恋愛ドラマの中でしか聞いたことがないような台詞を、俺は毎日のように耳にしている。
「ずっと前から好きでした!」
主人公が頭を下げて、
「……俺も。ずっと好きだった」
相手が彼女の手を取って──。
離れた席で、頬杖をついて眺める。もう何回も見た光景だ。
それなのに、役者たちは一向に「いいね」や「次のシーンやろうか」などと言われない。緊張している演劇部員に、冷ややかな声が突き刺さる。
「はい、ストップ。そこ、頭下げるだけじゃ伝わらないでしょ」
声をかけたのは、一ノ瀬蓮。この演劇部の「王子様」兼「天才演出家」だ。
黒髪に眼鏡、第一ボタンまでしっかり留められた制服。すべてが俺とは対照的だった。
手元の台本と部員たちを交互に見ながら、
「告白するヒロインは、振られるのが怖くて震えてるはず。頭を下げる前に、一瞬だけスカートの裾を握りしめて。それから視線は──」
恋愛経験が豊富なのか、それとも妄想なのか。どちらにしろ、恋愛の解像度が妙に高いと思ってしまうのは、ただの気のせいだろうか。
「じゃあ休憩。10分後に再開」
一ノ瀬が両手を叩くと、部員たちは各々の時間に戻っていった。
ぼーっと眺めていると、いつの間にか目の前に影ができていた。
「──見つめすぎ。そんなに俺のこと好き?」
「は!?」危うく、椅子から落ちるところだった。
一ノ瀬が見下ろしてくる。眼鏡の奥から覗く、切れ長な目。なんだかすべてを見透かされているような、心を読まれているような。
いや、別に一ノ瀬のことは嫌いじゃないけど。
「驚きすぎ」と笑って、机の上に置いてあった水筒を手に取り、身体の中に水分を流し込んでいく。喉仏が、こくこくと上下に動く。見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて視線を逸らす。我ながら単純すぎるだろ。
ふう、と息を吐いた一ノ瀬は、そのまま俺の隣の席に座った。
制服の袖がくっつきそうになる距離。ただそれだけなのに、心臓の音がまた大きくなった気がする。
友達や部活の奴らは、俺のことを「サッカー部のエース」や「女慣れしてる陽キャ」だと思っている。告白されたことだって、人並みにはある。──でも、付き合った経験はゼロ。手を繋ぐ以上のことを考えただけで顔が赤くなる。女子に対する免疫がないなんて、口が裂けても言えない。
「……で、なんか用?」
平静を装って声をかけると、一ノ瀬はブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと、瞬の意見を聞きたくてね」
そう言いながら、スマホの画面を見せてくる。やけに顔が近い。
「今一番求められてる恋愛のリアルって、ここに詰まってるんじゃないかなって」
画面を覗き込んで、思わず二度見してしまった。ピンク色の表紙に、ポップなタイトルロゴ。
そこに表示されていたのは、
「これって、少女漫画……だよな?」
「そう。『君に届けたい初恋』。女子の間でバズってるらしいよ」
俺でも聞いたことがあるタイトルだった。もうすぐ実写ドラマ化されるとかなんとか。
「さっきのヒロインの演技も、この3巻のシーンを参考にしたんだけど」
学校中の女子から「王子様」と呼ばれる一ノ瀬が、まさか少女漫画を大真面目に分析してるなんて。
眼鏡の位置を指先で直すと、画面をスクロールしながら真剣な声で続ける。
「この、男が不意にヒロインの髪に触れて、耳元で囁くシーンがあって。試したいんだよ」
顔を赤らめて恥ずかしがるヒロインに、余裕そうな顔で愛の言葉を囁くイケメン。こんなの漫画の中でしかあり得ない。きっとそうだ。
「……試す?」嫌な予感がする。
「これが、現実の男が相手でも有効なのか」
目を逸らすことなく、さらっとすごいことを口にした。
「……待て、落ち着け」
いや、俺が落ち着くべきか。頭が回らない。
必死に言葉を探していると、一ノ瀬の白くて長い指が、俺の耳元をかすめた。
「……っ、一ノ瀬」
そのまま耳元の髪に触れる。そこから火が出るんじゃないかと思うほど、一瞬で熱くなった。
一ノ瀬が少し首を傾げながら、俺の耳元に口を近づける。
「ねえ、瞬」
名前なんて何度も呼ばれてきたのに、初めて呼ばれたような感覚がした。
「僕じゃ、だめ?」
心臓の音が耳に届いた。「あ、今跳ねた」って分かるぐらい。
ただの漫画の台詞。一ノ瀬の実験台。頭では分かっているはずなのに、恋愛偏差値が限りなくゼロに近い俺の脳内は完全にキャパオーバー。
「……っっ!! 演出の実験に、俺なんか使うなよ!」
真っ赤になった顔を隠す余裕もなく、一ノ瀬を突き飛ばす勢いで立ち上がった。
「なるほど。リアルの男子高校生が相手でも、このシチュエーションは効果あるみたいだね」
顔色ひとつ変えず、冷静にメモしている。
「……部活戻るわ」
これ以上、こいつの近くにいたら命が危ない。
スポーツバッグを乱暴に掴み、背を向ける。
「じゃあこれ、サッカー部の顧問に渡しとくね。次、赤点だったら部活停止だってさ」
「……は?」
振り返ると、見覚えのある解答用紙をひらひらと揺らしている。容赦なく書き込まれた『28点』の赤い文字が、目に飛び込んだ。
「なんでお前が持ってんだよ!」
「採点の手伝いしてるからね。今度、大事な練習試合あるんでしょ? 部活、やりたいよね?」
ずるい。こいつ、最初からそのつもりだったのか。
「これから毎日、放課後に勉強教えてあげる。その代わり、条件がある」
「……なんだよ」
「僕が書く台本の、実験台になること」
スマホの画面──少女漫画のページを、人差し指で叩く。
「瞬をモデルにしたヒロインの解像度を上げるために、僕の演出に付き合うこと。どう? 悪い話じゃないと思うけど」
「なんで俺がモデルなんかに……」
そう言いつつも、目の前の解答用紙から目が離せない。練習試合に出られないなんて、サッカー部のエースとして絶対にあり得ない。
俺の必死な葛藤を見透かしたのか、一ノ瀬は目を細めて微笑んだ。
「だって、瞬の反応が一番分かりやすくて、面白いもん」
「え、俺以外にもやってんの?」
咄嗟に聞き返す。なぜなのか自分でもわからない。
「まさか。瞬だけだよ?」
いつもの涼しい顔のまま、とんでもないことを言った。また心臓がうるさい。
──タイマーが鳴り響いた。休憩終了の合図だ。
ぞろぞろと部員たちが集まってくる。一ノ瀬は、一瞬でいつもの「王子様」の仮面を被ると、
「また明日ね」
俺にだけ聞こえる声で言い残し、部員のもとへ戻っていった。
練習が再開した教室の中、一ノ瀬に触れられた耳の後ろだけが熱を持って冷めてくれない。
「瞬だけ」って言われて、安心したのはなぜか。
その答えが分かるのは、もう少し先の話。
「ずっと前から好きでした!」
主人公が頭を下げて、
「……俺も。ずっと好きだった」
相手が彼女の手を取って──。
離れた席で、頬杖をついて眺める。もう何回も見た光景だ。
それなのに、役者たちは一向に「いいね」や「次のシーンやろうか」などと言われない。緊張している演劇部員に、冷ややかな声が突き刺さる。
「はい、ストップ。そこ、頭下げるだけじゃ伝わらないでしょ」
声をかけたのは、一ノ瀬蓮。この演劇部の「王子様」兼「天才演出家」だ。
黒髪に眼鏡、第一ボタンまでしっかり留められた制服。すべてが俺とは対照的だった。
手元の台本と部員たちを交互に見ながら、
「告白するヒロインは、振られるのが怖くて震えてるはず。頭を下げる前に、一瞬だけスカートの裾を握りしめて。それから視線は──」
恋愛経験が豊富なのか、それとも妄想なのか。どちらにしろ、恋愛の解像度が妙に高いと思ってしまうのは、ただの気のせいだろうか。
「じゃあ休憩。10分後に再開」
一ノ瀬が両手を叩くと、部員たちは各々の時間に戻っていった。
ぼーっと眺めていると、いつの間にか目の前に影ができていた。
「──見つめすぎ。そんなに俺のこと好き?」
「は!?」危うく、椅子から落ちるところだった。
一ノ瀬が見下ろしてくる。眼鏡の奥から覗く、切れ長な目。なんだかすべてを見透かされているような、心を読まれているような。
いや、別に一ノ瀬のことは嫌いじゃないけど。
「驚きすぎ」と笑って、机の上に置いてあった水筒を手に取り、身体の中に水分を流し込んでいく。喉仏が、こくこくと上下に動く。見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて視線を逸らす。我ながら単純すぎるだろ。
ふう、と息を吐いた一ノ瀬は、そのまま俺の隣の席に座った。
制服の袖がくっつきそうになる距離。ただそれだけなのに、心臓の音がまた大きくなった気がする。
友達や部活の奴らは、俺のことを「サッカー部のエース」や「女慣れしてる陽キャ」だと思っている。告白されたことだって、人並みにはある。──でも、付き合った経験はゼロ。手を繋ぐ以上のことを考えただけで顔が赤くなる。女子に対する免疫がないなんて、口が裂けても言えない。
「……で、なんか用?」
平静を装って声をかけると、一ノ瀬はブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと、瞬の意見を聞きたくてね」
そう言いながら、スマホの画面を見せてくる。やけに顔が近い。
「今一番求められてる恋愛のリアルって、ここに詰まってるんじゃないかなって」
画面を覗き込んで、思わず二度見してしまった。ピンク色の表紙に、ポップなタイトルロゴ。
そこに表示されていたのは、
「これって、少女漫画……だよな?」
「そう。『君に届けたい初恋』。女子の間でバズってるらしいよ」
俺でも聞いたことがあるタイトルだった。もうすぐ実写ドラマ化されるとかなんとか。
「さっきのヒロインの演技も、この3巻のシーンを参考にしたんだけど」
学校中の女子から「王子様」と呼ばれる一ノ瀬が、まさか少女漫画を大真面目に分析してるなんて。
眼鏡の位置を指先で直すと、画面をスクロールしながら真剣な声で続ける。
「この、男が不意にヒロインの髪に触れて、耳元で囁くシーンがあって。試したいんだよ」
顔を赤らめて恥ずかしがるヒロインに、余裕そうな顔で愛の言葉を囁くイケメン。こんなの漫画の中でしかあり得ない。きっとそうだ。
「……試す?」嫌な予感がする。
「これが、現実の男が相手でも有効なのか」
目を逸らすことなく、さらっとすごいことを口にした。
「……待て、落ち着け」
いや、俺が落ち着くべきか。頭が回らない。
必死に言葉を探していると、一ノ瀬の白くて長い指が、俺の耳元をかすめた。
「……っ、一ノ瀬」
そのまま耳元の髪に触れる。そこから火が出るんじゃないかと思うほど、一瞬で熱くなった。
一ノ瀬が少し首を傾げながら、俺の耳元に口を近づける。
「ねえ、瞬」
名前なんて何度も呼ばれてきたのに、初めて呼ばれたような感覚がした。
「僕じゃ、だめ?」
心臓の音が耳に届いた。「あ、今跳ねた」って分かるぐらい。
ただの漫画の台詞。一ノ瀬の実験台。頭では分かっているはずなのに、恋愛偏差値が限りなくゼロに近い俺の脳内は完全にキャパオーバー。
「……っっ!! 演出の実験に、俺なんか使うなよ!」
真っ赤になった顔を隠す余裕もなく、一ノ瀬を突き飛ばす勢いで立ち上がった。
「なるほど。リアルの男子高校生が相手でも、このシチュエーションは効果あるみたいだね」
顔色ひとつ変えず、冷静にメモしている。
「……部活戻るわ」
これ以上、こいつの近くにいたら命が危ない。
スポーツバッグを乱暴に掴み、背を向ける。
「じゃあこれ、サッカー部の顧問に渡しとくね。次、赤点だったら部活停止だってさ」
「……は?」
振り返ると、見覚えのある解答用紙をひらひらと揺らしている。容赦なく書き込まれた『28点』の赤い文字が、目に飛び込んだ。
「なんでお前が持ってんだよ!」
「採点の手伝いしてるからね。今度、大事な練習試合あるんでしょ? 部活、やりたいよね?」
ずるい。こいつ、最初からそのつもりだったのか。
「これから毎日、放課後に勉強教えてあげる。その代わり、条件がある」
「……なんだよ」
「僕が書く台本の、実験台になること」
スマホの画面──少女漫画のページを、人差し指で叩く。
「瞬をモデルにしたヒロインの解像度を上げるために、僕の演出に付き合うこと。どう? 悪い話じゃないと思うけど」
「なんで俺がモデルなんかに……」
そう言いつつも、目の前の解答用紙から目が離せない。練習試合に出られないなんて、サッカー部のエースとして絶対にあり得ない。
俺の必死な葛藤を見透かしたのか、一ノ瀬は目を細めて微笑んだ。
「だって、瞬の反応が一番分かりやすくて、面白いもん」
「え、俺以外にもやってんの?」
咄嗟に聞き返す。なぜなのか自分でもわからない。
「まさか。瞬だけだよ?」
いつもの涼しい顔のまま、とんでもないことを言った。また心臓がうるさい。
──タイマーが鳴り響いた。休憩終了の合図だ。
ぞろぞろと部員たちが集まってくる。一ノ瀬は、一瞬でいつもの「王子様」の仮面を被ると、
「また明日ね」
俺にだけ聞こえる声で言い残し、部員のもとへ戻っていった。
練習が再開した教室の中、一ノ瀬に触れられた耳の後ろだけが熱を持って冷めてくれない。
「瞬だけ」って言われて、安心したのはなぜか。
その答えが分かるのは、もう少し先の話。
