勾玉遊戯:過去編1990-2000

07



 ひとけの無くなった家にひとり残った皇柚真人は、明かり取りの大きな硝子窓に向かい、リビングルームに立った。
 窓は南に向き、夏の眩しい光が部屋を満たしている。
 ――光は闇を駆逐するか。
 柚真人の答えは、否。
 だが人の裡に培われた心が、光をおそれ、光を信じる。
 ――それゆえ光は、人の心に凝った闇を、駆逐するのだ。
 柚真人は、背筋を正してすっと軽く、息を吐いた。
 迷いなくば、光も闇も関係ない。まして無邪気な、悪戯心ならば。


「さあでておいで。話をしようか――?」


 光に透ける大きな窓から。空気に滲み出すようにそれの姿が現れた。
 頼りない陽炎のように。
 幼い少年、のようだ。
「君のパパだね、湖から君を迎えに来ているのは。それにしても……少し、悪戯が過ぎたようだよ?」
 その洋館で何があって、その洋館に何が棲み、いかなる事態となったのか――それは、皇の巫にしかわからない。
 静かになった屋敷の浴室で、潔斎がわりの冷水を浴びながら、柚真人は軽く息を吐いた。
 柚真人はそれを誰にも明らかにはしないだろう。

      ☆

 少年神主から事務所に連絡が入ったのは、その日の午後。
  

 優麻の携帯電話が着信を知らせたのは、ちょうど新規の依頼人を送り出したあとだった。
 自分の机の背後の窓から、夏の夕日に暮れる街を見下ろす。
 ――『仕事』は片付いた。
 ひとこと、少年はそう言った。
「それは良かった。ご苦労様でした」
 と、優麻もひとこと、返した。
 それから、
「申し訳ありませんでした。折角の旅行中、でしたのに」
 ――お前なあ。どの面下げてそーゆーこと言うんだ? 
 柚真人の声は、困ったような、呆れたような、そんな気配を孕んでいた。
 ――こちとら最初っから休む気なんざ無かったさ。『仕事』といわれりゃ片手間だってきはぬけないが、おまけに素人連れの大所帯で、観光入って、飯の世話はしなきゃなんねえし。折角も何もあるかよ。
「……お忙しかった、ようですね?」
 ――たりめーだ。いいか、おれを抜いても七人だぞ、七人。しかもどいつもこいつも包丁持たせたら危なっかしいし、まったく見てらんないったらなかったよ。
 いったいどういう意味で苦労したというのか。少なくとも、本業で苦労したという様子はくみ取れない台詞である。
「それはそれは」
 ――ああ……それと、建築物および内装に若干の被害が出た。のち、報告書と計算書類を作成しておくが、まあその前にひとこと言っておく。何事にも、心の準備ってやつは必要だろうからな?
 優麻は小さく笑った。
「君が若干というのだから、まあ、若干なのでしょう。それで、御帰宅は明日ですか?」
 ――ああ。あしたの夕方になると思う。
「そうですか。では、お気をつけてお帰り下さい」


 携帯電話を机の上に置き、優麻は再び、窓の外へと視線を戻した。
 ――少しは――年相応の、少年らしい夏休みが送れたのだろうか。
 そんな風に、思う。
『仕事』がついてまわるのは、それは彼の宿業だし、皇の巫である以上、どうにも致し方のないところではある。しかし、それだけでは息苦しいだろう。
 彼は同時に十七歳の少年なのだから。
 先に『仕事』の話を持ち出せば、彼は『仕事』を済ませてさっさと帰ってきてしまったはずである。だから、ついでのタイミングで、柚真人に事の次第を伝えた。
 作戦は、大概うまくいったようだ。
 柚真人の機嫌は悪くなかったし、なんだかんだと文句を言うときは本人も結構楽しんでいる。苦々しい表情で――彼の場合、それは意地を張ったり素直になりきれないところがあるから、なのだろうけれど――友人や幼馴染みを怒鳴り倒し、文句を言い、それでも時には困ったような笑顔になったりしている、少年の姿は想像に難くなかった。
 いま、掌の、その指の隙間から、拾い洩らしてしまってはいけないものもあるのだ。
 それが、少しでも、あの厳しい瞳をした少年に伝わるといいのだが。
 優麻は、そう、願う。

      ☆

 ――湖にいたのは、父親だった。
 ――館にいたのは、息子だった。
 父親は、息子を殺して、――湖に身を投げた。
 事業にしくじり妻に逃げられ、貸別荘を心中の場に選んだ父。
 季節は、やはり夏。
 この館で幼い子供を殺し、一両日を息子の遺骸と供に過ごし、館で死にきれなかった父親は、息子の骸を抱いて、湖に身を投じた。父親の想いは息子の遺骸の傍らから離れられず、湖に残った。親子の死体は――今も湖に眠っている。
 幼い少年は、自らの身に、唐突に訪れた死の意味すら受け止められなかったようだ。
 生前の最期の場所となったこの館に、少年の心はつなぎ止められてしまった。
 ここに残され、少年は、ずっとずっと迎えをまっていた。いずれここにいれば、父親が迎えに来てくれるのだろうとでも、思っていたようだ。
 ただ――ひとつ困ったことに、やがて少年は、死者たる己の声が目の前にいる生者に届かぬことを知り、姿が見えぬことを悟り、そこにひとつの愉しみを見出だしたのである。
 以来少年は、この館に憑り棲みつき、訪れる人たちを驚かせては、無邪気に喜んでいた。だがいってしまえばそれだけのことに過ぎない。
 少年にしてみれば、だた退屈を紛らわせていたのだから、そのこと自体に罪はないだろう。もっとも昨夜のように、驚かされた側からすればそれではすまされない恐怖と驚愕を味わうことにはなるのだけれど、まあ大した実害はない。
 真夏の一夜の物語として語り草になるくらいのことだ。
 過ぎてしまえば思い出も夢か幻。
 父親の方はといえば、様々な心残りがあったと見える。湖に囚われていたその魂を、柚真人がここまで導いた。子は父に、父は子に、巡りて枷と名残はもはや無く。
 そして親子に行くべき黄泉路を示し、柚真人は『仕事』を終えた。
 彼らは現世を離れ、黄泉へと旅立った。
『ごめんね、お兄ちゃん。パパに逢わせてくれて、ありがとう』
 その手が、己の命を絶ったことを、彼は知っているのかそれとも理解などできぬのか。
 無邪気に笑って、父の手を取り。
 そのまま、黄泉路を逝った。
 だがその笑顔によって、父親の心に凝っていたとりどりの思いが、すみやかに溶解して昇華していったのが、巫には、霊視えた。
 そしてこの館には。
 もう――何も棲んでいない。


 時計を見ると、夕方四時を回っていた。
 バスルームで冷水を浴び、簡単な禊をした。
 それから優麻への連絡を済ませた柚真人は、なんとはなしに唇を綻ばせて、ひとり、頷いてみた。
 そろそろ風呂へ繰り出していった連中も、帰ってくる頃だろう。
 前掛をして、よし、と気合いを入れる。
 どちらかというと、こちらの方が気合いの比重が重かったりするのだけれど。
 ――料理でもして、許してもらうしかあるまい、司には。あと……他の連中は、何とかまあごまかすとして……。
 今夜はそれなりに気を抜いて、休めるはず。
 不思議な気分だった。
 ――安堵――したのか? おれは。それとも何か……楽しい? 嬉……しい?
 よくわからない。
 よくわからないから、柚真人は料理にとりかかる。


 そして――うん、と、再び、ひとり頷いた。