勾玉遊戯:過去編1990-2000

08


 
 誰もいなくなった教室で、司は鞄と鍵を取り上げる。
 司は日直で、実行委員会も重なって帰りが遅くなってしまった。久美と彩が、昇降口で待っているはずだ。
 鍵と日誌を手に階下へ降り渡り廊下を歩いて、二年校舎一階にある職員室へと急いでいた時、階段を降りてくる飛鳥と出遭った。
「司ちゃん」
 声に顔を上げる。
「なあに、日直?」
 司は頷いた。


 どうやら飛鳥も、教室の鍵を返却するため職員室へ足を運んだらしい。
 飛鳥は実行委員会執行部の会議だった、と司に言った。
 ちなみに執行部と委員会は別の組織で、別々に活動しているから、飛鳥と顔を合わせたのも学校では久し振りのことだ。
 司は日誌と教室の鍵を、飛鳥は執行部室の鍵をそれぞれ返却して、職員室を出る。
「大丈夫?」
 と、飛鳥に訊かれて、司は首を傾げた。
「ほら……、こないだ柚真人に怒られたって言ってたでしょ。柚真人の奴、ここんとこえらく不機嫌なんで、ね。司ちゃんもね、日曜もその前の日曜もへっこんでいるふうだったから」
「あ……、……えと……」
 全然、とか、そんなことない、とか、咄嗟にそう言う言葉が出なかったのはどうしてだろう。何も言えないうちに、飛鳥がにやりとする。
「あいつ、何に腹を立てているわけ。珍しいよね。まさか日曜日のことじゃないでしょ?」
「ええと……。うん……半分違うかな……」
 迷いながら司は答えた。
 どう――しよう?
「半分?」
 黙ると、促すように飛鳥も黙る。うかがわれているような間が苦しくて、でも逃げ出すことも出来なくて――そんなことしたら、追いかけられるに決まっている――司は逡巡した。
「あのね、……あーっと……」
「うん?」
「あの……。クラスの友達がね……来ていたのに理由があって……」
 司は――それでも言い淀んだけれど。
「ああ、あの子ね」
 あっさり言ってくれるものだから、続けざるを得なくなってしまう。
 うつむき、また迷って、頷く。
「文化祭利用してあからさま柚真人狙いって行動なわけだ。それに柚真人が怒ったの?」
 司は、小さく首を振った――横に。
「じゃ、なに? どうして?」
「いや、その……」
「ん?」
 上手い、逃げ口上が思いつかない。
 司は逡巡しながら口を開いた。
「……自分は彼女に興味が無いから、あたしがあとで困ったことにならないようにしろって言ってた」
「へえ。柚真人がねえ。珍しいじゃんそういう反応?」
「うん……。ほら、彼女あたしの友達でしょ? だから。仲介してるつもりかって言われちゃってさ……。柚真人が、ご機嫌斜めなのは、たぶん、それからなのよね……」
 司はうつむいたまま少し首を傾げた。
 飛鳥の顔を見返すことができない。
「そんなの、普段気にしないのにね。そりゃ、確かにいま、柚真人忙しいから、余計な仕事増やして悪いとは思ったのよ。欝陶しいのも、解ってたつもり。でも……あんなふうに言ったことなかったから、あたし、気にしてなくて、それで」
 そして――ここから先を、言葉にしていいものかどうか、戸惑う。
 声に出して。
 飛鳥に聞かれたら。
 自分の声に宿る感情を。
 見抜かれるような、気がする。
 言っては、ダメだと、言う気が、する。
 だけど。
「あのさ……飛鳥くん。それでね」
 苦しくて。苦しくて。
「……柚真人が言うんだよね……」
「え?」
「――好きな人がいるからって」
「――――え?」
「だから久美ちゃんには期待させられないって。ねえ飛鳥くん、柚真人、に、好きな人がいるの……知ってた?」
 小さな声で、司が訊いた。
 飛鳥は瞠目して司を見た。
「それ、……柚真人がそう言ったの?」
「うん。だけどひどいでしょ。あたし、そんなこといわれたら友達にもどんな顔したらいいかわからなくなるじゃない? 底意地悪いにも程があるよね……」
 飛鳥には――ようやく、柚真人の不機嫌の理由がわかった。
 この一ヶ月を、彼はさぞ複雑な心境で過ごしたに違いない。
 同情を通り越して憐憫さえ覚えてしまう。柚真人はいらだちを、解っていながら彼女にぶつけざるを得なかったのだろう。すきなひとがいるという告白は、苦し紛れのひとことで、たぶんいま、柚真人はそれを吐きだしてしまったことをひどく後悔しているはず。
 だから――ああも機嫌が悪いのだ。
 ――なんてこったよ。
 凝然、と、飛鳥はいとこの少女を見返す。
 そして飛鳥にとって、もっと重いのは。
 いま、の、司の気持ちだ。
 彼女の表情は、飛鳥からは見えないけれど――。
 少しの重い沈黙。
 オレンジ色の光が窓の形を廊下に描く。
 彼女の声が震えている理由。
 それは、飛鳥にとっては――気がつきながら、目を瞑っていたい答えだった。
 知っていた。
 感づいてはいた。
 けれど、心の何処かでそうであっては欲しくないと、そう、思ってもいた、それは事実で――。
 彼女の口から、それがはっきり言葉になると――予め心のどこかで想していたこととはいえやっぱり少し、辛い。
 その事実に、飛鳥が気付いていることを、彼女はわかっていないみたいだけれど、でも――わかってた。
 飛鳥はだから、言う。
 問い詰めることは、己を断罪することだと知りながら。
「君さ……。自覚ある? それでどうしてそんなに君がそんなにへこまなくちゃいけないのか?」
「……え……?」
 司が顔を上げた。……柚真人に何処か似た面差し。泣きそうな顔をしている。
「わかっている……んだね」
 飛鳥は――意を決して言い募った。
「……僕をごまかせてると思ってるなら、それは甘いよ?」
「あすか……くん……?」
 どうやら本当に、気付かれているとは思っていないようだ。彼女の表情が、怪訝そうな、警戒するようなそれに変化する。
「司ちゃんはそもそも何が気になっているの。友達が失恋すること? 柚真人に面倒事を押しつけたこと? あいつが不機嫌なこと?」
「……それは……あの……」


「……それとも……柚真人の『好きなひと』?」


どきん、と肋骨の下で自分の心臓が飛び跳ねた。
 見返す飛鳥のまなざしが鋭くて、さらにどきりとする。
「それを知りたい?」
「え?」
「あいつが、誰を想うか。……何考えてるか、知りたい?」
 背を向けたまま、飛鳥が問う。司はやや戸惑って、言葉につまった。
 考えるけれど、答えが形にならない。
「柚真人のことなんて放っておけばいいじゃん? できない?」
「……飛鳥、くん?」
「そんな嫌味はいつものことだろ。そうは思えない?」
 何故か、――飛鳥の声が、今まで聞いたこともないような、攻撃的な色彩を帯びたように思えた。司は、わずかに身を堅くする。
「それってさ。……いいかな。言っても?」
「……どういうこと……?」
 飛鳥は、司を見つめたまま、まなざしを逸らさない。
「僕、わかっちゃうんだよね。……君のこと、本当に大切なんだ。いつでも君を見ているよ。だから」
「……そんな……。またそういう……」
 冗談ばっかり――と微笑もうとして、失敗した。
「やれやれ。決死の告白さえ、本気にしてもらえないとはね」
「……やだ。……冗談、よね?」
「本当に本気にしてくれないの? 少し、悲しいな。僕は君が好きだよ?」
 何処かの窓が開いているか、風が流れる。
「……でも君は、……柚真人のことが知りたい。いつでも目が、あいつを追いかけているもんね?」
「……っ」
 飛鳥の言葉の意味を悟って、司ははっと顔を上げた。
 ――気付かれていた!
 まさか――。
「いつでも、僕は君を見ていた。いまそういったでしょ? だからわかる。君はいつも、あいつを見ていた」
「飛鳥くん、あたしっ……あたし、あのっ」
「君は……」
「だめ、お願い」
「柚真人が」
「飛鳥くんっ! 止めて! 駄目っ」
「柚真人のことが好きなんだね」
「飛鳥……くん……っ」
「……ごめんね。司ちゃん」
 飛鳥が困ったように微笑んだ。
「でもね、僕だって決めてもらいたい。柚真人を、諦められる?」
「……」
 意味のない問いだ、そうする以外に路は無い。
 だけど。そのはずだけど。それは本当に、どうしようもないくらい理解しているつもりだけれど。
 返す言葉が見つからない。
 どんな顔をすればいいのか解らない。
 いったいどんな――。
「僕、では、駄目なのかなどうしても」
 沈黙が重い。
 肌に刺さるみたいに。
「ごめん飛鳥君……ごめんねっ」
 叫ぶようにそう言って、司は走り出していた。

      ☆

「彩ちゃん、久美ちゃん、ごめんね。あたし、用事があるの。思い出したから」
 それだけ言うのがやっとだった。
 待たせていた級友達の傍らを、走って通り過ぎる。
「あ……、こーちゃん!?」


「……飛鳥さん?」
 駅へと向かう帰り道、呼び止められて振り返る。
「……や、緋月ちゃん」
「どうしましたの。疲れた顔をなさって?」
「そう見える?」
「見えますわ」
 緋月が、ころころと微笑む。
「……泣かれちゃうとね」
「え?」
「さすがの僕でも、まいるってもんだよ」
「飛鳥さん?」
「わかってたけど、ね」
 それきり駅まで、飛鳥は黙って歩いた。


 ――柚真人に好きな人がいるの、知ってる?
 勿論だ。
 ――あいつが、いつか言っていたことがある。
「何処までが普通、当たり前なんだ? おれには、それさえわからない」
 そのとき。
 柚真人は、泣きそうな顔をしていた。
 それでもきっと、涙ひとつ、こぼすその当たり前の術すら、彼は知らないに違いない。切ないまなざしを、静かに伏せて。
「……何処までが限界だ。おれにはもうわからない。だから、逃げている」
 普通でいいじゃないか、と――飛鳥には、そんなことしか言えなくて。
 柚真人は、顔を伏せたまま首を振った。
「何処までが普通? 何処までが許される? 兄でさえいられない……」
胸が痛んだ。
 この少年を裏切って、傷つけるなんてこと、できはしない。
 飛鳥はその時、そう思った。
 駅のホームに電車が滑り込んでくる。


 ――たく。見てらんないよ、あいつら……。