勾玉遊戯:過去編1990-2000

02



 翌日も朝から青空が広がり、とても暑かった。

      ☆

 その日の部活は午後からで、暁緋月は、教室に荷物を置くと胴着と竹刀を携えて、教室を出た。更衣室で着替えて、防具を身に付けたら、これから三時間半の鍛練だ。
 一年校舎の廊下の窓からは、西の空が見える。
 陽はまだ高かったが、青い空に湧き出す入道雲が見えた。
 ――あら……。
 真っ白な雲は、西から東にせり出すように、空の天涯を浸蝕している。積乱雲は、見ている間にも高く高く育っていくように見えた。
 ――今日は、夕立がくるかしら……?
 天気予報ではそんなことをいっていたかもしれない。夕方は、いくらか涼しくなるだろうか。
 道場の暑さを思いながら、緋月は足を速めた。


 開け放った窓の向こう、今は緑の桜並木を抜けたところにある道場体育館からは、遠く、かすかに、喚声や、竹刀の弾ける音。そして校庭の方からは、運動部のおざなりな掛け声や、笛の音が、聞こえる。
 教室の時計は午後四時半をまわって、本日の部活動の終了が間近いことを告げていた。
「ね。なんだか凄い曇ってきてない?」
 誰かが言い、教室にいた生徒達は、その声につられるように窓を見遣った。
「あ、ほんとだな」
「真っ暗だね」
 隣で作業にいそしんでいた佐原彩も顔を上げた。
「……皇ちゃん、傘持ってきた?」
 訊かれた司は友人に肩を竦めて見せる。
「全然。でも夕立だったら、傘は役に立たないと思う」
「……そりゃそうか」
「降りそ?」
「うん、かなりね。向こうの空、真っ黒だもの」
 言われて、司も顔を上げた。窓から空を見る。
 司が級友の笹原彩と所属しているのは、『美術部』だ。美術部といっても、絵を描くことをもっぱらの目的とする、典型的な美術部ではない。
 西陵高校では、そのような部は『絵画部』と呼ばれ、『美術部』とは別に存在する。
 司の所属する部は、絵画を描くことはしない。活動内容は、木版画や七宝焼の作成、判子の篆刻、などで――どちらかというと工芸に近いのである。そのせいか、『絵画部』より、男子の比率がいくらか高かった。
 現在の司たちは、夏休み期間中に製作するステンドグラスの下書作業中だった。ステンドグラスといってもそんなに大袈裟な物ではなくて、画用紙ほどの大きさだ。図柄はそれぞれだったが、司は鳥を、彩は数学的幾何学模様をテーマにしていた。
 予定では、文化祭に展示することになっている。
 彩が作業を止めて、定規で肩を叩きながら鼻を鳴らした。
「……夕立が通り過ぎるのを待つべきかしら」
 ステンドグラスにしては斬新な、彩のデザイン画を覗き込みながら、司も頷く。司の方はといえば、あまり絵は得意でなくて、図書館から拝借してきた鳥の図鑑が机の上に広がっていた。下書用の紙は、白いままだ。
 嘆息し、司も彩に習った。両手を延ばして伸びをする。
「微妙なところだなあ。今なら走れば、降り出す前には駅に着くかも」
「今年は、夕立が多いわね」
「そうだね……」
 窓からの風は湿度を帯び、遠くの雨の匂いを運んでくる。
 遠雷が聞こえた。
 司と彩が、どうしようかと顔を見合わせた――その時。
「じゃあ、今日はこの辺にしておきましょうか。各自、後片付けをして、解散していいわ」
 教壇に立った部長が、にこやかに宣言した。
 美術部の現部長は、背が高くて髪の長い、綺麗な女生徒だった。この制作を最後に引退する、三年生だ。
「当番の人は、軽くでいいから、教室の清掃をしてから鍵を閉めて、顧問の先生に返却してから帰ってね」


 教室掃除の当番は司で、彩は彼女を待って一年校舎の昇降口にいた。
 校庭への扉の前にたたずんで空を見上げる。
 空は鈍色のものものしい雨雲に覆われつつあったが、まだ雨が降り出す様子はない。
 ――先、帰っていいよ、彩ちゃん。
 雨が降ったら濡れてしまうから、と言った司の言葉を思い出して、ひとり、小さく微笑む。
 彩は、待っていると言った。
「びしょ濡れで電車に乗る羽目になったら、お互いひとりはきついでしょ」と言ったら、司は困ったような表情で目を伏せたて何度も頭を下げた。
 ――ごめん、じゃ、すぐ! すぐすませる。ごめんね。
 今日、掃除当番なのは何もあんたのせいじゃないでしょ、と言ったのだが、どうしても、なんでも自分のせいにしてしまうきらいがあるようだ。あの友人は。
 数か月のつき合いで、彼女にはやたらと謝る癖があること、物静かで落ちついているのに粗忽で不器用だということを、彩は知った。
 ただそこにいれば、神社の娘だというのがしっくりくるくらい超然としていて、いっそ神秘的な感じさえするというのに、びっくりするようなへまっぷりを披露してくれるときもあるのだ。
 ――見てられないっていうか目がはなせないって言うか。
 彼女が来る前に、雨は降り出すだろうか――彩は、曇天を見上げ、近づいてくる雷鳴を聞きながら、ぼんやりとそんなことを思った。
 それなら二人で、雨宿りだ。

      ☆

 部活で使用した教室の清掃として、生徒に義務付けられているのは、床を掃き清めておくことだけだ。
 ひとり教室に残った司は、手早く清掃を済ませて、箒と塵取を教室の隅のロッカーにしまった。誰もいない教室、というのはあまり好きではない。
 例によって例のごとく、あわてて急げばそのぶんだけ、あちこちぶつけたり、ごみ箱をひっくり返したりと間の抜けたことをしてしまうのだが、それもなんとか片づけて立ち上がって照明を消し、教室前後の扉に鍵を掛け、司は職員室へと急いだ。
 そして鍵を返却すると、昇降口へ向かって廊下を掛け降りる。


 照明のない廊下は、空を覆う雷雲のせいで、薄暗かった。
 夏季休暇中の学校は、午後の部活動も終了して、ひと気がない。
 彩が待っている。雨が降り出さないうちに――そう思って、司が足を速めた。
 その時だ。
 頭の奥が、ぴりっと――かすかに痛んだのは。
 その感覚には覚えがあった。
 全身に鳥肌が立つ――いやな感覚。
「あ……」
 足許から冷たい気配が這い上り、皮膚を撫で上げてゆく。
 唐突に全身を急襲した悪寒に戸惑う。
 司は――思わず立ち止まってしまった。
 ――駄目だ。駄目。
 止まってしまうと、足がすくむ。
 振り返ってはいけないのだと、わかっていた。
 だが。
 逆らえない。
 逆らえないということに愕然とした。
 こんなことは――滅多にない。
 強く、明確な、意思を感じる。それはもはやこの世の者ではない、存在の、確たる気配。
 ――な、なに、これ……?
 どくんどくんどくん。
 胸の奥の何かをぎゅっと握り締められたような窒息感に喘ぐ。恐怖に、心臓が暴れる。
 ――どう、して……?
 拒絶できない――そのことの事実が、恐怖を煽った。
 ――っ……。
 歯を食いしばって――司は。
 ゆっくり振り向く。
 振り向くと、真っ直ぐに、廊下が伸びていた。
 いま、自分が歩いてきた廊下。奇妙なのは――本当に真っ直ぐ伸びていて、ずっと、ずっと消失点まで廊下が続いている――ことだった。
 おかしい。学校の校舎の廊下がこんなにどこまでも長いはずはない。物理的に不可解だ。
 消失点と、司との、間ぐらいに――なにかが在った。
 影の凝り。人影だ。
 男? 女? 子供? ――わからない。
 ――コッチ。
 その、人影が『言』った。
 ――コッチ。
 するりと、すくんだはずの司の足が動いた。――前へ。
 雷鳴が聞こえた。
 空が、光った。