勾玉遊戯:過去編1990-2000

07
 
 

 夕方になって雪は小康状態になってきて、夜中になると空は晴れた。
 今は、透明に澄んだ冷気が、夜を満たしている。
 その夜空を天蓋とし、柚真人は、居間の縁側で杯を傾けていた。
 暖房は止め、窓は開け放ってある。
 部屋は暗く、少年の纏う白い着物が、雪明かりをうけて、夜の中にほの白く浮き上がって見えた。
 冬の入り時、夜の空気は冷たく凍えていた。
 さらに晴れあがっているぶんなおさら夜気は冷える。空は遠かった。
 白い陶器の杯に口を接ける。
 ――苦い、な。
 それでも、体感としてはさほど寒くはなかった。まだ十一月だから、夜半には気温も上がりはじめ、明日にはすべてとけて流れていくだろう。
 ――ふん――。
 そして再び杯を口許へ運ぶ――。
 と、そのとき。
「なんか起きてる気配がするから何してるのかと思ったら……。こんな夜中に、酔狂なことするよねえ兄貴も」
 司――だった。


 柚真人の心臓が、凍える。ぞく、と。


「お酒ぇ? たいがいにしなよ、未成年。だめでしょ、そういうの」
 少女もやはり、少年のように丈の短い着物を寝間着として身に纏っている。 
 多少時代錯誤な寝間着とも思えたが、それが幼い頃からの習慣だ。
 ああ、ああ、などと呆れたような声を上げながら。
 司は柚真人のそばにやってきて、傍らに腰を下ろす。
「うわ、さむ。……なんか寝つかれなかったんだよね……。それ、もらってもいい?」
「それって……これ、酒だぞ。日本酒」
「だからちょうだいって言ってるの。自分だって飲んでるくせに。何?」
 何、とは。
 銘柄のことだろうか。
 言っても妹にはわからないだろうが。
「『蒼天(そうてん)』ていって――おい、ちょっときついぞ」
「平気へーき!」
 司は、柚真人の手からするりと杯を奪い取って口に運んだ。
「……司…………お前、おれより未成年だろ……」


 たぶん。妹にとってはなんでもないことなのだろう。
 けれど――。
 畳のい草の匂がした。そして暖められた酒の香。
 夜の空気。青白い雪の色。
 そして、司の――。
 ――ああ、クソ。
 冷えた板張りの縁に置いた自身の手の、指先がこらえきれずにぴくりと震えた。
「ん―――――っ」
 司が、はあっ、と息を吐くと白い霧が闇に溶けていった。

      ☆

「柚真人、寒くないの? 雪積もってるのに。すごい薄着だけど」
 司は、ときどきは自分の兄である柚真人のことを今のように名前で呼んだ。
 柚真人はといえば、彼女には、兄と呼ばれるよりも妹に名を呼ばれることのほうが好きだった。
 けれど、こんなときにそんなふうに呼ばれると、胸が軋む。
 ――こらえろ。
 そう、自らに命じる。
 なぜなら、少しでも気を抜けば、いまにも――理性を失いそうだったから。
 そう。
 お互いに想いをよせあうことができるなら――それを羨望さえした。
 柚真人は、だから今日、あの女の願いを聞き届けてやったのだった。
 兄妹が互いに恋に落ちたとて、何が罪であろうか。それに命をさえ賭したなら、静かに――誰にも知られずにふたりで逝かせてやったところで何が悪かろう。
 ――こらえろ。
 他方、自分には――。
 この想いには辿りつく場所がない。
 ――司には――悟られるな。気づかせるわけには、いかないんだ……っ。
 妹を。
 ――こらえろ……っ。
 妹として見ることができないなんて。
 それなのに、こんな時にかぎって気紛れな妹が――滅多なことで兄に甘い顔を見せない彼女が、甘えたしぐさを見せる。
 それに胸が潰れそうだった。
「ふあ―――――っ」
 頬に朱を上らせて、司は吐息を吐く。酒に触れた唇が、艶やかに濡れている。
 満たされた杯が、すい、と目の前に差し出された。
「はい。どうーもありがとう」
「もういいのか」
「――うん。ていうかそれ、最後の一杯になっちゃった」
「は――」
 柚真人は、無表情を装いながら司の手にした杯を受け取って呷った。
 喉の奥に、残ってぬるくなった液体を流し込むと、鋭い酒精が鼻啌をつく。
 風が流れると、さらさらと凍えた氷の破片が雪の上を転がる音が響いた。
 あるいは、それは竹薮の笹葉の音かもしれない。
「寒いけど、まあ、きもちいい感じもするよね」
 くすくすと司が笑う。
 ところが、だ。
 そうして、妹は何を思ったのか急に、いきなり、とすんと柚真人の肩に体重を預けてきた。
 そんなことをされてしまっては、否応なしに、背中の肌を感じる。
 どきり、とした。
 甘く、胸が痛む。
「子供みたいにあったかいよね。柚真人って」
 くすくす。
 なんて無防備。なんて無頓着。
 腹立たしいくらいに。
 その白い首筋。
 着物のあわせからのぞくわずかに上気した胸元。
 膝にのせられた、手。
 裾から見える――すらりと滑らかな、足。
 脳が蕩けそうだ。
 そうして司はというと、まるでそのまま夢を見るように、目を閉じてしまう。
「お……い、こら。風邪ひくぞ。部屋に帰って寝ろ、司」
「んー」
 そんな溜め息。
 勘弁してくれ。
 何も彼もかなぐり捨てたくなる。
 ――駄目だっ。
 震える声で、兄は紡ぐ。
「おい、司。部屋に戻れと言っている」
「……うん。でも柚真人も一緒に戻んないと。柚真人も……風邪をひく、でしょー……」
 そんなことをいって、司は、また、はふ、と白い息を吐く。


 ――こいつ、酔ってる……のか?
 柚真人は、瞳を閉じた司の傍ら憮然として眉間に皺をよせた。
 そういえば、最後の一杯になった、と司は柚真人に杯を返した。
 ちょっと目を放した隙なのに、銚子は本当に見事に空になってしまっていた。
 なんてこった。
 だけれど、そういう状態でもなければ司がこんなふうに柔らかい表情をみせることは、最近ではあまりないのだった。
 理由は、わかっている。
 それは――柚真人が滅多に司に優しい顔を見せないからだ。
 むろん、できるなら優しくしたいと思う。
 けれど、司の穏やかな笑顔を見ることさえつらかったし、優しくすることもつらかった。
『兄』と呼ばれることも、頼られることも、甘えられることも――
 兄妹だと思い知らされることがつらかったのだ。だから柚真人は妹に優しくできない。
 当然仲の良い兄妹ではない。
 悪循環だがそれが崩れ去ってしまうことを柚真人は恐れた。
 優しくしたら――優しくされたら、坂道を転がり落ちるように何も彼もが駄目になってしまいそうな気がした。
 ――まったく。どうしようもないんだな……。
 その仄かな体温を感じながら、柚真人は泣きたい気持ちになるのだ。情けなさと、悔しさと、己の、どうしようもない運命に。
 ――どうして。お前はおれの妹なんだ。どうして。
 ――どうしておれは……。
 皇柚真人は、古い神社の当主として生まれ育った。
 皇家は、他所には代替することのできない裏神事を伝える社家であり、現在でいうところの富豪である。
 金は、望むと望まざるとに拘らず入るところからはいってくる。
 その上、常人離れした類い稀なる美貌と人形のように均整のとれた肢体をも持ち合わせている。
 その唇に浮かべる微笑みひとつで人の心を繰ることさえも柚真人にとっては容易なこと。
 金銭的な苦労などしようもなかったし、将来など考えるまでもなく、一族本家は当主の座が用意されていた。身の上は自由で、用意されていた動く歩道に乗ってしまえば何ひとつとして不自由などない――はずだった。
 だが今は。
 それら全てを引き換えに捨てたって、手には入らないものを欲している。
 耳元で聞こえる規則正しい吐息が、柚真人を狂わせる。
 苦しくて、目を細める。
 柚真人の首筋にふわりと、柔らかい少女の髪が触れる。
 しゅるり――と、衣擦れの音。
 少年は、歯をくいしばる。
 腰のあたりから駆け上がる熱。背中がぞくぞくした。
 視線を下ろすと、のけぞった頸がみえて、あらぬ光景が一瞬脳裏を駆け巡る。
 いま、ほんの少しでも少年の鋼の理性が負ければ、この手は暴走を始めるだろう。
 司の、優しい体温。
 それは自分のものより少し高い。
 衣越しに伝わるたったそれだけのことで、頭の芯がくらくらした。安らかな寝息を聞いているだけなのに、残酷な――ひどく残酷な妄想が廻りだして止まらない。
 自分では止めることができない。
 悲しくなる。
 この想いが――罪だとか、汚れたものだなんて、思いたくない。
 悔しくなる。
 ―――けれど。
 少年の指は、妄想の中で妹に手をのばしていく。
 滑らかな肌に触れ、艶やかな髪を梳く。細い腰を抱きよせる。
 なんとなれば、なりふりかまわず、あらがう腕をおさえつけ。たとえ彼女が、拒んでも。泣いても。叫んでも。
「く……っ」
 吐き出す喘ぎは、苦しい。
 邪な想いに自分がずるずると溺れていく。
「は……っ」
 触れ合う肌から伝わり、重なりあう鼓動と鼓動。
 こんなにそばにいるのに、ふたりをへだてる血の絆は、なんて遠い。
 指先さえ触れられない。
 だから少年は、凍りついたように動けない。
 きつく目を瞑り、少年はその身を呪縛する妄想を捩じ伏せる。
 ――きっと。
 命を賭けたって、振り向いてくれることはない、妹。
 命を絶ったとて、成就することなどありえない、恋。
 だから。
 柚真人は、眠りに落ちた演技で、ゆっくりと傾ぐ。
 縺れ合って倒れ、少女は目を覚ますだろう。
 そしてふたりは別々の部屋へ帰るのだ。
 永遠に変わることなき、その血の絆。
 それでも、少年は――ほんの刹那。
 少女とふたり、褥にくずおれる、夢を見る。


 ――人には告げられぬ夢を――見る。