13
☆
その日の夕方。
――最悪の気分だな。
皇柚真人は、帰途、平素と同じく込み合う夕方の電車に揺られながら重く沈痛なため息をついた。
数日前から体調を崩している妹のことが、心配で心配でいてもたってもいられない。それに、苛立つ。
我ながら馬鹿馬鹿しくて本当に、心の底から嫌になる気分だった。
優しい言葉ひとつかけてやれず、忙しさにかまけて様子ひとつ見に行くことも出来ないこの己が。
いったいどの面下げて心配などと。
――彼女を避けているんだ。
自覚はある。それは明らかだった。
柚真人はいま、妹を避けている。家の仕事や学校行事を理由にして、彼女と顔を合わせることから逃げている。
だが。
このままではいられない。家族なのだ。平静を保ち、何事も平素と変わらず、彼女と接しなくてはならないのはわかっているし、それが難しくてもやる必要がある。
別に彼女が悪いわけじゃない。
どうかしているのは自分の方で。
あの時、夕暮れの教室の中で見た夏服姿の妹に、冷静さを失った。
あの時、無邪気に笑って友達を連れてくると言った彼女に、理不尽な腹立たしさを覚えた。
そしてあの時、不用意な言葉を口にしてしまった自分に戸惑っているのだ。
――どうする。
柚真人は暗い眩暈を感じた。
降車すべき自宅のある駅が近付いてくる。
――いつものように、笑顔を作って、彼女の部屋を訪れて、具合はどうだったと、――とてもできそうにない。
――どうする。
その時、柚真人はまだ、心の何処かに理性を残していたけれど。
崩れそうな危うさを感じて、そんな自分に――怯えてもいたのだ。
☆
自転車を漕ぎながら大きく息を吐く。
その日の夕方――司は、学校から戻って所用を思い出し、自転車で買い物に出たのだった。
しかし、身体が思うようにいうことをきかない。
――まだ熱があるのかな……。
足下が浮いているみたいに、ふわふわするのはやはり熱のせいなのだろう。
――寝ていればよかったかも。
帰宅を急ごう――そう思って、司は自転車を漕ぐ足に力を入れた。
その、瞬間――。
「――――!!」
がたん、と自転車が傾いだ――と、思った。
体制を立て直そうと思ったが、四肢に力が入らず、司は――そのまま路面に転倒した。
「あいっ……、痛あ……」
体を起こして自転車を見ると、チェーンがはずれているのが解った。
それから、右の膝と肘のあたりを擦り剥いていることに、遅れて気づく。
どうもペダルを踏み込んだ瞬間にチェーンが外れてしまって、司は右から路面に転倒したようだ。
「もう……っ……」
あちこちが痛んだ。おまけにやっぱり身体がふわふわするようで、全身に力が入らない。
司は、へたりこんだまま自転車を持ち上げてため息をついた。
これは一体どうすればいいのだろう。
皇神社までさほど距離があるわけでも無いが、駅から神社までこの坂道を上りきらなくてはならない。
身体は重いし、傷は痛いし、なんだか、泣きたい気持ちになってくる。
――どうしよ……。
上から声が降ってきたのはそんな時で。
「何やってんだお前」
振り向かなくても声の主なんて判りきっていた。
委員会の仕事などのため、妹よりやや帰宅が遅れていたはずの、柚真人だ。
いま駅から商店街を抜けてきたのだろう。
こんなところで転ぶなんて、しかも彼に見つかってしまうなんて、なんたる不覚だろうか。
また厳しい叱責がくるのだろう――司はそんな風に思って身構えた。
が、柚真人の声は思いのほか静かだった。
「……転んだのか?」
「……うん」
「ったく……。もう一日ぐらい寝ていた方が良かったんじゃないのか。学校来ないで」
肩を落として司は呟いた。
「そうもいかないでしょうが。別に平気よ」
「なぁにが平気だ。ああ、まったく。怪我してるじゃないか」
呆れたような声で言う。彼は司の傍らに跪いた。
倒れた自転車を持ち上げて、
「チェーン外れたのか。……危ないなあ。貸してみろ」
「……」
「それと……、風邪気味のくせしてどうしてそんな格好なんだお前は。……こんなに涼しいんだから、上着ぐらい着ないとぶりかえすだろう」
作業のために制服のブレザーを脱ぐと、彼はそれを司に羽織らせる。
司の出立ちは半袖のブラウスとミニスカートだった。なんとなく暑いような気がしたからこの格好だったのだが、どうやら暑いと思ったのは少し熱が残っていたから、らしい。
「ちょっと退いてろ。怪我は、帰ってから見てやる。……我慢できるだろ?」
「……うん……」
彼の横顔はすぐ近くにあって。
耳元で声が聞こえて。
心臓が止まるかと思った。
――駄目……っ。
目を瞑る。
身体の奥で鼓動を刻む器官が、悲鳴を上げる。
「ほら、立てるか?」
厳しい声に促され、うつむいたまま立ち上がる。
「自転車はおれが押してくから」
「……うん……」
司は、兄の背中を追って、とぼとぼと歩きだした。
☆
その日の夕方。
――最悪の気分だな。
皇柚真人は、帰途、平素と同じく込み合う夕方の電車に揺られながら重く沈痛なため息をついた。
数日前から体調を崩している妹のことが、心配で心配でいてもたってもいられない。それに、苛立つ。
我ながら馬鹿馬鹿しくて本当に、心の底から嫌になる気分だった。
優しい言葉ひとつかけてやれず、忙しさにかまけて様子ひとつ見に行くことも出来ないこの己が。
いったいどの面下げて心配などと。
――彼女を避けているんだ。
自覚はある。それは明らかだった。
柚真人はいま、妹を避けている。家の仕事や学校行事を理由にして、彼女と顔を合わせることから逃げている。
だが。
このままではいられない。家族なのだ。平静を保ち、何事も平素と変わらず、彼女と接しなくてはならないのはわかっているし、それが難しくてもやる必要がある。
別に彼女が悪いわけじゃない。
どうかしているのは自分の方で。
あの時、夕暮れの教室の中で見た夏服姿の妹に、冷静さを失った。
あの時、無邪気に笑って友達を連れてくると言った彼女に、理不尽な腹立たしさを覚えた。
そしてあの時、不用意な言葉を口にしてしまった自分に戸惑っているのだ。
――どうする。
柚真人は暗い眩暈を感じた。
降車すべき自宅のある駅が近付いてくる。
――いつものように、笑顔を作って、彼女の部屋を訪れて、具合はどうだったと、――とてもできそうにない。
――どうする。
その時、柚真人はまだ、心の何処かに理性を残していたけれど。
崩れそうな危うさを感じて、そんな自分に――怯えてもいたのだ。
☆
自転車を漕ぎながら大きく息を吐く。
その日の夕方――司は、学校から戻って所用を思い出し、自転車で買い物に出たのだった。
しかし、身体が思うようにいうことをきかない。
――まだ熱があるのかな……。
足下が浮いているみたいに、ふわふわするのはやはり熱のせいなのだろう。
――寝ていればよかったかも。
帰宅を急ごう――そう思って、司は自転車を漕ぐ足に力を入れた。
その、瞬間――。
「――――!!」
がたん、と自転車が傾いだ――と、思った。
体制を立て直そうと思ったが、四肢に力が入らず、司は――そのまま路面に転倒した。
「あいっ……、痛あ……」
体を起こして自転車を見ると、チェーンがはずれているのが解った。
それから、右の膝と肘のあたりを擦り剥いていることに、遅れて気づく。
どうもペダルを踏み込んだ瞬間にチェーンが外れてしまって、司は右から路面に転倒したようだ。
「もう……っ……」
あちこちが痛んだ。おまけにやっぱり身体がふわふわするようで、全身に力が入らない。
司は、へたりこんだまま自転車を持ち上げてため息をついた。
これは一体どうすればいいのだろう。
皇神社までさほど距離があるわけでも無いが、駅から神社までこの坂道を上りきらなくてはならない。
身体は重いし、傷は痛いし、なんだか、泣きたい気持ちになってくる。
――どうしよ……。
上から声が降ってきたのはそんな時で。
「何やってんだお前」
振り向かなくても声の主なんて判りきっていた。
委員会の仕事などのため、妹よりやや帰宅が遅れていたはずの、柚真人だ。
いま駅から商店街を抜けてきたのだろう。
こんなところで転ぶなんて、しかも彼に見つかってしまうなんて、なんたる不覚だろうか。
また厳しい叱責がくるのだろう――司はそんな風に思って身構えた。
が、柚真人の声は思いのほか静かだった。
「……転んだのか?」
「……うん」
「ったく……。もう一日ぐらい寝ていた方が良かったんじゃないのか。学校来ないで」
肩を落として司は呟いた。
「そうもいかないでしょうが。別に平気よ」
「なぁにが平気だ。ああ、まったく。怪我してるじゃないか」
呆れたような声で言う。彼は司の傍らに跪いた。
倒れた自転車を持ち上げて、
「チェーン外れたのか。……危ないなあ。貸してみろ」
「……」
「それと……、風邪気味のくせしてどうしてそんな格好なんだお前は。……こんなに涼しいんだから、上着ぐらい着ないとぶりかえすだろう」
作業のために制服のブレザーを脱ぐと、彼はそれを司に羽織らせる。
司の出立ちは半袖のブラウスとミニスカートだった。なんとなく暑いような気がしたからこの格好だったのだが、どうやら暑いと思ったのは少し熱が残っていたから、らしい。
「ちょっと退いてろ。怪我は、帰ってから見てやる。……我慢できるだろ?」
「……うん……」
彼の横顔はすぐ近くにあって。
耳元で声が聞こえて。
心臓が止まるかと思った。
――駄目……っ。
目を瞑る。
身体の奥で鼓動を刻む器官が、悲鳴を上げる。
「ほら、立てるか?」
厳しい声に促され、うつむいたまま立ち上がる。
「自転車はおれが押してくから」
「……うん……」
司は、兄の背中を追って、とぼとぼと歩きだした。

