勾玉遊戯:過去編1990-2000

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       ☆

 司はぼんやりと窓の外を見ていた。
 昼間の浅い眠りのなかで――夢を見ていたような気がする。
 だが、どんな夢を見ていたのか、よくは思い出せなかった。
 朧気に、暗闇が思い出され、何度か誰かに名前を呼ばれたような気がした。
 とても、懐かしい声で――。
 枕元に置いた時計を見ると、もう夕刻だった。
 窓の外では雨が降っている。
 ――後夜祭は中止だろうか。
 結局司は、この三日間起き上がれないまま、文化祭は最終日を迎えてしまった。今日は日曜日で、文化祭が一般公開される日でもあったが、朝からこんな雨では、たいした来客も見込めなかったかもしれない。
 雨の音がする。
 雨の――。


 誰かが部屋の戸を叩いたのはその時だった。
「司ちゃん?」
 どきりとした。
 飛鳥の声だ。
「えっとね。学校休んでるって聞いて、お見舞い。柚真人から鍵、預かってきたんだ。ねえここ、……開けてもいいかな?」
「――」
「司ちゃん? 起きてる?」
「……うん」
 襖越し、司は頷いた。
「入っていい?」
 司は少しだけ考えた。
 だけど――。
「うん、あの、ちょっと待って。起きる、から……」
 とにかく――。
 そう思って、司は頷いた。


「三日間、休んじゃったね」
 いつもと変わらない、よく晴れた空の水色を思わせる笑顔で飛鳥が言った。
 飛鳥は部屋の襖を開け放ち、その戸口に鞄を立て掛けると、司の傍らに腰を下ろす。
 司は布団の上に上半身を起こして、上着を羽織っていた。
「今日、司ちゃんのクラスのぞいたら、文化祭からこっち、学校来て無いっていうじゃない? 柚真人に訊いたら風邪だっていうから。後夜祭とLHR抜けてきちゃった」
 屈託なく笑う。
 飛鳥はふだんと変わらずに明るくて、だから司も微笑み返すことができた。
「後夜祭、あるの?」
「体育館でね。……具合、大丈夫?」
「うん、大丈夫。昨日も一昨日も、仕事終わってから優麻さんが来てくれていたし、今日の午前中、水月さんが診察に来てくれたから」
「そう、よかった」
 飛鳥が小さく頷いて、肩を落とした。
「……飛鳥くん?」
「……よかった」
 飛鳥は繰り返す。
「実は、すっごく緊張してたんだ。……司ちゃん、怒ってるんじゃないかと思ってね。顔も見たくない、とかって突っ撥ねられちゃったらどうしようかと思ってた」
「……」
 その表情を見返して、司は言葉に詰まった。
 何か言おうと思ったけれど何を言ったら良いのか解らない。
 言葉を探す。
 飛鳥のせいではなくて。
 飛鳥が悪いのでは無くて。
「……飛鳥くん、……あたしが気持ち悪くないの?」
「は?」
 それは、飛鳥にとっては意表を突かれた質問だったらしい。
 彼が怪訝そうな表情で司を見返してきたので、司は目を伏せた。
「だから。……兄妹で……その……。好き、なんて、どうかしていると思うでしょ?」
「どうして?」
「……」
 司の方が目を丸くする。
 その反応の方が意外だ。
 飛鳥は司を咎めるだろう――そう思っていたから。
 いや、飛鳥ならずとも、だ。だって兄妹のあいだに恋愛感情があるなんて、普通ではない。それに、その感情は許さるものではない。禁忌以外のなにものでもないのだ。
 だから。
「どうしてって……。だって、変でしょ?」
「まあ、そりゃあ、あんまりあることじゃないかもね」
「……それだけ?」
「それだけだよ。僕はね」
 司は、飛鳥を見返す。
 およそ曇りというものが感じられない言い切りには、返す言葉がない。
「……だけど」
 言い募ろうとすると、そんな司を彼は制した。それから困ったように笑う。
「……柚真人が好き?」
 答えられず、飛鳥から視線を逸らす。
「……ごめんなさい……」
「あやまることはないよ。……本当に、好きなんだよね?」
「……ん……うん……」
「そう」
「柚真人に、好きな人がいる、としても?」
「……」
 司は唇を噛む。
 それを知っても。
 それを、兄本人の口から聞いた今でもなお、どう足掻いても止められない。
 彼が、誰を想っていてもそんなことは関係ないのだ。
 なんて我儘で始末に負えない、気持ちだろう。
 なんてひどいんだろう。
 そう思う。
 思うけれど、駄目でも、思い止まるべきでも、そう知っていて、何度自分に言い聞かせても――どうにもならないのだ。
「……それが誰であっても?」
「……」
 司は――頷くしか無かった。
 だって、そうなのだから。
「……しょうがないな」
 長い長いため息のあと、飛鳥が呆れたような声音で言った。
 顔を上げると、飛鳥は悲しそうな表情で、でもかすかに笑みを浮かべていて。
「でもお願い。……。飛鳥君、あの……。あのね。……柚真兄には……その……っ」
「ああもう。僕はねえ。そんな無粋な人間じゃありませんよう」
 その先の言葉を察した飛鳥は、呆れたような口調で唇を尖らせ、大仰に肩をすくめた。
「それに――、兄妹なんて間違ってるとか、だから止めておけ、なんてこともいいませんよ。……司ちゃんが思うように、すればいいと思うから」
「……」
「だって、本当に好きなんだろう、柚真人のこと。だったらそれはもうどうしようもないもんね」
「それは……。好きだけど、でも、……どうにも……できないよ……」
「どうして?」
「だって柚真人は、兄貴だよ?」
「それで諦められるの?」
「でも……。それに、好きな人がいるんだよ、柚真人には」
「僕が聞いているのは、君がそれで諦めるのかってことだよ。諦められるのなら、僕は絶対にここで引き下がったりしないよ?」
「……飛鳥くん……」
「だから君だって、諦められないなら、引き下がるべきじゃない」
「……っ」
「ああもう。そおんな目え、しないで欲しいなあ。君らしくないよ? 好きな人がきょうだいだから、あいつには好きな人がいるから、だから駄目だって、自分を殺し続けてそれでどうにかなる話なの?」
 飛鳥の言葉は痛い。
「どうにかならないから、司ちゃんは困ってるんだよね?」
 頷くしかない、問いだった。
「……だけど……」
「じゃあ、そんなこと気にしたってしょうがないじゃない。諦めないなら、前に行く。そうでしょ」
「だけど……そんなこと……」
「君には、覚悟があるんでしょ? それがとても危険で、楽な恋じゃないってこと、わかってるんでしょ? つらいことの方がきっと多いよ」
「それは……わかってる……」
「そうだよね。なら、前進。少なくとも僕はそれでいいと思う。正直がいちばんいいんだから、さ」
 目の前の優しい少年を、好きでいられたら、どんなにか良かったろう。
 司は心底そう思った。
 どうして、兄なんかに、こんな気持ちを抱いてしまったんだろう。
 苦しい。
「……ただね?」
 ふいに飛鳥が言った。
 顔を上げると、彼の穏やかな笑顔があって、司は切なくなった。
「僕が、君のこと、好きでいるのはいいよね?」
 その言葉に胸を突かれた。
 飛鳥の、そんな表情を見たことがなかった。
 一点の曇りも無い、青い高空のような笑顔が司は好きだった。だから、ひどく切ない。
 頷くのは、とても都合のよい態度に思えて、司は返答に窮した。
 こんな自分を、好きでいてくれなんて、言えた義理じゃない。
 だって。
 柚真人に拒絶されても、飛鳥の想いに応えられるかどうか、わからない。
 否、たぶん――応えられない。
 だって、司は飛鳥が好きだ。
 友人として、イトコとして、飛鳥はとても大事な人。だからきっと、飛鳥と同じ気持ちで、飛鳥を思うことなんて、出来はしない。
「……司ちゃんは正直だね」
 答えられないでいると、飛鳥が苦笑した。
「飛鳥くん……」
「うん。正直がいちばんだよ」


 そうだ。
 そんなところで立ち止まってもらっちゃ困る。
 飛鳥は思う。
 柚真人は。
 どれほどの長い時間、孤独を選び、ひとりで耐えてきたか。
 だから飛鳥は彼女の背中を押すのだ。そうであるなら、苦しい恋でも辿り着いてもらいたい――柚真人の気持ちに。
 柚真人が幼い頃からずっと、ただひとり、想い居続けているのは君だよと、言ってあげることはたやすいだろう。
 だけど。
 このぐらいの抵抗は、許してもらいたいものだ。


「ところで司ちゃん。今日は、晩御飯どうするの?」
 飛鳥は訊いた。
「柚真人のやつ、多分今日も遅いと思うよ?」
「いま、何時?」
 腕時計を飛鳥が見る。
「五時すぎ、かな」
 司は小さく首を傾げた。
「家政のミヤコさんは三時頃帰ったんだけど……六時半頃には、優麻さんがきてくれると思う」
 皇邸には、バイト巫女と家政要員がいる。
 あいかわらず、放蕩両親と長兄はちっとも家に寄り付かないようだが、ここ数日中はそれで事足りたのだろう。
 飛鳥は、そう、と小さく頷いた。
 それから、司の方に少し身を乗り出して、顔色をうかがう。
「じゃあ僕……、晩御飯まで一緒にいてもいいかな?」
「え?」
「具合悪いんでしょ。司ちゃん、ひとりにしておくのも心配だし……」
「あ……あたしは平気よ」
「駄目なの?」
「あ、違うの、そうじゃないけど……」
「そう。じゃあ、いてもいいよね」
 呟く。
 飛鳥は優しい。
 罪悪感と自己嫌悪に灼かれる胸の痛みを堪えながら、司は笑って見せた。


 あとどれくらい。
 こんな毎日が続くんだろう。
 そんなふうに思っていた。
 このままで、いられればいいのに。
 ずっと、何も変わらないでいられればいいのに――そう思って。
 司は瞑目した――。