04
雨が降っていた。
さああああ――。
気がついた時には、全身が湿っていた。髪も衣服も肌に張りつき、至極不快だ。
さああああ――。
――そうだ――夕立が――。
ぼんやりと思った瞬間、いっきに意識が覚醒した。
さああああ――。
――こ……ここっ、……どこ!?
なまぐさい臭いが鼻についた。
土と、朽ちた葉と、水の匂い。
四囲に首を回らすと、あたりは一面の雑木林。足許に、冷たい水を感じて、ハッと目線を落とす。それからゆっくり目線を上げていって、やっと司は自分の状況を理解した。
司は雑木林に囲まれた、沼の水際に立っていたのだ。沼の水は澱み、ぬるぬるとした感触で、水面は、雨がいくつもの波紋を描き、陰鬱な空の群青をうつして暗かった。
夜になりかけているみたいだ。
あたりはすでに薄暗かったが、それでも緑は深く色濃く、鬱蒼と茂り、水苔と葉の匂いが混じり合い、噎せるようないきれとなって濃密に漂っている。何処もかしこも湿っていた。
葉を叩く雨の音だけが、静かに静かに空気を満たす。
四方雑木林は奥まで見通せないほど深い。そして、昏い。
――ツカマエタ。
ふいに声が響き、司は全身を硬直させた。
目をやれば、対岸に人影がある。それに気付いて司はぞっとした。
辺りが暗くて、その人影ははっきりとは認識できなかったけれど、間違いない。得体の知れないそのぼんやりとした朧な人影が、司に語り掛けているのだ。
――ツカマエタヨ。
耳障りな音だった。ぎりぎりと耳もとで鋸の刃をこすり合わせるような音。
――ツカマエタ。
人影のようなものが、再度、言った。
それは選択の余地など微塵も与えない、意思。司の耳には、『逃がすものか』と聞こえた。
影のような像なのに、その人影が確かに、嗤ったと思える。
不思議だと思った。雨が降っているのに、濡れているのに、温度を感じない。
自分の体温、空気の温度を感じない。
――それよりあたし、どうしてこんなところにいるわけ? ここ……どこなの?
茫然とただ、立ち尽くす。首筋に、湿気を孕んだ空気がそっと触れてゆく。
対岸の人影は、にやにやと確かに嗤っているように感じられる。
悪意、害意のようなものが、あわだつ気配とともに伝わってくる。背筋を、砕けた氷の破片がたくさん滑り降りてゆくような、おぞけを感じた。吐気が喉もとまでせり上がってくる。
――コッチニオイデ。
☆
閃光の如く雷がひらめき、雷鳴が轟いた。
優麻にはすぐに連絡がついた。車で来い、との柚真人の言葉に二つ返事で応じ、電話は切れた。
「……間に合えばいいが」
「……え?」
柚真人は、緋月の戸惑いの表情を、あの厳しい表情のまま一瞥したが、説明はしなかった。
「司を探しに行く。……あの写真の場所が何処か。それが問題だ」
「写真の、場所ですって? まさか……」
「覚えているか? 依頼者の話」
緋月は困惑して首を傾げた。柚真人は続けた。
「溺れた依頼者の子供の肺に、泥水が溜まっていたと言う話だ」
「ああ……」
「あの写真は質が悪いといったろう。おれが感じたのは、あれが、人を呼んでいる、と云うことなんだ」
「……呼んで……?」
「そう。それと、害意を通り越えた殺意だ。写真に何かが写り込んだわけじゃない。あの場所から、それを感じた。ひどく淋しいような怨念だったが、際限なく人を捕り殺すほど強烈な殺意と憎悪の塊だ。だからあの写真を始末するだけでは駄目だ、といったんだ。依頼者自身の問題は解決するが、根本的には解決になりはしない。だから少しばかり考えていたんだが……」
ふいに緋月は悟った。
柚真人が写真の場所を気にかけたわけが。
だがそれは同時に有り得ない事実を示唆していることになる。
「でも……そんなことが……」
「意味の無いことを気にするな」
ありえるのか、との緋月の問いを、最後まで聞かずに柚真人はあっさり一蹴した。
「写真を取りに戻っている時間はないし、あれから場所を辿るのは危険だ。あれを見た時のことを憶い出せ。手遅れになれば――司は文字通り命を奪われる」
「わ……かりました」
緋月は、ぎゅっと――その場で目を瞑った。
雷鳴なり響く校舎の中で、司のことを思った。いや――罵った、と言うべきだろうか。
――どうしてこうもど無防備なんですの、あなたは。
――危なっかしいったらないわ!
――すこしは反省すると良いんだわ!
――もう! もう! 気を揉ませないで頂戴!
――返事をなさって、司! どこにいるの!?
☆
――オイデヨ。
それは、さらに言い募った。
嫌だ、と司は思った。
けれど、意に反して司の足は一歩、沼の水に囚われてゆく。いうことをきかない自身の四肢。全身の毛穴から、冷たい汗が吹き出す。
司は全身に、込められるだけの力を入れた。けれど、感覚が失われたかのように、手応えがない。心臓が、恐怖のために肋骨のしたで早鐘のような鼓動を刻み、胸が痛い。息が苦しい。
これ以上逆らう術を、司は知らない。
力任せに抵抗する術しか。
だが、それはあながち間違いではないはずだ。
柚真人は、言う。すべては『意思』の力、己の心を信じる強さがあればよいのだと。世のあらゆる事象は、意思が生み出し支配するのだと。
恐怖に飲み込まれれば、司の意思は負ける。拒絶を思うのだ。強く。
――オマエモ死ネバイイ。
膝まで水に漬かった。
その、――瞬間。
司の脳裏に何かが流れ込んできた。
音。映像。声。感覚。感触。
水。濁った水の匂い。澱んだ沼の臭い。冷たい。寒い。
ひとりの少年。首に圧迫感。
げっ、と喉が詰まった。
ごふ、と咳をする。
ぐぇ、と喉が鳴った。
これはまるで、首を締められているみたい。
鼻から口から侵入してくる臭い水。
何度も何度も水面にたたきつけられる、顔。
その度に肺から逃げてゆく空気。
苦しい。苦しい。
苦悶に頭を激しく振って、司は屈み込んだ。両膝に手をつく。
その光景に圧倒される。正気が保てない。
「やめてっ」
司は、潰されたような圧迫感を感じる喉からしぼりだすように悲鳴を上げた。
「いや! あたしのなかに、勝手にはいってこないで!」
瞠目して両手で頭を抱え、首を振る。
「やめてやめて!」
――ミンナ。
――シンジャエバイインダ。
「いやだってば! いや! 聞きたくない、見たくない、やだっ」
――死ンジャエヨ……。
――ボクミタイニ……。
水の中に沈んでゆく体。
遠くなる意識。
死への恐怖。奪われる命への執着。
怨嗟、憎悪、呪詛。
――ボクダケ死ヌナンテイヤダヨ。
――狡イヨ。
「嫌ぁ!!!」
雨が降っていた。
さああああ――。
気がついた時には、全身が湿っていた。髪も衣服も肌に張りつき、至極不快だ。
さああああ――。
――そうだ――夕立が――。
ぼんやりと思った瞬間、いっきに意識が覚醒した。
さああああ――。
――こ……ここっ、……どこ!?
なまぐさい臭いが鼻についた。
土と、朽ちた葉と、水の匂い。
四囲に首を回らすと、あたりは一面の雑木林。足許に、冷たい水を感じて、ハッと目線を落とす。それからゆっくり目線を上げていって、やっと司は自分の状況を理解した。
司は雑木林に囲まれた、沼の水際に立っていたのだ。沼の水は澱み、ぬるぬるとした感触で、水面は、雨がいくつもの波紋を描き、陰鬱な空の群青をうつして暗かった。
夜になりかけているみたいだ。
あたりはすでに薄暗かったが、それでも緑は深く色濃く、鬱蒼と茂り、水苔と葉の匂いが混じり合い、噎せるようないきれとなって濃密に漂っている。何処もかしこも湿っていた。
葉を叩く雨の音だけが、静かに静かに空気を満たす。
四方雑木林は奥まで見通せないほど深い。そして、昏い。
――ツカマエタ。
ふいに声が響き、司は全身を硬直させた。
目をやれば、対岸に人影がある。それに気付いて司はぞっとした。
辺りが暗くて、その人影ははっきりとは認識できなかったけれど、間違いない。得体の知れないそのぼんやりとした朧な人影が、司に語り掛けているのだ。
――ツカマエタヨ。
耳障りな音だった。ぎりぎりと耳もとで鋸の刃をこすり合わせるような音。
――ツカマエタ。
人影のようなものが、再度、言った。
それは選択の余地など微塵も与えない、意思。司の耳には、『逃がすものか』と聞こえた。
影のような像なのに、その人影が確かに、嗤ったと思える。
不思議だと思った。雨が降っているのに、濡れているのに、温度を感じない。
自分の体温、空気の温度を感じない。
――それよりあたし、どうしてこんなところにいるわけ? ここ……どこなの?
茫然とただ、立ち尽くす。首筋に、湿気を孕んだ空気がそっと触れてゆく。
対岸の人影は、にやにやと確かに嗤っているように感じられる。
悪意、害意のようなものが、あわだつ気配とともに伝わってくる。背筋を、砕けた氷の破片がたくさん滑り降りてゆくような、おぞけを感じた。吐気が喉もとまでせり上がってくる。
――コッチニオイデ。
☆
閃光の如く雷がひらめき、雷鳴が轟いた。
優麻にはすぐに連絡がついた。車で来い、との柚真人の言葉に二つ返事で応じ、電話は切れた。
「……間に合えばいいが」
「……え?」
柚真人は、緋月の戸惑いの表情を、あの厳しい表情のまま一瞥したが、説明はしなかった。
「司を探しに行く。……あの写真の場所が何処か。それが問題だ」
「写真の、場所ですって? まさか……」
「覚えているか? 依頼者の話」
緋月は困惑して首を傾げた。柚真人は続けた。
「溺れた依頼者の子供の肺に、泥水が溜まっていたと言う話だ」
「ああ……」
「あの写真は質が悪いといったろう。おれが感じたのは、あれが、人を呼んでいる、と云うことなんだ」
「……呼んで……?」
「そう。それと、害意を通り越えた殺意だ。写真に何かが写り込んだわけじゃない。あの場所から、それを感じた。ひどく淋しいような怨念だったが、際限なく人を捕り殺すほど強烈な殺意と憎悪の塊だ。だからあの写真を始末するだけでは駄目だ、といったんだ。依頼者自身の問題は解決するが、根本的には解決になりはしない。だから少しばかり考えていたんだが……」
ふいに緋月は悟った。
柚真人が写真の場所を気にかけたわけが。
だがそれは同時に有り得ない事実を示唆していることになる。
「でも……そんなことが……」
「意味の無いことを気にするな」
ありえるのか、との緋月の問いを、最後まで聞かずに柚真人はあっさり一蹴した。
「写真を取りに戻っている時間はないし、あれから場所を辿るのは危険だ。あれを見た時のことを憶い出せ。手遅れになれば――司は文字通り命を奪われる」
「わ……かりました」
緋月は、ぎゅっと――その場で目を瞑った。
雷鳴なり響く校舎の中で、司のことを思った。いや――罵った、と言うべきだろうか。
――どうしてこうもど無防備なんですの、あなたは。
――危なっかしいったらないわ!
――すこしは反省すると良いんだわ!
――もう! もう! 気を揉ませないで頂戴!
――返事をなさって、司! どこにいるの!?
☆
――オイデヨ。
それは、さらに言い募った。
嫌だ、と司は思った。
けれど、意に反して司の足は一歩、沼の水に囚われてゆく。いうことをきかない自身の四肢。全身の毛穴から、冷たい汗が吹き出す。
司は全身に、込められるだけの力を入れた。けれど、感覚が失われたかのように、手応えがない。心臓が、恐怖のために肋骨のしたで早鐘のような鼓動を刻み、胸が痛い。息が苦しい。
これ以上逆らう術を、司は知らない。
力任せに抵抗する術しか。
だが、それはあながち間違いではないはずだ。
柚真人は、言う。すべては『意思』の力、己の心を信じる強さがあればよいのだと。世のあらゆる事象は、意思が生み出し支配するのだと。
恐怖に飲み込まれれば、司の意思は負ける。拒絶を思うのだ。強く。
――オマエモ死ネバイイ。
膝まで水に漬かった。
その、――瞬間。
司の脳裏に何かが流れ込んできた。
音。映像。声。感覚。感触。
水。濁った水の匂い。澱んだ沼の臭い。冷たい。寒い。
ひとりの少年。首に圧迫感。
げっ、と喉が詰まった。
ごふ、と咳をする。
ぐぇ、と喉が鳴った。
これはまるで、首を締められているみたい。
鼻から口から侵入してくる臭い水。
何度も何度も水面にたたきつけられる、顔。
その度に肺から逃げてゆく空気。
苦しい。苦しい。
苦悶に頭を激しく振って、司は屈み込んだ。両膝に手をつく。
その光景に圧倒される。正気が保てない。
「やめてっ」
司は、潰されたような圧迫感を感じる喉からしぼりだすように悲鳴を上げた。
「いや! あたしのなかに、勝手にはいってこないで!」
瞠目して両手で頭を抱え、首を振る。
「やめてやめて!」
――ミンナ。
――シンジャエバイインダ。
「いやだってば! いや! 聞きたくない、見たくない、やだっ」
――死ンジャエヨ……。
――ボクミタイニ……。
水の中に沈んでゆく体。
遠くなる意識。
死への恐怖。奪われる命への執着。
怨嗟、憎悪、呪詛。
――ボクダケ死ヌナンテイヤダヨ。
――狡イヨ。
「嫌ぁ!!!」

