05
その刹那。
あたりの空気が――流れて乱れた。
「――おい、そこな低俗霊」
すぐ側で、聞き覚えのある声がして――。
「そのへんに、しておくんだな」
司は顔を伏せたまま、目を、瞠る。
――この声。
だがすぐには身体を起こせなかった。
「こいつはな。我が皇家の大切な巫女だ。傷物にされちゃあ困るんでね」
声の主は、傲岸不遜な調子で続ける。
司は――戸惑いながらも安堵を感じた。
先刻から己の置かれていた状況はさっぱりわからないし、現状で一体何がおきつつあるのかもわからなかった。でも、それでも、もうそんなことはどうでもよかった。
彼が、ここにいるのだから。
柚真人の声――それが司の窮地を救った。
兄の声を耳にした途端、全身の力がのこらず抜けている。
――でも何故、ここに、柚真人が。
どうやら、事情が飲み込めていないのは自分だけのようだ。
だがそれより先に、もう大丈夫だと、安堵してよいのだと、理解することはできた。
死者がいなかる無念怨嗟を遺そうとも、皇の神主に敵は――無い。
安心していい。もう平気だ。
司は今にも倒れそうな身体を支えながら、うつむいたまま大きく息をする。
柚真人が司の傍らまでやってきて、透明なよく通る声で言い放つ。
「おれの不興を買ってくれたことは理解できるか、死に損ない?」
「そうですわ! 許しませんわよっ」
憤然たる、緋月の声も聞こえた。
柚真人に緋月ちゃん――。
――一体……何が、どうなって――。
「司。ここで祓うから耐えろよ」
「つかさっ」
視界が霞む。
俯いたままうなずいたつもりではあったが。
躯に力が入らない。
意識が朦朧としてきて、膝から崩れ落ちるに任せようとすると――誰かの手が、――緋月ちゃん? ――躯を抱き留めた。
司は呻いた。
「さァあ、覚悟はいいかな?」
――ナンダオマエ。邪魔……スルナ。
「……聞く耳もてませんわね」
「そういうことだ。お前の事情など、知ったことじゃあないんでね」
――イヤダ。イヤダイヤダ。……邪魔スルナ!
途端、頭蓋の奥を裡から粉砕するが如き激痛が司の頭を襲った。
みぞおちを鷲掴みされたようにひきつる胃。気持ち悪い。込み上げる吐気。一瞬後に、口から溢れるくぐもった悲鳴と、吐瀉物。
「柚真人さまっ、司がっ」
「大丈夫だ」
すぐ近くで聞こえる冷静な兄の声は、いっそ冷徹と思えた。己の身を襲う苦しみが、一体何に起因するのか正しく理解できないまま、司は身を捩った。
「耐えろっ」
叱責。
だが、それさえ。
兄のものなら。
耐えられる。
目が霞む。頭が痛い。
それでも。
「司!」
緋月の心配そうな声を、耳もとに感じながら。
司は――意識を失った。
☆
遠くで、声がする。
――ああ、それはどうも。ごめんね、全然知らなくて――。
柚真人の声だ。穏やかな、外面よそゆきの声。
――そう。突然倒れてね。貧血みたいで。ええ、もう大丈夫。ありがとう。
誰と、話を?
――伝えておきます。はい。
――笹原彩さん、ですね。
あ、あやちゃん?
――ありがとう。今日は本当にすみませんでしたね。
ええと、あたし……?
「ああ、……司。気がつきました?」
瞼を上げると、緋月の顔が傍らにあった。
部屋は暗い。だが、天井も部屋も、そこにある空気も、馴染みあるものだった。
自宅だ。自室で、自分の布団に横たわっているのだ。
「大丈夫ですの? 具合の悪いところはありませんこと?」
言われてみると、躯が全身打撲したみたいに鈍く痛んだ。
「ええと……?」
「ほんっとに! 心配しましたのよ!」
緋月が畳に握り拳を叩きつけた。
「もう少しで、連れていかれてしまうところでしたのよっ!」
「緋月ちゃん……」
「でも……ごめんなさい、司。わたくしが、迂闊でしたの……」
「……どういう、こと?」
「昨日、わたくしたちが『晦日祓』をしている間に、応接間を片づけて下さいましたでしょう? わたくしたち、そのお部屋に、柚真人さまがお祓いするはずの『写真』を放置してしまいましたの。司は、その『写真』に宿っていたモノ、に……」
「ああ。なんだ……そう、いうこと。そうだったんだ……」
「ええ。ごめんなさい。きちんと片付けておくべきでしたわ」
「……もう、……その……いないの?」
「柚真人さまがきちんと処分して下さいました。司は途中で気を失ってしまいましたけれど……。もう大丈夫なはずですわ……」
司は大きく息を吸った。
「そう……兄貴が……。それで、あのとき……」
「はい」
「どうして、……あそこが? あたし、何処にいたわけ……」
「柚真人さまと私で、探しましたの。優麻さんに車を飛ばしていただいて……。近くでよかったわ。場所は、相模原の方でしたのよ」
「そう……」
司には、それでも一体自分の身に何が起こってどういう事態に陥っていたのかいまいちよくわからなかった。
「あれ……やっぱり、『死者』、なんだよ、ね。……池……だから、そう、あそこで殺された人なんだと思う……」
「わかりますの?」
「うん……。そんな光景が、視えた。何処で視てるのかわからないけど目じゃなくて。頭なのかな。瞼の奥。……殺される感覚がね。わかったし。まったく同じようにあたしの躯の五感全部に刻まれるから。あれは殺された死者で……。そこからずっと動けないでいたみたい……」
司の呟きを、緋月はその傍らで黙って聞いていた。
「わかってる、の……。恐いって思ったらいけないんだっていうことは。だけど、あたし『死者』に触れる度に感じるそれが、嫌いなのよ。だって……あたしはこうやって、確かにちゃんと生きてるのに、何度も死んだみたいな気がしてくる……」
「司……」
それは、緋月には到底わからない感覚だった。
憑坐たる資質を持つ、本家の巫女にしか、それはわからない。
同じ皇の者でも、柚真人と司の違いはそこにあるのかもしれない。巫女である司の全身には、死者の、念いそのものが宿るため、まったき同じものが、鮮明に刻まれるのだ。
憑依を許すがゆえ。
司にとって、受け入れられないのはその恐怖なのだ――。
「怖い、と思っちゃいけないの、は、わかってんだけど……どうして、も……」
「もう……いいですわ、司」
「ごめん、緋月ちゃん。あたし……どうしてこうなのかなあ。ホント、駄目だよね」
緋月は、困った顔をして、微笑んだ。
それは司以外には背負うことが出来ないもので、そこまで分かち合うことは、誰にも出来ない。
緋月にも――きっと柚真人にも。
「人には、……得て不得手がありますから。……でも、司がもうちょっとしっかりしてくれると、わたくしもこんなに心配することがなくて、たすかるんですれど、ね」
「……うん。……それも、わかってる」
「無理はなさらなくてもよろしいですけれど」
「うん……」
「しかたありませんわよ……司にとっては、本当に、怖いのでしょう。それはわたくしにはわかりませんけど、恥じる必要はありませんわ。誰だって、怖いものは怖いし、嫌いなものは嫌いですもの。司はなにもかも闇雲に放り出そうとしているのではありませんもの。わかっていて、苦しいのですものね。どうしても受け入れられないものは、誰にでもありますわ」
「……責められた方が楽なのんだけど、緋月ちゃん」
「誰に責める権利がありまして?」
「そりゃ……きまっているじゃない、兄貴」
「柚真人さま?」
「……怒ってる、よね……」
司が渋面をつくったので、緋月はくすくすと笑った。
「柚真人さまはいつでも落ち着いていらっしゃいましてよ」
「そう見えても、怒ってるときは、怒ってる」
「でも、自分の失策を認めていらっしゃいましたわよ?」
緋月は、そういうと、ふいに優雅な所作で立ち上がった。
「そうですわ。いま、柚真人さまを呼んでまいりますわね。お待ちになって」
「ええ?」
「大丈夫ですわよ。もとはといえば、わたくしと柚真人さま、双方の失態なのですもの。司に悪いところがありまして? 違うでしょう?」
「いやっ、でも……」
「大丈夫です」
請け負うように言って柔らかく微笑むと、緋月は部屋から退出していった。
その刹那。
あたりの空気が――流れて乱れた。
「――おい、そこな低俗霊」
すぐ側で、聞き覚えのある声がして――。
「そのへんに、しておくんだな」
司は顔を伏せたまま、目を、瞠る。
――この声。
だがすぐには身体を起こせなかった。
「こいつはな。我が皇家の大切な巫女だ。傷物にされちゃあ困るんでね」
声の主は、傲岸不遜な調子で続ける。
司は――戸惑いながらも安堵を感じた。
先刻から己の置かれていた状況はさっぱりわからないし、現状で一体何がおきつつあるのかもわからなかった。でも、それでも、もうそんなことはどうでもよかった。
彼が、ここにいるのだから。
柚真人の声――それが司の窮地を救った。
兄の声を耳にした途端、全身の力がのこらず抜けている。
――でも何故、ここに、柚真人が。
どうやら、事情が飲み込めていないのは自分だけのようだ。
だがそれより先に、もう大丈夫だと、安堵してよいのだと、理解することはできた。
死者がいなかる無念怨嗟を遺そうとも、皇の神主に敵は――無い。
安心していい。もう平気だ。
司は今にも倒れそうな身体を支えながら、うつむいたまま大きく息をする。
柚真人が司の傍らまでやってきて、透明なよく通る声で言い放つ。
「おれの不興を買ってくれたことは理解できるか、死に損ない?」
「そうですわ! 許しませんわよっ」
憤然たる、緋月の声も聞こえた。
柚真人に緋月ちゃん――。
――一体……何が、どうなって――。
「司。ここで祓うから耐えろよ」
「つかさっ」
視界が霞む。
俯いたままうなずいたつもりではあったが。
躯に力が入らない。
意識が朦朧としてきて、膝から崩れ落ちるに任せようとすると――誰かの手が、――緋月ちゃん? ――躯を抱き留めた。
司は呻いた。
「さァあ、覚悟はいいかな?」
――ナンダオマエ。邪魔……スルナ。
「……聞く耳もてませんわね」
「そういうことだ。お前の事情など、知ったことじゃあないんでね」
――イヤダ。イヤダイヤダ。……邪魔スルナ!
途端、頭蓋の奥を裡から粉砕するが如き激痛が司の頭を襲った。
みぞおちを鷲掴みされたようにひきつる胃。気持ち悪い。込み上げる吐気。一瞬後に、口から溢れるくぐもった悲鳴と、吐瀉物。
「柚真人さまっ、司がっ」
「大丈夫だ」
すぐ近くで聞こえる冷静な兄の声は、いっそ冷徹と思えた。己の身を襲う苦しみが、一体何に起因するのか正しく理解できないまま、司は身を捩った。
「耐えろっ」
叱責。
だが、それさえ。
兄のものなら。
耐えられる。
目が霞む。頭が痛い。
それでも。
「司!」
緋月の心配そうな声を、耳もとに感じながら。
司は――意識を失った。
☆
遠くで、声がする。
――ああ、それはどうも。ごめんね、全然知らなくて――。
柚真人の声だ。穏やかな、外面よそゆきの声。
――そう。突然倒れてね。貧血みたいで。ええ、もう大丈夫。ありがとう。
誰と、話を?
――伝えておきます。はい。
――笹原彩さん、ですね。
あ、あやちゃん?
――ありがとう。今日は本当にすみませんでしたね。
ええと、あたし……?
「ああ、……司。気がつきました?」
瞼を上げると、緋月の顔が傍らにあった。
部屋は暗い。だが、天井も部屋も、そこにある空気も、馴染みあるものだった。
自宅だ。自室で、自分の布団に横たわっているのだ。
「大丈夫ですの? 具合の悪いところはありませんこと?」
言われてみると、躯が全身打撲したみたいに鈍く痛んだ。
「ええと……?」
「ほんっとに! 心配しましたのよ!」
緋月が畳に握り拳を叩きつけた。
「もう少しで、連れていかれてしまうところでしたのよっ!」
「緋月ちゃん……」
「でも……ごめんなさい、司。わたくしが、迂闊でしたの……」
「……どういう、こと?」
「昨日、わたくしたちが『晦日祓』をしている間に、応接間を片づけて下さいましたでしょう? わたくしたち、そのお部屋に、柚真人さまがお祓いするはずの『写真』を放置してしまいましたの。司は、その『写真』に宿っていたモノ、に……」
「ああ。なんだ……そう、いうこと。そうだったんだ……」
「ええ。ごめんなさい。きちんと片付けておくべきでしたわ」
「……もう、……その……いないの?」
「柚真人さまがきちんと処分して下さいました。司は途中で気を失ってしまいましたけれど……。もう大丈夫なはずですわ……」
司は大きく息を吸った。
「そう……兄貴が……。それで、あのとき……」
「はい」
「どうして、……あそこが? あたし、何処にいたわけ……」
「柚真人さまと私で、探しましたの。優麻さんに車を飛ばしていただいて……。近くでよかったわ。場所は、相模原の方でしたのよ」
「そう……」
司には、それでも一体自分の身に何が起こってどういう事態に陥っていたのかいまいちよくわからなかった。
「あれ……やっぱり、『死者』、なんだよ、ね。……池……だから、そう、あそこで殺された人なんだと思う……」
「わかりますの?」
「うん……。そんな光景が、視えた。何処で視てるのかわからないけど目じゃなくて。頭なのかな。瞼の奥。……殺される感覚がね。わかったし。まったく同じようにあたしの躯の五感全部に刻まれるから。あれは殺された死者で……。そこからずっと動けないでいたみたい……」
司の呟きを、緋月はその傍らで黙って聞いていた。
「わかってる、の……。恐いって思ったらいけないんだっていうことは。だけど、あたし『死者』に触れる度に感じるそれが、嫌いなのよ。だって……あたしはこうやって、確かにちゃんと生きてるのに、何度も死んだみたいな気がしてくる……」
「司……」
それは、緋月には到底わからない感覚だった。
憑坐たる資質を持つ、本家の巫女にしか、それはわからない。
同じ皇の者でも、柚真人と司の違いはそこにあるのかもしれない。巫女である司の全身には、死者の、念いそのものが宿るため、まったき同じものが、鮮明に刻まれるのだ。
憑依を許すがゆえ。
司にとって、受け入れられないのはその恐怖なのだ――。
「怖い、と思っちゃいけないの、は、わかってんだけど……どうして、も……」
「もう……いいですわ、司」
「ごめん、緋月ちゃん。あたし……どうしてこうなのかなあ。ホント、駄目だよね」
緋月は、困った顔をして、微笑んだ。
それは司以外には背負うことが出来ないもので、そこまで分かち合うことは、誰にも出来ない。
緋月にも――きっと柚真人にも。
「人には、……得て不得手がありますから。……でも、司がもうちょっとしっかりしてくれると、わたくしもこんなに心配することがなくて、たすかるんですれど、ね」
「……うん。……それも、わかってる」
「無理はなさらなくてもよろしいですけれど」
「うん……」
「しかたありませんわよ……司にとっては、本当に、怖いのでしょう。それはわたくしにはわかりませんけど、恥じる必要はありませんわ。誰だって、怖いものは怖いし、嫌いなものは嫌いですもの。司はなにもかも闇雲に放り出そうとしているのではありませんもの。わかっていて、苦しいのですものね。どうしても受け入れられないものは、誰にでもありますわ」
「……責められた方が楽なのんだけど、緋月ちゃん」
「誰に責める権利がありまして?」
「そりゃ……きまっているじゃない、兄貴」
「柚真人さま?」
「……怒ってる、よね……」
司が渋面をつくったので、緋月はくすくすと笑った。
「柚真人さまはいつでも落ち着いていらっしゃいましてよ」
「そう見えても、怒ってるときは、怒ってる」
「でも、自分の失策を認めていらっしゃいましたわよ?」
緋月は、そういうと、ふいに優雅な所作で立ち上がった。
「そうですわ。いま、柚真人さまを呼んでまいりますわね。お待ちになって」
「ええ?」
「大丈夫ですわよ。もとはといえば、わたくしと柚真人さま、双方の失態なのですもの。司に悪いところがありまして? 違うでしょう?」
「いやっ、でも……」
「大丈夫です」
請け負うように言って柔らかく微笑むと、緋月は部屋から退出していった。

