勾玉遊戯:過去編1990-2000

  
 
 「――司! なにしてる!」
 呼ばれて、はっ、とした。
 とたん、あれ、と思う。
 自分はどうして、ここで、こんなことしているんだろう――。
 雨が、降っている。
 なのに自分は、傘も持たずにびっしょりだ。
 雨は冷たくて、寒い。
 どうして――と、思った。
 
 
 その時、視界に入ってくる兄の姿がなければ、自分はパニックになっていたかもしれない。まったく、わけがわからない。前後の脈絡も記憶にない。その前の出来事として思い出せるのは、雨が降り出しそうだなあと思いながら、下校するために学校の校門を出て――今日は、たまたまひとりだった――電車に乗って、最寄り駅の改札を出たところだ。
「いま、風呂沸かしてきたから。お湯が溜まったら入ってこい。そのままでいると風邪をひく」
 そう言って、顔を出した兄の柚真人によれば、司は神社の鳥居より少し手前のあたりで、雨に濡れながら、何をするでもなく、ぼうっと突っ立っていたらしい。
 それがどういうことなのかは、それ以上兄に言及されなくともなんとなくわかった。司は、生まれながらにしてそういうところがある体質なのだ。ただ、自分の家でもあるはずの神社のこれほど近くで、自分がそんなふうになったことはこれまでにはなかった。そのことが、司にとっては少し衝撃だった。これまでは、自分が、自分から不用意にその手のものに近づこうとしなければ避けて来られたはずだった。だから、いままでこんなふうに――自分で今自分がなにをしているかわからなくなるような感じで意識が飛ぶ、みたいなことはなかったのだ。
「……大丈夫だ」
 そんな司の内心を察したように、柚真人が司の傍でいった。柚真人はあの場で司の手をひいて、何も言わずに鳥居をくぐり、参道を歩いて、社殿の奥にある家まで司を連れ帰ってくれたのだ。司はそれから、とりあえずびしょぬれのまま、居間で柚真人が寄こしてくれたバスタオルでもって水気を拭っている。その間に柚真人はお風呂を作ってきてくれたようだった。
 柚真人は続ける。
「人ではないよ。さっきお前に障っていたのは、動物の……御霊の凝ったものだ。そんなに害のあるものではないし、あとできちんと祓っておく。だが……お前、心当たりはないか?」
「――……」
 動物。言われてみれば、何日か前。自分で実際にそのものを目にしたわけではないのだけれど、通学路に、動物の死骸があった、とクラスメイトの誰かが話していたのを聞いた。おそらく、車に跳ねられたんだろうとか、なんとか。その話を聞いた時に、痛々しい話だな、と思い、つい、自分の生家の生業を思った。それがきっかけだ、ということなんだろう。
 司は、小さく頷いた。不用意にそういうことをすると、柚真人はたいがい司をやんわりではあるが、叱責する。だから今回も、説明を求められ、自分の巫としての不出来さ加減を怒られるだろうか、と身構えた。
 しかし柚真人は、
「……そうか」
 と頷き、司に対してそれ以上の言葉を向けなかった。
 柚真人にキツくあたられないことで、司は少しほっとする。でも同時に、思うこともあった。もしかすると、柚真人のそれは。
 もういい、というような拒絶なんだろうか。
 ということだ。
 最近、司はそんなことを感じる気もした。
 自分が、こんな家に生まれながらにして、怪異現象や幽霊の類が怖く、神社の神様も信じられない、ダメな人間であるということはわかっている。わかっているけれど、どうにもならなくて、司には逃げるより他になった。
 昔、もっと子供のころに、それでもいい、といってくれたのは柚真人だ。
 だから、柚真人に甘えてしまった。そうも、いえるのかもしれない。あの頃は、自分も柚真人も子供だった。でも最近は、柚真人はちゃんと神社の仕事をしているし、自分たちも大人になっていく。その過程で、柚真人の考えも、変わってきたのかもしれない。
 なにもできない妹、なんて。
 なのに、こんなふうに簡単に、軽率に、柚真人の手を借りないと自分で自分の身も守れない、なんて。
 この家と、家業をひとりで継がなくてはならない兄にしてみたら、面倒くさくて、邪魔になっていくものなのかもしれない。
 それは、イヤだな、と思いはする。なのにどうしても、自分で自分が制御できない。柚真人が見ている、本来なら当たり前に自分が向き合わなくてはいけない世界に対する、恐怖心や嫌悪感が拭えない。
 そんな自分が、すごく情けない。
 情けない、とは。
 きっと、兄にも思われていることだろう。それも嫌だなと思うに、どうにもできない。
 どうして、どうにもならないんだろう。どんどん、どんどん逃げてしまう自分が、嫌いだ。弱くて、守られていて、迷惑ばかりを兄にもたらし、だというのに、よりにもよってその兄に――報われようもなく救いようもない想いを抱いてすらいる、自分が。
「――……」
 柚真人は、何を考えているんだろう。
 それを知りたくて、なにか言葉を向けたかった。だから、頭からかぶったバスタオルの隙間から柚真人を見ると、柚真人は――こちらを見てはいなかった。
  
 
 子供の頃。
 司はもういい、と柚真人がいってくれたとき。
 そういえば、柚真人に、ぎゅっと抱き締めてもらったな、とふいに司は思い出した。
 あの頃は、こどもだった。ただただ、兄が輝かしく見えていて。兄は、きれいで、つよくて、なんでもできて、たよれる、から。たよれる兄の言うことをちゃんときいていればいい、自分は兄のそういうところに甘えていても大丈夫なんだと思っていた。
 今は、その想いでの記憶すら、意味も、色も、違ってきている。
 あんなことは。
 きっと、もう永遠に、ないんだろう。
 そう感じることが――本当は、そんなふうに感じてはいけないはずなのに――泣きたいくらいにつらかった。