05
結局その日の夜も、やはり浴室は使えなくて、家全体の水回りの調子が良くなかった。
それでもとくに変わった出来事はなかったから、またしても割れてしまった浴室の電球を取り替えながら、飛鳥と柚真人は翌日仕事に取り掛かろうと算段を決めた。
「今夜、何もなければ御の字だ」
「まー、そうだね」
スイッチをぱちぱちやりながら、一応洗面台の電気だけでもきちんと点くことを確認して、飛鳥は言った。
「でもなんで水回りなんだあ?」
「うーん……」
「あ、わかってらっしゃるね? ご当主さま」
飛鳥の言葉に、答えずに柚真人は笑った。
だが、事態は深夜になって急展開の様相など呈してくれたのであった。
☆
――何か――。
不可解な音がどこかでしたな、と思った時、壁掛時計を見たら午前二時すぎだった。
なんだろう――と、片桐智弘は考える。
何の音だったろう。
その音を聞いて、目が覚めたのだ。
「……橘?」
念のため、呼んでみる。
「皇?」
地階のゲストルームで、二人の間に自分は寝ているはずなのだ。
耳を澄ましたが、寝息は聞こえなかった。さらに目を凝らしてみても、部屋は闇の中で、しかも寝ているとあっては、辺りの様子はよくわからない。
いやな感じがした。
クーラーの音。
自分の身動ぎの音。
そしてまた、その音がした。
耳に神経を集中させる。何の音か、聞き取ろうと試みる。
――これは。
ふいに気付く。
これは――足音か?
部屋の、外の、廊下から、とぎれとぎれにきこえる、足を引きずって歩くような、足音。
――う……わっ。なんだよこれ……!?
気持ちのよい音ではなかった。
いや、どちらかというと、耳障りな、肌が泡立つような、不気味な、音だ。
廊下の板床がぎしり、ぎしりと軋む音まで伝わってくる。
確かに、はっきりと。
そして――足音は、部屋の扉の前で、すっと止まった。
――な……なんだ?
片桐はいたくなるほど耳を澄まして眉根を寄せる。
――なんだよ!?
目が覚めてしまった久美は、隣に彩が眠っているのを確認して、体を起こした。
なんだか妙に喉が渇く。
――お水……。
そう思って、彩を起こさないよう、そっと部屋を出る。
廊下に出ると、踊り場からは階下が見えた。吹き抜けになった明かり取りの大きな窓から、月明りが入ってきて、部屋全体を照らしているのだ。
階段を下りて、リビングルームを通り抜け、キッチンに立つ。
その時、久美は奇妙な音を聞いた気がして、ふっと全身を堅くした。
――……なに……?
あたりに首を巡らすけれど、すぐにその音が何処から聞こえるのか悟った。
久美の、目の前――キッチンの水道のパイプの辺りだ。
ごぼごぼという、音が水道管の奥で鳴っている。
久美は、首を傾げながら、キッチンの室内灯を付けた。
部屋は明るくなったが、間違いない。変な音がしている。
――なに?
ごぼん、ごぼん、ごぼん。
何かが詰まって水が流れない――そんな音だ。
久美は、カランに手を伸ばし、ひねった。
ごぼん――。
途端、音が止んで。
一瞬の間をおいて、蛇口から水が迸る。
いや――水、ではない。
だって水ならなんでこんなに真っ赤なのだ!?
久美は一瞬息をのんだ。
心臓が止まるかと思った。
血、にしか見えない。ステンレスのシンクが、またたくまに真っ赤になってゆく。
生臭い、匂い。
鮮血が、水道から。
「あ………………っ」
直後、久美の口から悲鳴があふれた。
空調は効いているはずなのに、寝苦しくて、彩は瞼を上げた。
時間はわからないが、まだ深夜だろうと思った。
瞼が重い。どういうわけか、目を開けたくない気がした。
最初に目に入ったのは天井で、隣を見ると、久美がいない。
――……?
トイレにでも、いったのだろうか。
部屋は静かで、何も音は聞こえない。
けれど、ひどくいやな気分だった。
何処かから、何かがじっと、こちらのほうを注視しているような、そんな気がする。
もっともそんなことはありえないことだったから、彩は、気を取り直して眠ろうとした。
気にし過ぎよ。
久美や橘先輩が変な話するから。
幽霊なんて信じてないし、化け物なんて存在するはずがない。
馬鹿馬鹿しい。
きき過ぎたくらいのクーラーが涼しくて、彩は布団を被り直した。
と、その時――。
ぱたぱた、と頬に何かが滴ってきた。
――!?
驚き、体を起こして手で拭う。
すると、またぱたぱた、と何かが滴ってきた。
天井を見上げるが、暗くてよく見えない。
彩は、ベッドサイドのテーブルランプのスイッチを入れる。それから、その明かりをたよりに何かの液でぬれる手を翳し、見る。
……っ。
自分の指先が赤く濡れていた。
――血――!?
視線を、それから掛け布へ、そして天井へと、うつしてゆく。
掛け布の胸元には、やはり点々と赤い染み。
天井には――。
まるで血溜まりのような、真っ赤な染みが広がっていた。滴は、そこから滴って、彩の掛け布を汚している。
「う……うそ……っ」
彩は、驚愕のまなざしで自分の手を見た。
確かに、血がこびりついている。
ぱた、ぱた。ぱたぱた。ぱた。
天井から落ちてくる滴。
――血?
そんな――馬鹿な。
――これ、血? だよね……?
いや――。
そんなことがあるはずない。
「う……うそ……っ」
自分の口が、震える声を紡ぐ。
「いや……っ」
ぱたた、ぱたた。
赤い滴がしたたり落ちてくる。
どんどんと染みが広がる。
声が出ない。
固唾を飲んでただ呆然と、それを見ている。
悲鳴が聞こえたのは――その時だった。
「――きゃあああああ――――!
☆
自分のものではない悲鳴を聞いて、彩はふっと正気に返った。
――久美?!
隣に寝ていなかった、久美の声だ。
彩は飛び起き、部屋を出た。
「いやあああ、やああっ!」
キッチンのシンクのところで、久美は蹲っていた。
彩が駆け寄ったとき、階段から司と緋月も下りてくる。
「どうかなさいまして!?」
「彩ちゃん、久美ちゃんどうしたの?」
ダイニングの向こうからは、柚真人と飛鳥、それに片桐が顔を出す。
「なによ、水、だしっ放しで……」
「だ、だって彩ちゃん、水道から、血が……」
久美は、うずくまったまま、顔を上げずにそう言った。
「なにいってるのよ、ただの水よ?」
「嘘お……っ」
「本当よ?」
片桐と飛鳥が、目をこすりながらキッチンまでやってきた。その後ろに柚真人が続く。
「……ああ。びっくりしたあ。何、山野さん、どしたの?」
「す、水道。変な音がして、血が……」
かくして七人は深夜のダイニングに集まり、司が階下のすべての部屋の室内灯を点けた。
「……なあ、やっぱここ何か『出る』んじゃない? おれも、さっき目が覚めて……そこのさ」
片桐は、振り返って、一階ゲストルーム前の廊下を肩越しに示した。
「あの廊下、誰かが歩いてたんだよな。……そんな音がした。気味悪かったよ」
「……そうだわ。私の部屋もおかしいのよ、天井に真っ赤な染みが広がってて……」
そこまで言って、彩は気が付いた。血、のようなもので汚れていたはずの指が。
言葉を飲み込む彩と久美。
夜の中で、沈黙が重く澱んだ。
「ちょっと、彩ちゃんも久美ちゃんも冗談やめてよ」
「だいじょうぶですわ、司。落ち着いて」
緋月は司をなだめるように肩に手を添えた。
「わたくしも柚真人さまもいるのだから、大丈夫よ」
「僕はあ、緋月ちゃん」
「柚真人さまの付録」
「ひど……」
「そーいえば橘、皇、何も感じなかったのか? まがりなりにも神社の跡取りだろ?」
片桐に問われ、二人は顔を見合わせた。
そして、――しれっとうぞぶく。
「別に?」
「何にも?」
「おれにいわれてもねえ。知らないよ」
「……どうなってるのよ、この家……」
「あ、じゃあ僕と一緒に寝る? 司ちゃん?」
「橘……」
「怖いよう、本当に血だったんだよお。こーちゃん、彩ちゃあん」
「うーん……。そうなるとおれもちょっとばかり怖いかな。……信じてなかったんだけどなあ、『お化け』とか」
一同は――多少の例外を除くことは勿論として、蒼い顔で煮詰まってしまった。
それを見渡し、ふむ、と飛鳥は少し思案する。
「じゃあ、こうしよう。僕は電気点けてリビングで寝る。寝室のドアは、上も下も開けておく。女の子たちは、ひとつの部屋に固まったらどう? ひとつベッドに二人寝られるでしょ? 電気はつけたままで。ね?」
「……おれも橘とリビングで寝る……」
「一緒に寝るなら僕より神主さんの方が心強くなあい?」
「……それも……そうか……。な? 皇?」
「……好きにするといい。でもおれはベッドで寝たいよ、床の上はごめんだね」
そんなわけで――結局、飛鳥の提案通りのかたちで、七人は朝を待つことになった。
結局その日の夜も、やはり浴室は使えなくて、家全体の水回りの調子が良くなかった。
それでもとくに変わった出来事はなかったから、またしても割れてしまった浴室の電球を取り替えながら、飛鳥と柚真人は翌日仕事に取り掛かろうと算段を決めた。
「今夜、何もなければ御の字だ」
「まー、そうだね」
スイッチをぱちぱちやりながら、一応洗面台の電気だけでもきちんと点くことを確認して、飛鳥は言った。
「でもなんで水回りなんだあ?」
「うーん……」
「あ、わかってらっしゃるね? ご当主さま」
飛鳥の言葉に、答えずに柚真人は笑った。
だが、事態は深夜になって急展開の様相など呈してくれたのであった。
☆
――何か――。
不可解な音がどこかでしたな、と思った時、壁掛時計を見たら午前二時すぎだった。
なんだろう――と、片桐智弘は考える。
何の音だったろう。
その音を聞いて、目が覚めたのだ。
「……橘?」
念のため、呼んでみる。
「皇?」
地階のゲストルームで、二人の間に自分は寝ているはずなのだ。
耳を澄ましたが、寝息は聞こえなかった。さらに目を凝らしてみても、部屋は闇の中で、しかも寝ているとあっては、辺りの様子はよくわからない。
いやな感じがした。
クーラーの音。
自分の身動ぎの音。
そしてまた、その音がした。
耳に神経を集中させる。何の音か、聞き取ろうと試みる。
――これは。
ふいに気付く。
これは――足音か?
部屋の、外の、廊下から、とぎれとぎれにきこえる、足を引きずって歩くような、足音。
――う……わっ。なんだよこれ……!?
気持ちのよい音ではなかった。
いや、どちらかというと、耳障りな、肌が泡立つような、不気味な、音だ。
廊下の板床がぎしり、ぎしりと軋む音まで伝わってくる。
確かに、はっきりと。
そして――足音は、部屋の扉の前で、すっと止まった。
――な……なんだ?
片桐はいたくなるほど耳を澄まして眉根を寄せる。
――なんだよ!?
目が覚めてしまった久美は、隣に彩が眠っているのを確認して、体を起こした。
なんだか妙に喉が渇く。
――お水……。
そう思って、彩を起こさないよう、そっと部屋を出る。
廊下に出ると、踊り場からは階下が見えた。吹き抜けになった明かり取りの大きな窓から、月明りが入ってきて、部屋全体を照らしているのだ。
階段を下りて、リビングルームを通り抜け、キッチンに立つ。
その時、久美は奇妙な音を聞いた気がして、ふっと全身を堅くした。
――……なに……?
あたりに首を巡らすけれど、すぐにその音が何処から聞こえるのか悟った。
久美の、目の前――キッチンの水道のパイプの辺りだ。
ごぼごぼという、音が水道管の奥で鳴っている。
久美は、首を傾げながら、キッチンの室内灯を付けた。
部屋は明るくなったが、間違いない。変な音がしている。
――なに?
ごぼん、ごぼん、ごぼん。
何かが詰まって水が流れない――そんな音だ。
久美は、カランに手を伸ばし、ひねった。
ごぼん――。
途端、音が止んで。
一瞬の間をおいて、蛇口から水が迸る。
いや――水、ではない。
だって水ならなんでこんなに真っ赤なのだ!?
久美は一瞬息をのんだ。
心臓が止まるかと思った。
血、にしか見えない。ステンレスのシンクが、またたくまに真っ赤になってゆく。
生臭い、匂い。
鮮血が、水道から。
「あ………………っ」
直後、久美の口から悲鳴があふれた。
空調は効いているはずなのに、寝苦しくて、彩は瞼を上げた。
時間はわからないが、まだ深夜だろうと思った。
瞼が重い。どういうわけか、目を開けたくない気がした。
最初に目に入ったのは天井で、隣を見ると、久美がいない。
――……?
トイレにでも、いったのだろうか。
部屋は静かで、何も音は聞こえない。
けれど、ひどくいやな気分だった。
何処かから、何かがじっと、こちらのほうを注視しているような、そんな気がする。
もっともそんなことはありえないことだったから、彩は、気を取り直して眠ろうとした。
気にし過ぎよ。
久美や橘先輩が変な話するから。
幽霊なんて信じてないし、化け物なんて存在するはずがない。
馬鹿馬鹿しい。
きき過ぎたくらいのクーラーが涼しくて、彩は布団を被り直した。
と、その時――。
ぱたぱた、と頬に何かが滴ってきた。
――!?
驚き、体を起こして手で拭う。
すると、またぱたぱた、と何かが滴ってきた。
天井を見上げるが、暗くてよく見えない。
彩は、ベッドサイドのテーブルランプのスイッチを入れる。それから、その明かりをたよりに何かの液でぬれる手を翳し、見る。
……っ。
自分の指先が赤く濡れていた。
――血――!?
視線を、それから掛け布へ、そして天井へと、うつしてゆく。
掛け布の胸元には、やはり点々と赤い染み。
天井には――。
まるで血溜まりのような、真っ赤な染みが広がっていた。滴は、そこから滴って、彩の掛け布を汚している。
「う……うそ……っ」
彩は、驚愕のまなざしで自分の手を見た。
確かに、血がこびりついている。
ぱた、ぱた。ぱたぱた。ぱた。
天井から落ちてくる滴。
――血?
そんな――馬鹿な。
――これ、血? だよね……?
いや――。
そんなことがあるはずない。
「う……うそ……っ」
自分の口が、震える声を紡ぐ。
「いや……っ」
ぱたた、ぱたた。
赤い滴がしたたり落ちてくる。
どんどんと染みが広がる。
声が出ない。
固唾を飲んでただ呆然と、それを見ている。
悲鳴が聞こえたのは――その時だった。
「――きゃあああああ――――!
☆
自分のものではない悲鳴を聞いて、彩はふっと正気に返った。
――久美?!
隣に寝ていなかった、久美の声だ。
彩は飛び起き、部屋を出た。
「いやあああ、やああっ!」
キッチンのシンクのところで、久美は蹲っていた。
彩が駆け寄ったとき、階段から司と緋月も下りてくる。
「どうかなさいまして!?」
「彩ちゃん、久美ちゃんどうしたの?」
ダイニングの向こうからは、柚真人と飛鳥、それに片桐が顔を出す。
「なによ、水、だしっ放しで……」
「だ、だって彩ちゃん、水道から、血が……」
久美は、うずくまったまま、顔を上げずにそう言った。
「なにいってるのよ、ただの水よ?」
「嘘お……っ」
「本当よ?」
片桐と飛鳥が、目をこすりながらキッチンまでやってきた。その後ろに柚真人が続く。
「……ああ。びっくりしたあ。何、山野さん、どしたの?」
「す、水道。変な音がして、血が……」
かくして七人は深夜のダイニングに集まり、司が階下のすべての部屋の室内灯を点けた。
「……なあ、やっぱここ何か『出る』んじゃない? おれも、さっき目が覚めて……そこのさ」
片桐は、振り返って、一階ゲストルーム前の廊下を肩越しに示した。
「あの廊下、誰かが歩いてたんだよな。……そんな音がした。気味悪かったよ」
「……そうだわ。私の部屋もおかしいのよ、天井に真っ赤な染みが広がってて……」
そこまで言って、彩は気が付いた。血、のようなもので汚れていたはずの指が。
言葉を飲み込む彩と久美。
夜の中で、沈黙が重く澱んだ。
「ちょっと、彩ちゃんも久美ちゃんも冗談やめてよ」
「だいじょうぶですわ、司。落ち着いて」
緋月は司をなだめるように肩に手を添えた。
「わたくしも柚真人さまもいるのだから、大丈夫よ」
「僕はあ、緋月ちゃん」
「柚真人さまの付録」
「ひど……」
「そーいえば橘、皇、何も感じなかったのか? まがりなりにも神社の跡取りだろ?」
片桐に問われ、二人は顔を見合わせた。
そして、――しれっとうぞぶく。
「別に?」
「何にも?」
「おれにいわれてもねえ。知らないよ」
「……どうなってるのよ、この家……」
「あ、じゃあ僕と一緒に寝る? 司ちゃん?」
「橘……」
「怖いよう、本当に血だったんだよお。こーちゃん、彩ちゃあん」
「うーん……。そうなるとおれもちょっとばかり怖いかな。……信じてなかったんだけどなあ、『お化け』とか」
一同は――多少の例外を除くことは勿論として、蒼い顔で煮詰まってしまった。
それを見渡し、ふむ、と飛鳥は少し思案する。
「じゃあ、こうしよう。僕は電気点けてリビングで寝る。寝室のドアは、上も下も開けておく。女の子たちは、ひとつの部屋に固まったらどう? ひとつベッドに二人寝られるでしょ? 電気はつけたままで。ね?」
「……おれも橘とリビングで寝る……」
「一緒に寝るなら僕より神主さんの方が心強くなあい?」
「……それも……そうか……。な? 皇?」
「……好きにするといい。でもおれはベッドで寝たいよ、床の上はごめんだね」
そんなわけで――結局、飛鳥の提案通りのかたちで、七人は朝を待つことになった。

