03
☆
その日の夜。
司は、闇を見ていた。
その夜、なぜか寝付けなかったのだ。
熱帯夜ではあったが暑いわけではなかったし、寝苦しいというほどでもなかった。
司は、暑さにも寒さにも弱い方ではない。それに、幼い頃から空調設備などを一切利用せずにいかなる季節も過ごすよう習慣づけられていたから、夏の夜の暑さなど、たいした問題ではないのだ。
それでも、どうしても眠れなかった。
夜中におきだしたくなかったから、なんとか眠ろうと努力した。
だが、どうにも眠気が訪れない。
司は、どうしようもなくなって寝台を抜け出した。
――水……でも飲んでこよう。
枕元の時計を見ると、午前二時を少し過ぎた頃だった。
家の中かがしんとしていて、夏の蝉の聲も途絶えるこの時間が、司はあまり好きでは無い。
――いやな時間だな。
そう、思った。
司は、部屋を出ると廊下を歩いて、台所へ向かった。
板張りの廊下が、足をのせて歩をすすめるたびにぎしぎしと軋んだ。
部屋を出て、客間の前の廊下を通り過ぎ、居間の向こうが台所だ。
静かだった。
どこか遠くで家鳴が聞こえる。
そして、居間の前を通り過ぎようとしたとき――そのとき、判開きの襖の向こうに――司は、人影をみた。
居間の、ソファに座る人影を。
おもわずびっくりして足を止め――固唾を飲む。
全身硬直させて司は身構えたが、ややあってそれが柚真人であることに気が付いた。
それは、司の兄の柚真人だった。
思えば当たり前のことだ。この古い屋敷には、たいていの夜は、柚真人と司の二人しかいないのだから。
柚真人はというと、ソファに身を投げだして、天井を仰いでいる様子がうかがえる。
起きているようだ。
暗闇の中で。
中庭に面した大きな窓からさしこむ、淡い月の光のほかには――明かりも点けずに。
夜中の二時だ。
不可解な思いに囚われた司は、その場で暗闇に目を凝らした。
――柚真人……?
司は少し目を凝らした。
そしてややあって、さらに不可解な違和感に気付く。
闇のなかにおぼろげに見える体躯の輪郭や、髪の感じはまちがいなく柚真人のものだった。
それは確かだ。
そもそも司をのぞけば彼以外の人間が、いるはずが無い。
だから、たしかにそれは兄であることに間違いはなかった。
――でも……。
やけにはっきり冴えた目を凝らして、闇をうかがう。
そして司は口にしていた。
「……誰……?」
と。
思えばそれば奇妙な問いだった。
目の前にいるのは兄・皇柚真人以外の何者でもあるはずが無いというのに。
けれど何故か、その者が柚真人とは、違う誰かであるような気がしたのだ。
根拠は、と問われれば明確には堪えられない、けれど、たとえていうならその場を支配する空気の色が、違うように思えた――ということになるだろう。
司の知る皇柚真人は、峻烈なまでに透明な空気を放つ少年だ。
けれどそこに司の馴染んだ空気はなく――蒼藍色のような、紺青色のような、深い澱があるように感じられた。
夜――のせいかも知れなかったけれど、どうしてか、それが不可解に思えた。
違う。
柚真人じゃ、ない――?
自分が感じている違和感をすら、不可解に思う。
そんなはずは、ない。
「……誰……?」
もういちどはっきり訊くと――闇がわずかに揺れた。
「……」
司はかすかに身動ぎする。
どうしよう、と思った。
自分が不条理なことを言っているという自覚はあった。
目の前にいるのは確かに柚真人だ。それ以外の誰でもないはずだ。
でなければ誰だというのだ。ばかげてる。
だが。
だが、彼は――。
柚真人が少し身体を起こして、それからこちらを見た。
「誰って、……おれだよ? どうした、司?」
その声、その言葉に硬質を感じた。硝子のように固く無機質で抑揚が無く、まったく温度を感じさせない音色だった。それゆえ、司は怯んだ。
深く低い声色は、柚真人のそれではない。ような気がした。聞いたこともない、声のような。
司は躯を硬くした。
どくん、と自分の心臓が飛び跳ねるような鼓動を刻む。
少年の、その声は――司が耳に聞き覚えた、兄の、柚真人のそれとは明らかに印象の違うものだったのだ。
どう説明したらよいだろう。声が違うのでは無い。だがはっきりと、印象が違う。
司の動揺が更に増し、夜の澱をかすかに震わせた。
「眠れないのか?」
司は咄嗟に言葉を続けられなかった。
自分が感じているこの感覚の、意味が、わからない。
闇をみつめすぎた目の奥で、目眩がおこる。
司は、次の言葉を捜した。
どういうこと?
疑問符ばかりが脳裏を交錯し、言葉は喉の奥で紡がれること無く押しつぶされてゆく。
冷たくいやな汗が全身を包む。いたたまれない心地だった。
けれど、目の前にいる少年の姿形は、紛れもなく柚真人である。司は困惑した。
身が竦み、足が硬直する。
生理的に、頭のどこかで不快な警鐘が鳴っていた。柚真人じゃない。柚真人と違う。
なぜそんなことを感じるのか、それこそが不可解だったが、今このとき、彼を目の前にして確かにそう思えるのだ。
闇の中で、少年が、動く。
司は大きな空気の塊をのみくだした。喉が詰まって、息が苦しい。
「ゆ……柚真人……だよね……?」
問い掛けに反応した少年が、ゆるりと滑らかに振り向くのがわかった。
「そうだよね……?」
「そうだよ」
その言葉が、ふたたび司の耳奥に不快な響きを刻む。
おかしなことをいう。おれが柚真人でなければ、いったい誰だっていうんだ?」
――違う。
やはり司は思った。
柚真人じゃない。
「誰だと?」
「……っ」
司は重ねて、問い質そうとした。
そしてこの不可思議な出来事を理解しようとした。
けれど。
少年が、顔を不意に上げ――まなざしが触れ合って、司はそれに射抜かれた。
動けない。
言葉も、出ない。
「……ゆ……」
その時、柚真人が静かに立ち上がった。そして司の方を見る。
わずかに明るい窓を背にしているため、表情がわからない。
司は、それをみていた。
柚真人は、しばらくの間、だまっていたが、やがてふいに言った。
「まだ駄目だ」
――何――?
その瞬間――ぐらり、と視界が傾いだ、と思う。
――どういうこと?
たったそれだけの言葉が、強い催眠のように司の自由を奪った。
――駄目?
柚真人はいま、確かにそう言った。
――まだ駄目だ、って。
「おやすみ、司」
視界が急速に暗転する。
漆黒の布が降りてきて、司を包み込んだみたいに足下がふらついた。
どういうことだ、と司の意識は混乱していた。
これは一体何なのだ。
何なのだ。
駄目だ 。
全身の力が抜けてゆく。
意志に逆らって、体がくずおれてゆく。強烈な睡魔が、司の自由を奪う。
「……ゆ……まと……」
意識が、とぎれる。
その刹那――闇の中だというのに、司ははっきりとその少年の顔を――表情を見たと思った。
整い過ぎた完璧な造作の顔容。ひとえの鋭い目、その瞳に浮かぶまなざしは微塵も感情を映すこと無く、また虚ろでも無く、何か強い意志に彩られていた。
唇は、ほんのかすかに笑みを刻んでいただろうか。
それは見たこともない表情だった。司の知っている、柚真人の表情ではありえ無かった。
感情の波立ちの無い、ひたすら静謐な、そう、どこまでも磨き抜かれた鏡のように。
司の意識は、彼の顔を確かに見たと思った次の瞬間――とぎれた。
☆
――……夢……。
瞼を上げると天井があった。
闇と、空気と。
まだ心臓が飛び跳ねている。
――いまの、夢なの……?
時計をみると、三時すぎだった。
真夏は、もうすぐ夜が明けて、あかるくなってくる。
昨日と明日の狭間の時間。
司は、まだ呆然としていた。
おかしな夢を見た。
それから、どういうわけか急に泣きたくなった。
ものすごく悲しくなったのだ。
だから司は、少し泣いた。
泣きながら、ひどく戸惑っていた。
どうして、あんな夢を見たのかわからなかったし、どうして泣きたくなったのかもわからなかった。
不思議な気持ちだ。
胸が苦しい。
――柚真人……。
その年の七月の、最後の週末だった。
☆
その日の夜。
司は、闇を見ていた。
その夜、なぜか寝付けなかったのだ。
熱帯夜ではあったが暑いわけではなかったし、寝苦しいというほどでもなかった。
司は、暑さにも寒さにも弱い方ではない。それに、幼い頃から空調設備などを一切利用せずにいかなる季節も過ごすよう習慣づけられていたから、夏の夜の暑さなど、たいした問題ではないのだ。
それでも、どうしても眠れなかった。
夜中におきだしたくなかったから、なんとか眠ろうと努力した。
だが、どうにも眠気が訪れない。
司は、どうしようもなくなって寝台を抜け出した。
――水……でも飲んでこよう。
枕元の時計を見ると、午前二時を少し過ぎた頃だった。
家の中かがしんとしていて、夏の蝉の聲も途絶えるこの時間が、司はあまり好きでは無い。
――いやな時間だな。
そう、思った。
司は、部屋を出ると廊下を歩いて、台所へ向かった。
板張りの廊下が、足をのせて歩をすすめるたびにぎしぎしと軋んだ。
部屋を出て、客間の前の廊下を通り過ぎ、居間の向こうが台所だ。
静かだった。
どこか遠くで家鳴が聞こえる。
そして、居間の前を通り過ぎようとしたとき――そのとき、判開きの襖の向こうに――司は、人影をみた。
居間の、ソファに座る人影を。
おもわずびっくりして足を止め――固唾を飲む。
全身硬直させて司は身構えたが、ややあってそれが柚真人であることに気が付いた。
それは、司の兄の柚真人だった。
思えば当たり前のことだ。この古い屋敷には、たいていの夜は、柚真人と司の二人しかいないのだから。
柚真人はというと、ソファに身を投げだして、天井を仰いでいる様子がうかがえる。
起きているようだ。
暗闇の中で。
中庭に面した大きな窓からさしこむ、淡い月の光のほかには――明かりも点けずに。
夜中の二時だ。
不可解な思いに囚われた司は、その場で暗闇に目を凝らした。
――柚真人……?
司は少し目を凝らした。
そしてややあって、さらに不可解な違和感に気付く。
闇のなかにおぼろげに見える体躯の輪郭や、髪の感じはまちがいなく柚真人のものだった。
それは確かだ。
そもそも司をのぞけば彼以外の人間が、いるはずが無い。
だから、たしかにそれは兄であることに間違いはなかった。
――でも……。
やけにはっきり冴えた目を凝らして、闇をうかがう。
そして司は口にしていた。
「……誰……?」
と。
思えばそれば奇妙な問いだった。
目の前にいるのは兄・皇柚真人以外の何者でもあるはずが無いというのに。
けれど何故か、その者が柚真人とは、違う誰かであるような気がしたのだ。
根拠は、と問われれば明確には堪えられない、けれど、たとえていうならその場を支配する空気の色が、違うように思えた――ということになるだろう。
司の知る皇柚真人は、峻烈なまでに透明な空気を放つ少年だ。
けれどそこに司の馴染んだ空気はなく――蒼藍色のような、紺青色のような、深い澱があるように感じられた。
夜――のせいかも知れなかったけれど、どうしてか、それが不可解に思えた。
違う。
柚真人じゃ、ない――?
自分が感じている違和感をすら、不可解に思う。
そんなはずは、ない。
「……誰……?」
もういちどはっきり訊くと――闇がわずかに揺れた。
「……」
司はかすかに身動ぎする。
どうしよう、と思った。
自分が不条理なことを言っているという自覚はあった。
目の前にいるのは確かに柚真人だ。それ以外の誰でもないはずだ。
でなければ誰だというのだ。ばかげてる。
だが。
だが、彼は――。
柚真人が少し身体を起こして、それからこちらを見た。
「誰って、……おれだよ? どうした、司?」
その声、その言葉に硬質を感じた。硝子のように固く無機質で抑揚が無く、まったく温度を感じさせない音色だった。それゆえ、司は怯んだ。
深く低い声色は、柚真人のそれではない。ような気がした。聞いたこともない、声のような。
司は躯を硬くした。
どくん、と自分の心臓が飛び跳ねるような鼓動を刻む。
少年の、その声は――司が耳に聞き覚えた、兄の、柚真人のそれとは明らかに印象の違うものだったのだ。
どう説明したらよいだろう。声が違うのでは無い。だがはっきりと、印象が違う。
司の動揺が更に増し、夜の澱をかすかに震わせた。
「眠れないのか?」
司は咄嗟に言葉を続けられなかった。
自分が感じているこの感覚の、意味が、わからない。
闇をみつめすぎた目の奥で、目眩がおこる。
司は、次の言葉を捜した。
どういうこと?
疑問符ばかりが脳裏を交錯し、言葉は喉の奥で紡がれること無く押しつぶされてゆく。
冷たくいやな汗が全身を包む。いたたまれない心地だった。
けれど、目の前にいる少年の姿形は、紛れもなく柚真人である。司は困惑した。
身が竦み、足が硬直する。
生理的に、頭のどこかで不快な警鐘が鳴っていた。柚真人じゃない。柚真人と違う。
なぜそんなことを感じるのか、それこそが不可解だったが、今このとき、彼を目の前にして確かにそう思えるのだ。
闇の中で、少年が、動く。
司は大きな空気の塊をのみくだした。喉が詰まって、息が苦しい。
「ゆ……柚真人……だよね……?」
問い掛けに反応した少年が、ゆるりと滑らかに振り向くのがわかった。
「そうだよね……?」
「そうだよ」
その言葉が、ふたたび司の耳奥に不快な響きを刻む。
おかしなことをいう。おれが柚真人でなければ、いったい誰だっていうんだ?」
――違う。
やはり司は思った。
柚真人じゃない。
「誰だと?」
「……っ」
司は重ねて、問い質そうとした。
そしてこの不可思議な出来事を理解しようとした。
けれど。
少年が、顔を不意に上げ――まなざしが触れ合って、司はそれに射抜かれた。
動けない。
言葉も、出ない。
「……ゆ……」
その時、柚真人が静かに立ち上がった。そして司の方を見る。
わずかに明るい窓を背にしているため、表情がわからない。
司は、それをみていた。
柚真人は、しばらくの間、だまっていたが、やがてふいに言った。
「まだ駄目だ」
――何――?
その瞬間――ぐらり、と視界が傾いだ、と思う。
――どういうこと?
たったそれだけの言葉が、強い催眠のように司の自由を奪った。
――駄目?
柚真人はいま、確かにそう言った。
――まだ駄目だ、って。
「おやすみ、司」
視界が急速に暗転する。
漆黒の布が降りてきて、司を包み込んだみたいに足下がふらついた。
どういうことだ、と司の意識は混乱していた。
これは一体何なのだ。
何なのだ。
駄目だ 。
全身の力が抜けてゆく。
意志に逆らって、体がくずおれてゆく。強烈な睡魔が、司の自由を奪う。
「……ゆ……まと……」
意識が、とぎれる。
その刹那――闇の中だというのに、司ははっきりとその少年の顔を――表情を見たと思った。
整い過ぎた完璧な造作の顔容。ひとえの鋭い目、その瞳に浮かぶまなざしは微塵も感情を映すこと無く、また虚ろでも無く、何か強い意志に彩られていた。
唇は、ほんのかすかに笑みを刻んでいただろうか。
それは見たこともない表情だった。司の知っている、柚真人の表情ではありえ無かった。
感情の波立ちの無い、ひたすら静謐な、そう、どこまでも磨き抜かれた鏡のように。
司の意識は、彼の顔を確かに見たと思った次の瞬間――とぎれた。
☆
――……夢……。
瞼を上げると天井があった。
闇と、空気と。
まだ心臓が飛び跳ねている。
――いまの、夢なの……?
時計をみると、三時すぎだった。
真夏は、もうすぐ夜が明けて、あかるくなってくる。
昨日と明日の狭間の時間。
司は、まだ呆然としていた。
おかしな夢を見た。
それから、どういうわけか急に泣きたくなった。
ものすごく悲しくなったのだ。
だから司は、少し泣いた。
泣きながら、ひどく戸惑っていた。
どうして、あんな夢を見たのかわからなかったし、どうして泣きたくなったのかもわからなかった。
不思議な気持ちだ。
胸が苦しい。
――柚真人……。
その年の七月の、最後の週末だった。

