勾玉遊戯:過去編1990-2000



(つかさ)の様子はどうだ?」
 そう言ったのは久しぶりに在宅している現・皇家の長男である卓史(たくみ)だった。
 卓史は、すでに大学生となり、またこの家を継ぐために必要な神職能力を有していなかったため、普段は実家をはなれて都内で一人暮らしをしている。その卓史が、いま、ここにいるのは、妹の司が少々厄介な状態にあるとの連絡をもらって、様子を見に来ていたからだ。
 司の部屋から出てきたのは、卓史のかわりに、(すめらぎ)家の次代を担う卓史の弟妹たちの面倒をここでみてくれている、(こうがい)優麻(ゆうま)という青年だった。優麻もまた今年の春に大学生になったばかりの若者ではあった。だが、彼は、卓史と違って、皇家の職務に携わるだけの神職としての能力を比較的強く有していた。そのため、皇の家督や職務をすべて引き継ぐにはまだおさなすぎる卓史の弟妹たちのために、卓史に代わって皇の家に常駐してくれているのである。
 司は今年8歳になる妹で、今、高熱を出しているという。これが厄介なのは、ふつうの8歳の子供が患うような風邪や流感からくる発熱ではない、ということだった。
「昨日、小学校から帰ってきたときに、具合が悪いとおっしゃっていたのですが」
「発熱は今朝になって?」
「はい。原因は、それとなく柚真人さんが昨夜のうちに取り除きました。でも、司さんのお身体の方が、おそらく拒絶反応のようなものを起こしているのではないかと――柚真人さんが」
「『封印』のせいか。ありうる話だな」
「それもありますが、司さんの能力の高さ自体にも原因はあるでしょう。『封』じていてもなお巫女の力が強すぎるために、反発する力も強いのだと思われます。司さん自身に良くないものをひきつけてしまう力も」
 卓史には、優麻がそうやって語るような世界に触れる力がない。しかし、皇家に長男として生まれた以上、ある程度の家業に関する知識はあった。幼い妹が抱える問題を、卓史はやや沈痛な面持ちで思案する。
 何よりも気がかりなのは、数年前のあの事件。あの事件で司の身に起きたことと、司の身に封じたものの大きさだが――。
「司さんの能力は、前例が無いと言ってもいいほどには強いものです。これを隠しながら身を護るには、生半可な修練程度ではかえって危険になってしまうのかもしれませんね」
 そうでなければ、あの時もこんなことにはならなかったろう。ゆえに能力をいったん封じた上で、少しでも護身になればと思って、司には柚真人とともに一般的な神職としての基礎的な修行はさせておこうというのがこれまでの優麻と卓史、そして柚真人の判断だった。
 けれども、それが意図したような効果をもたらさず、逆に裏目に出てしまうというので――あれば。
「司さんを、一切、こちらの世界の理から絶つようにした方がいいのかも――しれません」
 司の中に施した『封印』とて、そもそも永続的なものとはいえない。だとしても、『封印』の解除にも手順と言うものはある。いたずらな恐怖心や抵抗感を先に司に与えてしまい、司の中の『封印』が意図せず最悪のかたちで『壊れ』てしまうことを、卓史と優麻はおそれ、警戒していた。

      ☆

 それから三日後、司の意識がはっきりしてきた。
 悪夢からやっと抜け出した。そんな心地で目を開けたところ、自分の顔を上から覗き込んでいる柚真人と目があった。
「……お、に……ちゃん……?」
「……よかった。おれがわかるな?」
 柚真人はそう言って、少し笑った。
 その表情や口ぶりは、まだ10歳にもならない子供のそれではなかったが、司にとっての柚真人はいつもこんな感じだった。
「あたし……?」
 身体のあちこちが痛いな、と司は思った。なんだか、長い間体をうごかしていないような気がする。
「何があったか、覚えている?」
 柚真人は、司に静かに尋ねながら、水とストローが入っているグラスを差し出してくれた。司はそれを、ちょっとだけ体を起こしながら受け取った。水をひとくちストローから吸い上げる。そうすると、なんだかとてもきれいなものが体に入っていくような気がした。
「……」
 なにが、あったか? 訊かれたことを考えてみる。けれども、そちらについてはなんだか黒々とした凝りが頭の中にあるように、よく、わからなかった。あたし、どうしたんだっけ? 
「具合が悪いって、帰ってきたんだ。そうして、熱を出した」
「……」
 そう。具合が悪かったことは覚えている。何が、あったか。というと。
「……学校から、かえってくるとき。みちに、へんなひとがいたの。なんか、くろいひと」
「……」
「こわいなって、おもって。でもそのひとのところを通らないとおうちに帰れないから。……そうしたら、急に、気持ち悪くなって……気持ち悪くて、苦しくて……いやな感じのものが、入ってきたの」
 もっと前から、こういうことはときどきあって、こわい、とか気持ち悪い、ということは、そのたびに兄にうったえついた司だった。でも今回は、何かいつもの出来事の域を越えていた。
 「あれ……も、……オバケ……だったよね……?」
 8歳の司の理解はその程度だ。
 司が柚真人に向けると、柚真人は何も答えずにまた、水を飲むように司に勧めた。司がまたひとくちきれいな味のする水を飲むと、さらりと柚真人の手が司の頭をひとなでして、
「おれが全部追い払ったよ。司はもう大丈夫だ」
「………………ほんと……?」
「いま、社の水が飲めたろ。それに、おれがそばにいる」
「…………うん……」
「司はもう少し休むといい。何かあったら、呼べば必ずすぐに来るから、おれが」
 司は布団の上に横になるように戻された。不安な感じはまだ身体の隅っこのようなところに残っているような気がした。でも、兄の柚真人がこういう時に言うことは全部信じて間違いないということを、司は知っていた。


 司の部屋を出ると、柚真人は廊下を歩いて居間に向かった。そこには、長兄の卓史と優麻が控えている。
 今後、司をどう扱うか――という点では、ほぼ結論は出ていた。
「しょうがないな。このままだと、今後おそらく司は同じ目にあうことを繰り返す。それは、避けたい。司にとっては危険でしかないし、司自身も疲弊する」
 柚真人は、妹に対してだけでなく、己の監護者である卓史や優麻に対しても、こんなふうにまるで彼らより年長であるかのような物言いをする。しかしこれが『皇柚真人』なのであり、卓史にしても優麻にしてももはや当たり前にその存在を受け入れていた。なにより、柚真人は皇家の次代当主となる身であり、それに従うことを義務付けられている皇家の人間にとって、柚真人の言はすでに重いものなのである。
「司が嫌だというのであれば、しばらくは、それに任せようと思う」
 柚真人が居間の畳に膝をつけながら言いい、その言葉に優麻が頷いた。
「そうですね。司さんには、危険なものを自ら回避する能力もあります。どちらかというと、それに任せた方が、当面は安全なのかもしれません。せめて、もう少し大人になるまでは」
「……司の恐怖心は、桁が違うんだ。俺ともちょっと質が違っていて……受け入れすぎてしまうというか、その深度が深いんだろうな。俺たちには、あいつが味わっているものどういうものなのか、実際のところ同じようにわかってやることができない」
「最初が、悪かったこともあるのかもしれないね。あんなふうに、むりやり……力を引き出されるような目に遭わせてしまったからね」
 とは、卓史の言葉だ。
 それは、今ここにいる皇の人間のうちでも三人――にしか、共有されていない事実だった。司は、強い巫の素質を持って生まれた娘だった。しかしなんの準備も整える間もなく、無理やりのように、その素質の蓋をこじ開けられた。制御の術も知らないうちに堰を破壊されてしまったような力は初手から暴走するように司を飲み込みかけた。ゆえに、一度、すべてを『封印』するしかなかった。
 今は、この『封印』をどうやって穏便に解いていくか、その方法を探っているところなのだ。これを『壊す』ことだけは、二度と、絶対に許されない。司を、皇の巫女として守るためにも。
「なにかあれば、おれが守るよ」
 そう、柚真人は呟いた。
 それは自分に言い聞かせるようでもあった。強く、しっかりと。
「その点は、君を信用しているよ。柚真人」
 と、卓史が返す。
 長兄の言葉を受けた柚真人は――さらに続けて、
「そのかわり、これからおれは、少し司を突き放すようなことになるかもしれない。おれとも、距離を取らせた方がいいだろうからな。そっちの対応も、それとなく頼む」
「――ああ……まあ、そうなるだろうね」
「お気持ちは理解します。お任せください、フォローしますよ」
 そこで柚真人の表情が、やや沈痛な色を帯びたことに、二人の年長者は気づいていた。
 自分から切り離してでも、妹を守る。すでにそれに足りるだけの力も、技量も、意思も、能力も、目の前の少年が十二分に有していることは、卓史も優麻も知っていた。そうしてさらには、比類なき守護欲と愛情を――彼が、たったひとりの妹に寄せていることも。

      ☆

「かみさまってさあ。たすけてくれないの」
「どんなにこわいっておもっても、たすけてくれないの」
「じんじゃのおしごとって、できるようにならないとだめなの? かみさまがたすけてくれないのに?」
 そういう司を、一度だけ、柚真人は自分の腕の中に引き寄せ、強く強く、抱きしめた。
 それが――妹に触れた、最後の記憶だ。
 そうして、その耳もとに、もういいよ、と柚真人は囁いた。
「もういいよ、つかさ。あとのことは、おれが全部ひきうける。だからお前は、なにも気にしなくていいよ……今は。ごめん、な」
 
 震えているような、妹の細くて冷たくて頼りない体を。
 守らなければ、という想いを込めて。