気まずそうに、でもかすかに微笑みながら、スポーツドリンクのボトルを見つめた。

 一ノ瀬にとって、周りから神格化されない「普通の距離感」が新鮮だったのかもしれない。
 実際、クラスメイトでありながら、ちゃんと会話をしたのは初めてだった。教室では、いつも難しい本を読んでいるし、人と群れているところを見たことがない。

 正直、近寄りがたいとは思っていたけど、一ノ瀬のことが羨ましいのかもしれない。俺にはないものを持っているから。

 その日を境に、教室でも少しずつ話すようになり、いつの間にか俺たちの距離は近づいていった。
 最初は、一ノ瀬の席を通り過ぎる時に軽く挨拶する程度だったけど、次第に「その本、何か面白いんだよ」「瞬にはまだ早いよ」なんて、ちょっとした軽口まで叩けるようになった。
 ただ──周りの女子たちの視線が痛かった。「あの一ノ瀬くんが、なんで二宮と笑って話してんの?」と言いたげな、羨望に満ちた目線。

 それでも、みんなが遠巻きに崇めるだけの『王子様』じゃなくて、俺にだけはちょっと意地悪く笑う『一人のクラスメイト』としての一ノ瀬蓮が、俺の日常に少しずつ、確実に溶け込んできていた。

 ──それなのに。

「なんで、俺がヒロインのモデルなんかに……」

 ため息を吐きながら、目的の場所──廊下の突き当りにある、年季の入った部室のドアに手をかけた。

「ごめん。遅くなった」

 部室の奥、夕暮れの光が差し込んでいる。その中で、少女漫画を読んでいる一ノ瀬の姿が目に飛び込んできて、思わず息をのむ。悔しいけど、絵になっている。

「大丈夫。ちゃんとここに来てくれただけで、僕は満足だから」
 漫画を閉じて、眼鏡の奥で目を細める。
「そういう言い方すんなよ」

 いちいち台詞が思わせぶりなんだよ。
 あの保健室の時みたいに、もっと素直に話したらいいのに。
 一ノ瀬の正面にあるパイプ椅子に座り、バッグから忌々しい英語のプリントを取り出す。

「ほら、約束通り来たんだから、さっさと英語教えてくれ。次の追試で合格しないと、まじで練習試合出られなくなる」
「分かってる。でも、その前に」

 すっと立ち上がると、隅にある黒いレザーソファーへと移動した。
 そして、自分の隣のスペースをトントン、と軽く叩く。

「こっちに座って」
「は? 勉強するなら、机の上の方が──」
「隣同士だと、距離感が掴みやすいかなって」
 一ノ瀬の口元に、いつもの意地悪な笑みが浮かぶ。
「今日の勉強会の条件、忘れたわけじゃないよね?」

 赤点という弱みを握られている俺に、最初から拒否権なんてなかった。

「……分かったよ」

 プリントとシャーペンを持って、ソファーへと移動した。一ノ瀬の隣に腰を下ろす。男同士だし、ソファーもそれなりに大きい。少し離れて座れば──。

 そう思った瞬間。

 一ノ瀬の身体が、不自然なほど近くに寄ってきた。膝がくっつく距離。

「おい、一ノ瀬。近くねぇか!?」
「静かにして。これも台本書くためだから」

 台本を片手に持ったまま、おもむろに自分の眼鏡を外した。
 前髪の隙間から露わになった切れ長の瞳が、俺を映している。さっき、廊下で女子たちが騒いでいた「王子様」の爽やかな笑顔とは違う、ゾクッとするような男の顔。

「瞬、僕の目を見て」
「っ、なんだよ……」

 端正な顔が、さらにぐっと近づいてくる。
 あまりの距離の近さに、また心臓が跳ね上がる。思わず、ソファーの背もたれに身体をのけぞらせた。逃げようとする俺の動きを先回り、一ノ瀬の長い指先が、俺の耳元にそっと触れる。

 指先から伝わる体温が、妙に熱い。

「今回のヒロインは、強がりだけど、本当はすごくピュアなキャラクターなんだ」

 一ノ瀬の声が、耳元で低く響く。吐息がダイレクトに肌に触れて、なんだかゾクゾクする。

「こんな風に至近距離で見つめられて、髪に触れられたら……ヒロインは、どんな顔すると思う?」
「し、知るかよ! 演出家のお前が考えろ!」

 顔が熱い。絶対に今、俺の顔は耳まで真っ赤になっているはずだ。
 
「答えはね」
 俺の動揺を楽しむように、さらに顔を近づける。
「──今の瞬みたいな顔だよ」
「何言って……」
「君をヒロインに当て書きして正解だったよ」

 一ノ瀬は満足そうに、意地悪く笑った。
 いつまで経っても鳴り止まない心臓の音を、こいつに気付かれていないことだけを、俺は必死に祈るしかなかった。

「一ノ瀬、お前いい加減にしろよ。心臓に悪いわ」
「良いリアクションだったけどなぁ」

 ようやく元に戻ろうとした、その時だった。

「一ノ瀬くーん! 頼まれてた次の舞台の衣装プラン、持ってき──」

 入ってきたのは、演劇部の衣装係・山崎。俺たちのクラスメイトでもる女子部員だ。
 山崎は、部室の中央で完全にフリーズしていた。

 今の俺たちの状況。
 夕暮れの教室。ソファーの上。
 俺は一ノ瀬に押し込まれるように背もたれにのけぞり、顔を真っ赤にして息を荒げている。
 対する一ノ瀬は、眼鏡を外したまま、俺の髪に指を絡めている。しかも、至近距離で覆いかぶさるような体勢。

 これは、どう見ても──。

「あ」

 山崎の手から、クリアファイルが落ちた。

「や、山崎! 違う、これはただの勉強会で──!」
「……ご、ごめん! 私、空気読めなくて……っ!」

 落ちたクリアファイルを、ひったくるように拾うと、
「一ノ瀬くんと二宮って、そ、そういう感じだったんだね。お幸せに!」
「待てって! まじで誤解だから!」

 俺の必死の叫びは届かず、颯爽とドアを閉めて走り去っていった。

 終わった。
 明日、学校でどんな噂が流れるか想像しただけで、目の前が真っ暗になる。

「おい、どうすんだよ! 完全に誤解されただろ!」

 頭を抱える俺の隣で、一ノ瀬は眼鏡をゆっくりと掛け直した。
 焦る様子もなく、むしろどこか楽しげに、口元を綻ばせる。

「いいんじゃないかな。別に」
「いいわけないだろ! 俺はともかく、お前の立場が……」
「僕、女の子に興味ないから」
「……は?」
 女子に興味がない?

「──僕が興味あるのは、瞬だけだから」

 思考が完全に停止する。
 あまりにもストレートな、いや、ストレートすぎる言葉。さっきまで必死に言い訳を考えていた頭の中が、一瞬で真っ白になる。

「言ったでしょ。今回のヒロインは、本当はすごくピュアなキャラクターなんだって」
 くすっと意地悪そうに笑うと、呆然とする俺の頭をぽんと優しく叩いた。
 その顔は、いつもの完璧な「王子様の仮面」でも、さっきのゾクッとするような男の顔でもない。保健室でスポーツドリンクを受け取った時のような、どこか楽しげな、等身大の高校生の顔だった。
 
「ほら、今のリアクションも最高」
「……お前、まじでいい加減にしろよ」

 心臓が、さっきよりうるさい音を立てて暴れ出している。
 グラウンドでどれだけ走り回っても、こんなに息が上がったことなんてないのに。

 こいつはただ、自分の台本のクオリティを上げるために俺をからかって、実験台にしているだけだ。頭ではそう分かっているのに、熱くなった耳の裏が、いつまでも痺れていた。

「今度こそ、勉強始めよっか」

 何事もなかったかのように、英語のテキストを開く。そんな一ノ瀬を横目に、俺は明日からの学校生活への絶望と、未だに鳴り止まない鼓動を必死に隠すしかなかった。