勾玉遊戯:過去編1990-2000

14


     ☆

 契機なんて些細なもの。
 壊れるときは、なんて簡単。

      ☆

 ――どうして……っ。
 背中から、両肩に掛けられた制服は暖かかくて、それが寂しかった。これは、柚真人の温度。
 いちばん淋しいときに、いちばん優しい。
 ――どうしてなの。こんなこと、しないで……。柚真人の馬鹿……!
 鼻先を掠めるのは檜に似た香り。柚真人の匂い。柚真人の空気。兄に抱きすくめらているような錯覚に、目の前が冥くなる。
 ――違う。柚真兄は悪くない。最低……! あたし、本当に最低……っ!
 司は、愕然として唇を噛み締めた。
 心臓が悲鳴を上げている。頭の奥がぼうっとしている。
 指を絡ませて両手をきつく握り締め、司は瞼を閉じた。
 ――どうして止められないの?
 考えてもわからない。
 ――相手は実の兄でしょうがっ……。
 寂寥感がとめようもなく心を浸食して、自分自身をどんどんと食い潰してゆく。そんな感覚を、もう殺すことができない。
 肺の奥がつぶれそうなくらい苦しいのに。ぎりぎりと、何かが押し潰されて、砕けていくのを感じるのに。
 諦めることなんて、この気持ちを消してしまうなんて、出来るわけない。
「怪我。消毒するぞ」
 司の肩から制服を取りあげて、ソファに投げ出しながら、柚真人がいった。
「ほら座れ。つっ立んてんな」
「……」
 司は頷いて、居間のソファに腰を下ろした。血の滲んだ袖を捲る。
「っとに、鈍くさいなお前は」
 こんな時に優しくして欲しくはなかった。何時も見たいに放っておいて欲しかった。いつもは全然優しくなんかなくて、意地悪で、冷たいのだから。
「うん……。たいしたこと無いな。消毒して……ガーゼを張っておこう」
 救急箱を卓に置き、柚真人は消毒を始める。司の手首を引っ張って、容赦なく消毒液に浸した脱脂綿で傷口を洗う。ピンセットに挟まれた脱脂綿は血の色に染まった。
「……っ……んっ」
 鋭い痛みに、司は呻く。
「我慢しろ」
「う……ん……っ」
 歯を食いしばる。
 落ち着き払った静かな柚真人の声が、みぞおちに突き刺さるようだった。らちもない。この気持ちには意味がない。魂に刻むように自分に言い続けてきたけれど、やっぱりどうしても、この人が好きだ。
 唇を噛んでも、なにかがあふれてくる。堪えているのは痛みのはずだ。体の痛みのはずだ。そのはずなのに――それが一体痛いからなのか、切ないからなのか、自分でもよく判らなかった。
「……っ……ふ……っ」
 感じるのは、兄の指先が自分に触れているということ。その冷たい指先を心地好く感じるということ。傍ら耳の側で聞こえる声に、――行き場のない気持ちが軋む。
 ――駄目……。
 我慢、しなきゃいけないと思ってきた。ずっと、潰そうとしてきた。
 でも。
 じゃあ。
 いつまで我慢すればいい。
 いつかは忘れられるのだろうか。何時かは、他の誰かを好きになれるだろうか。
 飛鳥の笑顔が、脳裏を過ぎった。
 ――柚真人が好き?
 尋ねられた時に覚えた、胸の痛み。
 ――正直にね。
 ――諦めるべきじゃない。
 ――前に。
 無理だ、そんなことは。
 だけど。
 ――これ以上――。
 いけない、と思った。
 どくん――それが傷口の痛みだったのか、胸の痛みだったのか。
 涙が。
 ――駄目……っ。駄目よ……っ。
「う……」
「……司……?」
 ぼんやりと視界が滲んだ。
 次の瞬間。
 自分の中で、ぶつりとなにかが、音をたてて、ちぎれた。
 それは、――理性だったのかもしれない。もうその時はあふれてくる涙を、止めようもなかった。泣きたいわけじゃないのに、どうしようもなかった。
いったん堰がきれてしまうと、ぼろぼろこぼれて止まらない。
 柚真人の怪訝そうなまなざしが辛い。
「おい……? 我慢できないのか? ……そんなに痛く無いだろうがっ」
「……っ」
 涙がこぼれ落ちてきた。言葉にならない。
「司? おい……どうしたんだ?」
 柚真人が訝るのはわかっている。でも、もう止まらない。
 泣き声を堪えようとしてもどうにもならない。窒息してしまいそうなほど苦しい。
 苦しい。
 このまま嘘をつくより。
 壊してしまおうか。
 ――だって。やっぱりこれ以上、嘘をつき通せない。
 後戻り出来ないけど、前にも進めない。立ち止まっていることもできそうにない。
 この恋は成就しない。
 この想いは届かない。
 大事にしていたって意味がないなら。
 壊してしまえば、そうすれば、きっと楽になれる。なにもかも終わりにした方が、ずっとましだ。
 ずっと楽だ。
 ずっと――。


「がまん、なんて……できないっ」
 

 これ以上は無理だ――そう思ったら、声になってしまっていた。
「イヤだよ……こんな……! こんなの……イヤ……」
「……お……い……?」
「どおして……どおして。いやだ……よお……。お兄ちゃんなんて……あたし柚真人のこと、どうしてお兄ちゃん、なんて呼ばなきゃなんないの……」
「……?」
「なんであたし、妹なの……。どうして……っ」
「……おい……。お前……」
 柚真人の手が、離れた。
 びくり、と司は肩を揺らした。
 そうだろう。わかっていた。
 でも。
「妹でなんて、いたくないよ……。妹なんて嫌。……ごめんね柚真人……。あたし……どうかしてるの……っ」
 でも。
「ごめんなさい……」
 こんな言葉、兄が受け入れるわけが無い。
 兄妹で、『好き』だなんて。
『恋愛』なんて。
 許されるわけが無い。
 気持ち悪い。汚らわしい。
 帰ってくる答えなど予想できた。
 それは充分わかっていたのだ。
 それでも止められなかったのだ。
「柚真人が好き……。あたし、柚真兄のことが好きなの……っ。柚真人に好きな人がいても駄目なの、止まらないの、ごめん、なさい……っ」


 ――なん……だって?


 突然妹が泣き出したわけを、柚真人は咄嗟に理解できずにいた。傷が痛むのかと思った。
 こんなふうに感情を、声を殺すように泣いた彼女を見たのは初めてのことだったから――戸惑った。
 なのに。
 ――……まさか、……だろ。
 だけど。
 ――いま、司は――なんて!?
 その言葉に、驚嘆した。
 一瞬、刹那、耳の中から音が消えた。
 すべての音が消えた。
 彼女の声以外の、音が。
 目の前で泣き崩れる、彼女。
 それは自分の妹で。
 それからどくん、と聞こえたのは己の心臓の音なのか。ごく、と息を飲み下す。
 これは戸惑い――? 違う。
 驚愕――? 違う。
 想像もしていなかった。一縷の望みさえ、ないと思っていた。そんなことは絶無なのだと信じて疑わなかった。
 なのに彼女は――何て……?
 いまの、いままで。たったいままで。
 まさか。
 ――妹なんて。
 乱される。感情が乱される。
 信じられない。
 信じては――駄目だ。
 ――柚真人が……好きなの……。
 途端――首を擡げる凶悪な感情。
 鎮めていた心の水面に広がる波紋。 
 残酷な。残酷な言葉に絶望する。
 乱さないでくれ。乱しては駄目だ。
 そんな。いまさら。いや。壊れてしまう。崩れてしまう。
 それがどんな意味かも理解しないで、おれの理性をかき乱すようなことを、 どうして――突然。どうして――いま――!!
  
  
「まさか……」
 戸惑いが言葉になる。
「まさか……っ、そんな……っ」
 そしてそれが、絶望に変わる。
次の瞬間柚真人は、叫ぶようにぶちまけていた。
「ふざけろよ!! なに生半可なこといってんだお前!?」
「――ゆ……まと……?」
「ふっ……ざけてんじゃねえっ!」
 司が顔を上げた時――柚真人はたまらず、もう一度怒鳴った。
「ふざ……っ!?」
「お前……それがどういう意味かきっちりわかっていってんのかっ!?」
 ふたりの視線がぶつかって――離れる。
「柚真兄……」
 司は再びうつむいて、ぐっと両手を握り締めた。柚真人の言葉に耐える準備をするみたいに。
 それがなおさら苛立ちを駆り立てる。
「……わかってる……。でなきゃ……いわない。こんなこと……」
「は――。いいかげんなことを言う。『好き』なんて、いとも簡単にな」
「……簡単じゃ、……ない……。簡単なんかじゃ……っ」
「お前……!」
「信じても、もらえないわけ。軽蔑は覚悟してたけど……、いいかげん……なんて……違う……」
「簡単に言うんじゃない。状況も考えずに見境ないこといってんじゃねえっ」
「……っ」
 ぐっ、と――司の手を振り払った柚真人が、乱暴に司の胸倉を掴んで引き寄せた。
 凄惨な愉悦をかすかに含んだ鋭いまなざしで睨まれ、息が詰まる。
「――いい度胸だよな。だがお前。それ、当たって砕けるつもりで言ってるんだろうがよ? おれがそれを、受け入れるなんてこと、ちょっとでも考えてるか、あ? おれ自身のことを考えに入れてんのかよ……?」
 低く唸るように柚真人は言った。
「それはそんな一方的なものなのか? そんなもんならお前が泣くことに意味はないだろうが。お前は何を望んでんだ? あとのことを考えたのか?」
「……っ……」
「考えてないよな? あとはどうでもいいって気持ちだよな?」
「……」
「わからないなら、……わからせてやろうか!?」
 戸惑いを浮かべている濡れた瞳。
 わけがわからない――彼女はそんな顔をしている。
 半分怯えたような、半分困ったような、頼りなくて、危なげで、腰が砕けるような表情を。
 彼女はきっと想像もしなかったに違いない。柚真人がそうであったように。
 それでも司は悪くない。
 だけど。
 だけれども――。
「おれが……同じことを言ったらどうなんだよ?」
「……」
「……兄なんて。兄貴なんて。冗談じゃねえ! どうしておれたち兄妹なんだ、ああ? 頭がおかしくなりそうだよまったく! どうかしちまいそうだ! 気ィ狂いそうだよ!!」
「――――」
 怒気を孕んだ気迫に彩られた瞳。それが司を見る。
 司は、その瞳を、じっと――凝視するように見返す。
 眉根をよせた少年は、妹の言葉を待たず、吐きだすように、掠れた声で細く告げた。
「妹だなんて。もうずっとむかしから思ってないんだよこっちは! お前が知らないだけだ。お前がなんにもわかっちゃいないだけなんだよ!」
 妹が全身を硬直させるのがわかった。耳を疑っているのだろう。
 柚真人は続ける。
「……お前が妹だとおもえばこそ。おれは耐えてこられたのに……!」
 吐息が触れる距離で。
「いいか? 一挙手一投足、その全部に、おれがどれだけ気を取られているか、お前に想像できるか!? 怪我なんかされて、どれだけたまんないか、わかるのかっ!」
「ゆ……まと……」
「わからないか。そうだろう。そうだよ。……こういうことだ。おれは、この家の中で、お前と暮らしながら、こんなことばかり考えていた。もうずっと」
 両手で司の自由を奪う。有無を言わせない力で拘束する。つかまれた手首の骨が軋んで、司が呻いた。
「気持ちがつながってしまったらどうなるんだ?」
「痛い……っ」
「そんなこと考えもしないで。気持ちだけ先走らせるなよ。残酷だよお前は!」
「……あ……っ」
「妹だなんて思ってない。そうだよ。こういうことだよ。まだ……わからないっていうんなら、無理やりにでも理解させてやって良いんだ……。いますぐにでも実行するか!?」
「……うそ……」
「……だからいったろう? さあ司、言ってみな。それでもお前はおれを受け入れることができるのかよ!?」
「……っ」
「好き、だって? そんな言葉を半端な覚悟で口にするなっ。お前はわかって無い。それがどういうことか。おれには待てるだけの余裕さえないんだ……」
「……う……そ……」
「さあ言えよ! 言ってみろ! 汚いのはどっちだ!? 汚れているのはどっちだ!? おれは、お前にそんなことをいってもらえる資格はない。最低の人間なんだっ! いいか? 自分の妹に、毎日毎晩、飽きることなく欲情してるんだっ。妹なのに、お前をこの手で凌辱することを何度も何度も想像した。吐きだしても吐きだしても、おさまらないっ。最悪なのは、おれなんだよ……! それでもお前はおれを受け入れると、変わらずいえるのかっ、ええ!?」
 司は唇を動かそうとするけれど――声がでない。


 縺れるまなざし。
 瞠目する司に言葉は無い。


 柚真人は、嘲笑った。
「おれに、触れるな。そして、期待させないでくれ。前言を撤回しろ、つかさ。おれはお前が妹である限り、堪えられる。だから兄妹なんだって。そういってくれ」
 柚真人は――そういって司を腕から開放し、立ち上る。
「待って、ゆまとっ……あたし……っ」
「聞こえなかったのかよ? 足腰立たなくなるまで犯すぞてめえ!?」
「……」
「……お前はおれの妹だ。そうだな?」 
 柚真人はその時――いまはただすべてを聞かなかったことにしようと思った。
 それだけを思った。
「……おれには、触れるな。……もう二度と」
 まだ間に合う。
 まだ立ち止まれる。
 まだ――。
「お前は、おれの妹だ」
 繰り返す。それは自分に刻む呪いの言葉。
「お前は、――――――――っ」