勾玉遊戯:過去編1990-2000

05



 今日の風は少し冷たい。
 土曜日の朝、校門へと続くなだらかな坂道を一人歩きながら、司は小さくため息を落とした。ここのところ、兄の朝はなお早くて、目覚める頃にはその姿を見ない。
 頭の中で、いろいろなことがとりとめなく渦を巻き、心が落ち着かない。
 たぶん。それは、昨夜の――柚真人のせいだ。
 ――好きな人がいるんだって。
 久美に、そう伝えるべきだろうか。けれど久美なら言うだろう。
 ――でも彼女ってワケじゃないのよね? じゃ、可能性はゼロじゃないでしょ?
 それが彼女の口癖だったし、彼女は良くも悪くも非常に前向きでポジティヴだ。
 自分はどうしたいんだろう。
 こういうとき。友達と同じ人を好きになった時。
 でもそれは無意味な問いだ。彼は司の兄であって、はじめから勝負にならない。何時か誰かと――それだけは絶対に決まっているのだから、それならそれが誰だって、司には関係の無いことなのだろう。それならば、友達の恋路だって、応援するのがいいと思う。
 諦めるしか無いんだ。
 どうにも、しようがないんだから。


 名前を呼ばれたのは、次の瞬間だった。
「おはよ、司ちゃん」
「あ……」
 司の姿を認めて走って追いかけていたらしい。橘飛鳥だ。
「飛鳥くん。……おはよう」
「どうしたの。なんだか元気ないね」
 傍らから司の顔を覗き込み、飛鳥が言う。
 どきりとしたけれど、司は表情を繕うことが出来ない。だから素直に答えた。
「……昨夜、柚真兄に怒られた」
 ごまかそうとすると、飛鳥には悟られてしまう。司はそれを警戒した。普段あまり表情に変化のない司なのに、こういう時――考えていることを隠そうとするとき――だけは何故か感情が顔に出てしまうらしいのだ。
「へえ」
 意外にも飛鳥は、どうして、とは訊いてこなかった。
 いつものように、ちゃかしたようなふざけたようなことも言わなかった。何となく真率な顔で、小さく頷いただけだった。
 それがなんとなく意外な反応だったので、司は飛鳥の横顔を覗き込んだ。
「飛鳥くん……?」
「ねえ、司ちゃん」
 彼が司を見て、目が合う。
「はい」
「そういえば、僕……日曜、柚真人に呼ばれてるんだけど……」
「え?」
「日曜日、何かあるのかな?」

      ☆

「着替えて社務所の店番だ」
 玄関で飛鳥を迎えるなり、柚真人がそう言った。
「……今日は何? 仕事じゃないでしょ?」
「司のクラスの連中が来てる」
「へえ?」
「和菓子の講習会をやらされている」
 ふうん、と飛鳥は唸った。仏頂面というかなんというか、飛鳥の前では憮然とした様子を、隠そうともしない柚真人だ。
「なるほど文化祭絡みってわけ。……今日の巫女さんは?」
「サヤカさんとヒカリさん」
 それに一体いかなる意義があるのか、飛鳥はふむふむと頷いて、
「わかりましたよ、いいでしょう。和菓子、あとで試食させてね」
 それからどことなく機嫌の悪そうな柚真人を見遣る。
「ところで、……司ちゃんと喧嘩でもした?」
「喧嘩?」
「お前に怒られたって。司ちゃん、元気なかったよ昨日」
「ああ……」
「あんま苛めないでよ」
「苛めてない」
 あがるよ、と飛鳥が言うので、勝手にしろ、と柚真人は吐き捨てた。


「どうも皆さんおそろいで」
 柚真人の部屋で仕事用の白衣に着替えた飛鳥が、台所に顔を出す。
 皇邸の古びた台所には、皇兄妹と山野久美、笹原彩がいて、テーブルを囲んで腰を下ろしていた。柚真人はテーブルの傍らからやわらかく微笑みつつ凄まじく剣呑なまなざしを投げかけてきたが、飛鳥は素知らぬ風でそれを受け流す。
「あら……橘先輩」
「こんにちは」
「その格好……どうしたんです?」
「これ? 柚真人の代わりに神社で労働なんだな」
「あら。……じゃあ先輩に悪いことしてしまったわ」
 彩が表情を曇らせる傍らで、屈託なく久美が言った。
「先輩のクラス、二人羽織早食い競争ですよね」
「久美……あんたちょっと遠慮とか礼儀とかね……ていうか挨拶っ」
「ああ、いいのいいの。それに僕は部活の方に行くけどね」
「……企画たて逃げかな、飛鳥クン」
「部活の方ではなにやるんです?」
 彩の問いに、飛鳥は胸を張って答えた。
「地学部、物理部、科学部連携の研究展と実験ショー」
「……そっちも杉本企画?」
 と久美と彩がいるので、思いきり外面仕様で柚真人は微笑んだ。
 実行委員の立場から言わせてもらうと、本当のところ、物理の杉本教師は生徒を軒並み押しのけて面倒事筆頭格に数えられるので、あの阿呆教師が、と言いたいところなのだが。
「杉本組の今年は、学内ばら撒きクイズだよねえ」
「賞品とかあるんでしょう?」
「なきゃ誰も参加しないよねえ。あんな無茶なの」
「無茶な企画なんですか?」
「受付エントリーすると指定書がもらえてね。その指示通りに学内中問題を探し回らなくてはならないという……」
「賞品は?」
「まああれだな。先着五名様、食券半年分。とか」
「ああそりゃ参加もするわね」
「で、おねーさんたちは何を作るの?」
「これから考えるんです。手間がかからなくてコストもかからない物」
「彩ちゃんそれじゃあつまらないよう」
「お黙り。あたしは別に発注にしてもいいのよ。そのほうが安上がりだし、素人が作るよりよっぽどマシ」
「意地悪う」
「和菓子なめてんじゃないわよ。本来なら職人の技モノなのよ?」
 飛鳥はふたりのやり取りを苦笑して聞きながら、軽く肩をすくめた。
「まあいいじゃない。頑張ってね。じゃあ、いってくるわ柚真人」
「頼むよ。今日は四時半でいいから」
「了解」
 飛鳥を見送った柚真人は、女子三人が陣取るテーブルを傍らに立ち、彼女たちが交互に見やっている雑誌のひとつを手に取った。
「あたしも魚類アイスがよかったなあ」
 という妹の言葉は聞こえなかったことにする。
 そんな企画もあった気がする。当の実行委員に
「魚とアイスってどうかな」
 などと問われた記憶がある。確か、ラインナップはマグロとイワシとサンマ――考えただけでもげんなりだ。
 司あたりは喜びそうだが個人的にはいささか難ありだと激しく思う。
「さて。で、訊きたいことは何かな?」
 営業用とも言うべきごくごくにこやかな笑顔で。
 柚真人は尋ねた。