01
皇司は、皇神社の『巫女』である。
お化けが嫌いで、幽霊も怖い。
☆
神社の鳥居の前に立った時――ふいに目眩がした。
頭蓋の奥の深いところ、脳髄の芯を鋭い針で指されるように不快な頭痛を感じて、司は幾度か深呼吸を繰り返す。
――毎日暑い……。
鳥居にもたれて額を押さえ、そんなことを思ったが、次の瞬間――司はなんだか滑稽になって唇を噛んだ。
――暑いから、だけじゃ、ない……か。
けれど、それを認めたくないことは事実だ。
鳥居を仰ぐと注連縄の向こうに夏空が見えた。
傾きはじめた太陽からなだれ落ちてくる光が眩しくて、司は一瞬目をすがめたが、すぐに身を起こす。そして、一歩境内に踏み出した。
鳥居と注連縄が結界する黄泉の女神の聖域へ。
司は、巫の血を受け継いでいる。
夏、――というのは嫌な季節だ。
彼岸から、此岸へと死者が還る季節だ。
古来より。世には、憑坐として生まれつきし者がある。
ただ人には閉ざされた、異界を識る者がある。
自分は――。
玉砂利を蹴って、参道を抜けてゆく。
「あ、司ちゃん。おかえりなさァい」
その途中で、竹箒をもったバイト巫女が司の姿を認めて手を上げた。長く艶やかな黒髪を束ねた、いかにもな風情の女性だ。
足を止め、司は軽く頭を下げた。
「ミサトさん。こんにちは」
「今日もあついわよねえっ。夏休みなのに制服なんか着ちゃって、なあに、部活?」
「そお。暑くて大変だったよ。休み中、は教室の空調止まってるんだもん。レイカさんは?」
「柚真人君がいま、社殿で『お祓い』で。レイカはそのお手伝いよ」
ミサトが肩を竦めて微笑み、社殿を示すので、司は参道の奥の社殿を見遣った。
言われてみると、今日は七月の――三十一日。
――『晦日祓』の日――だ。
皇神社では、処分に困るような曰付きの物や心霊写真、供養が必要と思われる道具などを、世間一般の人々から委託のもとに預かって、浄化鎮魂の祝詞を上げ、しかるべき処置をして処分している。
それもまた『死者祓』の一部なのである。月末に行うのでこれを『晦日祓』と称し、大概の神社で――もちろん皇神社でも――行われる、『夏越の大祓』とはまた異なった意味合いを持つ。
皇神社の神事だ。
「あ、じゃあ、緋月ちゃんも来てるんだ?」
参道で立ち止まった司は、社殿を横目に見ながら尋ねた。
晦日祓は皇神社が伝承する正式な儀式だから巫女も必要なのだが、司はその勤めを拒否している。そのため、柚真人が神主となってからはバイト巫女と暁緋月が柚真人を手伝っているのだ。
ミサトは軽く頷いた。
「ええ、暁のお嬢様ね。いらしてますよ。あの可愛らしい方ね」
司は頷いた。
「そうそう。緋月ちゃんは、可愛いって、嬉しくないみたいだけれどね」
「あれでしょ。当たり前のことは言わないで下さる? ってやつ」
「そうそう、それ」
司は微笑むミサトにふたたび会釈し、参道を歩きだした。
社殿の前の鳥居をくぐって斎庭を横切り、参道を逸れ、林の奥へ続くかのように見える細い道を少しゆくと、神社と皇の屋敷との敷地を隔てる格子門。
司は、もういちど足を止めて――肩越しに社殿を見ながら、格子門の扉を開けた。
☆
夏休みの間は、皇邸に家政要員はいない。
「学校がない時は、身の回りの世話ぐらい自分達でやりなさいね」、とは家政要員の雇主たる長兄・卓史の言葉だ。
その言葉に従って兄と家事を分担した結果、料理と掃除以外が、司の担当だった。
西日に照らし出された庭を見ながら、干してある洗濯物を入れなくては、と思う。
玄関から家に上がると、家はしんとしていて、涼しい空気に満たされていた。
やたらめったら古いこの木造純日本建築の邸宅は、まわりを雑木林や竹林に囲まれていることもあってか、真夏でもかなり過ごしやすい。
玄関から真っ直ぐ伸びた薄暗い廊下を左手に折れ、さらに右手にずっと行くと、司の部屋だ。けれど司は、自室に行く前に、玄関をあがってすぐの居間と間続きになっている応接間を覗いた。
たった今まで人が――誰かがいたような気配があったからだった。
応接間は廊下に面した襖が開け放たれ、部屋中央のテーブルには急須と、飲み残したお茶の入った湯飲みが二つ置かれていた。それと――。
――写真?
数枚の写真のようなものが在るのがわかった。
兄の『仕事』の関係での、来客が、あったのだろう。すると、察するにその写真もまたそれにかかわるものであるはず。
すなわち司にとって好ましいものではない。
写真からは、不吉な感じがした。
いうなればそれは――。
回避すべき悪寒、忌避すべき寒気。
よくないものである。
司には、それがわかる。全身に鳥肌が立つつような、冷たい不快感。
――これは……見ちゃ、駄目だ。触っちゃ駄目。
司は嘆息し、写真はそのまま置いておいて――これは柚真人が管理すべきものだから、触ってはいけない――急須と湯飲みを取り上げた。それらを台所の流しへ持ってゆき、応接間の襖を閉め、そして自分の部屋へ向かった。
鞄を置いたら制服を着替え、洗濯物を取込んでたたんで――。
柚真人と緋月が晦日祓をしている間に、司にもしなくてはならないことは在った。
けれど、でも。
そう思う時、胸によぎるのは何だろう。
罪悪感――。
自己嫌悪、にも似た、喉の奥につっかえるような、気持だ。
これは、現実逃避だろうか。
司は、この社を兄と二人で守るべきつとめを負う、巫女である――だが。
神社の神事のすべてを、投げ出して兄やほかの人間に任せてしまうのは――皇の家にその血を受け継いで生まれたからには、目を背けてはいけないことなのかもしれない。
死者の魂に触れることのできるこの巫の力。
巫女の力。
それが己の裡に宿っていることは、知っている。
知ってはいるが。
――認めたくは、無い。
それは、存外におぞましいものだ。
司には、どうしたって受け入れられない。
異能を授かったからといって、それを黙って受け入れなくてはならないというのは、不条理なことだ。理不尽なことだ。
怨嗟、呪詛、苦悶、悲嘆、悔恨、哀願――人の魂の闇。
そんなもの――知りたくない。
司はそれらからできうるかぎり目を背けてきた。これは現実のものでない。
幻――夢――妄想――何でもいい、とにかく受け入れたくなかった。視たくなかった。聴きたくなかった。
――夏は、嫌な季節だ。
司は、制服を脱ぐ手をとめて、軽く、横に頭を振った。
二人とが儀式と禊を終えてくるころには、お茶ぐらい用意しよう。柚真人は、絶対に台所をいじるなというが、お茶をいれるぐらいのことはいくら何でも許されるだろう。
柚真人と緋月が仕事を終えて、皇邸へ戻ったのは、それから程なくのことだった。
皇司は、皇神社の『巫女』である。
お化けが嫌いで、幽霊も怖い。
☆
神社の鳥居の前に立った時――ふいに目眩がした。
頭蓋の奥の深いところ、脳髄の芯を鋭い針で指されるように不快な頭痛を感じて、司は幾度か深呼吸を繰り返す。
――毎日暑い……。
鳥居にもたれて額を押さえ、そんなことを思ったが、次の瞬間――司はなんだか滑稽になって唇を噛んだ。
――暑いから、だけじゃ、ない……か。
けれど、それを認めたくないことは事実だ。
鳥居を仰ぐと注連縄の向こうに夏空が見えた。
傾きはじめた太陽からなだれ落ちてくる光が眩しくて、司は一瞬目をすがめたが、すぐに身を起こす。そして、一歩境内に踏み出した。
鳥居と注連縄が結界する黄泉の女神の聖域へ。
司は、巫の血を受け継いでいる。
夏、――というのは嫌な季節だ。
彼岸から、此岸へと死者が還る季節だ。
古来より。世には、憑坐として生まれつきし者がある。
ただ人には閉ざされた、異界を識る者がある。
自分は――。
玉砂利を蹴って、参道を抜けてゆく。
「あ、司ちゃん。おかえりなさァい」
その途中で、竹箒をもったバイト巫女が司の姿を認めて手を上げた。長く艶やかな黒髪を束ねた、いかにもな風情の女性だ。
足を止め、司は軽く頭を下げた。
「ミサトさん。こんにちは」
「今日もあついわよねえっ。夏休みなのに制服なんか着ちゃって、なあに、部活?」
「そお。暑くて大変だったよ。休み中、は教室の空調止まってるんだもん。レイカさんは?」
「柚真人君がいま、社殿で『お祓い』で。レイカはそのお手伝いよ」
ミサトが肩を竦めて微笑み、社殿を示すので、司は参道の奥の社殿を見遣った。
言われてみると、今日は七月の――三十一日。
――『晦日祓』の日――だ。
皇神社では、処分に困るような曰付きの物や心霊写真、供養が必要と思われる道具などを、世間一般の人々から委託のもとに預かって、浄化鎮魂の祝詞を上げ、しかるべき処置をして処分している。
それもまた『死者祓』の一部なのである。月末に行うのでこれを『晦日祓』と称し、大概の神社で――もちろん皇神社でも――行われる、『夏越の大祓』とはまた異なった意味合いを持つ。
皇神社の神事だ。
「あ、じゃあ、緋月ちゃんも来てるんだ?」
参道で立ち止まった司は、社殿を横目に見ながら尋ねた。
晦日祓は皇神社が伝承する正式な儀式だから巫女も必要なのだが、司はその勤めを拒否している。そのため、柚真人が神主となってからはバイト巫女と暁緋月が柚真人を手伝っているのだ。
ミサトは軽く頷いた。
「ええ、暁のお嬢様ね。いらしてますよ。あの可愛らしい方ね」
司は頷いた。
「そうそう。緋月ちゃんは、可愛いって、嬉しくないみたいだけれどね」
「あれでしょ。当たり前のことは言わないで下さる? ってやつ」
「そうそう、それ」
司は微笑むミサトにふたたび会釈し、参道を歩きだした。
社殿の前の鳥居をくぐって斎庭を横切り、参道を逸れ、林の奥へ続くかのように見える細い道を少しゆくと、神社と皇の屋敷との敷地を隔てる格子門。
司は、もういちど足を止めて――肩越しに社殿を見ながら、格子門の扉を開けた。
☆
夏休みの間は、皇邸に家政要員はいない。
「学校がない時は、身の回りの世話ぐらい自分達でやりなさいね」、とは家政要員の雇主たる長兄・卓史の言葉だ。
その言葉に従って兄と家事を分担した結果、料理と掃除以外が、司の担当だった。
西日に照らし出された庭を見ながら、干してある洗濯物を入れなくては、と思う。
玄関から家に上がると、家はしんとしていて、涼しい空気に満たされていた。
やたらめったら古いこの木造純日本建築の邸宅は、まわりを雑木林や竹林に囲まれていることもあってか、真夏でもかなり過ごしやすい。
玄関から真っ直ぐ伸びた薄暗い廊下を左手に折れ、さらに右手にずっと行くと、司の部屋だ。けれど司は、自室に行く前に、玄関をあがってすぐの居間と間続きになっている応接間を覗いた。
たった今まで人が――誰かがいたような気配があったからだった。
応接間は廊下に面した襖が開け放たれ、部屋中央のテーブルには急須と、飲み残したお茶の入った湯飲みが二つ置かれていた。それと――。
――写真?
数枚の写真のようなものが在るのがわかった。
兄の『仕事』の関係での、来客が、あったのだろう。すると、察するにその写真もまたそれにかかわるものであるはず。
すなわち司にとって好ましいものではない。
写真からは、不吉な感じがした。
いうなればそれは――。
回避すべき悪寒、忌避すべき寒気。
よくないものである。
司には、それがわかる。全身に鳥肌が立つつような、冷たい不快感。
――これは……見ちゃ、駄目だ。触っちゃ駄目。
司は嘆息し、写真はそのまま置いておいて――これは柚真人が管理すべきものだから、触ってはいけない――急須と湯飲みを取り上げた。それらを台所の流しへ持ってゆき、応接間の襖を閉め、そして自分の部屋へ向かった。
鞄を置いたら制服を着替え、洗濯物を取込んでたたんで――。
柚真人と緋月が晦日祓をしている間に、司にもしなくてはならないことは在った。
けれど、でも。
そう思う時、胸によぎるのは何だろう。
罪悪感――。
自己嫌悪、にも似た、喉の奥につっかえるような、気持だ。
これは、現実逃避だろうか。
司は、この社を兄と二人で守るべきつとめを負う、巫女である――だが。
神社の神事のすべてを、投げ出して兄やほかの人間に任せてしまうのは――皇の家にその血を受け継いで生まれたからには、目を背けてはいけないことなのかもしれない。
死者の魂に触れることのできるこの巫の力。
巫女の力。
それが己の裡に宿っていることは、知っている。
知ってはいるが。
――認めたくは、無い。
それは、存外におぞましいものだ。
司には、どうしたって受け入れられない。
異能を授かったからといって、それを黙って受け入れなくてはならないというのは、不条理なことだ。理不尽なことだ。
怨嗟、呪詛、苦悶、悲嘆、悔恨、哀願――人の魂の闇。
そんなもの――知りたくない。
司はそれらからできうるかぎり目を背けてきた。これは現実のものでない。
幻――夢――妄想――何でもいい、とにかく受け入れたくなかった。視たくなかった。聴きたくなかった。
――夏は、嫌な季節だ。
司は、制服を脱ぐ手をとめて、軽く、横に頭を振った。
二人とが儀式と禊を終えてくるころには、お茶ぐらい用意しよう。柚真人は、絶対に台所をいじるなというが、お茶をいれるぐらいのことはいくら何でも許されるだろう。
柚真人と緋月が仕事を終えて、皇邸へ戻ったのは、それから程なくのことだった。

