03
「ああー……、も、お腹いっぱい」
緊張感のかけらもない声で言って、飛鳥がごろりと寝転がった。
「緋月ちゃん、いくらなんでも作り過ぎだよオ」
「あらだって、柚真人さまがおっしゃったんですのよ、なるべく沢山って。ですから私、柚真人さまから『清火』をいただいて、それでお料理いたしましたの」
「ああ、たすかったよ緋月。ご苦労様」
「あら柚真人さま、柚真人さまのためですもの私ちっとも構いませんのよ」
「……」
やっぱりよくわかっていないのは自分だけなのだ――怪訝に思って今日の神事の事の次第を司が尋ねると、柚真人がため息をつきながら、少しばかり姿勢を正した。
「ああ、今日の『御饌神事』とはだな――」
「神棚にお供え物するでしょ。あれのことを、『御饌』っていうじゃない? 火が通っている料理なんで『熟饌』だよね。これは通常の神社では神様にお供えするんだけどさ、皇神社では死者というのはみんな黄泉の女神さまの眷属であるという考え方になっていて、でこれは黄泉の女神さまのところに還っていく死者に敬意をあらわすための神事なんだって。……よね? ご当主さま?」
「まあ、そういうことになるかな」
その傍らで、緋月がふわりと微笑んだ。
「その後で、私たち祭司がそれをいただきますのよ。それは、普通の『直会』と同じですわね。司もご存じでしょう」
「……うん」
「司ちゃん、お仕事初めてだもんね。皇の『死者祓』にはいろいろあってさ、『御饌神事』はそのうちのひとつでもあるんだ。ま、相手の出方で神事の方法が変わるんだけど。もちろんそれは、いつも柚真人が選ぶんだ」
「あたし……、もう少しあらたまった祭礼を想像してた。常衣とか、着て主催するものだと思っていたんだけど……違うのね?」
「ああ。地鎮祭みたいなやつ?」
「そういうこともありますわよね。地鎮祭も致しますし、……」
「悪霊・怨霊祓いでもあるまいに」
「……やっぱりそんなこともするのね」
「するはするよ」
「でも、柚真兄――」
少し思案してから司は言った。
「ヘンなの」
「何が?」
「あたし、さっきの女の子のオバケから何も感じられなかった。それがちょっと気になったんだけど……?」
「だから。オバケじゃないと云うのに。まあ、だから今回、特殊というのはそういうことなんだ。たいがい、残した想いを彼等は語って逝きたいわけだから、好むと好まざるとにかかわらず、それをこっちに教えようとしてくるもんだろ。おれはその辺、大変苦労している。無視して歩くのもひとかどじゃあない。ただ、そういう意味で今日の子供は、少し勝手が違ったわけだ」
「……というと?」
「意志を閉じていたんだ。人にだって、相手から想いを披かないことがあるだろう?」
「ええと。……それじゃ、……あの子供……の幽霊……」
「ちょっとかわいそうですけれどね。何も言わないのですって。司になら、解るのではありません?」
「ああ、うん――」
「調べたが、年齢も、家族も、死亡状況も、不明でね。事件が記録という形になっていないらしかった」
「――事件なの?」
「事件、だな。おれは――お前と違って対象そのものの意志からでなく、飛び散った過去の想いからそれをひろいあげてるんだか、……ま、あらましは伏せておきたい」
「……どう、して?」
「どうしても、だな」
「ふうん。……そう……」
「それに、どうしてもここから離れたくないみたいでね。こちらから出向くにしても、場所柄、儀式服で乗り込むわけにもいくまいが?」
「……そうね」
神への供物。
転じて死者への供物。
それは、現世に在る命ある生者と、そうではないものとの境を示すことを意味することになるのだろう。
その魂に。
死の意味を。
刻むことに。
その事実に肯首できぬものはその事実に抗う。
有無を言わさぬ力が。
彼の『祓詞』には込められているのだと――そういうことに、なるのだろう。
受け止める。
それだけの力があること。
それを疑わぬこと。
『祝詞』ひとつを操るにしても、その覚悟が必要なのだ。
「でも、……司ちゃんの神事正装も見たいなあ僕。きっと格好いいよう」
「そいつはどうでもいい。さ、わかったら片付けるぞ。ほら撤収撤収!」
「ああん、まってえお兄ちゃん。僕、お腹いっぱいで動けない」
飛鳥が寝転がったままだだをこねるように手足をばたばたさせる。そのようすを、困ったように緋月は眺めて肩をすくめた。
「柚真人さま、いかが致します?」
「……しょうがないな。じゃあおれは依頼主に次第の委細報告して、契約まとめてくるから。お前寝てろ」
「うあーい」
「では、少しお休みしましょうか。司も……あまり、調子がよさそうではありませんものね」
司はためらいがちに頷いた。
「あ……ねえ、柚真兄?」
立ち上がり掛けた柚真人が振り向く。
「もうひとつ、いい?」
「なんだ?」
「……なんで狐のお面なの? あの子……どうしてお面で顔を隠していたの」
柚真人は嫌な顔をした。
そうだ。
あれは、顔を隠していたのだ。
「それが、わかったのか、お前に?」
「え? うん。……なんとなく」
沈黙の後。
柚真人は言った。
「気にするな」
そして、それ以上、答えなかった。
☆
柚真人は――想いの残滓を手繰る者である。
それは、過去を垣間見るのと、少し似ている。
対する司は、死者の魂そのものを、感じ取る巫女である。
――狐面の少女が、閉じた想いを抱き続ける存在でなければ、この神事に妹を立ち会わせることなど、出来なかった。
あの少女が死んだのが、いつのことだかはよく解らない。
あの狐の面は、そもそもは何時かの何処かの夏祭りで、少女が両親に買ってもらったものだ。
まだ両親が一緒だったころ。
この遊園地にも、やっぱり両親と来た。
少女にとって、ここは楽しい思い出の残った場所なのだ。
ここはさほど古い場所ではないから、事件も――明るみに出なかっただけで、そう昔のことではないのだろう。
☆
飛鳥はほどなく寝息を立てはじめた。
「具合は如何?」
緋月が、ほとんど飛鳥が食べ散らかしたといっていいであろう食べ物などの後片付けを手早くしながら、司の顔色をうかがう。
「うん……」
手伝おうとすると、結構ですわと緋月が言った。
「幽霊とお食事なんて、びっくりいたしました?」
「え?」
「『御饌神事』」
「ああ……。あの……。ごめんね?」
「なぜですの? 司は言葉につまるとすぐそれね」
緋月が笑った。
司は、日差しを遮る枝の向こうに見える青空を眺め遣った。
この空の下で行き交う人の想い。
幾つもの波紋が空気の中、不協和音みたいに広がっていく。
そんな印象。
「司……?」
想いというのは――たぶん遠い過去から遠い未来へとぎれることなく紡がれ続けていくもので、数百年経ったら今生きている人なんてこの空の下には誰もいなくて、それでもいま生きている人の想いのかたちは遺っていく。
瞼の裏にくっきり残った、夜祭りで見たような狐の面。
紅い服。
白い幼い手。
こぼれ落ちていった涙。
それが想いの結晶のかたちであることは知っている。
――残した想い。
――伝えたい想い。
☆
それから少女の身に、なにがあったのかは、あまり思い浮かべたくはない。
霊視えた事実だけならば――。
こうだ。
――少女は、ここ――幽霊屋敷の中でその日、両親とはぐれた。
誘拐、というのだろうか。
とにかく少女は力づくでその場所から何処かへ連れ去られた。連れ去った者の目的が、身の代金目的だったのかとか、少女そのものにあったのか、などはよくわからない。だが少女の身には、とにかく筆舌に尽くしがたいことが起こって、そして少女の顔は――焼かれてしまった。
その後、少女の命が尽きるまでの間に、少女はその身を襲った衝撃から逃れるために、心を閉ざしてしまったのだ。
そのため。
対峙した少女からは、何も感じられなかった。
感じたものは、なにも無い。
少女の心の真ん中は静かな闇色で、――凪いだ水面のような印象だった。
それだけだった。
だから――。
助けてほしかったのか。
寂しかったのか。
帰りたかったのか。
少女が、本当のところ何を望んでここに居続けたのかは、よくわからない。
もしかしたら。
両親に買ってもらったお面を被って、ここで両親を待っていたのかもしれない。
ここに、迎えに来てもらえると思ったのかもしれない。
よくは、わからない。
ただ。
ここを離れたくなかった。
とにかく少女は。
離れたく、なかったのだ。
この場所を。
☆
「……柚真人さま、……あなたのことだけは本当に心配なのですわね」
「え……?」
「あなたは巫女ですものね」
「緋月ちゃん?」
司が問い返すと、緋月はにこりと微笑んで、小首を傾げた。
その小鳥みたいな愛らしい仕草は、彼女の癖だ。
「今日は、学力審査の順位を賭けて連れ出されたのですわよね」
「うん」
「成績はいかほどでしたの?」
「司ちゃんはあ、八六番でえっす。僕は二年の三七九番でしたあ」
「び……びっくしりた。飛鳥君……」
「狸寝入りでしたの?」
「飛鳥くん?」
飛鳥の返答は無い。だが、寝言だとしたら相当怖い。
司と緋月は顔を見合わせ、それからふたりして笑った。
「飛鳥さん、いくら理系狙いとはいっても、文科系科目、手を抜きすぎではありません?」
緋月が呆れたように言った。
その様子を眺めながら、司は思う。
――心配? 柚真兄が、あたしを?
どうだろう。
心配とは、きっと、違うと思う。
むしろ、それとわかるほどに優しく心配でもしてくれたなら、そんな兄なら、もしかしたら司は柚真人に恋をしなかったかもしれない。
柚真人は。
心配するより、路を示す。
そういう厳しさを、人にも己にも、強いるのだ。
かたちのないものにかたちを連想するとするならば――葦原中津国と称されるこの世には、さまざまとりどりの想いが交錯する。不協和音のような想いの波紋が、幾重にも幾重にも広がりあい、いつでも小波がさざめきあっている。
過去から未来へ。きっとそれは永劫。
生ける者の想いの波紋は、いつかきっと誰かに届いて、また誰かの波紋が返って来る。
未来絶たれた者の想いの波紋は誰にも届くことはない。だからきっと、想いが凝る。
皇の巫がその心に刻むのは、未来を喪った想いの、真ん中の凝りなのかもしれない。
受け入れる弱さではなく、受け止める強さで。
――あの――一瞬の滴の印象――。
そして不意に。
司は気づく。
――ああ、わかった……。
司が怯えるのは波紋。
柚真人が見据えるのは波紋を生むもの。
――そう……なんだ……。
皇の巫が見据えている事象。
それはきっと誰もが誰かに残して逝く想い――魂の残像。
それはきっと物事の本質にも似た全ての核――心の在処。
その先の――真実。
――お前は印象に囚われている。
司は、――彼の言葉とまなざしの厳しさを少しだけ理解した気がした。
ほんの、少しだけ。
たぶん。
彼はまた、司の手を放す。
ここまでだと、いって。
突き放す。
でも、だからこそ。
だからこそ、司は走り出すことが出来るのだ。
彼の背を追って。
心配して、甘やかしてくれれば――もしくは叱責してくれれば楽なものを、彼はそのどちらもしない。
だからこそ。
――かなわないのよね……。
と、思うのだ。
そして司は、深みに嵌まる。
――かなわないのよ……。

