03
緋月は、鞄を取り上げて教室を出た。
教室には、まだ二・三、鞄や荷物が残っている。
帰りは、剣道部の副主将・皇柚真人と一緒だったから、緋月は急いだ。柚真人が二年校舎の昇降口まできてくれる約束だったけれど、待たせるわけにはいかない。
弾む足取りで階段を駆けおりる。
そうして昇降口へと廊下を歩きだした時――だった。
ふいにぞくっ――と嫌な感じがした。
――これは――。
皇の血が感じる、不穏な空気。
緋月には、覚えがあった。
――これは、昨日の――!!
☆
七月末日の『晦日祓』のことだ。
儀式の前、皇邸にひとり、来客があった。『晦日祓』の準備をしていた緋月は、柚真人の許しを得て、その来客との交渉に立ち会った。
客の依頼は、いわゆる『心霊写真』の処分。
通常、月末日の儀式前に預託された物の『祓』は、一括してその日の儀式に付されることになっている。
だが、その時、緋月の隣に端座していた皇の巫は渋い顔をした。
――これは無理だ。簡単にはいかないよ。
依頼主が退出したのち、写真を卓に並べて、柚真人が言った。
写真を持ってきた依頼人のいうところのいわくは、こうだ。
――写真は、今年の七月の初めに、旅行先で撮影されたものだった。写っているのは、雑木林と、沼とも池とも着かない場所。それが何処かというと、正確にはわからないのだそうである。車で走っていると中、ふと車を止めて――シャッターを切っただけだから、なんとなくは思い出せるが――例えば走っていた道路が県道だったことや、夕方陽が傾きかけたころだったとか、山道を抜ける途中だったことなどだが――正確な所在地がわからないという。それ自体は、単に、景色を撮影しただけの写真数枚だった。世間でもてはやされているような、いかにもそれらしい写り込みなどは、みられない。
それゆえ依頼人も、気にはしていなかったというのだけれど、しかし。
その後――夏休みに入って依頼主の息子が学校のプールで溺死しかけた。浅い、普通のプールで、である。子供は一時重篤な状態に陥ったらしい。救急車で病院に運ばれたのだが、治療に当たった糾明医は奇妙なことをいった。子供の肺には、泥水が流れ込んでいたと。有り得ないことだった。子供が溺れたのは、普通のプールだ。泥水など、いったいどうして?
異変はそれが皮切りだった。やがて自宅の水道から出る水が濁り、異臭を放つようになった。水道管の奥からしじゅう、ごぼごぼという気持の悪い音が聞かれるようになった。ところが、点検しても設備に異常はない。それなのに、水道という水道から、悪臭を放つ水が流れ出る。幾度検査をしても、状況に変化はないという。今では、風呂にも入れず、水道水は完全に使用不能となった。
依頼主は、その時になって、ふとこの写真が気になったのだという。
そして、いったん思うと、気になって、気になって、どうにもしようがないのだという。
何か、悪い災いをもたらすものが、この『写真』にうつり込んだのではないかと。
子供はいまだ回復せず、妻は気味悪がって転居の検討を始めた。
依頼主は、青い顔で、そのように語った。
その写真が、いかなるモノを宿してしまったのか、ということまでは緋月にはわからなかった。だが柚真人には当然、すべてが見通せたはずだ。
緋月にわかったことといえば、その写真が写し出している――禍々しい気配、だけ。
その写真が凶兆を孕むものであることだけ。
ただ、水の匂いがすると――思った。澱んで濁った、ともすれば吐き気を催すほどの鼻につく水の匂いが。
――こいつは別件で取り扱おう。簡単な『お祓い』では手にあまる。
厳しい目をして、その時、柚真人は言ったのだ。
その、――とても耐えがたい臭気を纏った気配だ。
――どうしてですの!?
その場でふと目線を上げると――ひとりの女生徒の後ろ姿が目に入った。
そして緋月ははっとした。
あれは――司だ。
咄嗟にそう思った。
それは直感――だったろう。
その瞬間、緋月は舌打ちする。
そういえば昨日、柚真人とふたりで皇邸を訪れた時、司が帰宅していたではないか。
開け放しておいた応接間の襖が閉まっていて、来客をもてなした茶器一式が片付けてあった。
――迂闊な!
司が、あの応接間に入ったのだ。
他でもない、皇司が!
希代の巫女、至上の憑坐――皇司が。
「司っ!」
緋月は声を張り上げた。
その後ろ姿に漠然と不安を感じた。
司の身に、よくないことがおこりかけている。そう思ったのだ。
張った声に載せた意思で、なんらかの呪縛を裁てたらと――そう期待したが。
一瞬のまばたきの合間に。
彼女の後ろ姿が消えた。
緋月は目をしばたたいた。
なんどもなんども、まばたきを繰り返す。
幻覚? 見間違い? いや、確かにいたはずだ。あれは間違いなく司だった。
「……つ……かさ?」
もはや廊下に人影はない。
「つかさ!?」
緋月は咄嗟に四囲を見渡す。だが、いない。いま、その先にいたはずの、皇司の姿がない。見当たらない。
――消えた? そんな……馬鹿な!!
「つかさ、どこですの!! 司!」
返答はない。
暗い廊下に稲妻の白い光が交錯し、轟音が空気を震わせる。
緋月は、再び舌打ちし、廊下を駆け出した。
☆
「遅かったね、緋月」
昇降口の外では、皇柚真人が人待顔でたたずんでいた。
柚真人は緋月の姿を認めると柔らかく微笑んで手を上げかけたが、その血相変えた形相にすぐさま異変を悟ったようだ。
「どうした?」
「こちらへいらして!」
緋月はかまわず柚真人の手を掴んで校舎の中へ引きずり込む。
「おい、緋月!?」
「お気付きになりませんの!」
と言いかけて、緋月はさっきまでの嫌な空気がすっかり消えていることに気付く。
「緋月?」
「……柚真人さま、司が」
「……司?」
――なんといったらいいだろう?
焦って、緋月は一瞬口ごもった。
言葉が上手く出てこない。
「あの、その――たったいまここの――ここの廊下で、消えてしまったのです!」
「ぁ?」
「信じられませんわ! 消えたんですのよっ! わたくし――! 司、――司が!」
人の心配を余所に、凡人を決め込んできるあの危なっかしい幼馴染みが恨めしい。
身を守る術さえ持とうとしないから、心配で仕方ないというのに――この様だ。
「緋月、ちょっと落ち着いてくれないか」
「落ち着いてなんていられませんわよ! 司……、昨日あの部屋に――『写真』をおいてあった、あの部屋に入ったのですわ!」
途端。
柚真人の表情が変わった。
「なに――?」
緋月の肩を抑えながら、すっと目を細めて視線を流す。
緋月は黙ってそれを見ていた。
「――柚真人さま……」
「まずいな。それと知らず、憑かれたわけか」
「申し訳ありません、……わたくし、きちんと片付けておくべきでしたわ」
「『消えた』といったな?」
「ええ……その……信じられないのですけれど、でもそうとしか思えません。一瞬で見失ったのですわ。どこにも行けるはずかありませんのに……」
「なるほど」
緋月は目を瞠って柚真人を見た。
「そういうことも、ありえるのか……」
「柚真人さま……?」
彼はすでに何か思案している。
そういう瞳の色をしていた。
「司は……一体どうなってしまいましたの?」
柚真人はそれには答えなかった。
「こちらとしては、巫女は取り戻したいな」
「ええ――ええ、当然ですわ」
的を得た端的な応えに、緋月は大きく何度も頷いた。それだけは確かなこと。
緋月にはわからなくとも、皇柚真人は一瞬で理解したのだろう。何が起こったのか。
それがまざしでわかる。
十七歳の高校生は、瞬間で、氷の気配を漂わせる皇神社の神主になる。
まなざしは厳しく、声音は鋭く。
「……おれの失態だ」
低く、鋭く、彼は囁く。
己を叱責するが如く。
顔を上げて柚真人を見た緋月は次の瞬間、身が竦む畏怖を覚えた。
「柚真人さま……」
「優麻に連絡を。緋月、頼めるか?」
緋月は頷いた。
鞄から携帯電話を取り出して、記録されている番号を呼び出す。
「くそ……どこだ。あの写真の場所は……」
柚真人が鋭く呟いた。
「――」
その時の、皇の巫の表情を――しばらくは忘れられないだろう――そう思った。
緋月は、鞄を取り上げて教室を出た。
教室には、まだ二・三、鞄や荷物が残っている。
帰りは、剣道部の副主将・皇柚真人と一緒だったから、緋月は急いだ。柚真人が二年校舎の昇降口まできてくれる約束だったけれど、待たせるわけにはいかない。
弾む足取りで階段を駆けおりる。
そうして昇降口へと廊下を歩きだした時――だった。
ふいにぞくっ――と嫌な感じがした。
――これは――。
皇の血が感じる、不穏な空気。
緋月には、覚えがあった。
――これは、昨日の――!!
☆
七月末日の『晦日祓』のことだ。
儀式の前、皇邸にひとり、来客があった。『晦日祓』の準備をしていた緋月は、柚真人の許しを得て、その来客との交渉に立ち会った。
客の依頼は、いわゆる『心霊写真』の処分。
通常、月末日の儀式前に預託された物の『祓』は、一括してその日の儀式に付されることになっている。
だが、その時、緋月の隣に端座していた皇の巫は渋い顔をした。
――これは無理だ。簡単にはいかないよ。
依頼主が退出したのち、写真を卓に並べて、柚真人が言った。
写真を持ってきた依頼人のいうところのいわくは、こうだ。
――写真は、今年の七月の初めに、旅行先で撮影されたものだった。写っているのは、雑木林と、沼とも池とも着かない場所。それが何処かというと、正確にはわからないのだそうである。車で走っていると中、ふと車を止めて――シャッターを切っただけだから、なんとなくは思い出せるが――例えば走っていた道路が県道だったことや、夕方陽が傾きかけたころだったとか、山道を抜ける途中だったことなどだが――正確な所在地がわからないという。それ自体は、単に、景色を撮影しただけの写真数枚だった。世間でもてはやされているような、いかにもそれらしい写り込みなどは、みられない。
それゆえ依頼人も、気にはしていなかったというのだけれど、しかし。
その後――夏休みに入って依頼主の息子が学校のプールで溺死しかけた。浅い、普通のプールで、である。子供は一時重篤な状態に陥ったらしい。救急車で病院に運ばれたのだが、治療に当たった糾明医は奇妙なことをいった。子供の肺には、泥水が流れ込んでいたと。有り得ないことだった。子供が溺れたのは、普通のプールだ。泥水など、いったいどうして?
異変はそれが皮切りだった。やがて自宅の水道から出る水が濁り、異臭を放つようになった。水道管の奥からしじゅう、ごぼごぼという気持の悪い音が聞かれるようになった。ところが、点検しても設備に異常はない。それなのに、水道という水道から、悪臭を放つ水が流れ出る。幾度検査をしても、状況に変化はないという。今では、風呂にも入れず、水道水は完全に使用不能となった。
依頼主は、その時になって、ふとこの写真が気になったのだという。
そして、いったん思うと、気になって、気になって、どうにもしようがないのだという。
何か、悪い災いをもたらすものが、この『写真』にうつり込んだのではないかと。
子供はいまだ回復せず、妻は気味悪がって転居の検討を始めた。
依頼主は、青い顔で、そのように語った。
その写真が、いかなるモノを宿してしまったのか、ということまでは緋月にはわからなかった。だが柚真人には当然、すべてが見通せたはずだ。
緋月にわかったことといえば、その写真が写し出している――禍々しい気配、だけ。
その写真が凶兆を孕むものであることだけ。
ただ、水の匂いがすると――思った。澱んで濁った、ともすれば吐き気を催すほどの鼻につく水の匂いが。
――こいつは別件で取り扱おう。簡単な『お祓い』では手にあまる。
厳しい目をして、その時、柚真人は言ったのだ。
その、――とても耐えがたい臭気を纏った気配だ。
――どうしてですの!?
その場でふと目線を上げると――ひとりの女生徒の後ろ姿が目に入った。
そして緋月ははっとした。
あれは――司だ。
咄嗟にそう思った。
それは直感――だったろう。
その瞬間、緋月は舌打ちする。
そういえば昨日、柚真人とふたりで皇邸を訪れた時、司が帰宅していたではないか。
開け放しておいた応接間の襖が閉まっていて、来客をもてなした茶器一式が片付けてあった。
――迂闊な!
司が、あの応接間に入ったのだ。
他でもない、皇司が!
希代の巫女、至上の憑坐――皇司が。
「司っ!」
緋月は声を張り上げた。
その後ろ姿に漠然と不安を感じた。
司の身に、よくないことがおこりかけている。そう思ったのだ。
張った声に載せた意思で、なんらかの呪縛を裁てたらと――そう期待したが。
一瞬のまばたきの合間に。
彼女の後ろ姿が消えた。
緋月は目をしばたたいた。
なんどもなんども、まばたきを繰り返す。
幻覚? 見間違い? いや、確かにいたはずだ。あれは間違いなく司だった。
「……つ……かさ?」
もはや廊下に人影はない。
「つかさ!?」
緋月は咄嗟に四囲を見渡す。だが、いない。いま、その先にいたはずの、皇司の姿がない。見当たらない。
――消えた? そんな……馬鹿な!!
「つかさ、どこですの!! 司!」
返答はない。
暗い廊下に稲妻の白い光が交錯し、轟音が空気を震わせる。
緋月は、再び舌打ちし、廊下を駆け出した。
☆
「遅かったね、緋月」
昇降口の外では、皇柚真人が人待顔でたたずんでいた。
柚真人は緋月の姿を認めると柔らかく微笑んで手を上げかけたが、その血相変えた形相にすぐさま異変を悟ったようだ。
「どうした?」
「こちらへいらして!」
緋月はかまわず柚真人の手を掴んで校舎の中へ引きずり込む。
「おい、緋月!?」
「お気付きになりませんの!」
と言いかけて、緋月はさっきまでの嫌な空気がすっかり消えていることに気付く。
「緋月?」
「……柚真人さま、司が」
「……司?」
――なんといったらいいだろう?
焦って、緋月は一瞬口ごもった。
言葉が上手く出てこない。
「あの、その――たったいまここの――ここの廊下で、消えてしまったのです!」
「ぁ?」
「信じられませんわ! 消えたんですのよっ! わたくし――! 司、――司が!」
人の心配を余所に、凡人を決め込んできるあの危なっかしい幼馴染みが恨めしい。
身を守る術さえ持とうとしないから、心配で仕方ないというのに――この様だ。
「緋月、ちょっと落ち着いてくれないか」
「落ち着いてなんていられませんわよ! 司……、昨日あの部屋に――『写真』をおいてあった、あの部屋に入ったのですわ!」
途端。
柚真人の表情が変わった。
「なに――?」
緋月の肩を抑えながら、すっと目を細めて視線を流す。
緋月は黙ってそれを見ていた。
「――柚真人さま……」
「まずいな。それと知らず、憑かれたわけか」
「申し訳ありません、……わたくし、きちんと片付けておくべきでしたわ」
「『消えた』といったな?」
「ええ……その……信じられないのですけれど、でもそうとしか思えません。一瞬で見失ったのですわ。どこにも行けるはずかありませんのに……」
「なるほど」
緋月は目を瞠って柚真人を見た。
「そういうことも、ありえるのか……」
「柚真人さま……?」
彼はすでに何か思案している。
そういう瞳の色をしていた。
「司は……一体どうなってしまいましたの?」
柚真人はそれには答えなかった。
「こちらとしては、巫女は取り戻したいな」
「ええ――ええ、当然ですわ」
的を得た端的な応えに、緋月は大きく何度も頷いた。それだけは確かなこと。
緋月にはわからなくとも、皇柚真人は一瞬で理解したのだろう。何が起こったのか。
それがまざしでわかる。
十七歳の高校生は、瞬間で、氷の気配を漂わせる皇神社の神主になる。
まなざしは厳しく、声音は鋭く。
「……おれの失態だ」
低く、鋭く、彼は囁く。
己を叱責するが如く。
顔を上げて柚真人を見た緋月は次の瞬間、身が竦む畏怖を覚えた。
「柚真人さま……」
「優麻に連絡を。緋月、頼めるか?」
緋月は頷いた。
鞄から携帯電話を取り出して、記録されている番号を呼び出す。
「くそ……どこだ。あの写真の場所は……」
柚真人が鋭く呟いた。
「――」
その時の、皇の巫の表情を――しばらくは忘れられないだろう――そう思った。

