04
この洋館には幽霊がいる、いない、の話題で、朝もはよからひとしきり大騒ぎしたのち、遅い朝食を済ませ、本日一行は湖にやってきた。
別荘地からほど近い、さほど大きくない湖だ。
けれども有名観光地なので、湖畔には小綺麗なホテルやペンションが建ち並び、様々な売店もあった。夏空はひときわよく晴れ渡り、人の出足もけっこうなものである。
陽射は強い。けれども緑濃い山の空気のせいか、風は涼しい。
建物を出てしまえば陰鬱な話題はそれきり。道すがら、話題はいかに休暇を遊び倒すかということの方に主眼がおかれ、観光地に来たらそれらしいレジャーに精を出そうということで、湖行きが決まった。
そして、湖にはちょっとした遊覧船やボートもあったが、結局一行は、湖を周回できる遊歩道を歩くことにした。
☆
清涼な、真夏の緑の満ちる湖だった。
水は、辺りの林を空の色を映して碧く澄んでいる。
石畳の敷き詰められた遊歩道は、梢の陰になって、暑さも和らいでいる。まったりと歩くには、いい。湖側には木のてすりがあり、覗き込むと透明な小波の下に、魚の姿が見えた。
司、彩、久美、がひとかたまりになって先を歩き、そのあとに、片桐と柚真人が続く。緋月は、一番後ろをゆるゆると歩きながら、そっと飛鳥を呼び止めた。
「飛鳥さん、気がついてますわよね?」
振り返り、飛鳥は緋月に応えた。軽く、目配せとともに頷く。
「もちろん」
それから、緋月は、足を速めて飛鳥と肩を並べた。歩調を合わせて歩きだしながら、ひとり、首を傾げる。
「どうかした? それが?」
「いえ……今朝、柚真人さまからお話をうかがって思ったのですけれど……司は、どうして平気なんですの? 昨夜も何も異常がなかったみたいですけれど……」
「旅行はいっつも護符もち。知らなかった? 司ちゃんってあれでかなりハイスペックなところあるからね。柚真人のやつ、気を使ってるよ」
緋月は、飛鳥の耳に唇を寄せて囁いた。
「まあ……。そうですの……」
「そおなんですのよ」
緋月の口振りを真似て、飛鳥は笑んだ。
ふたりはそれとなく――誰もいないはずの、背後に、ちらりと視線を送る。
背後には、歩いてきた石畳の遊歩道、穏やかな水と緑の景色が広がっている。
だが飛鳥と緋月の瞳は、そこにあるはずのないものを見ていた。
鮮やかな天然色の風景の中を、灰色の男が歩いている――その姿を。
それが生きた観光客の姿などではないことは、わかる。
否。それは実際目に見えるものではないのだろう。
だが、飛鳥と緋月――皇の者には、その姿が色を失った残像のように捕らえられた。漂い彷徨う魂の残滓、あるいは死者の姿だ。
死者――灰色の男は、うつむいて肩を落として足下を見つめながら歩いており、そのせいで顔などが良く見えなかった。ただ一定の距離をおいて、漂うように、ひたひたとついてくる。二人は、ひやりとした冷気にも似た、湿り気を帯びた気配を背中に感じていた。
灰色の男は、確かに自分達のあとを、鬱々とついてきている。
何をするでもない。
何を伝えるでもない。
だが、――ついてきている。
緋月はそれに、視線を向けていたのだ――時折。
「先刻からわたくしたちのあとをついていらしてる『方』は、……あの別荘と関係がありますのかしら?」
「さあねえ。……御当主様が気がついてないはずないから……。なんとかするでしょ」
のんびりと飛鳥は言う。柚真人が何も言わない以上、手出しはできないのだ。
それは、緋月にしても同じこと。
「……緋月ちゃん? 僕らは、夏休みで遊びにきてるんだよね?」
「それはそうですけれど……」
「ならそれでいいんじゃない? 『仕事』に絡むなら柚真人がなんとかするだろうし。そう言ってたでしょ?」
「……そう、ですわね」
「もっとも。別荘に僕らが宿泊している以上、実害は被ることになるだろうけどね?」
「……飛鳥さん……。愉しんでいますでしょう?」
「あ、わかる?」
「相変わらず不謹慎な方。まったく!」
背後に気配だけを、確かに感じながら、飛鳥は緋月に笑って見せた。
☆
それから一時間ほどして、湖を半周したあたりで湖畔の公園に出た。比較的新しく小綺麗な様子からして、観光客用に最近しつらえられたものだろう。売店や、休憩用のベンチなどがみうけられるが、そのまわりはまったくの原生林。
緑生い茂る木々が太陽を遮り、かなり涼しい。
――真夏の首都の灼けつく街に比べれば。
そこで休憩をとることにした時、時間は午後一時をまわったところだった。
飛鳥と片桐は、空腹を訴えて食糧調達のため売店へと突進。
それを笑って見送って、――司は、公園前の遊歩道の手摺にもたれ、湖を眺めていた。
――護符をあげるよ、司。
一番最初にそう言って、お守りをもらったのは。
旅行先で具合が悪くなることががあると、兄に訴えてからだった。
以来、旅行などで知らない土地へ長期間滞在することになるときは、きまっていつも、兄が護符をくれている。
それ以上何も言わなくても、風邪薬などよりも護符が必要なのだと――そうでないと、司が大変なことになってしまって、旅行どころではなくなってしまうのだと――兄は、知っているのだ。
知っているけれど、何も言わない。
「……」
司は嘆息する。
池や、湖、沼はなかでもとくに嫌いだった。
この間も、そうだったけれど――。
流れ無き水の溜まる場所、その水辺は死者の魂が集まるものだ。それに、不特定多数の人間が入れ替わり立ち代わり利用する貸別荘なども、あまり気持のいいものではない。憂鬱でないといえば嘘になるだろう。
苦手だ。
護符として兄が手渡してくれる皇神社の神札。
――だけど……。
司は思う。
本当は、柚真人がいれば護符など必要ないのかもしれない。柚真人がそばにいない時にこそ、護符は必要なのだという気がする。
今回の夏休みの旅行は柚真人が一緒で――これは初めての経験だっだが、だからこそそう思えたのかもしれない。
たぶん、それは、『皇柚真人』という存在に対する絶対の信頼感や安堵に由来する現象なのだ。
結局、司が依存しているのは、『お守り』ではないということになる。司はたぶん『柚真人』を信じているのだ。彼の力、彼の強さ、彼が守ってくれるということを。
結局なにもかも――滑稽なくらい己の心ひとつが、左右していることにすぎない。
それが何だか癪だった。
どうして癪なのかは、自分でもよくわからないが――。
「……馬鹿柚真人……」
太陽の光を映す水面のゆらめきを覗き込んで、なんとなく悔しくて、呟く。
その水面に映る自分の姿の隣に、人影が現れたのはその時。
「……司? 大丈夫か?」
そんなことをいって、ふいに司の傍らに立ったのは、柚真人だ。
意外だったから少しだけ驚いて、司は兄を見返った。
「柚真兄…」
「お前、こういう水辺嫌いだろう? 気分は?」
「……平気。水は……やっぱり苦手だけど。いまは大丈夫」
「そうか」
柚真人は安堵したように頷いた。こういうとき、いちおうは心配してくれるのだ。
「まあ……おれだって好きじゃないよ」
「あのさ。全然そうは見えないよ? 柚真兄は無敵じゃない。苦手なもの、なんて、どうせなんにも無いんでしょ」
「そいつはひどいな」
「そう?」
「それは正当な評価じゃないね。『無敵』と己を信じる気持が大事なんだよ」
「柚真兄っていつでも呆れるくらい向かう気充分だよね。喧嘩上等だし」
「確かに……そうだね。受け身ではない」
柚真人は、手摺に背を預けてあっさりと頷いた。
そのままふたりは、言葉がなくてなんとなく空を見る。傍らの司は、揺れる水面を。
司は、ゆらめく光に瞳を細めた。
淋しいほどに凛然と孤独な。
いちめんの雪原、氷の原野を思わせる――皇の巫の、切なき孤高のその姿を念う。
「……柚真人……」
「……?」
「あー……」
「なんだよ?」
「あのさ。えっと……いつも護符、ありがと」
司にとってそれは紙切れに記された文字や、呪いの力ではない。眼裏に念う、皇の巫の、姿こそが、――真に司の護符となるのだ。
――かなり重傷。
司はうつむいて唇を噛んだ。
その事実が、なんだか本当に、癪だった。
「ねえ、暁さん? 橘のやつって、やっぱ本気、なんだよね?」
唐突に言われて、緋月は返答に困った。
炭酸飲料を片手にそんなことをいったのは片桐で、視線の先には司の友人たちとはしゃいでいる橘飛鳥の姿が、ある。
片桐は、緋月が座っている木陰のベンチに腰をおろした。
「隣、いいよね?」
「ええ、かまいませんわ」
「……でさ。暁さん、橘のこと、どう思う?」
「……それ……、ええと……。司のこと、ですわよね?」
「そうそう。あいつ、ことあるごとにアレでしょ。実際、どうなのかなっと思って」
「……返答いたしかねますわ。飛鳥さんの個人的な事情には」
緋月は、やんわりと苦笑してそう返した。
「そう。まあ、いいんだけど……でもほら。見て見て。あいつ、いまでも時々目が泳いでるだろ? 皇の妹の方、気にしてる。見てるとわかるんだよな」
片桐は、緋月の方を見て、にっとほくそ笑んだ。
飛鳥や柚真人とはまた違った雰囲気の少年だと、緋月は思った。天然だろうか、さらさらした茶色がかっている色の薄い髪が、綺麗だ。そのせいか、全体的に明るい印象を受ける。
「あれでさ、なかなか本音が読めないところあるから、面白いなあと思うんだ。普段の橘のイメージってポーカーフェイスって感じでさ。なんか、弱点発見て感じ。絶対、本気だよね」
「あら……飛鳥さんて、意外と物事ごまかせない方なんですのよ」
緋月は――諦めの色濃く、言った。
「え、そう?」
「ええ。正直すぎるくらい。始終元気なのは天然で、ポーカーフェイスとは程遠いですわね。それならば柚真人さまの方が完璧。……飛鳥さんは……嘘がつけません。本当に、いつでも何に対しても本気で、疲れるくらい真っ直ぐなんですのよ……」
そこでひとつ嘆息をついて言葉を切る。姿勢を正して、緋月は続けた。
「あの方には力の配分という考えがなくて、いつでも、あらゆるものに対して、百の気構えなんですの。五分五分に力を分散するとか余力を残すということはしないというよりできませんの。もとが十なら二十に、百なら二百に。そういう、方なんです。例えば……いま。司のことも気になるけれど、女の子相手となれば、誰でも分け隔てないでしょう? 女の子はみんな好きだって、飛鳥さん、いつもおっしゃいますもの」
片桐はそれを聞いて笑った。橘らしい、と思う。
「へえ。なるほど。……それにしたって、本気なら本気で、態度あからさまなんだよなあ、橘。あれじゃあ、本気は伝わりにくいと思わない? まるで冗談だもんな。時と場所を選ばないやりくちは。一体、結局どうしたいのかな、橘のやつ」
「……たぶんそれも性格、ですわ。飛鳥さんの」
「だろうなあ……」
片桐が頷く。
緋月は、そういいながらも――ふと考えた。
――あれでは本気は伝わりにくいと思わない?
もっともな話だ。
飛鳥がどれほど司に対して本気であるか、緋月はよく知っているつもりだ。
ならば飛鳥の行動には、どんな意味があるのか?
伝えたいのは、司じゃ――ない?
司への想いを、誰に伝えようというのか?
あからさま――なればあれは、司に対してではなく――?
誰かに対して。
司ではない、他の誰かに対して。
――牽制、を?
緋月は、ふっと視線を流した。
その先には司と――柚真人。
飛鳥が牽制を向ける相手として考えられ得るのは、たったひとりしかいない。
それは――それは――。
――ま。――まさか。
緋月は、いま自分の脳裏をよぎった考えを自分自身で一蹴した。
それは――いくらなんでもそれは、突飛だ。飛躍しすぎている。
いや、飛躍とかそういう問題ではなくて。
ありえないことであるはずだ。馬鹿馬鹿しい――。
「……暁、さん?」
――そんな……そんなことは……。
けれど。でも。
絶無であると、言い切れない自分がいること、に気づく。
それを疑った瞬間が、ないとは言い切れない自分が。
そう。
たとえば彼のまなざしをみた時に。
確かに感じた不安と疑念は。
自分にその可能性を示唆したのではなかったか。
いたたまれず、緋月は、その両の拳を膝の上で握り締める。
――まさか……。そんなことが……。
「どうかした?」
片桐の言葉に、首を振る。
「い……いいえ。なんでもありません」
胸の奥で心臓が、痛みに似た鼓動を刻みはじめていた。
「なん、でも……」
――そうですわよ。いくらなんでも、そんなことが……あるはず……ありませんわよ……。
一方――司の友人たち――彩と久美に、飛鳥は質問責めにされている。
「橘先輩と皇先輩って、イトコのわりに、似てませんよねえ?」
「それは言えるわね。でも、皇先輩と妹の皇ちゃんも似てないと思うわ。皇ちゃんも充分綺麗な顔立ちだけれど、皇先輩のあの美貌って、ちょっと異様ね」
二人に言われて、飛鳥は肩をすくめた。
その意見には異議もない。柚真人の要望に関しては、単純にひとことでいうなら美貌としか形容の仕様がないのだから。
「柚真人と僕の違いって、一番は、目なのね。あいつは鋭い一重でしょ。僕は重たい二重。それで印象が変わるみたい。まあ、僕は髪も長いし茶色いし……。それに柚真人のあの特別仕様のカオはね、まああれは遺伝子の偶然の産物ってことでね」
「言われてみると確かに目の印象が違うかも。皇ちゃんも二重まぶたよね」
「でしょ? 緋月ちゃんと柚真人の方が、似てるよね? どっちも美人サンでしょ?」
彩と久美はその言葉に笑った。
「美人! 確かに、皇先輩は美人ですう。緋ぃちゃんも」
「でも、皇先輩が意外と話しやすい人だったのに驚いたわね。もっとカタい雰囲気の人だと思ってた」
「柚真人が?」
意外そうな飛鳥に、彩がうなずく。
「ええ。まあ男でも女でも、綺麗な人ってそういう雰囲気あるんだけど……。うちの部活の部長なんかもそうね。背も高くて美人だけど、ちょっと近寄りがたいの」
「そりゃあ、『接客商売』に年期が入ってるからね。僕らは」
そういって飛鳥が胸をはったので、彩と久美は顔を見合わせた。
「ああ……、そうね。神社さんって、実際は年中、結構人が出入りするんでしょうね?」
「そう。お守りに御札、破魔矢とかの売店もあるし。ちゃんとした商売なのよ」
「じゃあ、皇先輩って本当に本物の『神主さん』なわけですか?」
「まあ。何だとおもってたのよ、君達。そうだよ? 普段はね、白衣に浅葱の袴はいて、竹箒で境内のお掃除。土日なんかはね」
飛鳥は、そういって箒を持つしぐさをしてみせた。
「へえ。本当の本当なんだ。でも神主って……高校生でもなれるんですか?」
彩が怪訝な顔で首を傾げるので、飛鳥は首を捻る。
「さあ? どうなんだろ。まあうちの神社は事情があって、ちょっとかわってるかもね」
「あら。大変なんですね」
「ぼくらイトコはそうでもないけど、柚真人はね。あ、でも僕らだって駆り出されることはあるよ? 年末年始なんか特に大変でさあ」
「じゃあ、今年、初詣に行ってもいいですかあ?」
「ちょっと。いっとくけども、あたしを付き合わせないでよ。久美」
「もお。彩ちゃん、薄情!」
彩は、からかうように、鼻を鳴らした。軽く、久美の額を小突く。
「歓迎歓迎。年末年始は僕も、それから司ちゃんと緋月ちゃんも神職さんの衣装を着て、頑張ってるからね。ぜひ、働く勇姿を見にきてやって」
「ずいぶんと愉快なお話しをしてるじゃないか? 飛鳥くん」
飛鳥が言った時、背後から柚真人があらわれ、飛鳥の首に手を回した。
「いやあ。司ちゃんのお友達を、初詣に御招待しようと思って」
「この暑い季節に、涼しい話だな」
にこやかに、柚真人は言い、飛鳥の首に回した腕に力を込める。
「あら柚真人クン、ちょっと、苦しいわっ」
「気の早い話で結構なことだけど飛鳥クン。それじゃあ、今年の年末と来年の年始ははさぞかし働いてくれるんだよね?」
「えー、あー、そりゃあ、もう。宮司さま」
「毎年毎年一番忙しい時間には、社務所で寝てたり逃げたりするのに?」
「あれえ? そうでしたっけ?」
「お前ときたら、正月早々ウチに転がり込んでは食っちゃ寝食っちゃ寝。おれは今、確かに聞いたよ。今年は絶対に逃がさないからな?」
「だあって、柚真人君のお節料理、とおっても美味しいんだもん」
「褒めてくれても駄目だ」
「いやだなあ。柚真人クン、目が怖いわよう」
彩と久美は、また顔を見合わせ、じゃれ合う二人を見て、笑った。
この洋館には幽霊がいる、いない、の話題で、朝もはよからひとしきり大騒ぎしたのち、遅い朝食を済ませ、本日一行は湖にやってきた。
別荘地からほど近い、さほど大きくない湖だ。
けれども有名観光地なので、湖畔には小綺麗なホテルやペンションが建ち並び、様々な売店もあった。夏空はひときわよく晴れ渡り、人の出足もけっこうなものである。
陽射は強い。けれども緑濃い山の空気のせいか、風は涼しい。
建物を出てしまえば陰鬱な話題はそれきり。道すがら、話題はいかに休暇を遊び倒すかということの方に主眼がおかれ、観光地に来たらそれらしいレジャーに精を出そうということで、湖行きが決まった。
そして、湖にはちょっとした遊覧船やボートもあったが、結局一行は、湖を周回できる遊歩道を歩くことにした。
☆
清涼な、真夏の緑の満ちる湖だった。
水は、辺りの林を空の色を映して碧く澄んでいる。
石畳の敷き詰められた遊歩道は、梢の陰になって、暑さも和らいでいる。まったりと歩くには、いい。湖側には木のてすりがあり、覗き込むと透明な小波の下に、魚の姿が見えた。
司、彩、久美、がひとかたまりになって先を歩き、そのあとに、片桐と柚真人が続く。緋月は、一番後ろをゆるゆると歩きながら、そっと飛鳥を呼び止めた。
「飛鳥さん、気がついてますわよね?」
振り返り、飛鳥は緋月に応えた。軽く、目配せとともに頷く。
「もちろん」
それから、緋月は、足を速めて飛鳥と肩を並べた。歩調を合わせて歩きだしながら、ひとり、首を傾げる。
「どうかした? それが?」
「いえ……今朝、柚真人さまからお話をうかがって思ったのですけれど……司は、どうして平気なんですの? 昨夜も何も異常がなかったみたいですけれど……」
「旅行はいっつも護符もち。知らなかった? 司ちゃんってあれでかなりハイスペックなところあるからね。柚真人のやつ、気を使ってるよ」
緋月は、飛鳥の耳に唇を寄せて囁いた。
「まあ……。そうですの……」
「そおなんですのよ」
緋月の口振りを真似て、飛鳥は笑んだ。
ふたりはそれとなく――誰もいないはずの、背後に、ちらりと視線を送る。
背後には、歩いてきた石畳の遊歩道、穏やかな水と緑の景色が広がっている。
だが飛鳥と緋月の瞳は、そこにあるはずのないものを見ていた。
鮮やかな天然色の風景の中を、灰色の男が歩いている――その姿を。
それが生きた観光客の姿などではないことは、わかる。
否。それは実際目に見えるものではないのだろう。
だが、飛鳥と緋月――皇の者には、その姿が色を失った残像のように捕らえられた。漂い彷徨う魂の残滓、あるいは死者の姿だ。
死者――灰色の男は、うつむいて肩を落として足下を見つめながら歩いており、そのせいで顔などが良く見えなかった。ただ一定の距離をおいて、漂うように、ひたひたとついてくる。二人は、ひやりとした冷気にも似た、湿り気を帯びた気配を背中に感じていた。
灰色の男は、確かに自分達のあとを、鬱々とついてきている。
何をするでもない。
何を伝えるでもない。
だが、――ついてきている。
緋月はそれに、視線を向けていたのだ――時折。
「先刻からわたくしたちのあとをついていらしてる『方』は、……あの別荘と関係がありますのかしら?」
「さあねえ。……御当主様が気がついてないはずないから……。なんとかするでしょ」
のんびりと飛鳥は言う。柚真人が何も言わない以上、手出しはできないのだ。
それは、緋月にしても同じこと。
「……緋月ちゃん? 僕らは、夏休みで遊びにきてるんだよね?」
「それはそうですけれど……」
「ならそれでいいんじゃない? 『仕事』に絡むなら柚真人がなんとかするだろうし。そう言ってたでしょ?」
「……そう、ですわね」
「もっとも。別荘に僕らが宿泊している以上、実害は被ることになるだろうけどね?」
「……飛鳥さん……。愉しんでいますでしょう?」
「あ、わかる?」
「相変わらず不謹慎な方。まったく!」
背後に気配だけを、確かに感じながら、飛鳥は緋月に笑って見せた。
☆
それから一時間ほどして、湖を半周したあたりで湖畔の公園に出た。比較的新しく小綺麗な様子からして、観光客用に最近しつらえられたものだろう。売店や、休憩用のベンチなどがみうけられるが、そのまわりはまったくの原生林。
緑生い茂る木々が太陽を遮り、かなり涼しい。
――真夏の首都の灼けつく街に比べれば。
そこで休憩をとることにした時、時間は午後一時をまわったところだった。
飛鳥と片桐は、空腹を訴えて食糧調達のため売店へと突進。
それを笑って見送って、――司は、公園前の遊歩道の手摺にもたれ、湖を眺めていた。
――護符をあげるよ、司。
一番最初にそう言って、お守りをもらったのは。
旅行先で具合が悪くなることががあると、兄に訴えてからだった。
以来、旅行などで知らない土地へ長期間滞在することになるときは、きまっていつも、兄が護符をくれている。
それ以上何も言わなくても、風邪薬などよりも護符が必要なのだと――そうでないと、司が大変なことになってしまって、旅行どころではなくなってしまうのだと――兄は、知っているのだ。
知っているけれど、何も言わない。
「……」
司は嘆息する。
池や、湖、沼はなかでもとくに嫌いだった。
この間も、そうだったけれど――。
流れ無き水の溜まる場所、その水辺は死者の魂が集まるものだ。それに、不特定多数の人間が入れ替わり立ち代わり利用する貸別荘なども、あまり気持のいいものではない。憂鬱でないといえば嘘になるだろう。
苦手だ。
護符として兄が手渡してくれる皇神社の神札。
――だけど……。
司は思う。
本当は、柚真人がいれば護符など必要ないのかもしれない。柚真人がそばにいない時にこそ、護符は必要なのだという気がする。
今回の夏休みの旅行は柚真人が一緒で――これは初めての経験だっだが、だからこそそう思えたのかもしれない。
たぶん、それは、『皇柚真人』という存在に対する絶対の信頼感や安堵に由来する現象なのだ。
結局、司が依存しているのは、『お守り』ではないということになる。司はたぶん『柚真人』を信じているのだ。彼の力、彼の強さ、彼が守ってくれるということを。
結局なにもかも――滑稽なくらい己の心ひとつが、左右していることにすぎない。
それが何だか癪だった。
どうして癪なのかは、自分でもよくわからないが――。
「……馬鹿柚真人……」
太陽の光を映す水面のゆらめきを覗き込んで、なんとなく悔しくて、呟く。
その水面に映る自分の姿の隣に、人影が現れたのはその時。
「……司? 大丈夫か?」
そんなことをいって、ふいに司の傍らに立ったのは、柚真人だ。
意外だったから少しだけ驚いて、司は兄を見返った。
「柚真兄…」
「お前、こういう水辺嫌いだろう? 気分は?」
「……平気。水は……やっぱり苦手だけど。いまは大丈夫」
「そうか」
柚真人は安堵したように頷いた。こういうとき、いちおうは心配してくれるのだ。
「まあ……おれだって好きじゃないよ」
「あのさ。全然そうは見えないよ? 柚真兄は無敵じゃない。苦手なもの、なんて、どうせなんにも無いんでしょ」
「そいつはひどいな」
「そう?」
「それは正当な評価じゃないね。『無敵』と己を信じる気持が大事なんだよ」
「柚真兄っていつでも呆れるくらい向かう気充分だよね。喧嘩上等だし」
「確かに……そうだね。受け身ではない」
柚真人は、手摺に背を預けてあっさりと頷いた。
そのままふたりは、言葉がなくてなんとなく空を見る。傍らの司は、揺れる水面を。
司は、ゆらめく光に瞳を細めた。
淋しいほどに凛然と孤独な。
いちめんの雪原、氷の原野を思わせる――皇の巫の、切なき孤高のその姿を念う。
「……柚真人……」
「……?」
「あー……」
「なんだよ?」
「あのさ。えっと……いつも護符、ありがと」
司にとってそれは紙切れに記された文字や、呪いの力ではない。眼裏に念う、皇の巫の、姿こそが、――真に司の護符となるのだ。
――かなり重傷。
司はうつむいて唇を噛んだ。
その事実が、なんだか本当に、癪だった。
「ねえ、暁さん? 橘のやつって、やっぱ本気、なんだよね?」
唐突に言われて、緋月は返答に困った。
炭酸飲料を片手にそんなことをいったのは片桐で、視線の先には司の友人たちとはしゃいでいる橘飛鳥の姿が、ある。
片桐は、緋月が座っている木陰のベンチに腰をおろした。
「隣、いいよね?」
「ええ、かまいませんわ」
「……でさ。暁さん、橘のこと、どう思う?」
「……それ……、ええと……。司のこと、ですわよね?」
「そうそう。あいつ、ことあるごとにアレでしょ。実際、どうなのかなっと思って」
「……返答いたしかねますわ。飛鳥さんの個人的な事情には」
緋月は、やんわりと苦笑してそう返した。
「そう。まあ、いいんだけど……でもほら。見て見て。あいつ、いまでも時々目が泳いでるだろ? 皇の妹の方、気にしてる。見てるとわかるんだよな」
片桐は、緋月の方を見て、にっとほくそ笑んだ。
飛鳥や柚真人とはまた違った雰囲気の少年だと、緋月は思った。天然だろうか、さらさらした茶色がかっている色の薄い髪が、綺麗だ。そのせいか、全体的に明るい印象を受ける。
「あれでさ、なかなか本音が読めないところあるから、面白いなあと思うんだ。普段の橘のイメージってポーカーフェイスって感じでさ。なんか、弱点発見て感じ。絶対、本気だよね」
「あら……飛鳥さんて、意外と物事ごまかせない方なんですのよ」
緋月は――諦めの色濃く、言った。
「え、そう?」
「ええ。正直すぎるくらい。始終元気なのは天然で、ポーカーフェイスとは程遠いですわね。それならば柚真人さまの方が完璧。……飛鳥さんは……嘘がつけません。本当に、いつでも何に対しても本気で、疲れるくらい真っ直ぐなんですのよ……」
そこでひとつ嘆息をついて言葉を切る。姿勢を正して、緋月は続けた。
「あの方には力の配分という考えがなくて、いつでも、あらゆるものに対して、百の気構えなんですの。五分五分に力を分散するとか余力を残すということはしないというよりできませんの。もとが十なら二十に、百なら二百に。そういう、方なんです。例えば……いま。司のことも気になるけれど、女の子相手となれば、誰でも分け隔てないでしょう? 女の子はみんな好きだって、飛鳥さん、いつもおっしゃいますもの」
片桐はそれを聞いて笑った。橘らしい、と思う。
「へえ。なるほど。……それにしたって、本気なら本気で、態度あからさまなんだよなあ、橘。あれじゃあ、本気は伝わりにくいと思わない? まるで冗談だもんな。時と場所を選ばないやりくちは。一体、結局どうしたいのかな、橘のやつ」
「……たぶんそれも性格、ですわ。飛鳥さんの」
「だろうなあ……」
片桐が頷く。
緋月は、そういいながらも――ふと考えた。
――あれでは本気は伝わりにくいと思わない?
もっともな話だ。
飛鳥がどれほど司に対して本気であるか、緋月はよく知っているつもりだ。
ならば飛鳥の行動には、どんな意味があるのか?
伝えたいのは、司じゃ――ない?
司への想いを、誰に伝えようというのか?
あからさま――なればあれは、司に対してではなく――?
誰かに対して。
司ではない、他の誰かに対して。
――牽制、を?
緋月は、ふっと視線を流した。
その先には司と――柚真人。
飛鳥が牽制を向ける相手として考えられ得るのは、たったひとりしかいない。
それは――それは――。
――ま。――まさか。
緋月は、いま自分の脳裏をよぎった考えを自分自身で一蹴した。
それは――いくらなんでもそれは、突飛だ。飛躍しすぎている。
いや、飛躍とかそういう問題ではなくて。
ありえないことであるはずだ。馬鹿馬鹿しい――。
「……暁、さん?」
――そんな……そんなことは……。
けれど。でも。
絶無であると、言い切れない自分がいること、に気づく。
それを疑った瞬間が、ないとは言い切れない自分が。
そう。
たとえば彼のまなざしをみた時に。
確かに感じた不安と疑念は。
自分にその可能性を示唆したのではなかったか。
いたたまれず、緋月は、その両の拳を膝の上で握り締める。
――まさか……。そんなことが……。
「どうかした?」
片桐の言葉に、首を振る。
「い……いいえ。なんでもありません」
胸の奥で心臓が、痛みに似た鼓動を刻みはじめていた。
「なん、でも……」
――そうですわよ。いくらなんでも、そんなことが……あるはず……ありませんわよ……。
一方――司の友人たち――彩と久美に、飛鳥は質問責めにされている。
「橘先輩と皇先輩って、イトコのわりに、似てませんよねえ?」
「それは言えるわね。でも、皇先輩と妹の皇ちゃんも似てないと思うわ。皇ちゃんも充分綺麗な顔立ちだけれど、皇先輩のあの美貌って、ちょっと異様ね」
二人に言われて、飛鳥は肩をすくめた。
その意見には異議もない。柚真人の要望に関しては、単純にひとことでいうなら美貌としか形容の仕様がないのだから。
「柚真人と僕の違いって、一番は、目なのね。あいつは鋭い一重でしょ。僕は重たい二重。それで印象が変わるみたい。まあ、僕は髪も長いし茶色いし……。それに柚真人のあの特別仕様のカオはね、まああれは遺伝子の偶然の産物ってことでね」
「言われてみると確かに目の印象が違うかも。皇ちゃんも二重まぶたよね」
「でしょ? 緋月ちゃんと柚真人の方が、似てるよね? どっちも美人サンでしょ?」
彩と久美はその言葉に笑った。
「美人! 確かに、皇先輩は美人ですう。緋ぃちゃんも」
「でも、皇先輩が意外と話しやすい人だったのに驚いたわね。もっとカタい雰囲気の人だと思ってた」
「柚真人が?」
意外そうな飛鳥に、彩がうなずく。
「ええ。まあ男でも女でも、綺麗な人ってそういう雰囲気あるんだけど……。うちの部活の部長なんかもそうね。背も高くて美人だけど、ちょっと近寄りがたいの」
「そりゃあ、『接客商売』に年期が入ってるからね。僕らは」
そういって飛鳥が胸をはったので、彩と久美は顔を見合わせた。
「ああ……、そうね。神社さんって、実際は年中、結構人が出入りするんでしょうね?」
「そう。お守りに御札、破魔矢とかの売店もあるし。ちゃんとした商売なのよ」
「じゃあ、皇先輩って本当に本物の『神主さん』なわけですか?」
「まあ。何だとおもってたのよ、君達。そうだよ? 普段はね、白衣に浅葱の袴はいて、竹箒で境内のお掃除。土日なんかはね」
飛鳥は、そういって箒を持つしぐさをしてみせた。
「へえ。本当の本当なんだ。でも神主って……高校生でもなれるんですか?」
彩が怪訝な顔で首を傾げるので、飛鳥は首を捻る。
「さあ? どうなんだろ。まあうちの神社は事情があって、ちょっとかわってるかもね」
「あら。大変なんですね」
「ぼくらイトコはそうでもないけど、柚真人はね。あ、でも僕らだって駆り出されることはあるよ? 年末年始なんか特に大変でさあ」
「じゃあ、今年、初詣に行ってもいいですかあ?」
「ちょっと。いっとくけども、あたしを付き合わせないでよ。久美」
「もお。彩ちゃん、薄情!」
彩は、からかうように、鼻を鳴らした。軽く、久美の額を小突く。
「歓迎歓迎。年末年始は僕も、それから司ちゃんと緋月ちゃんも神職さんの衣装を着て、頑張ってるからね。ぜひ、働く勇姿を見にきてやって」
「ずいぶんと愉快なお話しをしてるじゃないか? 飛鳥くん」
飛鳥が言った時、背後から柚真人があらわれ、飛鳥の首に手を回した。
「いやあ。司ちゃんのお友達を、初詣に御招待しようと思って」
「この暑い季節に、涼しい話だな」
にこやかに、柚真人は言い、飛鳥の首に回した腕に力を込める。
「あら柚真人クン、ちょっと、苦しいわっ」
「気の早い話で結構なことだけど飛鳥クン。それじゃあ、今年の年末と来年の年始ははさぞかし働いてくれるんだよね?」
「えー、あー、そりゃあ、もう。宮司さま」
「毎年毎年一番忙しい時間には、社務所で寝てたり逃げたりするのに?」
「あれえ? そうでしたっけ?」
「お前ときたら、正月早々ウチに転がり込んでは食っちゃ寝食っちゃ寝。おれは今、確かに聞いたよ。今年は絶対に逃がさないからな?」
「だあって、柚真人君のお節料理、とおっても美味しいんだもん」
「褒めてくれても駄目だ」
「いやだなあ。柚真人クン、目が怖いわよう」
彩と久美は、また顔を見合わせ、じゃれ合う二人を見て、笑った。

