06
足音が遠ざかるのを聞きながら、司は再び目を閉じる。
ほどなくして、再び襖の開く音がしたので、司はまた、ゆっくり目を開けた。
制服を着たままの柚真人が、柱にもたれて司を見下ろしていた。
「柚真人……」
「笹原さん、という子から電話があったぞ。帰り、待ち合わせていたんだって?」
「……」
記憶を辿り、順をおってことの次第を思い出そうとつとめた。だが、柚真人は待たずに続ける。
「上手く言っておいたから。次に会ったら、話を合わせること」
「ああ……。彩ちゃん。そうだあたし、彩ちゃん……放ってきちゃったんだ」
柚真人は、いったん天井を仰ぐと、大仰に嘆息した。
「放るも何もなかっただろ。おまえ、相模原の山奥にいたんだぞ」
「あたし……『何処』にいたのかな……?」
「……『写真の場所』だよ。たぶんね。どうしてか、といわれればわからないよ、そんなことは。理屈では割り切れない。だから嫌なんだと、お前、いうだろう?」
「うん……」
「だがよくある話でもある。昔からな。実際、こうして起こった出来事に理屈なんて不要だ。それにお前は連れ戻した。だから気にすることはない。お前は、ここにいるんだから」
そう言える彼の強さが、痛かった。
司は力なく微笑んだ。
「…あ。ねえ、……それで優麻さんは?」
「いるよ。台所で飯の支度を手伝ってもらってる。お前、食べられそうか? さっきだいぶ吐いたけど気分は?」
「平気。……と、思う」
「……委細は、緋月から聞いたか?」
「うん。……ええと……。ごめん、なさい」
「謝る必要はない。お前は悪くないんだ。おれのほうこそ……悪かったな」
ため息混じりに柚真人が呟いた。
司は――少しだけ驚いた。
「じゃあ……大丈夫そうなら起きておいで」
兄は、踵を返しながら肩越しに、そう言った。
☆
「ああ、緋月ちゃん。こちらのお皿を食卓に並べて下さい」
「わかりましたわ」
優麻の言葉に頷くと、緋月は、食器棚から指定されたものを取り出した。
二人の会話は、いつどんな時でもごく丁寧かつ柔らかい言葉で取り交わされるので、まるで執事とメイドのようである。
「司、起きてくるって」
台所に顔を出した柚真人が言い、優麻が顔を上げて、微笑んだ。
「ああ、それはよかったですね」
「おう。それはよかった。問題は、請け負った『仕事』自体をどうするか、だ」
「? どういうことですの?」
緋月は、渋い口調の柚真人を見て、首を傾げる。
「だから。おれ、さっき勢い余ってアレを昇天させちゃったろ」
「? もともとそのおつもりだったんではありませんの?」
「どうしようか考えていた、と言ったろう」
「それで、どうしようと思っていらっしゃいましたんですの?」
「とりあえず料金に見合わない仕事はしない主義だ」
「……」
「ま、しょうがないか。不測の事態だったし」
「不測ですか」
「フソクだろうよ。司の馬鹿が、ああもあっさり不用心にとっ憑かれやがって」
「柚真人さま、それは私たちにも手落ちがありましたのですわ。司は責められません」
「そうですよ、柚真人君」
「予定としては、本来なら依頼人の前で、もっともらしい儀式でもかまそうかと思ってだな」
「あらそうでしたの」
「まあ、とにかくだ。はやいとこ依頼人呼びつけて、形だけでもやっとくか。お祓いだの除霊だのってのは、目に見える形でやらないと、どうも一般には納得できないみたいだからな」
「……柚真人君、それは……詐欺なのでは……」
「ああ? なわけないだろ。やることはやったんだよ、おれは。何が詐欺だってんだ? ん? そもそも儀式や呪文祝詞のたぐいは、死者のためだけにあるんじゃない。生きている人間が、己を納得させるためにも存在するんだ。おれはどっか間違ってるか?」
「はあまあ……。そうですが……」
緋月は、優麻と言い合う皇柚真人の横顔を、ふと、見つめた。
呆れるほどに端整な顔立ちと、その怜悧な横顔。
人目を奪い惹きつけるその秀麗なかんばせを、緋月ももちろん美しいと思うし、彼の魅力のひとつであるとは思う。
だが、面の皮一枚なんて瑣末な代物だ。
本質は、その内側にこそある。
柚真人が刻んだ表情を、緋月は再び脳裏に思い描く。
――司は、命を、奪われる。
その唇が、言葉の内実とは裏腹に、ひどくおちついた声音で、そう語ったときの――表情を。
――こいつはな。わが皇家の大切な巫女だ。
そんなとき、きまって緋月が確かに覚えるのは畏怖なのだろう。
たぶん。
沈着な少年が瞬間に垣間見せた、全身に漲る敵意と露な殺気。それを目の当たりにするときはいつも、全身すくむほどの畏敬と恐怖を覚えるのだ。
同じだけの感情を、己の顔に刻むことのできる人間は、そうはいまい。
そう、柚真人は笑っていた。
否――瞳は笑ってはいなかったが、歪められた唇は笑みを刻んでいたのだ。
いかなるものを前にしても、怯まない気迫で、確かに見えない何かを見据え。
己に対する、揺るがないまっすぐな確信をもって。
――皇の巫に敵は無い。
それが何者であろうと、容赦なく。必ずや。そうしてみせると。
冷徹な光を宿した瞳はそう、云っていた。
それは――硝子の透明度ではない。
金剛石の硬度だ。
硝子の硬さには脆さがともなう。だが、彼の心には、脆さが無い。
もちろん彼も人の身なれば、迷いもするだろう。悩みもするだろう。けれど、彼は必ず自分の行くべき道を探り出す。そして、そこへたどり着いたからには、二度と後ろを振り返りはしない。省みても悔やまない。
それを持っている人だからこそ、緋月は、皇柚真人に恋をするのだ。
宝石を愛でる少女のように。
人によって、恋という気持のかたちは違うだろう。けれど――緋月のなかでは、それは確かに恋だった。惹かれ、焦がれる気持ち、だ。
唯一と思い、大切と思う。
「柚真人さま」
振り返った彼は、驚くほど優しい瞳をしていた。
「なに? 緋月」
「いいえ。あ、ほら、司がきましたわ」
イトコが、廊下の向こうから、あくびをしながらやってくる。
すると柚真人は、また笑った。
今度は、少し呆れたような、困ったような、複雑な――。
もうかなり前から――その笑顔をみるたびに、緋月は思うことがある。
あの厳しい表情を、向ける相手が、殺気と敵意の標的なら、この複雑な表情を、向ける相手は、彼にとってどんな存在なのだろう――と。
無防備な笑顔。彼がそれを他の誰にも向けないことを緋月は知っている。
本当に大切なのは、『巫女』なのか『家族』なのか――それとも――。
それとも――。
足音が遠ざかるのを聞きながら、司は再び目を閉じる。
ほどなくして、再び襖の開く音がしたので、司はまた、ゆっくり目を開けた。
制服を着たままの柚真人が、柱にもたれて司を見下ろしていた。
「柚真人……」
「笹原さん、という子から電話があったぞ。帰り、待ち合わせていたんだって?」
「……」
記憶を辿り、順をおってことの次第を思い出そうとつとめた。だが、柚真人は待たずに続ける。
「上手く言っておいたから。次に会ったら、話を合わせること」
「ああ……。彩ちゃん。そうだあたし、彩ちゃん……放ってきちゃったんだ」
柚真人は、いったん天井を仰ぐと、大仰に嘆息した。
「放るも何もなかっただろ。おまえ、相模原の山奥にいたんだぞ」
「あたし……『何処』にいたのかな……?」
「……『写真の場所』だよ。たぶんね。どうしてか、といわれればわからないよ、そんなことは。理屈では割り切れない。だから嫌なんだと、お前、いうだろう?」
「うん……」
「だがよくある話でもある。昔からな。実際、こうして起こった出来事に理屈なんて不要だ。それにお前は連れ戻した。だから気にすることはない。お前は、ここにいるんだから」
そう言える彼の強さが、痛かった。
司は力なく微笑んだ。
「…あ。ねえ、……それで優麻さんは?」
「いるよ。台所で飯の支度を手伝ってもらってる。お前、食べられそうか? さっきだいぶ吐いたけど気分は?」
「平気。……と、思う」
「……委細は、緋月から聞いたか?」
「うん。……ええと……。ごめん、なさい」
「謝る必要はない。お前は悪くないんだ。おれのほうこそ……悪かったな」
ため息混じりに柚真人が呟いた。
司は――少しだけ驚いた。
「じゃあ……大丈夫そうなら起きておいで」
兄は、踵を返しながら肩越しに、そう言った。
☆
「ああ、緋月ちゃん。こちらのお皿を食卓に並べて下さい」
「わかりましたわ」
優麻の言葉に頷くと、緋月は、食器棚から指定されたものを取り出した。
二人の会話は、いつどんな時でもごく丁寧かつ柔らかい言葉で取り交わされるので、まるで執事とメイドのようである。
「司、起きてくるって」
台所に顔を出した柚真人が言い、優麻が顔を上げて、微笑んだ。
「ああ、それはよかったですね」
「おう。それはよかった。問題は、請け負った『仕事』自体をどうするか、だ」
「? どういうことですの?」
緋月は、渋い口調の柚真人を見て、首を傾げる。
「だから。おれ、さっき勢い余ってアレを昇天させちゃったろ」
「? もともとそのおつもりだったんではありませんの?」
「どうしようか考えていた、と言ったろう」
「それで、どうしようと思っていらっしゃいましたんですの?」
「とりあえず料金に見合わない仕事はしない主義だ」
「……」
「ま、しょうがないか。不測の事態だったし」
「不測ですか」
「フソクだろうよ。司の馬鹿が、ああもあっさり不用心にとっ憑かれやがって」
「柚真人さま、それは私たちにも手落ちがありましたのですわ。司は責められません」
「そうですよ、柚真人君」
「予定としては、本来なら依頼人の前で、もっともらしい儀式でもかまそうかと思ってだな」
「あらそうでしたの」
「まあ、とにかくだ。はやいとこ依頼人呼びつけて、形だけでもやっとくか。お祓いだの除霊だのってのは、目に見える形でやらないと、どうも一般には納得できないみたいだからな」
「……柚真人君、それは……詐欺なのでは……」
「ああ? なわけないだろ。やることはやったんだよ、おれは。何が詐欺だってんだ? ん? そもそも儀式や呪文祝詞のたぐいは、死者のためだけにあるんじゃない。生きている人間が、己を納得させるためにも存在するんだ。おれはどっか間違ってるか?」
「はあまあ……。そうですが……」
緋月は、優麻と言い合う皇柚真人の横顔を、ふと、見つめた。
呆れるほどに端整な顔立ちと、その怜悧な横顔。
人目を奪い惹きつけるその秀麗なかんばせを、緋月ももちろん美しいと思うし、彼の魅力のひとつであるとは思う。
だが、面の皮一枚なんて瑣末な代物だ。
本質は、その内側にこそある。
柚真人が刻んだ表情を、緋月は再び脳裏に思い描く。
――司は、命を、奪われる。
その唇が、言葉の内実とは裏腹に、ひどくおちついた声音で、そう語ったときの――表情を。
――こいつはな。わが皇家の大切な巫女だ。
そんなとき、きまって緋月が確かに覚えるのは畏怖なのだろう。
たぶん。
沈着な少年が瞬間に垣間見せた、全身に漲る敵意と露な殺気。それを目の当たりにするときはいつも、全身すくむほどの畏敬と恐怖を覚えるのだ。
同じだけの感情を、己の顔に刻むことのできる人間は、そうはいまい。
そう、柚真人は笑っていた。
否――瞳は笑ってはいなかったが、歪められた唇は笑みを刻んでいたのだ。
いかなるものを前にしても、怯まない気迫で、確かに見えない何かを見据え。
己に対する、揺るがないまっすぐな確信をもって。
――皇の巫に敵は無い。
それが何者であろうと、容赦なく。必ずや。そうしてみせると。
冷徹な光を宿した瞳はそう、云っていた。
それは――硝子の透明度ではない。
金剛石の硬度だ。
硝子の硬さには脆さがともなう。だが、彼の心には、脆さが無い。
もちろん彼も人の身なれば、迷いもするだろう。悩みもするだろう。けれど、彼は必ず自分の行くべき道を探り出す。そして、そこへたどり着いたからには、二度と後ろを振り返りはしない。省みても悔やまない。
それを持っている人だからこそ、緋月は、皇柚真人に恋をするのだ。
宝石を愛でる少女のように。
人によって、恋という気持のかたちは違うだろう。けれど――緋月のなかでは、それは確かに恋だった。惹かれ、焦がれる気持ち、だ。
唯一と思い、大切と思う。
「柚真人さま」
振り返った彼は、驚くほど優しい瞳をしていた。
「なに? 緋月」
「いいえ。あ、ほら、司がきましたわ」
イトコが、廊下の向こうから、あくびをしながらやってくる。
すると柚真人は、また笑った。
今度は、少し呆れたような、困ったような、複雑な――。
もうかなり前から――その笑顔をみるたびに、緋月は思うことがある。
あの厳しい表情を、向ける相手が、殺気と敵意の標的なら、この複雑な表情を、向ける相手は、彼にとってどんな存在なのだろう――と。
無防備な笑顔。彼がそれを他の誰にも向けないことを緋月は知っている。
本当に大切なのは、『巫女』なのか『家族』なのか――それとも――。
それとも――。

