02
失礼します――と、実行委員会室に当てられた生徒会準備室のドアを開けると、そこに大変見慣れた上級生がいたので、司は驚いた。
「あれ、……柚真兄……」
「なんだお前か」
司の声に顔を上げた上級生は兄・柚真人で、彼は少し身体を起こして腕組みしながら司を見た。
「……どうして?」
「何故かといわれると、そりゃ実行委員だからだな。申請に来たところからするとお前も貧乏籤か?」
生徒会準備室は生徒会室の隣にある部屋で、文化祭とその準備期間中、実行委員会執行部の会合室として使用される。
部屋の中央には会議室のように長机とパイプ椅子が並んでいて、二十人ほどが使用出来るようになっていた。
壁は棚やロッカーがで埋め尽くされ、部屋は雑然としている。入口対面の窓からは、傾きかけた日差しが入ってくる。
司は――結局、各組四人割り当てられた実行委員のひとりとなり、ホームルームで決定したクラスの催しと計画の申請のためにここにやってきたのだった。
「お前のクラスは何をやるんだ?」
司はドアを閉め、机左の一番奥に腰を下ろしている兄のところへプリントを差し出した。
柚真人はそれを受け取ると、黙って目を走らせる。
机の上には同じようなプリントがあって、どうやら彼は放課後、申請の整理作業をしていたようだ。
「ふうん……食品関係ね。これは……器材と予算の関係で六組枠だけど、まあ大丈夫だろ。担当は家庭科の柴木先生。調理室の使用なんかは先生と検討すること。……にしても、和菓子?」
「ああそれ。うん」
司は頷いた。
「久美ちゃんがどうしてもって……。それで決まったんだけど……」
「……ああ、お前の友達の」
「うん。えーと……それでね?」
「何?」
「兄貴、忙しいよね?」
「まあな。忙しいけど、それが何?」
「あ……それで……その……時間があったら、柚真兄に少し教えてもらいたいんだけど。お菓子のこと」
と、――久美に突きつけられた要求を、一応提案してみる。にべもなくつっぱねられるかと思ったが、予想に反して柚真人は軽く唸っただけだった。
「お前に教えればいいのか?」
「いやえっと……、実行委員だから、久美ちゃんと……」
「ふうん?」
「ほら、和菓子って難しいでしょ? ウチ、調理部いないのよ」
言い募ると、しばらく沈黙。さらに、思案の空気が漂った。嫌な間だ。
司は身構える。しかし果たして、柚真人はやれやれといった感じで――これは意外なことだった――頷いた。
「しょうがないなあ」
「え、――いいの?」
「何を教わりたいんだかわからんがな。でも学校では時間取れないぞ。日曜とかにすればいいのか?」
「うん、たぶんいいと思う」
「じゃ、日曜はあけておくことにしようか」
柚真人はそういって、プリントを机上に置いた。
その時、廊下が騒がしくなって準備室のドアが開いた。司がドアの方を見ると、数人の上級生が顔を出したところだった。
「あ、皇君の妹ちゃんだ。だよね?」
司には覚えのない生徒だったが、よくあることだ。柚真人の妹、という意味で、学内有名人なのだから。
別の男子が、柚真人に声をかける。
「集計終わったか?」
男子生徒はどうやら柚真人と同じ二年の実行委員の面々のようである。
「ほらよ皇。お前、お茶だよな」
「申請、出そろった?」
「二年三組と六組、三年五組がまだだな」
と柚真人。
二年六組は飛鳥のクラスだ。申請は今日の五時までで、まだ意見がまとまりを見ないということなのだろう。委員の一人が大仰に嘆息した。
「うおっ、橘かよ。嫌だな、またややこしいこと考えてくるぞ」
「噂では屋上に巨大迷路を作るんだとか言ってたらしいがな」
「馬っ鹿だなあいつ……」
「三-五は?」
「ああ……あそこ担任が問題なんだよな。物理の杉本。あいつ生徒と一緒になって去年も面倒なことしてたろ。女装コンテストだったっけ?」
実行委員には委員なりの問題があるらしい。上級生たちは、一介の生徒である司にはわからない事情を口々漏らしながら仕事に取りかかりはじめた。
「ごめんね皇くん。集計かわるわ」
柚真人は一時留守番といった状態だったらしい。柚真人の前に缶の飲料を置いた女生徒が申し訳なさそうに言うのを司はぼうっと眺めていた。
「かまいませんよ、大丈夫です」
「そう?」
「それより、こちら食品取扱組出そろいました。柴木先生に連絡お願い出来ます?」
「ええ、いいわよ」
戻ってきたばかりの三年生と思しき女生徒は、柚真人に連絡表を渡されると、柔らかく微笑んだ。
それを見送る柚真人も答えて微笑む。
刹那――。
なぜか、どきり、とした。
胸が痛い。ずきん、と――本当に胸が痛んだ。
――何……?
その時急に自分が感じた重い衝撃、鈍い痛みを、司は戸惑いとともに受け止める。
柚真人の穏やかな表情。
それが、司の胸に大きな楔を打ち込むみたいに、ずきん、と。
――なに……?
「……今日は、夕飯には間に合わないかもな」
ふいに柚真人が言ったので、司は顔を跳ね上げる。柚真人はうつむいたまま、机に向かって作業を続けていた。
「遅くなる。悪いけど適当に済ませてくれないか」
「……」
「司?」
「……あ、……うん」
返事を求める時でさえ、顔を上げずに。司は、その横顔を見つめていたが、我に返って頷いた。鞄を取り上げ教室を出ようと歩きだす。
「じゃあ、……先に帰るね」
彼を、教室に残して――扉を閉める。
「……っ……」
途端に――ぱたぱたと自分の双眸から涙がこぼれ落ちた。
――だ……だめ……っ。
司は、それを拭って歩きだす。
――何これ。……何これ……っ!?
何の涙か自分でもよく判らなかった。
ただ、胸が痛い。それがどうしてなのかは、わからない。淋しさと、悲しさと、喪失感がないまぜになって、喉が詰まる。
飛鳥が傍らにいなくてよかった――と、ぼんやり思った。
泣いているところなんて見られたら、たぶん、理由を追及される。白状するまでどんなことになるかわからない。
司は、走り出した。
失礼します――と、実行委員会室に当てられた生徒会準備室のドアを開けると、そこに大変見慣れた上級生がいたので、司は驚いた。
「あれ、……柚真兄……」
「なんだお前か」
司の声に顔を上げた上級生は兄・柚真人で、彼は少し身体を起こして腕組みしながら司を見た。
「……どうして?」
「何故かといわれると、そりゃ実行委員だからだな。申請に来たところからするとお前も貧乏籤か?」
生徒会準備室は生徒会室の隣にある部屋で、文化祭とその準備期間中、実行委員会執行部の会合室として使用される。
部屋の中央には会議室のように長机とパイプ椅子が並んでいて、二十人ほどが使用出来るようになっていた。
壁は棚やロッカーがで埋め尽くされ、部屋は雑然としている。入口対面の窓からは、傾きかけた日差しが入ってくる。
司は――結局、各組四人割り当てられた実行委員のひとりとなり、ホームルームで決定したクラスの催しと計画の申請のためにここにやってきたのだった。
「お前のクラスは何をやるんだ?」
司はドアを閉め、机左の一番奥に腰を下ろしている兄のところへプリントを差し出した。
柚真人はそれを受け取ると、黙って目を走らせる。
机の上には同じようなプリントがあって、どうやら彼は放課後、申請の整理作業をしていたようだ。
「ふうん……食品関係ね。これは……器材と予算の関係で六組枠だけど、まあ大丈夫だろ。担当は家庭科の柴木先生。調理室の使用なんかは先生と検討すること。……にしても、和菓子?」
「ああそれ。うん」
司は頷いた。
「久美ちゃんがどうしてもって……。それで決まったんだけど……」
「……ああ、お前の友達の」
「うん。えーと……それでね?」
「何?」
「兄貴、忙しいよね?」
「まあな。忙しいけど、それが何?」
「あ……それで……その……時間があったら、柚真兄に少し教えてもらいたいんだけど。お菓子のこと」
と、――久美に突きつけられた要求を、一応提案してみる。にべもなくつっぱねられるかと思ったが、予想に反して柚真人は軽く唸っただけだった。
「お前に教えればいいのか?」
「いやえっと……、実行委員だから、久美ちゃんと……」
「ふうん?」
「ほら、和菓子って難しいでしょ? ウチ、調理部いないのよ」
言い募ると、しばらく沈黙。さらに、思案の空気が漂った。嫌な間だ。
司は身構える。しかし果たして、柚真人はやれやれといった感じで――これは意外なことだった――頷いた。
「しょうがないなあ」
「え、――いいの?」
「何を教わりたいんだかわからんがな。でも学校では時間取れないぞ。日曜とかにすればいいのか?」
「うん、たぶんいいと思う」
「じゃ、日曜はあけておくことにしようか」
柚真人はそういって、プリントを机上に置いた。
その時、廊下が騒がしくなって準備室のドアが開いた。司がドアの方を見ると、数人の上級生が顔を出したところだった。
「あ、皇君の妹ちゃんだ。だよね?」
司には覚えのない生徒だったが、よくあることだ。柚真人の妹、という意味で、学内有名人なのだから。
別の男子が、柚真人に声をかける。
「集計終わったか?」
男子生徒はどうやら柚真人と同じ二年の実行委員の面々のようである。
「ほらよ皇。お前、お茶だよな」
「申請、出そろった?」
「二年三組と六組、三年五組がまだだな」
と柚真人。
二年六組は飛鳥のクラスだ。申請は今日の五時までで、まだ意見がまとまりを見ないということなのだろう。委員の一人が大仰に嘆息した。
「うおっ、橘かよ。嫌だな、またややこしいこと考えてくるぞ」
「噂では屋上に巨大迷路を作るんだとか言ってたらしいがな」
「馬っ鹿だなあいつ……」
「三-五は?」
「ああ……あそこ担任が問題なんだよな。物理の杉本。あいつ生徒と一緒になって去年も面倒なことしてたろ。女装コンテストだったっけ?」
実行委員には委員なりの問題があるらしい。上級生たちは、一介の生徒である司にはわからない事情を口々漏らしながら仕事に取りかかりはじめた。
「ごめんね皇くん。集計かわるわ」
柚真人は一時留守番といった状態だったらしい。柚真人の前に缶の飲料を置いた女生徒が申し訳なさそうに言うのを司はぼうっと眺めていた。
「かまいませんよ、大丈夫です」
「そう?」
「それより、こちら食品取扱組出そろいました。柴木先生に連絡お願い出来ます?」
「ええ、いいわよ」
戻ってきたばかりの三年生と思しき女生徒は、柚真人に連絡表を渡されると、柔らかく微笑んだ。
それを見送る柚真人も答えて微笑む。
刹那――。
なぜか、どきり、とした。
胸が痛い。ずきん、と――本当に胸が痛んだ。
――何……?
その時急に自分が感じた重い衝撃、鈍い痛みを、司は戸惑いとともに受け止める。
柚真人の穏やかな表情。
それが、司の胸に大きな楔を打ち込むみたいに、ずきん、と。
――なに……?
「……今日は、夕飯には間に合わないかもな」
ふいに柚真人が言ったので、司は顔を跳ね上げる。柚真人はうつむいたまま、机に向かって作業を続けていた。
「遅くなる。悪いけど適当に済ませてくれないか」
「……」
「司?」
「……あ、……うん」
返事を求める時でさえ、顔を上げずに。司は、その横顔を見つめていたが、我に返って頷いた。鞄を取り上げ教室を出ようと歩きだす。
「じゃあ、……先に帰るね」
彼を、教室に残して――扉を閉める。
「……っ……」
途端に――ぱたぱたと自分の双眸から涙がこぼれ落ちた。
――だ……だめ……っ。
司は、それを拭って歩きだす。
――何これ。……何これ……っ!?
何の涙か自分でもよく判らなかった。
ただ、胸が痛い。それがどうしてなのかは、わからない。淋しさと、悲しさと、喪失感がないまぜになって、喉が詰まる。
飛鳥が傍らにいなくてよかった――と、ぼんやり思った。
泣いているところなんて見られたら、たぶん、理由を追及される。白状するまでどんなことになるかわからない。
司は、走り出した。

